第29話:金貨五十枚の話
ある意味、どっちもどっち
その名前を見つけたのは、埃の積もった古い納入記録の底だった。
『ペンブローク商会』
俺――アルベルタことアルバート・グレイは、書庫の奥でその帳面を開いていた。来期予算の策定には、過去十年分の納入価格の推移を洗う必要がある。
そして、去年の頁で、俺の指は止まった。
百年続いていたはずの記録が、そこで唐突に途絶えているのだ。
『九月 紅茶 銀貨28枚』
それが最後の記録だった。欄外には、消え入りそうな細い字で、たった一行だけ書き添えられていた。
『契約解除――香気不足の申し出により』
――紅茶の香りが弱い。
たったそれだけの一言で、百年の歴史が消えた。俺が今、泥を被って取りに行こうとしている座は、かつてこの商会が守り抜き、そして失ったものなのだ。
「ホロウェイ先生。ペンブローク商会について伺いたいのですが」
学監を訪ねると、彼女が突く杖の音がぴたりと止まった。
「……なぜ、その名を口にするのです。グレイさん」
「納入記録にございました。百年続いた納入が、去年、急に終わっています」
「……ええ。真面目な商会でしたわ。先代の当主とはわたくしも面識がございましたが……非常に実直な方でした」
「今は、どうしておられますか」
「存じませんわ。契約が切れて以来、一度も。こちらから連絡を取る理由もございませんもの」
ミセス・ホロウェイの言葉は冷徹だった。百年。一世紀にわたる忠誠が途切れた後、その相手がどこで野垂れ死のうが、この学院にとっては「知る理由のないこと」なのだ。
次の休日。俺は学監から聞き出した住所を頼りに、王都のリンデン通りへ向かった。そこにあったはずの店舗は、すでに死んでいた。看板は外され、窓には厚い板が打ち付けられている。
隣の店の老主人が、掃き掃除をしながら投げやりに言った。
「ペンブロークかい?潰れたよ、去年の暮れにな。……正確には、借金を全部返して店を畳んだんだ。あそこの親父さんは、最後まで商人の意地を通したのさ。今は東の外れの借家で、息子の世話になってるよ。誰も訪ねてこねえって寂しがってたから、行ってやりな」
王都の東端。湿った風の吹く小さな借家に、その老人はいた。
窓辺の椅子に座り、膝に毛布をかけたその姿はひどく痩せていたが、背筋だけは定規を当てたように伸びていた。
「グレイ商会……ソルトポートの、塩と海産物を扱う家ですな。名簿で見て、名前だけは存じておりました」
老ペンブロークは、微かに微笑んで俺を招き入れた。
「……で、今の御用商人候補が、なぜうちのような抜け殻に?座の値打ちでも聞きにいらしたか」
「……はい。座を得れば金貨50枚の利益、その波及効果は十倍以上。そう聞かされてきました」
俺は正直に、疑問を込めて答えた。
「ですが、それは『得た時』の話です。失った時に何が起きるのかを、わたくしは知りませんでした」
部屋が、しんと静まり返った。
ペンブロークは窓の外で揺れる洗濯物を眺め、静かに、噛み締めるように言った。
「三日。……三日でしたよ、グレイさん。学院から解除の通知が来て、うちの店が死ぬまでにかかった時間は」
「……三日」
「翌日には王都中の商会が知りました。あそこは学院に切られたと。その翌日には得意先から解約の申し出が殺到し、五日目には銀行が貸付の引き揚げを通告してきた」
俺は言葉を失った。
「品質が落ちたわけでも、不正をしたわけでもない。ただ『あの学院が認めた』という保証書が剥がされた。……たったそれだけで、百年の信用は塵になったのです」
俺は拳を握りしめ、喉の奥にある問いをぶつけた。
「……納得されているのですか。たった一度の不作で、香りが弱いと言われただけで、すべてを失って。……不当だとは、お思いにならないのですか!」
ペンブロークは俺を見つめ、慈しむような、あるいは憐れむような笑みを浮かべた。
「あなた、お若いな。……そりゃ不当ですよ。ですが、あれはうちの落ち度でもあった。……百年、うちはあの学院に『値の説明』を一度もしてこなかったのだから」
「説明?」
「なぜこの茶葉がこの値段なのか。今年の不作で香りがどう変化したのか。あちらは内訳を読みたがらない。だからこちらも説明しなかった。必要がなかったのです」
彼は深く溜息を吐いた。
「その結果、あの学院にとって、うちの紅茶は『銀貨28枚の、良い香りがするもの』という、ただのイメージでしかなくなった。……香りが落ちた時、それを守るための『理論』を、うちも学院も持っていなかった。百年かけて、うちは説明する筋道を失ってしまったのです。……それが、私の落ち度です」
俺は何も言えなかった。
この老商人は、自分たちが何を怠ったかを正確に、残酷なまでに理解していた。
「……ペンブローク様。わたくしは今、学院の支出を洗い直し、削減案を作りました。今年度は金貨66枚を浮かせました」
「――内訳を、読ませたのですか」
「はい」
老人の目が、大きく見開かれた。彼は両手で顔を覆い、肩を震わせた。
「……ああ。百年。うちの父も祖父も、できなかったことだ。読ませれば、値を下げられる。だから読ませようとしなかった。その代わり、うちは『説明できない商会』になった。……若い方。あの座は、金貨50枚の利益ではありません。王国が『この商人を信用する』と保証した証文です。そして、証文である以上、いつでも取り上げられるということを、忘れてはなりませんぞ」
帰りの馬車の中で、俺はずっと窓の外を眺めていた。
取り上げられた時、何が残るか。
グレイ商会は、四十年、嘘をつかずにやってきた。だが、座を得て巨大になれば、俺たちも「説明しないほうが儲かる」という誘惑に屈し、説明する力を失ってしまうのではないか。
そして、何より腹立たしいのは、自分自身だった。
百年の忠誠をたった一言で切り捨てた、あの傲慢で無知な学園を。
俺は今、必死になって帳簿を読み、知恵を絞り、破産から救おうとしている。
バレろよ。
なあ、頼むよ。
誰か、あの学院に教えてやってくれ。
令嬢たちが何気なく漏らした「香りが弱い」という一言で、百年続いた店が三日で消えて、当主が東の外れで毛布を被って震えているんだと。
――そして、そんな血も涙もない連中を救うために、今日も俺は「アルベルタ」を演じて算盤を弾いている。
俺は一体、何のために戦っているんだ。
その夜、俺は実家の母への手紙に、こう書き記した。
『母上。ペンブローク商会の成れの果てを見てきました。座は、金貨50枚ではありません。王国の「保証書」だそうです。そしてそれは、あちらの気分一つで、いつでも破り捨てられます。
母上。もしうちがあの座を取ったら、うちは「説明する商会」でいられるでしょうか。説明しないほうが、ずっと儲かります。ですが、説明しなくなった時、俺たちは三日で死ぬ商会になる。俺は今、それを一番恐れています。』
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