幕間4:ローズ・ブラックウッドの手帳(イザベラ視点)
一番近くて一番遠い
わたくしが初めて物語を書いたのは、十二の年でしたわ。
イザベラ・クレイン。クレイン侯爵家の次女。
姉がすべてにおいて完璧でしたの。ですからわたくしには、初めから何も期待されておりませんでした。
――期待されないというのは、存外に自由なものですのよ。誰の目も届かない静かな部屋で、わたくしは好きなだけ紙を無駄にすることができましたもの。
最初に書いたのは、身分違いの激しい恋の話でしたわ。
それを侍女に見つかり、母の元へ届けられ、目の前の暖炉で跡形もなく焼かれました。
母は怒りもしませんでした。ただ、灰を見つめながら静かにおっしゃいましたの。
『イザベラ。あなたがこれを書いたということは、墓場まで誰にも知られてはなりませんわ』
――ええ、母は正しゅうございます。
クレイン侯爵家の娘が低俗な恋物語を書き散らしていると知れれば、完璧な姉の縁談に泥を塗ることになりますもの。
ですからわたくしは、ローズ・ブラックウッドになりましたの。
偽名で書き、偽名で渡し、偽名で銀貨を受け取る。
六年の間、わたくしはそうして二つの名を持って生きてまいりました。
この学院で、わたくしは「涼やかな方」と呼ばれておりますわね。
感情の起伏がなく、常に微笑を絶やさず、何を考えているか分からない。当然ですわ。だって、わたくしの本当の感情は、すべて『あちら側』に置いてありますもの。
夜、鍵をかけた密室で、紙の上にだけ。
――そこへ、あの方が現れましたの。
アルベルタ・グレイ様。バーティ様。
初めてお見かけした瞬間、わたくしは心臓を射抜かれたような衝撃を覚えました。
あの凛とした所作。扇子の角度。視線の落とし方。沈黙の挟み方。
どれもが、わたくしが紙の上で幾度も組み立てた理想と、寸分違わなかったのです。
わたくし、その場で理解いたしましたの。
(――ああ。この方は、わたくしと同じ『作られた』方だわ)
生まれながらの淑女は、あんな完璧な所作をなさいません。もっと雑で、もっと自然で、もっと隙があるものですわ。
あの方の所作には、明確な「意志」がございました。
一つ一つの動きが、切実な目的を持って選ばれている。
つまりあの方は、本当の自分を隠し通すために、淑女という完璧な外装を選んで纏っていらっしゃる。
わたくしがローズ・ブラックウッドという名を着ているように。
わたくしたちは、魂の形が同じですのよ。
◇◇◇◇◇
『――四人の令嬢が、円卓を囲んで愛を争っていた。
誰がいちばん、彼女の真髄に近いのか。
真実を受け取った者。道具を託された者。時間を捧げられた者。契約を交わした者。
その中央で、アルヴィナはただ静寂を纏い座っていた。
彼女は何も言わなかった。言えば、誰かが傷つくと知っていたからだ。
四つの情熱が自分を巡って激しく渦巻く。それは、王侯の椅子よりも重く、孤独な場所だった。
彼女は深く目を伏せ、そして小さく、誰にも届かない溜息を吐いた。
――誰も、その吐息の真意に気づくことはなかった』
あの序列争いの日。
わたくしも当事者でしたけれど、書きながら気づいたことがございますの。
バーティ様は、あの場でほとんど何もおっしゃらなかったわね。
最後に「等しく接している」と、慈悲深い宣告を一度なされただけ。あとはずっと、嵐が過ぎるのを待つように黙って座っていらした。
わたくしたちが三時間もかけて醜く争っている間、あの方は何を考えていらしたのかしら。
――たぶん、わたくしたち全員を、一人も傷つけない方法を必死で探していらしたのですわ。
そして見つからぬまま、曜日で分けるという、あの奇妙で打算的な……いいえ、献身的な提案を絞り出された。
あれは逃げではございません。
四人全員を等しく立てる、あの方にしか辿り着けない、唯一の正解でしたのよ。
◇◇◇◇◇
『――「あなたは可憐ですわ」
公爵令嬢がそう微笑んだ時、アルヴィナは一瞬だけ、遥か遠くの地平を見た。
可憐。
その言葉の刃が、どれほど彼女の誇りを切り裂いたか、誰も知らない。
彼女は誰よりも高く、誰よりも強く、誰よりも重い責任を背負っている。
それでも周囲は、彼女を小さく守られるべき可憐な花と呼ぶ。
――守られるべき存在として扱われることは、時に、死よりも深い孤独を強いるのだ』
この場面は、書いていてわたくしも胸が締め付けられましたわ。
エレノア様に悪気はございません。あの方は本心から、アルベルタ様を可憐だと思っていらっしゃる。
けれど、わたくしは見ておりましたの。
「可憐」と言われた時、あの方の表情が、ほんの一瞬だけ石像のように静止したのを。
あれは、深い諦めの顔でしたわ。
――ああ、この人たちには、わたくしの本当の重さは一生伝わらないのだ、という顔。
◇◇◇◇◇
ところで。
アルベルタ様がわたくしの代理人になってくださってから、世界の色が変わりましたの。
金貨23枚。
わたくしの原稿が、そう値付けされました。
あの方は、はっきりとおっしゃいました。
『作品に正当な値がつくのであって、作者の身分に値がつくのではありません』
わたくし、あのお言葉にどれほど救われたでしょう。
六年間、わたくしは自分が汚れているような気がしておりました。貴族の娘が低俗な書き物をし、こそこそと小銭を受け取って。
けれど、違いましたのね。
汚れていたのは、わたくしの無知を買い叩いていた側の強欲でした。
あの方は、わたくしを憐れみませんでした。慰めもしませんでした。
ただ、一人の商人として、わたくしの魂に適正な価格をつけてくださった。
――それが、どれほど誇らしく、嬉しかったか。
けれど、ひとつだけ。
最近、どうしても気になっていることがございますの。
あの方には明確な期限がおありになる。
わたくし、そう肌で感じるのですわ。
根拠はございません。ただ、あの方はときどき、この学院の風景を見る目が、旅人のそれになりますの。
中庭の噴水を見る時。夕暮れの回廊を歩く時。わたくしたちが笑い合っている時。
――もうすぐ失うことが決まっているものを、必死に目に焼き付けている。そんな、寂しい目をなさるのです。
わたくし、いくつか不吉な想像をいたしましたの。
ご病気なのかしら。
それとも、家の事情で不本意な結婚を強いられていらっしゃるのかしら。
あるいは、もっと恐ろしいこと……この学院にいらっしゃること自体、何か危険な制約を課されているのかしら。
……考えても、答えは出ません。
けれど、あの方は決しておっしゃいません。
エレノア様にも、シャーロット様にも、リリーにも。そしてわたくしにも。
あの方は、ご自分の痛みだけは、一度も言葉になさらないのです。
◇◇◇◇◇
『――彼女には、終わりが決まっていた。
いつからか、アルヴィナはその足音を聞いていた。
だから彼女は、誰とも未来の約束をしなかった。
来年も、再来年も、その先も。彼女の口からは、一度も「明日」という希望が出なかった。
友人たちはまだ気づかない。
気づかぬまま、笑っているほうがいい。
――彼女はそう決めて、今日も独り、静かに微笑を湛えている』
この一節を書いた夜、わたくしは一人で泣きましたわ。
物語のはずですのに。
自分で組み立てた、都合のいい嘘のはずですのに。
書き終えて読み返した時、これは嘘ではないのだと、どうしようもない予感に震えてしまいました。
次の作品は、港町を舞台にしようと思っておりますの。
アルベルタ様のご実家がある町。ソルトポート。
塩と魚の匂いしかしないと、あの方は苦笑いなさいました。
……けれど、あの方があの町の話をなさる時だけ、お声が少しだけ変わりますのよ。
低くなって、速くなって、それからほんの少しだけ、子供のように嬉しそうになる。
あの方の真実は、あそこにございますわ。
わたくしは、それを見に行きたいのです。
作家としてではなく――いえ、やはり作家としてですわね。
わたくしはもう、書くことでしか、人の核に触れる方法を知りませんもの。
木曜日は、わたくしの日ですわ。
あの方は、まだ首を縦に振ってくださいませんけれど。
けれど、いつか。
わたくしは、物語の仮面を剥ぎ取った、あの方の本当の素顔を見てみたいのです。
これにて前半終了です
次の話から後半に入ります
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