幕間5:アシュフォード商会の帳場(商会当主視点)
ヴィクトリアの父視点です
娘からの手紙は、四半期に一度と決めてある。
商売において、報告の頻度は多ければよいというものではない。頻度が上がれば、報告のための報告が増える。書く側は些事を並べ、読む側は本筋を見失う。一季節分の波を見て、ようやく見えてくるのが商いの真理だ。
四半期。それがちょうどよい。そう決めて、十年やってきた。
だから、その手紙が届いた時、私はまず日付を確かめた。
前の報告から、まだ一月半しか経っていない。
――何かあった。
私は執務室の扉を閉じ、封を切った。
『父上
定例外の報告をお許しください。本日、学院にて秋季総会が行われました。中間評価の結果を、至急お伝えする必要があると判断いたしました。
当商会は、納入実績で首位。格付けも第一等。この二項目において、他の追随を許しておりません。ですが――負けかけております』
私は、そこで一度手紙を置いた。
窓の外では、巨大な荷馬車がアシュフォードの第一倉庫に入っていくところだった。今日は南方からの香辛料が入る日だ。市場を支配する巨像が、当たり前のように息をしている。
その支配者の後継ぎである娘が「負けかけている」と書いてきたのは、初めてのことだった。
私は再び手紙を取り上げ、続きを読んだ。
『相手は、グレイ商会。港町ソルトポートの、創業四十年の小商会です。規模は当商会の三十分の一以下。年商は金貨百枚に届かず、学院への納入額は当商会の三分の一。組合の格付けは、等級外。審査すら受けておりません。
数字において、この商会は一つも当商会に勝っておりません。それでも、負けかけております』
私は眉をひそめた。娘は感情で物を書く子ではない。
九つの頃から帳場に座らせ、番頭の話を聞かせ、契約書を読ませて育てた。感情の混じった報告など、これまで一度も上げたことがない。その娘が、同じ言葉を二度繰り返している。
『理由は、学生代表にございます。
アルベルタ・グレイ。グレイ商会の跡取りです。この方は、学院の会計を全面的に見直し、本年度の支出を金貨66枚削減いたしました。学院の年間支出の、実に三割。
また、六年前に打ち切られていた王家からの下賜金について、学院に再交渉を進言し、年間金貨40枚の再開を引き出しております。合計、金貨106枚。
当商会が学院に納めている額の、九年分に相当いたします』
私は、手紙を持つ手がわずかに止まるのを感じた。
九年分。……これはもはや、商売ではない。
いや、商売だ。私がかつて若かりし頃に追い求め、いつしか忘れ去ってしまった形の商売だ。
『父上。わたくしは、この方と直接、交渉をいたしました。
結果を申し上げます。わたくしは一度も、価格の正当性を主張できませんでした。相手は、王都の卸を三軒回り、東部の窯元で三年分の出荷記録を確認しておりました。休日に、自らの足で。
わたくしが持ち出せたのは、品質、供給責任、そして契約条項のみ。最終的に、第七条の違約金条項により、契約は継続されました。――父上が定めた、あの条項です』
私は、ゆっくりと目を閉じた。
あの条項のことは、よく覚えている。王立学院との取引が決まった時、私は番頭に言った。あそこは中身を読まない。だが、それを理由に法外な値を付ければ、いつか誰かが気づく。だから値は少しだけ高くし、代わりに切り替えられない仕組みを幾重にも入れておけと。
守りの手だ。三十年、私はそうやってこの商会を盤石なものにしてきた。
攻めるのではなく、切られない仕組みを作る。それがアシュフォードの流儀だった。
『父上。わたくしは、あの条項に助けられました。そして、初めて考えたのです。わたくしは、商人として何を身につけてきたのだろう、と。
わたくしが十年で覚えたのは、守り方でございます。仕入れを守り、得意先を守り、値崩れから守り、契約で守る。それは、間違いではございません。
ですが、わたくしは一度も、自分の足で値を確かめたことがございません。番頭の報告を読み、帳場に座り、それを商売だと思っておりました』
私は手紙を机に置き、しばらく天井を見上げた。
――これは、私が娘に教えなかったことだ。
いや、教える必要がないと思っていた。アシュフォード商会はあまりに大きい。当主が港を歩き回る必要はない。番頭が走り、精査された数字が帳場に上がってくる。それで足りる。
だが、その「足りる」という奢りの外側で、泥臭く自らの足で歩いている者がいる。
『父上に二つ、お願いがございます。
一つ。グレイ商会について、お調べいただけませんか。わたくしはこの商会がどのような客を持っているのか、何も存じません。
二つ。当商会の学院向け納入について、価格の再検討をお願いいたします。
条項がある限り、学院は切り替えられません。――ですが、それは切られないのであって、選ばれているのではございません。やがて契約は満了いたします。その時、わたくしは条項ではなく、価格で勝ちたいのです』
私は、その最後の一節を三度読み返した。
そして、椅子から立ち上がり、窓の外を見た。アシュフォード商会の巨大な倉庫が、四棟。私の父の代には二棟だったものを、私が倍にした。切られない仕組みを、いくつも作ってきた。
そのおかげで、この三十年、一度も傾いていない。
だが、私はいつから選ばれることを忘れ、ただ切られないことに執着するようになったのだろうか。
私は番頭を呼んだ。
「ソルトポートのグレイ商会を調べてくれ」
「グレイ商会、でございますか?承知いたしました」
「……知っているか、あそこを」
「名前だけは。塩と海産物を扱う中堅どころです。先代が亡くなり、今は後家さんが継いでいると。……妙な商会だという話は、聞き及んでおります」
「妙とは?」
「値切らないそうで。仕入れの時も、売る時も。相場を調べ尽くし、最初に出す値がすでに適正。それでいて、一切動かない。だから商談の時間は極めて短いが、番頭たちはあそこを苦手としております」
「……儲かるまい、それでは」
「そのはずなんですが、潰れないんですよ。四十年間、一度も」
私は、しばらく黙っていた。
――ああ。そういうことか。
最初から適正な値を出す商人は、駆け引きに時間を使わない。値切る手間、値切られる手間。その時間をすべて調べることに費やしている。
だから、あの娘は王都の卸を三軒回り、窯元で出荷記録を確かめるのだ。
それは特別な策ではない。あの商会にとっては、それが日常の、唯一の武器なのだ。
「番頭。学院向けの紅茶と蝋燭、原価を出せ。来期より、値を下げる」
「旦那様!?しかし、あちらは契約で縛られております。下げる必要など……」
「必要はない」
私は言い切った。
「だが、二年後に切られる。娘が条項ではなく、価格で勝ちたいと言っている。切られない商会と選ばれる商会は、違うそうだ」
番頭は、しばらく私を凝視していた。やがて彼は深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
彼が出ていった後、私は返事を書いた。
『ヴィクトリアへ
報告を受け取った。定例外の判断は正しい。グレイ商会についてはこちらで調べる。
学院向けの価格は来期より段階的に下げる。条項は残すが、それに頼らずとも選ばれる品質に戻しておく。
一つ書き添えておく。お前が「負けかけている」と書いてきたのは、初めてのことだ。私は三十年商売をしてきたが、劣勢にある時、それを認め、即座に報告できる者は多くない。大抵は勝っている項目を数えて安心し、破滅を待つ。
お前は勝っている項目を先に認め、その上で負けていると書いた。順番が正しい。
その相手には、勝てるかどうかはわからん。だが、存分に見ておけ。
父より』
書き終えて、私は羽根ペンを置いた。
アルベルタ・グレイ。名前だけは、魂に刻んでおくことにした。
娘が十年で一度も書かなかった言葉を、書かせた相手だ。
二年後、あの子はその相手と、正面から値で勝負をすると言っている。その時、私はもう帳場を退いているだろう。構わない。娘が、自らの足で港を歩く商人になるというのなら、それだけで、私の教育は成功だったと言える。
――ただ、一つだけ気になることがある。
娘の手紙には、その「アルベルタ」という娘の人柄について、一行も触れられていなかった。
どんな顔で笑うのか。どんな声を出すのか。
十六の娘が、同い年の相手について観察しておきながら、それを一行も書かないというのは、少々おかしい。
……まあ、よかろう。
商売の報告に、情緒を挟まない。
それも、私が教えたことなのだから。
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