第24話:わたくしも、数えられますわ!
シャーロット回です
火曜日は、シャーロット・アシュリーの日である。
その日、俺――アルベルタことアルバート・グレイが演習場へ向かうと、彼女はいつもの木剣ではなく、脇に分厚い紙の束を抱えて立っていた。
「アルベルタ。今日は、こちらへ来なさい」
「……紙、ですか?」
「算術室を借りたわ。行くわよ」
彼女は俺の返事を待たず、軍人のような鋭い足取りで歩き出した。俺は慌ててその後を追った。
算術室の机の上には、見覚えのある分厚い綴りが積まれていた。俺が彼女に貸した王都の実務書。その隣に並ぶ、五冊の写本。
「……これは」
「写したわ。五度よ」
シャーロット様は腕を組み、不敵に言い放った。
「一度目は、意味が分からなかった。二度目で、言葉だけを覚えた。三度目で、ようやく式が動いたわ。四度目で、なぜその式になるのかの理屈が分かった」
「五度目は?」
「速くなったわ。……手が、勝手に動くほどにね」
俺は一冊の写本を手に取ってみた。
一冊目は文字が乱れ、苦悩の跡が見える。だが、二冊、三冊と進むにつれ、筆致は整い、余白には実務的な書き込みが増えていく。そして最後の五冊目には、もはや書き込みすらなかった。
代わりに、端には日付がびっしりと並んでいた。毎日だ。休暇中も、一日たりとも欠かさず、彼女はこの無味乾燥な数字の羅列と向き合っていたのだ。
(……この人は、本物だ)
武術であれ算術であれ、この人の努力の総量は、常人の理解を遥かに超えている。
「アルベルタ」
「はい」
「今日、あなたに勝負を挑むわ。……商業算術で」
彼女は机の向こうから、真っ向から俺を射抜いた。
「……承知いたしました。お受けします」
「あら。断られるかと思ったのだけれど」
「断る理由がありません。わたくしが受けなければ、この五冊の写本に込められた時間が無駄になりますわ」
シャーロット様の瞳が、わずかに見開かれた。そして彼女は獰猛に笑った。
「――上等よ」
勝負は、算術教師に特別に作成してもらった問題集を用いた。全十問、制限時間は一時間。
内容は、実務書の後半――利率の複合計算、為替の三段換算、在庫回転率の見積もり、そして複式簿記の決算。正直に言って、学院の授業レベルを大きく逸脱している。少なくとも令嬢の手に負えるものではない。
「始め!」
教師の合図とともに、二人の羽根ペンが同時に猛然と走り出した。
そして五十二分後、俺は全問を解き終えた。
対するシャーロット様は、一時間で八問を終え、残りの二問に手をつけることができなかった。
採点の間、彼女は微動だにせず座っていた。背筋を伸ばし、両手を膝に置き、ただ前だけを見つめて。
「グレイさん、十問正解。アシュリーさん、八問中、六問正解」
沈黙が室内に落ちた。
俺は彼女の顔を直視できなかった。五冊の写本。休暇中の日付。そのすべてを懸けて挑んだ結果が、六点だったのだから。
「……シャーロット様」
「言わないで」
彼女は静かに、けれど毅然と言った。
「慰めは、いらないわ。……負けは負けよ」
彼女は自分の答案を手に取り、間違えた箇所を見つめた。
「……ねえ、アルベルタ。この七番の問題。わたくし、為替の三段換算で間違えたわね」
「拝見します」
俺は答案を覗き込んだ。彼女の計算は、途中まで完璧だった。第一段、第二段のレート換算までは正確無比。だが最後の第三段で、換算の順序を逆にしていた。
「……惜しいですね」
――言った瞬間、俺は自分の失言を悟った。
シャーロット様の肩が、ぴくりと跳ねる。
「申し訳ございません、シャーロット様。今のは――」
「――いいえ」
彼女は首を振った。その瞳には、すっきりしたような光があった。
「いいえ、アルベルタ。今のは……少し違ったわ。惜しいと言われて、腹が立たなかったのよ」
「え……?」
「わたくし、その言葉が大嫌いだった。剣術でも、席次でも、乗馬でも。周囲はいつも『惜しい』と言うばかり。けれど、今のあなたの一言には納得がいったわ。なぜかしらね」
俺は少し考え、商人の正直さで答えた。
「……たぶん、間違いの『中身』が明確だからではないでしょうか」
「中身?」
「はい。剣で負けた時、なぜ負けたのかを完全に言語化するのは困難です。速さか、間合いか、あるいは勘か。それらは曖昧で、自分でもどう正せばいいか分からない。けれど――」
俺は七番の答案を指差した。
「これは違います。あなたは単に、第三段の換算順序を逆にした。……それだけです。次は、ただそこを直せばいい。それだけで次は正解します」
シャーロット様はしばらく沈黙していた。そして、彼女は答案を机に置き、両手で顔を覆った。
「シャーロット様!?やはり気分が……」
「――ああ、もう」
その声は震えていた。だが、笑っていた。
「そういうことなのね。……わたくし、ずっと分からなかったのよ。なぜ努力しても届かないのか、なぜいつも二番なのか。誰も教えてくれなかった。皆、『惜しい』とわかったような顔をするだけで」
「……」
「けれど、当たり前だったのね。剣の勝負に、明確な『答案』なんてないもの。……でも、これにはあるわ」
彼女は答案を持ち上げ、慈しむように見つめた。
なるほど。この人が本当に欲しかったのは「勝利」そのものではなく、自分がなぜ負けたのかを教えてくれる「正解」だったのだ。
「アルベルタ」
「はい」
「もう一度、聞くわ。わたくしは六点。あなたは十点。その差は、何かしら」
俺は答えを探した。誤魔化すこともできたが、この人に嘘は失礼だ。
「……『量』ですわ」
「量?」
「はい。わたくしは、十二の年から実家の帳場に立っております。五年間、毎日です。シャーロット様が五度写された本の内容を、わたくしは五年間、現物で、一銅貨の重みを懸けて扱ってきました」
「……五年」
「はい。ですから、この差は才能ではありません。……ただの時間の差ですわ」
シャーロット様が、弾かれたように立ち上がった。そして、机を叩くように両手をつく。
「――時間ですって?」
「は、はい」
「時間なら、埋まるじゃない!!」
彼女は、魂の底から叫んだ。
「才能なら諦めもついたわ!けれど時間なら、埋まるでしょう!?寝る間も削って追いかければ、いつかは追いつけるじゃない!」
(このストイックな人に、一番火をつける言葉を投げてしまった!)
「アルベルタ。今日から毎日、あなたに問題を出してもらうわ。火曜日だけじゃ足りない」
「毎日ですか!?ですがわたくし、月曜はエレノア様、水曜はリリー様と予定が――」
「朝でいいわ。朝食の前、演習場に来なさい。剣を振りながら、口頭で答えるわ」
「……え?」
「その方が効率がいいでしょう。身体も鍛えられて一石二鳥だわ」
(この人の効率の概念、絶対におかしいだろ!)
こうして翌朝から、俺の朝は日の出前に始まることになった。
寒風吹き荒ぶ演習場で、シャーロット様が木剣を振る。俺はその横で、極めて実務的な問題を読み上げる。
「銀貨40枚で仕入れた品を、輸送費が一割五分、関税が八分かかる港へ運びます。三割の利を乗せる場合、売値は!」
「――銀貨、64枚と、銅貨96枚!!」
「正解です。次!」
剣が空を切る音と、数字を叫ぶ声が朝の空気に響き渡る。一月ほど経った頃、俺はある奇妙な現象に気づいた。彼女の計算速度が、驚異的に上がっているのだ。それも、机に向かっている時より、剣を振っている時の方が速い。
「シャーロット様、なぜ計算が速くなっているのですか?」
「知らないわよ。けれど、こっちの方が答えが出るの。机に座っていると『間違えたらどうしよう』なんて余計なことを考えるけれど、剣を振っていると、そんな余裕すらないからかしらね」
俺はその言葉を心に留めた。考えすぎる人間には、思考を肉体に預けさせた方がいい。商人としても、これは一つ学びだ。
そして、ある朝のこと。俺が出した難問に対し、彼女が即答した。
「――銀貨128枚と、銅貨40枚」
俺は手元の解答用紙を見た。……合っている。しかも、俺が問題を読み終えてから、わずか二秒。
「……シャーロット様。今の問題、わたくしは脳内で解くのに五秒かかりました」
彼女の木剣が、ぴたりと止まった。朝日が、彼女の赤い髪を燃えるように照らし出す。
「……今、なんて言ったの?」
「わたくしより、あなたのほうが速かったです」
彼女はしばらく硬直していた。そして、木剣をぽとりと落とした。
カラン、と乾いた音が響く。
「――一問」
彼女の声が、震えていた。
「一問だけ……勝ったわね」
「はい」
「十問中、たったの一問だけれど……」
「はい。完敗です」
シャーロット様はその場に膝をつき、両手で顔を覆った。
「シャーロット様!?体調が――」
「――嬉しいのよ!!」
彼女は、弾けるような声で叫んだ。
「馬鹿ね!嬉しいに決まっているじゃない!!」
俺は立ち尽くした。
この人は、たった一問勝って、子供のように泣いている。
届かない高みに憧れる心と、それでも一歩近づいた実感を噛みしめる心。
たぶん、どちらも本当なのだ。
「アルベルタ」
彼女は顔を上げた。瞳は潤んでいたが、そこには晴れやかな自信が宿っていた。
「明日も、来なさい」
「はい」
「卒業まで、毎朝よ」
――卒業まで。
俺の胸が、少しだけ痛んだ。あと半年。
この人は、俺が卒業してドレスを脱いだ後も、ずっと算術を続けるのだろう。そしていつか、俺を遥かに超えていくのだろう。その時、アルベルタはもういない。
「承知いたしました。卒業まで、毎朝お供しますわ」
バレろよ。
なあ、頼むよ。
……いや、この人に関しては、もうどっちでもいい気がしてきた。
この人は俺を令嬢とも聖女とも見ていない。ただの超えるべき壁としか見ていない。俺が男か女かなんて、たぶんこの人の闘争本能の前には瑣末な問題なのだ。
そういう相手と過ごす時間は、驚くほど……心が軽い。
誰か気づいてくれ。毎朝演習場で、汗だくの公爵令嬢に算術を叩き込んでいるこの教師が、実は男だってことに。
いや、言わなくていい。言っても彼女なら「それが計算の結果にどう影響するの?」と鼻で笑いそうだから。
その夜、俺は実家の母への手紙に、こう書き記した。
『母上。伯爵令嬢に毎朝、商業算術を教えています。剣を振りながら計算させると精度が上がることが判明しました。うちの新人教育にも導入を検討してください。
なお計算速度で一問負けました。……正直、めちゃくちゃ悔しいです。』
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