第21話:学院、財政難につき【前編】
まるで作者みたいな「どんぶり勘定」している学園
二学期が始まって、十日目のこと。
俺――アルベルタことアルバート・グレイは、来期予算の草案を完璧なものに仕上げるため、会計室の奥に籠もっていた。
休暇中に三日を費やして叩き台は作ったが、まだ決定的な穴がある。過去の収入推移との突き合わせができていなかったのだ。商売において、出費を削る前に「なぜ金が減ったのか」の源流を突き止めるのは、基本中の基本である。
俺はミセス・ホロウェイに許可を取り、書庫の最奥に眠っていた古い綴りを出してもらった。
――そして、俺の指は、あるページで凍りついた。
最初に気づいたのは、収入の欄だ。
この学院の収入源は大きく分けて三つ。生徒が納める学費、卒業生の生家からの寄進、そして王家からの下賜金。
その三つ目の下賜金が、六年前から不自然に途絶えていた。
(……え、何だこれ。事故か?)
俺はページをめくり戻した。
七年前まで、王家からは年間金貨80枚が下賜されていた。それが、6年前を境にゼロになっている。理由は明記されていない。
だが、綴りの間に一枚の書状の写しが、忘れ去られたように挟まっていた。王室財務府からのもので、要約すればこうだ。
『王立学院への下賜金は、学院の自立運営を促す観点から、段階的に見直すものとする』
――事実上の、打ち切り通告である。
それが六年前。そして驚くべきことに六年間、この学院の支出額は、まるで何もなかったかのように微塵も変わっていなかった。
俺は震える手で、次の綴りを開いた。基本財産の欄。
三百年の歴史の中で積み上がってきた、学院の蓄え。土地、建物、そして運営元本である現金。
その現金の残高が、六年前から一直線に、崖を転がり落ちるように激減していた。
金貨620枚。480枚。350枚。240枚。150枚。
そして昨年度末。――金貨64枚。
俺はしばらくの間、その無慈悲な数字をただ見つめていた。
今年度の見込み支出は、金貨220枚。
(――足りない。足りないどころの話じゃないぞ、これ!)
この学院は、来年度の半ばを待たずして、現金が完全に底を突く。
しかも、その手前には例の噴水がある。金貨35枚。既に着工済みだ。
俺は羽根ペンを置き、椅子の背にもたれかかった。
埃の舞う天井の梁を見上げ、乾いた笑いが漏れそうになった。
(……三百年間、誰も内訳を読まなかった。その報いが、今、一気に来ているのか)
恐ろしいことに、誰も気づいていないのだ。
王家からの金が止まったことも、元本が溶け続けていることも。
なぜなら、この学院において金額の書かれた紙とは「格式の証明書」であり、中身を精査すべき「経営資料」だと思っている人間が、これまで一人もいなかったのだから。
俺は即座にミセス・ホロウェイを呼んだ。
彼女は綴りを覗き込み、しばらくの沈黙の後、絞り出すような声で言った。
「……グレイさん。これは、どういう意味ですの」
「六年前、王家からの下賜金が打ち切られています」
「ええ、それは把握しておりますわ。書状が届きましたもの」
「ですが、その後一度も支出を減らしていません。減った分を、元本を取り崩して埋め続けていました。昨年度末の残高は金貨64枚。……対して、今年度の見込み支出は220枚ですわ」
ミセス・ホロウェイの杖が、カランと床に落ちた。
彼女は一歩よろめき、机に手をついて辛うじて身体を支えた。
「――足りない、ということですのね。現金が」
「はい」
「いつまで、もちますの」
「……来年の春、新入生を迎える頃には、1枚の銅貨も残っておりませんわ」
静まり返った会計室。
三十年の間、中身を理解しないまま、けれど誠実に判を押し続けてきた老婦人の横顔は、一気に老け込んだように見えた。
「……わたくしの、責任ですわね。わたくしが無知であったばかりに」
「いえ、違います」
俺ははっきりと首を振った。
「六年前でも、十年前でも、あるいは五十年前でも、同じことが起きていたはずです。……この学院には、数字の内訳を読み、警鐘を鳴らす仕組みそのものがなかった。それだけのことですわ」
「……グレイさん。理事会を招集します。あなたも……ご同席なさい」
◇◇◇◇◇
三日後、緊急理事会が開かれた。
参加者は、学監、理事長を務める老侯爵、理事の男爵夫人が2名、そして王都の会計士が1名。
俺はミセス・ホロウェイの補佐として、末席に座らされた。
議論は、開始からわずか十分で、最悪の方向にまとまろうとしていた。
「――学費を上げましょう」
老侯爵が、当然の権利であるかのように断言した。
「1人あたり金貨2枚の上乗せ。それで年間140枚が確保できますな」
「ええ、それが妥当ですわね。伝統ある我が学院のためですもの、皆様、喜んでお納めになるでしょう」
「待ってください」
俺は挙手した。冷ややかな視線が一斉に俺に突き刺さる。
「グレイさん。……生徒の分際で、発言の許可を得ているのですか」
「学監の補佐として、数字に基づく客観的な事実のみを申し上げます」
俺は立ち上がった。
「学費を上げれば、辞める生徒が続出しますわ」
「まさか。この学院の門をくぐることの価値を、あなた分かっていないのでは」
「昨年度の納入記録を確認いたしました。全生徒70名のうち、23名の家は、既に期日通りの納入ができておりません。そのうち9家は、年度末の督促までずれ込んでいます。……この9家は、上げれば確実に辞めますわ」
「たかが9名でしょう」
「学費収入の約1割ですわ。そして一度辞めた家は、卒業生という絆を失い、生涯にわたって寄付をすることもなくなります。……長期的な損失は計り知れません」
俺は畳み掛けるように、次の資料を出した。
「それだけではありません。学費を上げたという噂は、王都の商人の間で瞬く間に広がります。『あの学院は金に困っている』という噂が立てば、来年度の志願者は激減しますわ。経営難の噂がある学校に、娘を預ける親がどこにおりますか」
老侯爵が、不快そうに顎を引いた。
「では、どうせよと。指をくわえて破産を待てと言うのか」
「支出を削ります。三年で金貨60枚を削減する案です。燃料の調達先変更、備品の更新周期の見直し、行事の統合。……これらは、生徒の生活の質を落とさずに実行可能ですわ」
同席していた会計士が資料を手に取り、眉を跳ね上げた。
「……ほう。これは、実に見事な是正案ですな。実務的だ」
「ありがとうございます。ですが……」
「ええ。三年で60枚では、来年の春の『穴』には間に合いません。今年度中に、金貨156枚をどこからか用意する必要がある。……やはり、削減だけでは届きません。不本意ながら、学費の値上げしか道はない」
「――王家に、再交渉すべきですわ」
全員が、今度こそ目を見開いた。
「六年前の打ち切り通告には、『自立を促す観点から』とありました。……これは、学院が何もしなければ再開しない、という意味であって、絶交の宣言ではありませんわ。学院が自ら骨を削る努力を示し、その上で誠実に交渉すれば、再考の余地は必ずあります」
「あなた……王室財務府に物申せと言うのですか!」
「はい」
「――無礼千万!恥を知れ!」
老侯爵が、激昂して机を叩いた。
「三百年、この学院は王家の慈悲のもとにあったのだ。それに対して金の話を持ち出すなど、アグネスの誇りに対する冒涜だ!」
「誇り、ですか」
「そうだ!誇りだ!」
「……潰れるほうが、よほど誇りを汚すことになると思いますが」
会議室が完全に凍りついた。
やってしまった。商談において相手のプライドを折るのは愚策だ。だが、言わずにはいられなかった。
「――グレイさん。退室なさい。あなたはあくまで生徒だ。この場にいる資格はない」
老侯爵の言葉に、俺は唇を噛んで立ち上がった。
正しいのはこちらだ。数字が、論理が、未来がそう言っている。
だが、俺には発言権がない。学生代表という薄っぺらな肩書きは、権威の壁の前では無力だった。
俺が席を立とうとした、その時。
会議室の扉が、静かに、けれど迷いなく開かれた。
「――失礼いたします」
全員が振り返った。
そこに立っていたのは、リリー様だった。
小柄な身体を震わせながら、しかし背筋を凛と伸ばして。
彼女は両手で、一通の年季の入った書状を、大切な宝物のように捧げ持っていた。
長くなったので前後編でお届けします
次回はリリーが活躍する回です
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