第2話:金貨5枚のドレス
服がチクチクするの、個人的にすごく気になる
「……ああ、なんてことだ。このかゆみ、そしてこの締め付け。これが『淑女の嗜み』だというのなら、世の令嬢たちは日々、拷問官との対話を強いられているに違いない」
セント・アグネス王立女学院の、白亜の廊下。
俺――アルベルタことアルバート・グレイは、淑やかな足取りで(そう見えるように必死で筋肉を制御しながら)歩きつつ、内心で毒づいていた。
潜入2日目。俺を待っていたのは、想像を絶する『ドレスの洗礼』だった。
母が仕立てた特注のドレスは、確かに見栄えは良い。だが、動きやすさを一切無視した構造は、樽を運び、馬を駆り、王都の端から端まで駆けずり回る商人の体には不向きすぎる。特に、脇の下のレースのチクチク感。これはもはや、一種の精神修行である。
(落ち着け。俺は今、アルベルタ・グレイ。没落寸前の商会を救う、悲劇のヒロインなんだ。参考資料の『薔薇のしずくは恋に濡れて』によれば、令嬢は常に微風に揺れる柳のように歩かねばならない……!)
俺は、昨日読破した大衆恋愛小説の知識を総動員した。
右足を出した瞬間、上半身をわずかにしならせる。視線は常に数メートル先の石畳を見つめ、何かに怯える小鹿のような、あるいは全てを悟った聖女のような、そんな芝居がかった所作を意識する。
すると、どうだろう。
「見て……あの方の歩き方。なんて幻想的なのかしら」
「まるで舞台の上の悲劇のヒロインのようですわ。一歩ごとに、目に見えない花びらが舞っているような……」
通りすがる令嬢たちの、うっとりとした吐息。
……よし、作戦通りだ。芝居がかりすぎている自覚はあるが、ここでは過剰こそが正解として処理されるらしい。俺のこの、男臭いガタイから発せられる不自然な挙動は、彼女たちの脳内で勝手に「高貴ゆえの浮世離れ」に変換されている。
だが、その平穏は、廊下の向こうから現れた金髪によって破られた。
「まあ、騒がしいわね。何事かしら?」
鈴を転がすような、だが芯の通った声。
人だかりが二つに割れた。
現れたのは、金糸を紡いだような輝くブロンドと、透き通るような碧眼を持つ少女だった。その背後に従う数人の取り巻きたちは、まるで彼女を彩るための装飾品にすら見える。
エレノア・ヴァンス。
このアルビオン王国ヴァンス公爵家の令嬢であり、この学院の頂点に君臨する筆頭令嬢である。
(来たな、大物……!ヴァンス公爵家といえば、我が商会が喉から手が出るほど欲しい取引先の一つ。ここで粗相をすれば、俺の潜入は初手で終わる)
俺は『薔薇のしずく』に書かれていた、憧れの先輩に遭遇した場面を再現し、完璧な淑女の礼を繰り出した。膝を曲げ、背筋を伸ばし、顔をわずかに伏せる。
「ごきげんよう、エレノア様。アルベルタ・グレイと申します」
「……グレイ?ああ、今年から編入されたという、あの商家の」
エレノアの視線が、俺の頭のてっぺんから爪先までを、冷徹なまでの精度で走査した。
周囲の空気が張り詰める。エレノアはその厳しい審美眼で知られ、身につけるもの、立ち振る舞い、その全てにおいて妥協を許さないことで有名だ。
「……面白いわ。そのドレス、グレイ商会の仕立て?」
「は、はい。不肖、我が家が誇る最高の職人が縫い上げたものでございます」
俺は営業用の笑顔を貼り付けた。
エレノアは俺の横を通り過ぎようとして、不意に立ち止まった。彼女の手が、俺の肩にかかる最高級シルクの生地に触れる。
「……良い生地ね。色使いも大胆。これほどまでの品を商家が用意するとなれば、相当な出費だったはず。恐らく……そうね。市場価格であれば、金貨50枚は下らないかしら?」
エレノアの言葉に、周囲から「おお」という感嘆の声が漏れた。
金貨50枚。庶民が一生かかっても目にすることのない大金だ。
「さすがエレノア様。一目で見抜かれるとは」
「アルベルタ様もすごいですわ。そんな高価なものを、これほど自然に着こなされるなんて」
賞賛の嵐。
アルベルタ・グレイという少女が、いかに財力と品格を兼ね備えているか、という方向で物語が勝手に編まれていく。
だが。
俺の心の中の『商人・アルバート』が、その瞬間、猛烈な拒絶反応を示した。
(――違う。違うんだよ)
計算が、頭の中で自動的に走る。
この生地、南部のソルトポート経由で入ってきたシルクの二級品だ。染料は去年の売れ残り。確かに発色は良いが、定着剤に一工夫してコストを抑えている。
職人の工賃?うちの母上が「息子に服を着せるんだから手間賃は無しだよ」と、専属の針子を脅して……もとい、説得して三日で縫わせた突貫工事だ。
(50枚だと?ふざけるな。そんな価格設定、暴利もいいところだ。流通経路と原材料費を計算してみろ。こんなもの、どう甘く見積もっても――)
「……素晴らしいわ。この重厚な質感。これだけの価値があるものを、さらりと纏うあなたの覚悟。わたくし、認めますわ。あなたは、この学院に相応しい――」
エレノアが満足げに微笑んだ。
その完璧な美しさと、あまりにも商売を知らない発言。
俺の我慢は、限界に達した。
「……いいえ、エレノア様。それは違います」
氷のような声が出た。自分でも驚くほど、冷徹で事務的な、商談の時の声だ。
エレノアの眉がぴくりと動く。
「……何が違うのかしら?」
「価格設定です。このドレスに金貨50枚の価値を認めるのは、市場に対する冒涜です。金貨50枚あれば、我が商会は港の倉庫を一つ半年間借り上げ、小麦を1万トン動かすことができます。この布切れ一枚に、それだけの価値があるはずがない」
周囲の令嬢たちが凍りついた。
エレノア・ヴァンスの言葉を正面から否定するなど、この学院始まって以来の暴挙だ。
だが止まらない。俺の指先は、自分のドレスの縫い目を指し示していた。
「見てください、この袖口のステッチ。速度を優先したせいで、ミリ単位のズレがあります。生地の裏側を見てください。端切れを繋ぎ合わせてボリュームを出している。原材料費は、卸値で金貨1枚。染料代を足して金貨2枚。工賃に色をつけたとしても、金貨5枚。それが適正価格です!」
俺は一息に言い切った。
「金貨5枚の品を50枚と偽って売るのは、商人の恥だ。そして、それを『価値がある』と見誤るのは、消費者の不徳です!エレノア様、あなたは今、金貨45枚分も、盛られた虚飾を称賛されたのです!」
――。
沈黙。
完全なる、沈黙。
廊下を吹き抜ける風の音すら、刺さるように痛い。
やってしまった。
完全にやってしまった。
商人としての潔癖さが、潜入任務という大前提を上書きしてしまった。
(終わった……。これで不敬罪だ。ヴァンス公爵家の力を使えば、俺の首を飛ばすなんて朝飯前だろうな。ああ、せめて母上に『せめて3秒は考えてから喋るべきでした』と遺言を残したかった……)
俺は、死刑宣告を待つ罪人のように、深く頭を下げた。
エレノアの沈黙が、永遠のように長く感じられる。
やがて。
カツンと、エレノアが一歩、俺に歩み寄る音がした。
「……く。ふふ」
えっ?
「くふふ……あはははははは!」
鈴を転がすような声ではない。それは、腹の底から湧き上がるような、本物の爆笑だった。
エレノアは腹を抱え、涙を浮かべて笑っていた。
「素晴らしいわ……! アルベルタ、と言ったかしら。あなた、最高に面白い人ね!」
「……は?」
「金貨5枚!そうね、その通りだわ。この国の職人も商人も、わたくしの前では常に『これは伝説の布です』『金貨100枚の価値があります』と、耳に心地よい嘘ばかりを並べる。わたくしの家柄というフィルターを通さず、ただの『物』として、真実の数字を叩きつけられたのは……生涯で初めてだわ!」
エレノアが、俺の手をぎゅっと握りしめた。
その瞳は、まるで見たこともない宝物を見つけた子供のように、キラキラと輝いている。
「気に入ったわ、アルベルタ。あなた、嘘をつかないのね。わたくしの地位にも、美貌にも、一切の忖度をせず、ただ『原価』という名の真実だけを見ている。……なんて清らかな方かしら!」
(……いや、清らかっていうか、ただの職業病なんだけど)
「わたくし、決めたわ。これから、あなたがわたくしの『真実の友人』よ。ねえ、放課後、わたくしのティーサロンへいらっしゃい。他のドレスの原価も、全部暴いてほしいの!」
「えええええええええ!?」
俺の絶叫は、令嬢たちの熱烈な拍手と、「さすがエレノア様が見込んだ方!」という、さらなる誤解の嵐にかき消された。
こうして。
俺の女装生活2日目は、首の皮一枚つながったどころか、学院最高の権力者を原価の暴力で攻略するという、斜め上の展開で幕を閉じた。
鏡に映る自分を見る。
そこには、公爵令嬢に手を握られ、真っ青な顔で硬直している、ドレス姿の屈強な男がいた。
(バレろよ……。頼むから誰か、この状況が『清らか』でも何でもないことに気づいてくれ……!)
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