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第30話:帰りたい

24時間働けますか?

 限界が訪れたのは、冬の足音が聞こえ始めた頃だった。


 自覚があったわけではない。俺――アルベルタことアルバート・グレイは、いつも通り日の出前に起き、いつも通り細かな細工を身体に施し、いつも通り演習場へと向かった。

 そして、冷え込んだ砂の上で、足がもつれた。


「バーティ!?」


 シャーロット様の叫びが、遠くで響いた。

 俺は片膝をついた姿勢のまま、しばらく起き上がれなかった。視界の端が、冬の霧のように白くにじんでいた。


「……申し訳ございません。少々、寝不足なもので」

「少々ですって?」


 彼女は木剣を放り出し、俺の顔を覗き込んだ。その瞳が驚愕に揺れる。


「あなた、目の下の隈がひどいわよ。顔色も土色の石灰岩みたいだわ」

「……そうですか」

「今日は中止。今すぐ部屋に戻って寝なさい」

「まだ……商業算術が十七問しか残って……」

「中止よ!」


 彼女は珍しく声を荒らげた。俺はその日、入学して以来初めて朝の特訓を早退した。

 ――そして、それが全ての「厄災」の始まりだった。



 その日の昼食。

 四輪花の円卓は、異様な静寂に包まれていた。いつもなら為替や物語の話で賑やかなのに、誰も口を開かない。全員が、検品でもするかのような鋭い眼差しで俺を見ていた。


「……皆様、いかがなさいました?」

「バーティ」


 エレノア様が、氷のように静かな声で言った。


「あなた、この一ヶ月、一日平均でどれくらい眠っていて?」

「……四刻(約四時間)ほどでしょうか」

「毎日?」

「はい。商家では繁忙期などによくあることで……」


 四人が同時に息を呑む音が聞こえた。


「バーティ様……なんてこと……」

「バーティ、あなた馬鹿なの?商売以前に命の在庫が切れるわよ!」

「四刻……四刻ですって……。ああ、物語なら過労で倒れる章だわ……」


 俺は慌てて手を振った。


「いえ、本当に大丈夫ですので。書類仕事が少し立て込んでいただけですわ」

「――会議を開きますわ」


 エレノア様が、公爵令嬢としての絶対的な威厳を纏って立ち上がった。


「議題は、バーティの療養について。今日から特別体制を敷きます」


(やめてくれ。俺のことは放っておいてくれ!)


 俺の予感は、最悪の形で的中した。



 その日の放課後。談話室に召喚された俺は、四人が真剣な顔で書き上げた「癒やしスケジュール」を突きつけられた。


「決まりましたわ。今日から、曜日ごとの担当は『バーティを休ませる役割』といたします。月曜はわたくし、火曜はシャーロット、水曜はリリー、木曜はイザベラ。……それぞれの家が誇る最高の方法で、あなたを癒やしますわ」

「あの、わたくしの意見は」

「却下ですわ」


 こうして、俺の「地獄の休息週間」が始まった。



 ――月曜。エレノア様。


「バーティ。今日から、あなたにヴァンス家専属の侍女を三人つけますわ」

「……はい?」

「朝の身支度、お召し替え、湯浴みの介助、そして就寝前のマッサージ。すべて彼女たちに任せて、あなたはただ目を閉じていなさい」


 俺の全身から、一気に血の気が引いた。侍女に湯浴みの介助などされたら、俺の性別(すべて)が三分で割れる。


「エレノア様!結構ですわ!お気持ちだけで!」

「遠慮なさらないで」

「本当に結構です!断固としてお断りします!」

「なぜ?三人では足りなくて?」

「――わたくし、一人で支度をするのが一番の気晴らしになる『奇妙な癖』があるのです!!」


 俺は喉の奥から声を絞り出した。談話室が静まり返る。

 エレノア様は、悲しそうに目を伏せた。


「……まあ。あなた、誰かに甘えることがそれほどまでに苦痛なのですのね。商家の厳格な教育が、あなたの心をそこまで頑なにしてしまったの……」


(違う!物理的な理由なんだ!)


 結局、侍女の件は死守した。だが、エレノア様は代替案として、毎晩九時に侍女が就寝確認に訪れるようになった。俺が寝台に入っているのを確かめるまで、彼女は扉の前を動かない。

 ――俺の書類仕事は、彼女が帰った深夜から始まることになった。睡眠時間は三刻に減った。



 ――火曜。シャーロット様。


「バーティ。今日から鍛錬の内容を『癒やし仕様』に変更したわ」

「……軽く、してくださるのですか?」

「ええ。今日から算術の問題は一切なし。身体を動かすことだけに集中しなさい」


 彼女はいつもの倍ほどもある重い木剣を渡してきた。


「疲れた時は、身体を追い込むのが一番よ。頭を使うから神経が昂るの。限界まで身体を動かせば、泥のように眠れるわ!」


(この人の理屈、絶対に筋肉でできている……!)


 結果として、その日の鍛錬量は通常の三倍になった。俺は癒やされるどころか、物理的に全身の筋肉が悲鳴を上げ、立ち上がるのもやっとの状態になった。



 ――水曜。リリー様。

 これが、最大の危難だった。


「バーティ様。今日はわたくしが、心を込めてお世話をいたしますわ。お髪を梳かして、お着替えのお手伝いも……」

「リリー様、それは本当に、本当に大丈夫ですから!」


 彼女は潤んだ瞳で俺の部屋の扉に手をかけた。俺は必死でその手を掴んで止める。


「リリー様!わたくしには、どうしても、人様に見せられないものがあるのです!」

「……見せられないもの?」

「そうです!身体のことですわ!」


 リリー様は息を呑み、みるみるうちに瞳に涙を溜めた。


「……ああ。おいたわしい。商家としての過酷な経験の中で、お身体に消えない傷を負ってしまわれたのですね?それを隠して、わたくしたちの前では凛々しく振る舞って……」


(近いけれど違う!もっと根本的なパーツが違うんだ!)


「もう、決してお尋ねいたしませんわ。バーティ様……。わたくし、扉の外であなたの安眠を見守っておりますから」


 彼女は本当に、扉の外の廊下に三時間立ち続けた。気配が気になりすぎて、一分も休めなかった。



 ――木曜。イザベラ様。


「アルベルタ様。本日は、わたくしの新作の朗読をいたしますわ。物語には魂を浄化する力がございますのよ」


 俺は椅子に座り、半ば死んだような目で耳を傾けた。


『――アルヴィナは、誰にも言えなかった。夜ごと、彼女は一人で灯りを消し、闇の中で息を殺す。その身体には、誰にも見せられぬ「真実」があった。それが何であるかは、誰も知らない。彼女はただ、誰にも甘えず、孤独という名の鎧を纏い続ける。――ああ、その強さは、なんと哀しい嘘の上に成り立っているのか』


(新作のネタにされてる!というか、昨日のリリー様とのやり取りが、もう完璧な情緒で文章化されてる!!)



 ――金曜。全員。

 四人がかりの徹底的な健康管理。食事の量から水分摂取までグラム単位で指定され、三十分ごとに「お加減はいかが?」と四方向から声をかけられる。

 

 昼過ぎ。俺はついに限界に達した。


「……失礼いたしますわ」


 俺は四人の包囲網を縫い、逃げるように談話室を飛び出した。

 夕暮れの中庭。完成した噴水の縁に、俺は一人で座っていた。

 冷たい空気の中で、規則正しい水音だけが響いている。

 喉の布を少し緩める。皮膚が擦れてヒリついた。肩の詰め物をずらし、凝り固まった背中の筋肉を無理やりほぐす。


「……帰りたい」


 不意に、その言葉が口から漏れた。


 ソルトポートへ帰りたい。

 シャツ一枚で港を走り回って、地声で下品な冗談を言い合って、母上の「順調そうじゃないか」という素っ気ない二行の手紙を読みたい。

 誰も俺を可憐とも、聖女とも呼ばない。俺がアルバートとしていられる場所に帰りたい。


 俺が膝に顔を伏せ、耐えていた時だった。


「……グレイ様?」


 顔を上げると、ヴィクトリア様が少し離れた場所に立っていた。

 俺は慌てて姿勢を正し、淑女の顔を取り繕う。


「アシュフォード様。……失礼いたしましたわ」


 彼女は近づこうとはせず、ただ静かに俺を見つめた。


「……お加減が悪いのでしたら、人を呼びますけれど」

「いえ、結構ですわ」

「そうですか」


 彼女はそれ以上、何も言わなかった。

 無理に癒やそうとも、励まそうともせず、理由も尋ねない。その沈黙が、今の俺には何よりも心地よかった。


「……アシュフォード様。少しだけ、数字の話をしてもよろしくて?」


 ヴィクトリア様は意外そうに瞬きをし、やがて小さく微笑んだ。


「ええ。何についてかしら」

「来期の羊皮紙の相場についてですわ。南方の羊の増産で、来春は二割は落ちるはずですが……」

「二割は下がりすぎではなくて?輸送関税の引き上げを考慮すれば、一割の下げ止まりが妥当かと」


 それからの一時間、俺たちは淡々と市場の予測について語り合った。彼女は一度も、俺の隈や、俺がなぜここに一人でいたのかに触れなかった。

 

「グレイ様。わたくし、あなたを慰める方法は存じませんけれど。……数字の話なら、いくらでもお付き合いいたしますわ」


 彼女は一礼して、暗くなり始めた廊下へと去っていった。


 バレろよ。

 なあ、頼むよ。

 あの四人は本気で俺を愛し、心配してくれている。だが、その善意の重さが、嘘を抱えた俺の胃を壊しそうなんだ。


 俺が疲れている本当の理由は、誰にも一分一秒たりとも「本当の姿」を見せられないことなんだよ。

 気づかれたら、すべてが終わる。

 なのに、気づいてほしいと願ってしまう。


 その夜、俺は実家の母への手紙に、震える指でこう書き記した。


『母上。少し疲れました。睡眠時間が三刻を切りました。四人の令嬢たちが、それぞれの方法で俺を癒そうと四六時中張り付いています。

 ……母上。卒業まであと四ヶ月。帰りたいです。』


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