第16話:アシュフォードの流儀
シリアス回です(ただし女装である)
噴水の件から十日後。
俺――アルベルタことアルバート・グレイは、学院の会議室という戦場に足を踏み入れた。
重厚な長机、使い込まれた革張りの椅子、壁一面を埋め尽くす法典の書架。
そして、正面に座るミセス・ホロウェイ。
「グレイさん。始めましょう」
「はい」
「本日は、来期の納入品目についてです。あなたが先日提出した『是正勧告書』に基づき、見直しの是非を検討いたします」
俺は淀みない動作で帳簿を開いた。
この十日、俺は学院の年間支出をすべて洗い直した。石材、燃料、食材、日用品。その中で、明確に市場(相場)を裏切っている項目が四つあった。紅茶、蝋燭、羊皮紙、リネン類。
いずれも、同じ商会からの納入品だ。
――そして、その商会の名を口にしようとした瞬間、扉が開いた。
「失礼いたします。会計監査として参りました」
銀の髪。完璧な一礼。歩幅の乱れが一切ない、教本から抜け出したような足取り。
ヴィクトリア・アシュフォード。
彼女は俺の正面に座り、淑女の微笑みを浮かべた。
「ごきげんよう、グレイ様。……こういう形でお話しできる日が来るとは、思っておりませんでしたわ」
「ごきげんよう、アシュフォード様」
嘘だ、と俺は内心で切り捨てた。
彼女は絶対に予想していた。そして、この対決を望んでいた。この人は、そういう商売人だ。
ミセス・ホロウェイが杖で床を突いた。
「では、始めなさい」
俺は肺いっぱいに息を吸い込み、意識のスイッチを切り替えた。
アルベルタという仮面はそのままに、中身をグレイ商会跡取り・アルバートへと完全に移行させる。
「アシュフォード商会からの年間納入額は、金貨12枚。品目は四つです。……まず紅茶。銀貨65枚分。これは王都の卸相場の、1.8倍ですわ」
「品質が違いますもの」
「同じ産地、同じ等級です。先月、王都の3軒の卸で同一ロットの値を確認しました。銀貨36枚が適正相場です」
ヴィクトリア様の扇子が、ぴたりと止まった。
「……3軒、お回りになったの?」
「ええ」
「休日に、お忍びで、ご自分で?」
「はい」
彼女は少し沈黙し、それから扇子をゆっくりと膝に置いた。
その瞬間、彼女を取り巻く空気が一変した。
背筋は伸びたままだ。微笑みも崩れていない。だが目の奥の温度が、氷点下まで一気に下がった。俺のよく知っている顔だ。港で、命の次に重い金を奪い合う男たちが、商談の崖っぷちで見せる獣の目。
「――なるほど。では、こちらも本気で参りますわ」
彼女は机の上に指を組み、言葉のナイフを研ぎ澄ませた。
「グレイ様。卸相場を並べるのは結構ですけれど、それは『学院への納入』という業務を軽んじていらっしゃいませんか?」
「と、おっしゃいますと」
「学院は、年に40回の茶会を開きます。そのすべてに、寸分違わぬ品質の茶葉を供給し続けなければなりません。卸相場で買い付けるということは、そのたびに別の樽から取るということ。味が変われば、それはもはや学院の伝統への不敬ですわ」
(――なるほど。在庫リスクと供給責任を価格に乗せているというわけか)
この人は本物だ。相場を突きつけられて「品質が良いからです」と感情論に逃げる三流ではない。価格差を「安定」という具体的な商品価値に翻訳して返してきた。
だから俺も現場で返す。
「では、蝋燭に移りましょう。銀貨120枚分。これは相場の2.3倍。そして紅茶と違って、蝋燭に芸術的な均一性は要求されませんわ」
「明るさが違いますわ。アシュフォードの蝋燭は、夜を昼に変えるものですもの」
「芯の太さの話でしたら、東部の窯元が同じ規格で焼いております。銀貨52枚ですわ」
「あちらは冬に供給が落ちますでしょう」
「落ちません。過去3年分の出荷記録を確認しました。……あそこの親方は、冬こそ火を絶やさない男ですわ」
ヴィクトリア様の眉が、初めてピクリと動いた。
「……出荷記録を、どこで」
「窯元に行って、台帳を拝見しましたわ」
「見せますの?商会でもない編入生に」
「あそこの荷揚げで、樽を担ぐのを少し手伝いましたので」
会議室が冷えた。
ミセス・ホロウェイが、拳を口に当てて小さく咳払いをした。
「……グレイさん。淑女は、樽を担ぎません」
「……申し訳ございません。つい、血が騒いで」
ヴィクトリア様は、しばらく俺を射抜くように見つめていた。
そして、扇子をカタンと机に置いた。
「――羊皮紙とリネンは、認めますわ」
「え?」
「あの2品目は、うちの価格が高い。理由は単純。他に納めている先が大口ですので、学院の分は片手間になっておりました。そこを突かれれば、返す言葉はございません。……ですから、話を2品目に絞りましょう。紅茶と蝋燭。この二つで、わたくしは一歩も退きませんわ」
(――上手いな。守れない弱点を即座に切り捨てて、こちらに『譲歩した』という恩を売りつつ、主戦場を絞り込んだか)
俺は内心で舌を巻いた。アシュフォードの令嬢、想像以上の交渉人だ。
「アシュフォード様。あなた、本当は学生代表ではなく、商会の……それも相当な場数を踏んだ交渉役ですね?」
ヴィクトリア様が、初めて少女のように、けれど不敵に笑った。
「まあ。……ええ、否定はいたしませんわ。あなたの方こそ、ドレスの下に算盤を隠していらっしゃるのではありませんか?」
そこから、一時間半。
俺たちは淑女の皮を半分脱ぎ捨てて、数字で殴り合った。
俺が代替経路の日数を提示すれば、彼女が事故時の補償条項を持ち出し、俺が輸送の季節変動を指摘すれば、彼女が保管料の減価償却で切り返す。
「――銀貨36枚で仕入れた茶葉を、65枚で納めて『供給責任』と呼ぶのは暴利ですわ!」
「無理ではございません!切らさないということは、それだけで金貨の値打ちがあるのです!あなた、三百人分の茶葉が明日から無いという恐怖を、想像なさったことがあって!?」
「ありますよ!港で三度、不渡りを喰らいましたから!だから代替経路を三本用意しろと申し上げているんですわ!」
「その手間賃を誰が払うとおっしゃるの!」
「それを込みで銀貨45枚が適正だと申し上げているでしょうが!」
ふと、廊下の窓からの視線を感じた。
振り返ると、令嬢たちが鈴なりになってこちらを覗き込んでいた。
「まあ……なんて熱のこもった議論でしょう。学問への情熱が、あのお二人を突き動かしていらっしゃるのね……」
「まるで、魂の共鳴だわ……」
(違う。これはただの市場の怒鳴り合いだ)
俺とヴィクトリア様は、同時に咳払いをして、椅子に座り直した。
「……失礼いたしましたわ。少々、熱が入りすぎました」
「……こちらこそ。淑女らしからぬ大声を」
そして、ヴィクトリア様は静かに、最後の一枚を机に置いた。
――契約書だ。
去年、アシュフォード商会と学院の間で交わされた、正式な書面。
『第七条 本契約は締結より三年間有効とする。学院都合による中途解約の場合、残余期間の納入予定額の三割を違約金として支払うものとする』
俺の指が止まった。
頭の中で、算盤が勝手に答えを出す。
残り二年。納入予定額から算出される違約金は、俺が価格是正で浮かせられる額とほぼ同等。……いや、切り替えの手間を考えれば、学院の赤字だ。
「……違約金を含めると、今すぐ切り替える合理性がありません」
「はい」
ヴィクトリア様は、静かに、そして残酷なまでに誠実に頷いた。
「わたくしどもは、何年も前から、契約にはこの条項を入れておりましたの。……学院のどなたも、内訳を読まないと知っておりましたから」
彼女は誤魔化さなかった。自分の商会が、学院の無知を食い物にしていたことを正面から認めた。その上で「契約の力」で俺を封じ込めたのだ。
ミセス・ホロウェイが、杖を突いた。
「――では、契約継続といたします。羊皮紙とリネンについては、再交渉なさい。……グレイさん。よく調べました。ですが、契約は契約です」
「……承知しております」
負けだ。
完全な、ぐうの音も出ない敗北だった。
正しさは俺にあった。だが、勝負は彼女の手にあった。
会議室を出て、夕暮れの廊下で、俺は一人で息を吐いた。
すると背後から、衣擦れの音がした。
「グレイ様」
振り返ると、ヴィクトリア様が立っていた。彼女の顔には、勝利の凱歌も、高慢さもなかった。
「……おめでとうございます、アシュフォード様。完璧な守りでした」
「やめてくださいまし」
彼女は、まるで自分を叱るように言った。
「わたくしは、勝っておりません。あなたのお出しになった数字に、わたくしは一度も価格の正当性を主張できなかった。……父が書いた去年の一行に、助けられただけですわ」
彼女は窓の外、建設が始まろうとしている噴水を見つめた。
「グレイ様。あなた、悔しくございませんの?」
「悔しいですよ。一時間半、全部読み勝っておいて、最後の一枚でひっくり返されたんです。悔しくない商人がいたら、偽物ですわ」
ヴィクトリア様が、少しだけ目を見開いた。
そして扇子で口元を隠し、本当の微笑みを浮かべた。
「……よかった。あなたが淡々と聖女のように笑っていらしたら、わたくし、今日限りで商売を辞めるつもりでしたのよ」
「え?」
「どうしてこの方は、これほどまでに強いのかしら。……そう、ずっと思っておりましたわ」
彼女は扇子を閉じ、まっすぐに俺を見た。
「グレイ様。二年後、この契約は満了いたします。……その頃には、わたくしもあなたも、この学院にはおりませんわね」
「そうなりますね」
「ですから、次にお会いする時は、学生代表という肩書きを脱ぎ捨てて参りましょう」
――脱ぎ捨てて。
俺は自分の喉が鳴るのを堪えた。
「アシュフォード商会のヴィクトリアと、グレイ商会のあなた。条項ではなく、価格で。……それでよろしくて?」
二年後。
その時、この人の前に立っているのは、アルベルタ・グレイではない。
だが俺は、不敵に笑って返した。
「……お待ちしておりますわ、アシュフォード様」
彼女の背中が消えた後、案の定『四輪花』の面々が嵐のように押し寄せてきた。
「バーティ、負けたのですって!?誰ですの、あなたを泣かせた輩は!」
「バーティ様……お辛かったでしょう……さあ、わたくしの膝で……」
「バーティ!次はわたくしが、算術の特訓に付き合ってあげるわ!」
イザベラ様だけが、何も言わずに俺を見つめ、手帳を閉じた。
「バーティ様。……今日のあなた、今までで一番いいお顔をしていらっしゃいますわ」
バレろよ。
なあ、頼むよ。
俺は今日、この学院に来て初めて、心の底から自分でいられたんだ。
聖女でも、麗しき姉妹でもない。一人の、敗北を噛みしめる商人として、あの人と対峙できた。
それがどれほど誇らしく、楽しかったか。
この学院の誰にも、そして愛読書のヒロインにさえも、説明できそうにない。
その夜、俺は実家への手紙に、こう書き記した。
『母上。本日、完敗しました。去年の契約条項にやられました。ですが、久しぶりに本物の商売をしました。あと、窯元の親方に宜しく伝えてください。また樽を担ぎに行くと』
~二年後~
「お久しぶりです。アルベルタことアルバート・グレイです」
「え……え、えええええええ!?!?」
こうなる……ってコト!?
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