第19話:アシュフォードの視線
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その視線に、明確な『違和感』を覚えたのは、予算会議の三度目からだった。
俺――アルベルタことアルバート・グレイは、重厚な長机で書類をめくりながら、正面から注がれる冷徹な視線を肌で感じていた。
ヴィクトリア・アシュフォード。
あの日、紅茶と蝋燭の価格交渉で火花を散らして以来、彼女は欠かさず会議に出席している。羊皮紙とリネンの再交渉が残っている以上、会計監査としての出席は当然と言えば当然だ。
だが、様子がおかしい。
彼女は、交渉をしていない。
いや、正確にはしているのだが、驚くほどあっさりと引き下がるのだ。俺が相場を提示すれば「ええ、その通りですわね」と認め、厳しい条件を突きつければ「結構ですわ」と微笑んで受ける。
結果として、三度目の会議が終わる頃には、羊皮紙とリネンの価格は年間金貨2枚分も下がっていた。
熾烈な数字の叩き合いなど、一度も起きなかった。
その代わり、彼女はただ、じっと俺を見ていた。
書類をめくる指先の動きを。帳簿に数字を叩き込む速度を。ミセス・ホロウェイに現状を説明する際の、淀みのない言い回しを。
――観察されている。
獲物の急所を定める肉食獣のような、あるいは未知の検体を見つめる学者のような眼差し。
商人として、これは極めてやりづらい状況だった。
「アシュフォード様」
会議が終わり、人影のまばらになった廊下で、俺は彼女を呼び止めた。
「はい、何かしら。グレイ様」
「先ほどの再交渉ですが、少々……あっさりしすぎてはおりませんか」
「あら。もっと粘ったほうが、あなたのお気に召しましたかしら?」
「そうではなく。……あなたの商会の利を、あまりに削りすぎています。それでは、アシュフォードの看板に傷がつくのではありませんか?」
ヴィクトリア様は、パチンと扇子を開いた。
「羊皮紙とリネンは、うちが片手間で扱っていた品ですわ。適正価格に直したところで、痛くも痒くもございません。それよりも――」
「なぜ、毎回出席を?」
彼女は少しだけ黙った。
そして、扇子の隙間から見える眼を細め、まっすぐに俺を見据えた。
「あなたを見に来ておりますの」
俺の背中に、冷たい汗が伝った。
「……と、申しますと」
「言葉の通りですわ」
彼女は優雅な足取りで廊下の窓辺に歩み寄り、夕暮れの景色に目を向けた。
中庭では、例の噴水の水盤が組み上がりつつある。北部の花崗岩は、夕日を受けて淡い灰色から黄金色へと、静かに表情を変えていた。
「グレイ様。わたくし、あの日からずっと考えておりますの。……なぜ、わたくしは契約書で『勝った』はずなのに、あんなに『負けた』気がするのかしら、と」
俺は答えなかった。
「三年、いえ、物心ついてから十年ほど、わたくしは父の帳場に座り、番頭の話を聞き、契約書を読んで育ちました。王国最大の商会を支えるための、帝王学を学んできた自負がございます」
「はい。それはあの日、身をもって理解いたしましたわ」
「ええ、立派な教育でした。……けれど。その十年でわたくしが身につけたのは、すべて『守り方』でしたわ」
彼女は、自分自身を嘲笑うように静かに言った。
「仕入れを守る。得意先を守る。値崩れから守る。……そして、非の打ち所のない契約で、商会の地位を守る。アシュフォードが最大手であり続けるために必要なのは、堅固な城壁を築くことでした」
「それは、最大手として正しい姿勢ですわ」
「ええ。正しい。……けれど、あなたは、攻めていらっしゃる」
「攻めているつもりはありませんわ。わたくしはただ、学院の予算を……」
「いいえ。休日に王都の卸を三軒回り、窯元で樽を担いで台帳を見せてもらう。……あれは、城壁の中にいる人間のやることではございませんわ」
俺は返事に困った。
そんな大層なことをした覚えはない。ただ、現場の数字を自分の目で確かめていないと、商談で相手と話す時に言葉が浮いてしまう。それが不安だっただけだ。
「アシュフォード様。わたくしは……不安なだけですわ」
「不安?」
「はい。数字を自分の目で確かめていないと、落ち着かないのです。……誰かの用意した『相場』を信じて商売をして、そのまま音を立てて潰れていった店を、港でいくつも見てきましたので」
ヴィクトリア様の扇子が、ぴたりと止まった。
「……潰れた店、ですの?」
「はい」
「あなた、ご覧になったことがあるの。……商会が終わりを迎える、その瞬間を」
「三つほど、目の当たりにいたしました」
俺は、かつて港の倉庫街で見た景色を思い出しながら言った。
「一つは仕入れ先を信じすぎ、一つは得意先を信じすぎ、一つは自分の目利きという名の傲慢さを信じすぎて潰れました。……いずれも、父の商売仲間でしたわ」
沈黙が廊下を支配する。
ヴィクトリア様は、しばらく呆然と俺を見つめていた。
そして、深く、重い溜息をついた。
「……ずるいですわ、バーティ」
「は?」
「わたくし、そういう景色を、一度も見たことがございませんの」
彼女は自嘲気味に笑った。
「アシュフォード商会は、わたくしが生まれた時から、すでに完成された山でしたわ。潰れる商会は、いつも遥か遠くにございました。帳簿の中の、『取引停止』という冷たい文字としてしか、わたくしは終わりを知りません」
「……」
「あなたは、その目で見ている。だから、あなたの出す数字には、血が通った『重さ』があるのですわ。……わたくしの数字は、どこまでいっても計算上だけの、軽いものでございます」
俺は、その言葉に強烈な驚きを覚えた。
王都最大手の、非の打ち所のない完璧な令嬢が。自分を軽いと言った。
「アシュフォード様。それは違います」
「あら。慰めてくださるの?」
「いいえ。規模が違うだけですわ。年間の納入を、三年もの間、一切切らさずに回し続ける。そんな巨大な安定は、グレイ商会のような小規模な家には、逆立ちしても不可能です。……わたくしがやっているのは、目の前の一件を全力で泥臭く追いかけることだけ。それは、小さく、守るべきものがないからできることに過ぎません」
言ってから少し後悔をした。
商売敵を前に、自分の限界を明かすような真似をしてしまった。
だが、ヴィクトリア様は、扇子で口元を隠してクスクスと笑い出した。
「……そういうところですわね」
「え?」
「あなた、相手をさらりと持ち上げますのね。……天然なのかしら」
「慰めてはおりません。事実を申し上げたまでです」
「ええ、事実ですわ。だからこそ、最高に性質が悪いのですわ」
彼女は窓に背を向け、俺の方へと一歩踏み出した。
夕日が、彼女の美しい銀髪を、燃えるような橙色に染め上げていた。
「グレイ様。ひとつ、お尋ねしてもよろしくて」
「はい」
「あなた、この学院に、本当は何をしにいらしたの?」
俺の心臓が、ドクンと一度大きく跳ねた。
(――踏み込んできた)
この人は、他の四人とは違う。物語でも武勇伝でもなく、常に『動機』という名の利潤を追っている。
「……御用商人の座を取るためですわ」
「ええ、建前はそうですわね。学生代表ですもの。……けれど、そのわりに、あなた、座を取ろうとなさっていませんわね?」
「……そうおっしゃいますと」
「学院の支出を、徹底的に削っていらっしゃるでしょう」
彼女は、俺が隠したかった矛盾を、正確に指差した。
「考えてもごらんなさい。あなたが数字を正すほど、学院が使う金は減ります。御用商人の旨みとは、その流通額の大きさにありますのよ。あなたは今、自分が取ろうとしている座の値打ちを、自分の手でどんどん下げていらっしゃる」
――言われて、初めて心臓を掴まれた思いがした。
俺は、完全に見落としていた。
噴水の水増しを暴き、紅茶と蝋燭の価格を洗い直し、羊皮紙とリネンを下げさせた。学院の支出は、この二ヶ月で確実に減っている。
その分だけ、将来グレイ商会が扱うことになる利益も、目減りしているのだ。
(俺は、自分の首を自分で絞めていたのか!)
「……恥ずかしながら、今の今まで失念しておりましたわ」
俺が正直に告げると、今度はヴィクトリア様が目を丸くした。
「まあ……。本当に、無意識でやっていらしたの?」
「はい。お恥ずかしい話ですが」
「では、なぜそんなことを? あなたにとって損しかございませんのに」
「盛られた見積もりを見ると……商人の性でしょうか、我慢できなくなるのですわ」
ヴィクトリア様は、しばらく無言で俺を凝視していた。
そして、持っていた扇子をカランと、廊下の石畳に落とした。
「……アシュフォード様?」
「いえ、なんでもございませんわ。少し、めまいがしただけです」
彼女は自分で扇子を拾い上げ、それを祈るように胸の前で握りしめた。
「グレイ様。わたくし、あなたのことを、この二ヶ月ずっと考えて分析しておりましたの」
「はあ」
「どういう戦略で動いていらっしゃるのか。支出削減は、学監の信頼を得て、来期の予算配分で自商会を有利にするための布石ではないか。……そう考えて、対抗策も練りました。けれど」
彼女は俺を見上げた。その瞳には、敗北感を超えた、清々しいほどの困惑が宿っている。
「違いましたのね。あなたは戦略ではなく、ただの『性分』で動いていらっしゃる」
そう口にしてから少し笑う。
そして、彼女は少しだけ首を傾げ、俺の姿を上から下まで眺めた。
「――ところで、グレイ様。ひとつ、ずっと前から気になっておりましたの」
「なんでしょうか」
「そのドレス……お直しになったほうがよろしいのではなくて?」
俺の全身の筋肉が、一瞬で硬直した。
「そう申しますと……」
「腕ですわ」
彼女は、俺の二の腕のあたりを指差した。
「以前より布が張っておりましたけれど。先ほど、あなたが予算資料の分厚い綴りをお持ちになった時。……袖の縫い目が、明らかに悲鳴を上げておりましたわ。あのままでは、そのうち激しい動作をした瞬間に裂けますわよ」
俺は反射的に自分の腕を確認した。
確かに、パンパンに張っている。この学院に来てから樽を担ぐ機会こそ減ったが、元からある筋肉は健全だ。力を入れれば普通に筋肉が盛り上がる。
「……仕立て直しを、検討いたしますわ」
「そうなさいませ。……まったく、女性の身体は正直ですわね。少し環境が変わるだけで、すぐに形が変わってしまうのですから」
(違います。これは元から筋肉です)
「アシュフォード様。あの、少々お伺いしたいのですが。……わたくしの、この腕を見て、何かお感じになりませんか?」
ヴィクトリア様は心の底から同情するような、痛ましげな顔をして俺を見た。
「あなたがどれほど過酷な量の、書類を運んでいらっしゃるのか、と」
「……そうですか」
「学院の会計という巨大な重荷を、たった一人で背負っていらっしゃるのですもの。腕も逞しくなりますわ。……あの分厚い綴りを、毎日毎日、それこそ朝から晩まで運んでいらっしゃるのでしょう?」
「……ええ、まあ。運んではおりますが」
「わたくし、あなたのそういうところが恐ろしいのですわ」
彼女は、震える声で言った。
「王都最大手の令嬢が、扇子よりも重いものを持たずに安穏と過ごしている間に。あなたは、腕の縫い目が裂けるほど、実務という名の書類を運び続けていらっしゃる。……これが、現場に立つ商人の強さ、その差ですのね!」
(違う!男の体格だって気づいてくれよ!)
彼女は深々と一礼して、廊下の向こうへと去っていった。
その凛とした背中を見送りながら、俺はしばらく動けなかった。
この学院で唯一、俺を正当に評価し、戦略を読み、性分まで理解しようとした人物。
その最高峰の知性が。
俺のドレスが裂けそうなのを見て、「書類の運びすぎ」という結論に達した。
バレろよ。
なあ、頼むよ。
あんたなら気づけるはずだろう。
あんたは俺の帳簿を読み、動きを読み、性分まで読んだ。この学院で、俺を一番正しく見ている人だ。
その人が俺の筋肉を見て、重い書類を運びすぎた証だと言うんだ。
違うんだ。
鍛え抜かれた男の腕なんだ。
誰か気づいてくれ。頼むから、あと一歩なんだよ……!
ヴィクトリア「男の方が紛れ込んでいるとは思いもしませんもの」
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