第23話:それは商売ではありませんわ
お待たせしました
月曜日は、エレノア・ヴァンスの日である。
だが、その日の茶会は、いつもの華やかな様式美とは一線を画していた。まず、場所が違った。
中庭の東屋でも、日の差し込む談話室でもない。本校舎の奥、ヴァンス家が学院に寄付したという小さな図書室――普段は厳重に鍵がかかっており、公爵令嬢のみが入室を許される聖域だった。
「どうぞ、おかけになって。バーティ」
俺――アルベルタことアルバート・グレイは、勧められるまま、重厚な革張りの椅子に腰を下ろした。
室内には、俺とエレノア様の二人きり。紅茶はすでにテーブルに用意され、侍女の姿すらない。
(……これは、何かある)
商人の勘が警報を鳴らす。相手が場所を変え、人払いをした時。それは、他人に聞かせられない極めて重い商談か、あるいは抜き差しならない密談の合図だ。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしくて?」
エレノア様は、香りの立つ紅茶に一度も口をつけずに言った。
「利益とは、何ですの」
「はい?」
俺は少し面食らった。
商売人としてこれまで百通りの難問を受けてきた自負はあるが、これほどまでに根源的で、剥き出しの質問を受けたのは初めてだった。
「……そう、申しますと」
「言葉の通りですわ」
彼女の眼は、かつてないほど真剣だった。
「わたくし、あなたを見ておりましたの。噴水のことも、燃料のことも、行事のことも。……そして理事会で伺いましたわ。学院の現金が底をつきかけているということも」
俺は喉が鳴るのをたえた。あの日、理事会の末席にリリー様はいたが、他の生徒は一人もいなかったはずだ。
「……どちらから、それを」
「ホロウェイ先生ですわ。わたくし、公爵家の娘ですもの。伝えるべき相手だと判断されたのでしょう」
なるほど。この学院において、公爵令嬢は単なる生徒ではない。事実上のパトロンであり、家の代理人なのだ。
「それで、わたくし、初めて考えましたの。この学院は、どこからお金が来て、どこへ行くのかしら、と」
エレノア様は窓の外を見た。中庭では、例の噴水が静かに形を成しつつある。
「そして、気づきましたわ。わたくし、十六年、そのことを一度も考えたことがございませんの」
彼女は自嘲するように、微かに唇を震わせた。
「ドレスも、宝飾も、この学院での贅沢な日々も。……全部、呼吸をするのと同じように、あって当たり前だと思っておりましたわ」
「エレノア様」
「バーティ。わたくしね、あなたの言う『適正価格』という言葉が、ずっと分かりませんでしたの。なぜ、値というものには、正しいものと正しくないものがあるのかしら」
――これは、商人の魂を問う大きな質問だ。
俺は少し考え、アルベルタの仮面を脱ぎ捨てて、商人・アルバートとして答えることにした。
「値というものは、二つの数字の間に存在するものですわ。エレノア様」
「二つ?」
「作った人が、『これ以下では生きていけない』という値。そして、買う人が、『これ以上ならいらない』という値です」
俺は目の前の紅茶のカップを持ち上げた。
「このカップを例にしましょう。窯元が土を掘り、こねて、焼いて、運ぶ。ここまでで銅貨15枚かかったとします。これ以下で売れば、窯元は潰れますわ。……これが下限です」
「ええ」
「一方で、買う側から見れば、同じような質のカップは市場へ行けば銅貨40枚で手に入る。ならば、それ以上出す理由はありません。……これが上限です」
「では、その間のどこかに落ち着くのが、値なのですのね」
「はい。ですが、その間のどこに置くかは、結局のところ『力関係』です」
俺は残酷な真実を、あえて隠さずに言った。
「売る側が強ければ40枚に近づき、買う側が強ければ15枚に近づく。そして――片方が、もう片方の事情を知らない場合。事情を知っている方だけが、好きな値をつけられる。……これが世の理ですわ」
部屋がしんと静まり返った。エレノア様の指がカップの縁をなぞる。
「――それが、この学院ですのね」
「はい」
「わたくしどもは、何も知らない。だから、言い値で払い続けてきた」
「はい」
「そして、あなたはそれを『盛られている』とおっしゃる。……それは、正しくないことなのですの?」
エレノア様は、まっすぐに俺を見た。
「バーティ。……では、あなたも、盛りますの?」
俺の手が、ぴたりと止まった。
――来た。商人が最も恐れる、そして最も答えにくい、無邪気な断罪の問いだ。
「はい」
俺は逃げなかった。
「盛ります。商人は、仕入れた値より高く売らねば食べていけません。わたくしの商会は、基本、仕入れに三割乗せて売ります。イザベラ様の代理をした時も、当然ながら一割の手数料をいただきました。……慈善ではございません」
俺は彼女の瞳を見据えて言う。この人にだけは、嘘をつきたくなかった。
「エレノア様。わたくしは、清らかな聖女などではございません。……ただの商人です」
沈黙が落ちた。エレノア様は、カップを見つめたまま動かない。
(……ああ、幻滅させたな)
無理もない。この人は俺を『虚飾を排する高潔な人』だと信じていたのだ。その正体が、『自分も金を抜く側』だと言い放ったのだから。
俺は覚悟を決め、席を立つ準備をした。だが、次にエレノア様が口にしたのは、意外すぎる言葉だった。
「なぜ、三割ですの」
「……え?」
「なぜ、四割ではなく、三割ですの?」
彼女は幻滅などしていなかった。むしろ身を乗り出している。
「四割乗せれば、もっと儲かりますでしょう。欲をかいて五割でもいい。なぜ、あなたは三割で留めますの?」
「……それは」
俺は、考えたこともなかった自社のルールを言語化した。
「……来年も、買っていただきたいからですわ」
「まあ」
「四割乗せれば、今年は儲かります。ですが、客はいずれ気づきます。あそこは高い、と。そして来年はもう来ない。……三割は、客が『まあ、納得できる』と思える限界の値。商売というのは、一度で終わる奪い合いではなく、長く続けるもの。わたくしにとって、値付けとは信用そのものです」
エレノア様は大きく瞬きをした。それから、ゆっくりと、深く息を吐いた。
「――ああ」
彼女は椅子の背にもたれた。
「そういうこと、ですのね。わたくし、ずっと『商売』というものを、相手を出し抜いて掠め取る、卑しいものだと思っておりましたわ。けれど……違いますのね。あなたは、来年のことを考えていらっしゃる。……来年も、その次の年も」
「はい」
「それは、奪い合いではございませんわ。バーティ。……それは、心の通った『お付き合い』ですわね」
俺は、その言葉に雷に打たれたような衝撃を受けた。三十年商売をしてきた母ですら、そんな高潔な定義をしたことはない。
「エレノア様。……なぜ、そのようなことをお尋ねに?」
彼女は少し黙り、それから静かに言った。
「わたくし、エドワード王太子殿下の婚約者ですの。いずれ、王妃になりますわ。……王妃というのは、民のために働く者だと教わりましたけれど。具体的に何をするのか、誰も教えてくださいませんでしたの」
エレノア様は寂しげに微笑んだ。
「礼儀作法も舞踏も詩も、十年かけて仕込まれました。けれど、王国の税がどこから来て、どこへ消えるのか。それを教えることが淑女の教育にないのは、おかしいと思いませんこと?」
「エレノア様」
「殿下は、ご存じですのよ。あの方は、いつも水利事業のお話をなさるでしょう。用水路を引けば収穫が何割増え、税がどれほど安定する。……そんなお話を、二時間も」
「二時間も」
「ええ。二時間ですわ」
俺は思わず前のめりになった。
「――それは、素晴らしい。用水路は投資として最上級です。一度引けば五十年の安定を生み、民を飢えさせない。王太子殿下は、優先順位というものをご存じですわ!」
「……バーティ。あなた、殿下とすごく話が合いそうですわね」
「合うと思いますわ」
「……困りましたわ」
彼女は額に手を当てた。
「わたくし、殿下のお話を退屈だと思っておりましたの。けれど、それはわたくしが分からなかったからですわ。分からないものは、退屈ですもの。……バーティ。わたくしに、教えていただけないかしら」
彼女は、椅子から立ち上がり、俺に向かって深々と頭を下げた。公爵令嬢が、商家の娘に。
「銅貨で買えるものが、なぜ銀貨になるのか。それが分かれば、わたくしも、殿下の隣に立てる気がいたしますの」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……月曜日ですね」
「ええ。月曜日に」
その日から、月曜日の茶会は経営講義へと変貌した。
俺は、仕入れ、輸送、在庫、そして帳簿の読み方を、一切の容赦なく彼女に叩き込んだ。
そして八回目の講義の際、エレノア様がふいに尋ねた。
「バーティ。あなたが卒業した後の、この学院はどうなりますの?」
「……考えております。ですが」
「わたくしが、覚えますわ」
彼女は凛とした声で言った。
「卒業してから、わたくしが理事に入ります。ヴァンス家が理事を出せば、あのような老侯爵も勝手はできませんわ。そのために、あなたの持っているものを、半年ですべて奪わせていただきますわよ」
「エレノア様。それは、大変な量になりますが」
「構いませんわ。わたくし、いずれ王妃になりますのよ? 国一つ回すのですもの、学院一つくらい、どうということはございませんわ!」
俺は、彼女の瞳の中に、揺るぎない覚悟を見た。
「――承知いたしました。では、次は複式簿記の記帳から始めましょう。……少々、可愛げのない作業になりますが」
「望むところですわね!」
バレろよ。
なあ、頼むよ。
あの人は俺に頭を下げたんだ。公爵令嬢としての矜持を脇に置いて、自分の無知を認めて、「教えてくれ」と言ったんだ。
俺は、そういう本気に一番弱いんだよ。
誰か気づいてくれ。将来の王妃に『商売のいろは』を叩き込んでいるこのスパルタ教師が、実はドレスの下に算盤を隠した不審者だってことに!
その夜、俺は実家の母への手紙に、こう書き記した。
『母上。うちの商会の「三割の法則」を、王家を背負う御方が熱心にメモしています。恐ろしいことに、彼女、計算のセンスが抜群です。なお、俺は今日も今日とて淑女として過ごしています。』
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