第25話:ソーン男爵家の窮状
リリー回です
水曜日は、リリー・ソーンの日である。
その日、彼女は珍しく遅れてやってきた。
いつもなら約束の十分前には談話室の椅子にちょこんと座っている彼女が、二十分過ぎても現れない。俺――アルベルタことアルバート・グレイは、ページをめくる手もどこか落ち着かず、不吉な予感に胸をざわつかせていた。
扉が開いたのは、さらに十分が経過してからだった。
「……申し訳ございません、バーティ様」
入ってきたリリー様は、幽霊のように青い顔をしていた。
「どうなさいました。顔色が優れませんわ」
「いえ、その、なんでもございませんの……」
彼女は震える手で椅子を引き、腰を下ろした。だが、その拍子に抱えていた封筒を床に落としてしまった。
俺はそれを拾い上げる。封蝋にはソーン家の紋章。――そして、雑に破られた封筒の口から、中身が覗いていた。
商人の目は、見たくない文字ほど鮮明に捉えてしまう。
『貸付金返済猶予願――却下の通知』
「――バーティ様!」
リリー様が、悲鳴に近い声を上げて手を伸ばした。
「お返しくださいまし!見ないで……見ないでくださいまし!」
俺は黙って封筒を差し出した。彼女はそれを奪い取るように受け取ると、胸に強く抱きしめて、折れそうなほど深く俯いた。
談話室に、重苦しい沈黙が降り積もる。
「……リリー様」
「なんでもございませんの。本当になんでも……」
「そうですか。……ですが、わたくしは去年の帳簿をすべて覚えておりますわ」
リリー様が、弾かれたように顔を上げた。
「ソーン家の負債は、王都の金融商から金貨120枚。年利八分。……去年の時点で、利息の支払いだけで年間金貨9枚と銀貨60枚。羊毛の仕入れを二月早めたことで収入は増えたはず。それでも猶予を願い出たということは――」
俺は、彼女の絶望を数字で裏打ちするように言った。
「元本の返済期日が、来たのですね」
リリー様はしばらく唇を噛み、震わせ、やがて力なく頷いた。
「……来春ですわ」
「金額は」
「金貨40枚。……一括で、と」
俺は目を閉じた。
ソーン領の年間総収入は、俺が精査した帳簿によれば金貨32枚。そこから領地の維持費、利息、税を引く。手元に残るのは、どんなに切り詰めても金貨5枚が限界だ。
金貨40枚。逆立ちしたって払えるはずがない。
「……バーティ様。わたくし、どうしたらよろしいのでしょう」
リリー様の声が涙で濡れていた。俺は目を開け、脳内にソーン領の地図と帳簿を広げた。三晩かけて読み込み、隅々まで暗記したデータだ。
ソーン領は決して死んだ土地ではない。羊毛が採れ、麦が実り、質は良いが販路のない石灰の採掘場もある。当主である父親も、驚くほど真面目な男だ。
それなのに、なぜこれほど借金が膨らんでいるのか。理由は明白だった。
「リリー様。ひとつ、お伺いしてもよろしいですか」
「はい……」
「この学院の学費は、年間いくらですか」
リリー様の肩が、びくりと跳ねた。
「……金貨1枚ですわ」
「教材、寮費、行事の費用。……そして、ドレスですね。学費そのものは、大した額ではありません。ですが、この学院には規定がございます。行事には、それにふさわしい装いで出ること」
「……はい」
「公爵令嬢と同じ広間に立つ以上、あまり見劣りするものは着られません。……年に、いくらかかっておりますか」
「……2枚ほど、かと」
「学費と合わせて、年に3枚。三年で9枚ですね」
「三年で9枚。……そしてソーン領は、経費と利息を引いた手元が、年に5枚です。そしてソーン家は二百年、代々欠かさず娘を通わせている」
彼女は答えなかった。目から大きな涙がこぼれ、床に染みを作った。
「二百年で、何人でしょうね。……名誉が、家計を食いつぶしている」
「……ごめんなさい。わたくしが、わたくしがここにいるから!」
彼女は顔を覆い、激しく泣きじゃくった。
「わたくしが学院に通っているから、家が苦しいのです!ずっと分かっていましたの!入学が決まった夜、お父様は笑っていたけれど、お母様は暗い部屋で泣いていらっしゃいましたソーン家には権利があるから、通わせないわけにはいかない……。そんなこと、家の恥になりますもの!」
俺は、腹の底が冷えるのを感じた。
二百年前、先祖が学院を救うために差し出した金貨480枚。その善意の証である特権が、呪いとなって二百年後の子孫を絞め殺そうとしている。
「バーティ様。わたくし、退学いたしましょうか」
俺の手が止まった。
……それだ。商人として、俺はその答えを最初から持っていた。
彼女が退学すれば、残り半年分の学費が浮く。それ以上に、次の代からの負担という出血をここで止められる。数字だけを見るなら、これ以上に効率的な解はない。
だが。
「――いいえ」
俺は口を開き、合理的な退学勧告を飲み込んだ。
言えるはずがなかった。
二百年ぶりに理事会の扉を開け、俺のために父親を説得し、二週間も権利の書状を待ち続けた少女。この学園でようやく居場所を見つけた彼女から、この半年を奪うことなど――。
「別の手を考えますわ。リリー様。商人が、最初に思いついた一番安直な案を採用することは、まずありませんわよ」
俺は帳面を開いた。
「たいてい、二番目か三番目の案のほうが、後々の『利益』が大きいものですわ」
それから二週間、俺は睡眠時間を削って数字と格闘した。王都の金融相場、漆喰職人ギルドの動向、物流コスト……あらゆる変数を算盤に叩き込んだ。
そして水曜日。俺は三枚の紙をリリー様の前に置いた。
「一つ目。借り換えです。現在の年利八分を、王都の商業組合が扱う領地担保貸付に移します。年利は五分。これだけで、利息の支払いが年に金貨3枚と銀貨60枚浮きます」
「そんなことが……!」
「担保に石灰採掘場を出していただきます。返済さえ滞らなければ、何も失うことはありませんわ」
俺は二枚目を指した。
「二つ目。石灰の販路変更です。今までは地元の建材屋に銅貨8枚で卸していましたが、王都の漆喰職人組合へ直接流します。今、王都では白い漆喰が流行っており、ソーン領の石灰は喉から手が出るほど欲しがられている。輸送費を引いても、現状の1.7倍の収入になりますわ」
リリー様が絶句する。
「三つ目。……これが本命です。ソーン領の石灰を、この学院に納入してください」
「――えっ?」
「学院は毎年、建物の補修に多額の金を使って漆喰を買っている。質が悪くて高い業者から、です。……二百年、ソーン家は学院に金を払い続けました。今度は、学院がソーン家に金を払う番ですわ」
談話室が静まり返った。リリー様は三枚の紙を震える手でなぞった。
「合わせて、年に、金貨16枚と銀貨60枚の改善……」
「はい。来春の一括返済は借り換えで期日を延ばせます。この収入があれば、六年で完済。六年後、ソーン家に借金はなくなりますわ」
リリー様は、三枚の紙をそっと胸に抱きしめた。
「……バーティ様。わたくし、退学しなくても、よろしいのですね」
「はい」
「本当に……本当に?」
「誓って。商人は、勝てない商談はいたしませんわ」
彼女は、そこで初めて子供のように声を上げて泣いた。俺は何も言わず、ただ時が過ぎるのを待った。
三週間後の休日。俺は乗合馬車に揺られ、ソーン領へ向かった。
出迎えたソーン男爵は、痩せて、苦労が顔に深く刻まれていた。彼は俺の説明を三時間、一度も口を挟まずに聞き、最後に深く頭を下げた。
「……グレイ様。私は、無能な当主でした。石灰の値が王都で倍になっていることも、知ろうとしなかった。私はただ、二十年間、耐えることだけが美徳だと思っておりました」
「男爵様」
「はい」
「リリー様は退学を申し出られました。ご自分がいるから家が苦しいのだと。……わたくしは、それを断りました」
俺は静かに、だがはっきりと言った。
「数字だけを見るなら、退学が最も効きます。ですが、それをすればソーン家は、金貨480枚でも買えない誇りを失うことになる。二百年前、先祖が学院を救った。今度は、その権利を使い切った末に、学院がソーン家を助ける。……そういう物語にしましょう。これは貸し借りではなく、正当な『縁』の回収です」
男爵は両手で顔を覆い、肩を震わせた。俺は席を立ち、静かに部屋を出た。
帰りの馬車の中、俺は窓の外を流れる枯れた麦畑を眺めていた。
(……俺は、一体何をしているんだろうな)
御用商人の座を奪い取るために来た。なのに、学院の支出を削り、公爵令嬢に帝王学を教え、伯爵令嬢に算術を叩き込み、今度は男爵家の再建計画まで完遂した。
どれもグレイ商会の直接の利益にはならない。母に報告できる実績など一つもないのだ。
バレろよ。
なあ、頼むよ。
俺は今日、リリー様の父親に涙ながらに感謝された。娘の居場所を守ってくれてありがとう、と。
違うんだよ。俺は男だ。
あんたの娘が「守ってさしあげます」と言っている相手は、樽を担いで不敵に笑う男なんだよ。
誰か気づいてくれ。……いや、今日はいい。気づかなくていい。
リリー様があと半年、この学院で笑っていられるなら、それで十分だ。
その夜、俺は実家の母への手紙に、こう書き記した。
『母上。男爵家の再建計画を組みました。六年で完済の見込みです。1銅貨の利益も出ていませんが、ソーン領の石灰は本物です。王都の職人組合に紹介すれば、グレイ商会への信頼も上がります。これを機に、うちで建材の仲介を扱いませんか。そこでなら、きっちり儲けられます。』
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるの!!」
と思ったら
↓
下にある☆☆☆☆☆から、作品への応援をお願いいたします!
面白かったら☆5つ、つまらなかったら☆1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
ブックマークもいただけると本当にうれしいです!
なにとぞよろしくお願いいたします!




