第28話:完璧なる人の完璧ならざる日
ヴィクトリア回です
その日、俺――アルベルタことアルバート・グレイは、初めてヴィクトリア・アシュフォードの完璧が崩れる瞬間を目撃した。
学院の裏門付近。予算会議の帰り道、何やら騒がしいので足を止めて覗き込んでみると、そこには荷を積んでいない空の馬車が一台と、その傍らで立ち尽くすヴィクトリア様の姿があった。
御者らしき男が、しきりに額を擦りつけて謝罪している。
「――申し訳ございません、お嬢様。橋が、落ちまして……」
「落ちた……?」
「はい。ケルダル街道の第三橋でございます。三日前の豪雨で土台が……。北へ迂回すれば七日はかかりますが、今の時期、あの悪路を荷馬車が通れるかどうか……」
ヴィクトリア様は彫像のように動かなかった。完璧に背筋を伸ばしたまま、扇子を握る指先が白くなるほどに強張っている。
「……何が積んであったの」
「紅茶が四十樽。蝋燭が二十箱でございます」
「……学院の、冬季分ね」
俺は思わず息を呑んだ。冬季分。つまり、この学院において十二月から二月までの灯りと潤いを支える全量だ。
「――納入期日は」
「六日後でございます」
沈黙。俺の位置からは彼女の横顔しか見えなかったが、その完璧な淑女の仮面が、絶望にひび割れていくのが分かった。
「……分かりましたわ。ご苦労さま。王都の本店に戻って支配人に伝えて。第三橋の崩落と、代替品の手配を至急行うように、と」
「は、はっ!」
馬車が去り、裏門に静寂が戻った。ヴィクトリア様はしばらくその場に佇んでいたが、やがて力なく門柱に手をついた。
「アシュフォード様」
「……ッ!」
俺が声をかけると、彼女は獲物に狙われた小鹿のように肩を震わせた。だが、わずか二秒で背筋を正し、隙のない淑女の顔を作り直す。しかし、その頬に血の気はなかった。
「……グレイ様。お聞き及びの通りですわ。少々、輸送に不都合が生じましたの」
「六日後に、冬季分の紅茶と蝋燭が届かない。そういうことですね」
「……ええ。紅茶は今年、産地が不作でして。学院向けは産地から直送させていたため、本店に予備はございません。他から融通しようにも、どこも冬季分を確保したばかり……今から動かせば、他の誰かが困ることになりますわ」
俺はその答えに少しだけ感心した。追い詰められてなお、他人の在庫を奪って穴埋めするという発想を彼女は選ばないのだ。
「――アシュフォード様。わたくしに、何日いただけますか」
「……え?」
「六日後の納入期限まで、わたくしが動ける日数です。三日あれば、集められると思いますわ」
彼女は、まるで理解不能な言語を聞かされたかのように目を丸くした。
「……何を、おっしゃっているの?わたくしはあなたの商売敵ですのよ。ここで納入に失敗すればアシュフォードの評価は地に落ちる。あなたにとっては、これ以上ない勝機のはずでしょう!?」
「ええ、そうですわね」
俺は帳面を閉じ、まっすぐに彼女を見た。
「ですが、学院が紅茶を切らすのは我慢なりません。三百人分の茶葉が冬の間ずっと無い……その恐怖を以前、わたくしに問いかけましたね。わたくしは、港でそれを三度経験しましたわ。……あの地獄を、この学院に味あわせるわけにはいきません」
「……っ」
「それに、あなたが仰った『切らさないことの価値』は正しい。その正しさが、橋が落ちたという不運で否定されるのは、市場にとっての損失ですわ」
ヴィクトリア様は再び門柱にもたれ、扇子で顔を隠した。
「……ずるいですわ、バーティ」
「はい?」
「……なんでもございませんの」
そこからの三日間、俺は持てる限りの人脈と糸を全力で引いた。
まず、馴染みの東部の窯元へ走った。陶器用の火を管理する連中は、最高級の蝋の仕入れルートを握っている。
『若旦那!こんな時間にどうしたんです!』
『蝋燭が二十箱、三日で要ります。仕入れ先と、荷車を一台貸してください』
『二十箱!?まあ、若旦那が担いでくださるんなら、工面しますぜ!』
次に王都の卸を三軒ハシゴし、それぞれから十樽ずつ、計三十樽の紅茶を確保した。学院の品質に合わせるため、ブレンドをその場で指定する。
だが残り十樽、ここで詰まった。冬季直前の王都に、余分な茶葉など一握りも残っていない。
俺が宿の机で頭を抱えていると、扉が叩かれた。そこに立っていたのは、地味な外套を羽織った旅装のヴィクトリア様だった。
「……なぜ、こちらに」
「わたくしの商会の失態ですもの。あなた一人に走らせるほど、わたくしは恥知らずではございませんわ。……三十樽まで集まりましたのね?残りの十樽は、わたくしが『ブレイク商会』に頭を下げますわ」
「ブレイク商会……!御用商人の候補同士ではありませんか」
「ええ、屈辱ですわ。ですが、切らすよりはマシですもの!」
翌日、俺たちは競合他社であるブレイク商会の支店へ乗り込んだ。
「アシュフォードさんが、うちに頭を下げる日が来るとはねえ」
「お恥ずかしい限りですわ。どうぞよろしくお願いします」
「事情は分かりました。……で、いくらでご所望ですか?」
「相場の一割五分増しで」
「二割です」
「では一割八分で」
「……この辺りですかね。まあ、いいでしょう」
交渉は五分で終わった。支配人が帳面を書きながら、ふと顔を上げる。
「ところで、そちらのお嬢さんは」
「初めまして、グレイ商会の者です」
俺が答えると、支配人は目を丸くした。
「グレイ?……御用商人候補の、あのグレイ商会ですか」
「はい」
「……競合が、二社そろって頭を下げに来たんですか」
支配人は、しばらく黙り、それから笑い出した。
「あっはっは!こりゃ愉快だ。……いいでしょう、一割五分にまけますよ。話の種代です」
全量が揃ったのは、納入前日の夕暮れだった。学院の裏門に荷馬車が並び、俺は無意識に袖をまくり上げた。
「さあ、急ぎましょう。わたくしが運びますわ」
そして、そこで俺は最大の失敗を犯した。
――樽を担いでしまったのだ。
港で十年。荷を見れば身体が勝手に動く。俺は紅茶の樽を右肩にひょいと載せ、片手で支えながらスタスタと歩き出した。
三歩歩いたところで、凍りついたような視線に気づいた。ヴィクトリア様が、口をあんぐりと開けて固まっている。
「……グレイ様」
「はい」
「その樽の重さ、子供一人分はありますわよね。……それを、片手で?」
俺は自分の姿を客観視した。右肩に樽。ドレスの袖は筋肉でパンパン。左手は優雅に遊んでいる。
(やっちまったあああああああ!!)
俺は静かに、けれど心の中で絶叫しながら樽を下ろした。
「……アシュフォード様。これには、深い事情が」
「ええ、分かっておりますわ」
彼女はひどく真剣な、そして何かに開眼したような顔で頷いた。
「『書類』ですわね」
「……は?」
「学院の会計を一人で背負い、あの凶器のように分厚い予算綴りを毎日運んでいらっしゃるのですもの。……樽の一つや二つ、担げるようにもなりますわ。商人にとって、腕力もまた資本……。わたくし、明日から鍛えますわ」
(その理屈なら、王都の会計士は全員格闘家だろ!)
「……おやめください。淑女の身体には障りますわ」
納入は期日通りに完了した。伝票には「アシュフォード商会」の名だけが記され、ミセス・ホロウェイの判が押された。二人きりになった際、俺は言った。
「これで、あなたの無欠記録は守られましたね」
「……なぜ、あなたの商会の名を入れなかったのです。あなたが九割方動いたというのに」
「これはアシュフォードの契約ですわ。わたくしの名が入るのは、不合理です」
ヴィクトリア様はしばらく黙っていたが、やがて扇子を石畳に落とした。カラン、と虚しい音が響く。彼女はそれを拾おうともせず、潤んだ瞳で俺を射抜いた。
「……悔しいですわ。グレイ様」
「アシュフォード様?」
「わたくしは十年、守り方ばかりを学んできました。けれど、競合が窮地に陥った時、共に走るという発想は教わらなかった。……あなたは、わたくしに無いものを、あまりにも平然と持っていらっしゃる」
彼女は泣きそうな笑みを浮かべ、震える手で扇子を拾い上げた。
「……失礼。少々、疲れましたわ。……このところ動き通しでしたから。ええ、疲れているだけですのよ」
彼女は自分に言い聞かせるように何度も頷き、去っていった。
バレろよ。
なあ、頼むよ。
樽を片手で担ぐ女がどこにいるんだ。
どれだけ重い書類を運べばそんな腕力がつくと思っているんだ。この学院の帳簿は鉛でできているのか?
しかも「明日から鍛える」って、これ以上被害(勘違い)を広げないでくれ!
誰か気づいてくれ。俺は今日、一滴の利益も得ずにライバルを助け、さらには化け物じみた怪力を見せつけただけの、ただの不審な男なんだ!
その夜、俺は母への手紙に、こう書き記した。
『母上。ライバルの窮地を救い、一銅貨の利益も出さずに三日間走り回りました。樽を担ぐ姿を見られましたが、「重い書類のせい」という結論に落ち着きました。ヴィクトリア様が筋トレを始めそうです。もう俺の手に負えません。』
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