幕間3:隅の席から見えるもの(リリー視点)
わたくしの席は、いつも「隅」でした。
リリー・ソーン。ソーン男爵家の長女。
王国最高の令嬢が集うこの学院において、わたくしはただのしがない下級貴族です。
誰かに意地悪をされたわけではございません。この学院の方々は、皆様とてもお優しいのです。ただ、あまりにお優しいだけ。
お茶会にお呼ばれすれば、必ず末席に案内されます。話しかけていただければ、必ず「まあ、ソーン様『も』」と、最後に付け足していただけます。
その「も」という付属品を表す言葉が、わたくしの居場所でした。
三年間、わたくしは付属品という透明な壁の中で生きてまいりました。窓際の隅の席から、輝く皆様を眺める。それが、わたくしの学院生活のすべてでしたの。
――あの方が現れるまでは。
アルベルタ・グレイ様。
初めてお会いしたのは、中庭の隅でした。わたくしがいつものように、誰にも見つからない場所で本を読んでおりましたら、あの方がいらしたのです。
わたくしは慌てて謝りました。お邪魔をしてしまった、身の程知らずだと。
けれどあの方は、ふっと柔らかに微笑んで、こうおっしゃいました。
『いえ、謝る必要などありませんわ。わたくしも、ここが静かで好きなだけですから』
わたくし、その時、心臓が止まるかと思いました。
だってあの方は、あのエレノア様と対等にお話しになる方です。学院中が噂している、あの凛々しく、堂々とした編入生。その方が、わたくしと同じ場所に、同じ理由でいらした。
(――ああ。この方も、わたくしと同じ『隅』の方なのだわ)
そう気づいた瞬間、わたくしは、見てはいけないものを見てしまいました。
あの方は、とても儚い目をしていらっしゃるのです。
誰も見ていないと思っていらっしゃる時、あの方はふっと遠く……いいえ、ここではないどこかを見つめ、深く、深く溜息をつかれる。
あれは、あまりに疲れ果てた人の目ですわ。
わたくしはその目を知っております。冬の終わり、無理な資金繰りに追われた父が、母に見られないように書斎で吐く溜息と、まったく同じ形をしておりましたから。
あの方は、強い方ではありません。
強く、あろうとしていらっしゃるだけです。
周囲の期待に応えようとして、ご自分をすり減らしていらっしゃる。
その証拠に――あの方は、一度だって弱音をおっしゃらないのです。
暴れ馬を素手で止めてくださった時も。
わたくしのために、グウェンドリン様の非礼に立ち向かってくださった時も。
あの方は、いつも笑っていらっしゃいましたわ。乾いた、どこか寂しげな笑みで。
あんな笑い方しかできない方が、傷ついていないはずがございません。
ですから、わたくしは決めたのです。
わたくしこそが、あの方をお守りしようと。
――けれど。
正直に申し上げますと、わたくしには後ろめたいことがございます。
東屋での出来事。わたくしは前に出ました。伯爵令嬢のグウェンドリン様に、たった一人で。
自分でも、なぜあんなことができたのか分かりません。ただ、あの方が「商家」だと蔑まれるのを聞いた時、心が張り裂けそうになったのです。
けれど……途中で言葉が出なくなりました。膝が笑って、声が震えて、それ以上何も言えなくなりました。
結局、あの方がご自分で解決なさいました。わたくしは、何もできませんでしたわ。
それなのに。あの方は、あの日、お別れの間際にこうおっしゃったのです。
『先ほど、間に入っていただいた時。わたくしは、とても心強く思いました』
わたくし、そのお言葉を、今でも毎晩思い返します。
心強い。わたくしのような者が、あの方の支えに。
生まれて十六年、誰かに「心強い」と言われたのは、あれが初めてでした。
……ですから、やはり後ろめたいのです。
わたくしは「あの方をお守りする」と申し上げておりますが、本当は、わたくしの方が救われているのです。守るという役目をいただいたことで、わたくしは初めて付属品の外に出られました。末席ではなく、あの方の隣に立つ勇気をいただいたのです。
先月、もっと恥ずかしいことがございました。
実家の帳簿をあの方に見られてしまいました。父からの「今年は苦しい、学費が遅れるかもしれない」という手紙に泣いているところを……。
あの方は、少しだけ帳面を覗いて、そして静かにおっしゃいました。
『……これ、数日お預かりしてもよろしいですか。わたくし、数字を眺めるのが嫌いではありませんので』
三晩でした。
三晩の間、あの方の部屋の灯りが、一刻も消えなかったのです。
わたくし、廊下の窓から見ておりました。真夜中に何度も起きて、祈るような気持ちで。灯りがついているのを確認して、また戻って、けれど心配でまた起きて。
三日目の朝、あの方は少しだけ目を赤くして、書き込みだらけの帳簿を返してくださいました。
『羊毛の仕入れ時期を二月早めてください。それだけで、来期のキャッシュフローは劇的に改善しますわ』
それだけおっしゃって、あの方はいつものように授業に行かれました。
わたくし、廊下で泣きました。
だって、そうでしょう。あの方はご自分だって疲れていらっしゃるのに。ご自分だって、あんなに儚い目をしていらっしゃるのに。
三晩、眠らずに、他人の家の汚れた帳面を読んでくださった。
……ええ。わたくしには分かっております。
あの方は、単に「お優しい」方ではございません。
優しくあることでしか、ご自分を保てないほど、純粋で、危うい方なのですわ。
誰かのために動いていないと、ご自分が空っぽになってしまう。だから、頼まれてもいないのに、他人の帳簿を三晩かけて読み耽ってしまう。
そういう方です。
だから、わたくしが止めなければなりません。
あの方に「もう、十分ですわ」と言って差し上げる人が、一人でも必要なのです。
エレノア様は、あの方に真実を求めます。
シャーロット様は、あの方に勝負を求めます。
イザベラ様は、あの方に物語を求めます。
皆様、あの方から何かを受け取ろうとなさるばかり。
わたくしだけが、あの方に何も求めておりません。
わたくしはただ、あの方が安らかに眠れる夜が一晩でも増えればよいと、それだけを願っております。
――そのために、わたくしは強くならなければ。
この間、決めたことがございます。
わたくし、朝の礼拝の前に、学院の裏庭を三周走ることにいたしました。
みっともないことは分かっております。男爵令嬢が髪を振り乱し、息を切らせて走っているなど、誰かに見られたら笑われますね。
けれど、もし次に、誰かがあの方に嫌なことを言った時。
膝が笑わないように。
声が震えないように。
あの方が戦わなくて済むように。
最後まで、あの方の前に立っていられるように。
昨日、あの方とお話ししていて、気づいたことがございます。わたくしがお茶をお注ぎしようとしたら、あの方が慌てて手を引かれたのです。
『いえ、わたくしがやりますので。……人に注いでいただくのは、どうも落ち着かなくて』
わたくし、胸が締め付けられました。
あの方は、人に何かをしていただくことに慣れていらっしゃらないのです。ずっと与える側でいらしたから。
誰かに甘えるということを、この方はご存じない。
――ですから、わたくしが教えて差し上げなければ。
まずは、熱いお茶の一杯から。
だって水曜日は、わたくしがお守りすると決めた日ですもの。




