幕間2:二番手の視界(シャーロット視点)
わたくしの人生には、いつも一枚だけ足りない札があった。
シャーロット・アシュリー。
代々王国軍に将を送り出してきた、アシュリー伯爵家の長女。
剣を持たされたのは五つの時。以来、朝は誰よりも早く演習場に立ち、夜は誰よりも遅くまで型を繰り返してきたわ。学問も同じ。眠る時間を削って書物を読み、算術の教本を三度写した。
そうして得たものが、何だったと思う?
二番よ。
いつも、いつも、二番。
剣術大会では決勝で負け、学年の席次では首席に一点届かず、乗馬の競技では鼻の差で先を越される。
しかも、わたくしを抜いていく連中は、決まってわたくしほど努力していないのよ。
「シャーロット様は、本当に惜しいですわね」
その言葉を、わたくしは何度聞いたかしら。
惜しい。
それは、負けたという事実よりも深く、静かに人を削っていく言葉だわ。
――そんなわたくしの前に、あの人が現れた。
アルベルタ・グレイ。
最初は、正直に言えば、何とも思っていなかったのよ。
商家から編入してきた、やけに背の高い令嬢。それだけの認識だったわ。
あの授業までは。
商業算術の時間、教師が黒板に書き終える前に、あの人は答えを口にした。
二桁の掛け合わせと利率の計算を、三つ同時に。
しかも、その時のあの人の顔ときたら……退屈そうだったのよ。
わたくしが三度写した教本の、その最も難しい章の内容を、あの人は欠伸を噛み殺しながら片付けた。
わたくしの中で、何かが音を立てたわ。
(――この人だ)
わたくしは直感した。わたくしが生涯かけて追うべき背中が、ようやく現れたのだと。
それから、わたくしはあの人を追い続けている。
演習場での決闘のことは、今でも夜ごと思い返すわ。
あの構え。剣術の型じゃなかった。どの流派にもない、けれど恐ろしく理に適った立ち方。重心が低く、足の幅が広く、上体に一切の力みがない。
わたくしは、あの構えを崩す手を探したわ。右か、左か、上か。
どこにもなかったのよ。
隙だらけに見えて、どこから入っても弾かれる。あれは構えというより、そこに置かれた城壁だったわ。
わたくしは全力で打ち込んだ。結果は、知っての通りよ。
剣は弾かれ、身体は飛ばされ、わたくしは尻餅をついた。
けれど、あの時わたくしが感じたのは、屈辱じゃなかった。
歓喜だった。
(――勝てない。この人には、どう工夫しても勝てない)
その事実が、こんなにも心地よいとは知らなかった。
わたくしはこれまで、勝てるはずの相手に負け続けてきたのよ。あと一歩、あと一点、あと鼻の差。届きそうで届かないから、悔しかった。
けれどあの人は違うわ。届く距離にいないのよ。
届かない相手に負けることは、悔しさじゃなくて喜びなのだと――わたくしはあの日、生まれて初めて知ったわ。
もう一つ、忘れられないことがあるの。
先日、東屋でのことよ。ハーヴィル様が、あの人に絡んだと聞いたわ。
わたくしは頭に血が上った。すぐに駆けつけて、あの人の隣に立つべきだった。なぜ誰もわたくしを呼ばなかったのかと。
けれど、後になって思い直した。
あの人は、わたくしを呼ばなかったんじゃない。
呼ぶ必要が、なかったのよ。
剣も抜かず、声も荒らげず、ただ帳簿を開いて数字をいくつか並べただけで、ハーヴィル様は退いたと聞くわ。しかも、退いた後のあの人に、恨みの一つも残さずに。
三分ですって。三分よ。
わたくしが木剣を握って演習場を三往復する間に、あの人は戦わずに勝負を終わらせていた。
(……ああ、そういうことなのね)
わたくしはようやく理解したわ。
あの人にとって、剣を交えるということは、既に敗北なのよ。
最上の勝ちとは、相手に刃を向けさせないこと。相手の顔を潰さず、相手の利まで守って、なお自分の望みを通すこと。
わたくしが五つの時から積み上げてきた技のすべてが、あの人の三分の前では、ただの騒々しい手続きに見えたわ。
それでも、わたくしは挑み続ける。
なぜかと言うと――あの人は、一度もわたくしを宿敵と認めてくれないからよ。
決闘の後、わたくしが「いつか必ず崩してみせる」と言った時、あの人はこう答えたわ。
『……ええ、努力……しますわ……』
あの、乾いた笑み。あの、どこか遠くを見るような目。
最初は、軽くあしらわれたのかと思ったわ。けれど違うのよ。
あの人は、わたくしとの勝負を「まだ始まっていない」と考えているのよ。本気で相手を敵と認めた者が、あんなに気の抜けた返事をするはずがないもの。あれは、まだ立ち合いの土俵にすら上がっていないという、静かな宣告だわ。
わたくしはまだ、あの人の敵ですらない。
(――上等よ)
わたくしは、その事実に震えたわ。認めてもらうところから始めなければならない。そんな相手に出会えたことが、どれほどの幸運かしら。
だから、わたくしは考えたのよ。剣で挑んでも、あの人は勝負を受けない。ならば、あの人の土俵に立つしかないわ。
算術よ。
わたくしは今、商業算術の教本を四度目に写している。
利率、為替、複式の帳面。剣とは違って、身体はまるで痛まないのに、頭の芯が焼けるように熱くなるの。こんな疲れ方は初めてだわ。
今度こそ、あの人に「おや」と思わせてみせる。振り向かせてみせる。
その一言のために、わたくしは何度でも負けに行くわ。
エレノア様は、あの人を真実の友と呼んでいる。リリーは、あの人を守ると言って泣いている。イザベラは、あの人を物語にしてしまったわ。
けれど、わたくしだけは違う。
わたくしはあの人を、称えも、守りも、書きもしない。
わたくしは、あの人に勝ちたいのよ。
この学院で、ただ一人。あの人の正面に立って、あの城壁を崩したいと願っている。それが、二番手として生まれたわたくしにできる、最も誠実な敬意の払い方だわ。
――ああ、そういえば。
昨日、廊下ですれ違いざまに、あの人がぽつりとこぼしていたわ。
『……疲れた』
わたくしは、危うく膝から崩れ落ちるところだったわ。
あの不動の人が、疲労を口にするなんて。
つまり、それだけの鍛錬を、わたくしの見ていないところで積んでいるということ。夜ごと、どこかで、一人で。わたくしがまだ知らない場所で、あの人は今日も己を削っている。
(――まだまだ、足りないわね)
わたくしは、今夜も演習場に立つわ。
そして明日は、算術の教本の五度目に取りかかる。
待っていなさい、アルベルタ・グレイ。
いつか必ず、あなたに勝負を受けてもらえる日まで。




