第21話:学院、財政難につき【後編】
お待たせしました、後編です
「ソーン男爵家長女、リリー・ソーンと申します」
「……ソーン家の。何用ですかな。今は大事な会議の最中だ」
「本日は、当家の正当な権利を行使するために参りました」
リリー様は老侯爵の前に迷わず歩み寄り、その書状を置いた。
「二百年前、ソーン男爵家は当学院に対し、多額の寄進を行っております」
「……ええ。記録にはございますな」
「その際に交わされた協定書には、二つの条項がございます。一つ。ソーン家は代々一名の娘を、入学審査を経ずに当学院へ入れる権利を有する」
「知っています。あなたがそれでしょう」
「はい。……そして、二つ目」
リリー様は顔を上げた。その瞳には、今までに見たことのない強い光が宿っている。
「ソーン家当主、あるいはその代理人は、当学院の運営方針に対し、直接意見を述べる権利を有する」
会議室が、音を立てて静止した。
老侯爵が書状をひったくるように手に取り、読み耽る。
一度、二度。そして彼は、震える声で呟いた。
「……これは。……本物か」
「父の署名と、当家の正当な印が入っております。別邸から取り寄せるのに、二週間かかりました」
(――二週間?)
俺は絶句した。二週間前といえば、俺が古い綴りを開くよりも、財政難に気づくよりも前だ。
「リリー様。あなた、いつからこれを……?」
「バーティ様が、休暇中も予算の草案作りに没頭していらっしゃると伺った時ですわ」
彼女は俺を見て、少しだけ、はにかむように笑った。
「わたくし、数字のことは何も分かりません。……けれど、バーティ様が休暇をすべて削ってまで帳簿と向き合っていらっしゃるということは、きっと、何かとても大変なことが起きているのだと思いましたの。……バーティ様が一人で背負うには、重すぎる何かが」
「……」
「ですから、すぐに父に手紙を書きましたわ。当家に伝わる二百年前の協定書を、至急届けてほしい、と」
俺は、言葉を失った。
この人は、数字を一つも読んでいない。経営の危機など理解していない。
ただ俺が休暇を削ったという、それだけの理由で、二週間前から俺を助けるために動き始めていたのだ。
「――お待ちなさい」
男爵夫人の一人が、鋭い声を上げた。
「ソーン様。あなたは当主ではございませんわ。代理人としての資格があるとおっしゃるの?」
「はい。ですから、父の委任状も併せて持参いたしました」
「では、あなたのお父上は、何を意見なさると?」
リリー様は深く、深く息を吸った。
そして、この部屋の誰よりも大きな声で、はっきりと言った。
「――アルベルタ・グレイ様の案を、そのまま本日の採決にかけてくださいませ。……それが、ソーン男爵家の唯一の意見ですわ!」
沈黙。
「……それだけ、ですの?」
「はい。それだけですわ。バーティ様が正しいと、当家は断じます」
老侯爵は、額に手を当てて椅子に深く沈み込んだ。
「ソーン家は……二百年ぶりにその特権を行使して……生徒一人の意見を、公式な議題に載せろと言うのか……」
「はい」
「それは、あまりにも無謀で……」
「二百年前、ソーン家は金貨480枚を寄進いたしました」
リリー様は静かに語り始めた。
「当時の学院は火災で講堂を失い、再建の目処が立たず閉校の危機にありました。……わたくしの先祖は、領地の三年分の税を、そのまま学院に差し出したそうです」
俺は、その数字の重みに息を呑んだ。
金貨480枚。現在の貨幣価値に直せば、この学院の年間支出の約2倍。
「先祖は見返りに、この二つの条項を求めました。……ですが当家は二百年間、二つ目の権利を一度も使っておりません」
彼女の声は、再び震え始めていた。
「恐れ多くて、使えませんでしたの。しがない男爵家が、名門学院の運営に口を出すなど。……ですから、ずっと紙の上で眠っておりましたわ。けれど」
「……なぜ、今なのです」
「――今、使わなければ、わたくしたちの学院がなくなってしまいますもの。何より……バーティ様の努力が、無駄になってしまいますわ!」
会議室は、もはや静まり返るしかなかった。
老侯爵は、しばらくの間書状を愛おしそうに見つめた後、深く、長く息を吐いた。
「……採決に、かけましょう」
結果は、四対一だった。
王室財務府への再交渉を学院として正式に申し入れ、同時にアルベルタ・グレイの削減案を即時実行する。学費の値上げは当面の間、凍結。
反対は老侯爵ただ一人だったが、彼は会議が終わった後、俺の横を通り過ぎる際にボソリと呟いた。
「……グレイさん。潰れるほうが恥、というのは……確かにその通りですな」
「差し出がましいことを申しました」
「いや。……開校して三百年、誰も言わなかった真実です」
彼は杖を突いて、ゆっくりと会議室を出ていった。
廊下で俺はリリー様と二人きりになった。
彼女は、権利を行使した書状を胸に抱きしめたまま、いまだに生まれたての小鹿のように震えていた。
「リリー様」
「……は、はい。バーティ様」
「金貨480枚ですわ」
「え?」
「二百年前、あなたのご先祖が差し出した額。……現在の相場に直すと、この学院の年間支出の、優に二年分を超える大金です」
リリー様は、ぽかんとした顔をした。
「そんなに……すごい額なのですか?」
「ええ。ご存じなかったのですか」
「はい。……ただ、父からは『昔、学院を助けたことがあるんだ』としか……」
俺は彼女の目を見て言った。
「リリー様。あなたのお家は、この学院を一度、滅亡から救っています。……そして今日、あなたが二度目ですわ」
リリー様の大きな目から、一気に涙がこぼれ落ちた。
彼女は書状を抱きしめたまま、廊下の壁にもたれかかって、声を上げずに泣いた。
俺は何も言わず、ただ彼女の隣に立っていた。
この人は三年間、ずっと「付属品」として扱われてきた。
その三年間が、そしてソーン家が守り抜いてきた二百年の沈黙が、今日、正当な形で報われたのだ。
バレろよ。
なあ、頼むよ。
いや、今日はいい。今日だけは、どうでもいい。
俺が男だろうが女だろうが、ソーン家が二百年の眠りを覚まして、学院の扉を叩いた事実は変わらない。
リリー様は数字を一つも読まず、ただ俺を見て二週間前から準備をしていた。
――守っていたつもりで、守られていたのは、俺のほうだった。
その夜、俺は実家の母への手紙に、こう書き記した。
『母上。学院が潰れかけています。来年の春に現金が尽きる計算でした。ですが、おそらく潰れません。二百年前、学院に金貨480枚を寄付した家の娘が、今日、その権利を正当に行使しました。俺は初めて、この学院に来て本当によかったと思いました。
なお、俺の立場は相変わらず生徒ですので、会議での発言権は依然としてありません。世知辛い世の中です。』
学園に入学するにあたり、素行や犯罪歴など色々調査が入ります(生徒数の上限もあるし)
ソーン家の入学枠はそれらの審査を免除して「入学ですか?どうぞどうぞ!」される枠です
学費が免除されるわけではないのが世知辛い
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