第26話:取材させてくださいまし
重たい話が続きましたのでイザベラ回です
木曜日は、イザベラ・クレインの日である。
その日、彼女は原稿の束ではなく、真っさらな新しい手帳と羽根ペンを携えて現れた。
「アルベルタ様。折り入ってお願いがございますの」
「……嫌な予感がいたしますわ」
「まあ、心外ですこと。作家というものは、常に真実を追い求める誠実な生き物ですのよ」
彼女は、毒を孕んだ蜜のような微笑みを浮かべた。この人がこうして微笑む時、俺の平穏が無傷で済んだ試しがない。
「一日、あなたに張り付かせていただきとうございます。密着取材、ですわね」
俺――アルベルタことアルバート・グレイは、耳を疑った。
「……一日、と申しますと」
「朝起きてから、夜お休みになるまでですわ。もちろん、一分一秒たりとも離れずです」
「お断りいたします。断固として」
「なぜ?わたくしたち、秘密を共有する仲ではありませんか」
「なぜも何も」
俺は必死で言葉を絞り出した。
理由なら山ほどある。朝、俺は喉に布を巻いて声を作る。着替えの際は肩と胸に精緻な細工を施す。入浴は他の生徒が寝静まり、衛兵の交代時間を狙って済ませる。
この一日を他人にさらすということは、俺にとって社会的な死と同義である。
「……わたくしの生活など、実務ばかりで退屈ですわ」
「あら。学院の財政を立て直し、公爵令嬢に帝王学を授け、伯爵令嬢と夜明けに算術で殴り合う。そんな方の日常が退屈だなんて、最高のジョークですわね」
「……」
「アルベルタ様。わたくし、新作で行き詰まっておりますの。前作は、皆様を外側から観察して書きましたわ。けれど、それでは足りませんのよ。物語というものは、神が細部に宿るように、些細な所作でできておりますの。……朝、どちらの腕からドレスに袖を通すのか。疲れた時、どんな溜息を吐くのか」
俺の背筋に、凍るような戦慄が走った。
この人は、俺が最も秘匿したい部分を、正確に、針で突くように列挙している。
「その『細部』が書けないのですわ。ですから――見せてくださいまし」
――断りきれなかった。
いや、三度までは明確に拒絶した。だが、四度目に彼女はこう告げたのだ。
「アルベルタ様。わたくし、あなたの代理人としての手数料、一割をきっちりお支払いしておりますわね?……ならばこれは、高額な報酬に見合う『業務上』のご相談ですわ」
商談に持ち込まれた。
この人は、俺が最も逃げられない論理を、完璧なタイミングで使いこなしてきやがった。
――そして、地獄の密着取材当日。
俺は日の出の一時間前に起き、万全の支度を整えた。
喉の布。肩の詰め物。胸の細工。扉に鍵をかけ、不審な物音を立てぬよう細心の注意を払って女の形を完成させる。
だが、扉を開けた瞬間、廊下の影に立つ黒衣の令嬢と目が合った。
「おはようございます。アルベルタ様」
「……いつからそこに」
「四半刻ほど前から。……いつも、日の出前にお起きになるのね」
(危なかった!あと数分遅ければ、鍵をこじ開けられていたかもしれん)
彼女はすでに手帳を開き、猛然とペンを走らせている。俺の一日が、今、記録され始めたのだ。
演習場に向かうと、シャーロット様がすでに木剣を振っていた。
「遅いわよ、アルベルタ!……あら、イザベラ?あんたも鍛錬?」
「取材ですわ。お気になさらず、続けてくださいな」
シャーロット様は肩をすくめ、俺に向き直った。
「じゃあ始めるわよ。問題を出しなさい」
「……はい。銀貨80枚の品を三か所に分けて仕入れます。第一が五割、第二が三割、第三が二割。第一の仕入れ先だけが銀貨2枚値上げした場合、全体の仕入額の推移は」
「――銀貨81枚!!」
「正解です。次、……」
剣が空を切る風切り音と、数字を叫ぶ声。その異様な光景の傍らで、イザベラ様は恍惚とした表情でペンを動かしている。
「……これを。雨の日も、休暇明けも、毎朝欠かさずなさっているのね」
「ええ。この人は一度も遅刻をしたことがないわ」
イザベラ様の手が止まった。彼女は手帳を見つめ、それから俺の背中を、何か恐ろしいものを見るような眼差しで凝視した。
午前中の授業。俺の左隣にはイザベラ様が座っていた。
文学の講義中、俺が羽根ペンを持ち替えた瞬間、彼女が書いた。
算術の時間、俺が暗算で複雑な式を解いた瞬間、彼女が書いた。
歴史の時間、俺が退屈のあまり帳簿の余白に石灰の相場を書き込んだ瞬間、彼女が書いた。
「イザベラ様。……何を書いているのですか」
「ご覧になります?」
見せられた手帳には、戦慄の観察記録が並んでいた。
『八時――演習場。三十問。全問正解。
九時――羽根ペンを右から左へ持ち替える。左手の方が速い?
十時――暗算。指を使わない。視線が固定されている。
十一時――退屈すると、無意識に数字を記述する癖』
「……よく気づかれますね」
「作家ですもの。……ところでアルベルタ様、左手での速記、実に見事でしたわ。幼少期からの癖?」
(港で荷札を書く際、右手で重い荷を押さえながら左手で記帳していた名残だ……言えるか!)
「ええ。……昔、少し必要に迫られまして」
午後の予算会議。
イザベラ様は傍聴席に座り、俺とミセス・ホロウェイのやり取りを全記録した。会議が終わった後、彼女は静かに告げた。
「アルベルタ様。……あなた、あの部屋にいる時だけ、声が少し『低く』おなりになるのね」
俺の心臓が、喉まで跳ね上がった。
「……声、ですか」
「ええ。緊張ではなく、むしろ肩の力が抜けたような、深い響き。……ご自分ではお気づきでないのかしら」
「……」
(意識が甘かった!数字の話に夢中になると、どうしても裏声を維持する力が緩んでしまう)
「アルベルタ様。なぜあの場所でだけ、そんなにも『弛緩』されるの?」
「……分かりませんわ」
「わたくしには分かります。あの部屋には、あなたを『淑女』として見る目がございませんものね。……数字という真実だけが、あなたを自由にするのかしら」
正しすぎて、言葉が出なかった。
夕暮れ、俺たちは完成間近の噴水の縁に座っていた。
「イザベラ様。ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんですの」
「前作の、四輪花の四人目……『黒衣のイザベル』。……モデルは、あなたですね」
「あら、代理人としての勘かしら?ええ、そうですわよ」
彼女はあっさりと認めた。
「理由は単純ですわ。物語には、埋めなければならない『席』がございますの。それに――自分を書かなければ、それは嘘になりますでしょう?」
彼女は自嘲するように笑った。
「現実のわたくしは、守秘契約を盾に友人を出し抜くような女ですのに、作中の彼女はずいぶん聡明で静かな賢者として書いてしまいましたわ。……自分を醜く書くのは、思っていたよりずっと、勇気が要るものですのね」
夜。俺の部屋の前。
イザベラ様は立ち止まり、静かに部屋を覗き込んだ。
「最後に、お部屋を拝見してもよろしくて?」
最後の関門だ。俺は慎重に扉を開けた。
彼女は室内をゆっくりと見回し、机の上に置かれた一冊のボロボロになった本を見つけた。
「……『薔薇のしずくは恋に濡れて』。まだ、お持ちですのね」
「教科書ですので」
――しまった。その言葉は、あまりに不自然だった。
「教科書?」
イザベラ様の目が、作家の鋭さで俺を射抜いた。
「アルベルタ様。……わたくし、ずっと不思議でしたの。あなたの所作は、わたくしの書いたヒロインと、寸分違わぬ精度で重なりますのよ。扇子の角度、視線の落とし方、沈黙の間隔。……それは、天性のものではございませんわね。あなたは、本で『学んだ』のでしょう?」
「……」
部屋が凍りついたような静寂に包まれた。
俺は覚悟を決めた。
この人は、俺が女ではないことに気づく。朝の刻限、声の低さ、そして女の所作を本で学ばねばならなかった理由。
その矛盾に、彼女という知性は、必ず正解を叩き出すはずだ。
「イザベラ様。わたくしは――」
「――ああ、なんてこと。わたくし、なんて無神経なことを!」
彼女が遮った。そして両手で口を押さえ、瞳に大粒の涙を浮かべた。
「アルベルタ様。わたくし、ようやく理解いたしましたわ。……あなたは、女に生まれたことを、これほどまでに恨んでいらしたのね!」
「………………は?」
「隠さなくてよろしいのですわ!これほどの商才を持ちながら、商家に生まれ、女ゆえに表舞台に立てない。だから、あなたは『完璧な令嬢』という鎧を、本から学び、演じることでしか、自分を社会に認めさせる術がなかったのですわね!」
彼女は俺の手を握りしめ、震える声で言った。
「形を着ていなければ、誰にも話を聞いてもらえない。けれど、その形はあなた自身ではない。……わたくしと同じですわ!わたくしも、ローズ・ブラックウッドという仮面を被らなければ、物語を書くことすら許されないもの!」
「……」
「わたくしたち、やはり魂の双子でしたのね……!」
俺は虚空を見つめた。
違う。全然、違う。
俺は男だ。女に生まれたことを恨んでなんていない。というか、生まれてすらいない。
俺があの本で学んだのは令嬢の演技ではなく、女に見えるための生存戦略だ。
あと一歩。あと少しの疑い。
そこに「そもそも女じゃない」という答えがあったのに。
この人は作家であるがゆえに、目の前の事実よりも、美しい悲劇の物語を信じてしまったのだ。
「……ええ。同じ、かもしれませんわね」
俺は、もうそれしか言えなかった。
その夜、彼女を見送った後、俺は寝台に倒れ込んだ。
バレろよ。
なあ、頼むよ。
起床時間も、記帳の癖も、声の弛緩も、所作の作り物感も。
全部見抜いておいて、なぜ結論が「女に生まれた不幸な天才」なんだよ。
もう一段だ。もう一段だけ、その豊かな想像力をあらぬ方向に働かせてくれ。
俺は今日、あんたの本を教科書だと認めたんだぞ。
その意味を、もう一度だけ、作家として再計算してくれよ……!
その夜、俺は実家の母への手紙に、こう書き記した。
『母上。今日、俺の秘密はほぼ暴かれました。喉も声も所作も、すべて作家に見抜かれました。ですが彼女は「あなたは女に生まれたことを恨んでいるのね」と泣いて俺を抱きしめました。俺はもう、この学院で正解に辿り着ける人間がいるとは思えません』
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