第15話:金貨百枚の噴水
ミセス・ホロウェイは1話にも登場しております
その掲示は中央棟の玄関広間に、実におこがましいほどの華やかさで貼り出されていた。
『中庭改修計画――創立三百年記念噴水の建設について』
職人の手による美しい装飾文字。丁寧に描かれた、水の舞い踊る完成予想図。そして、その隅に添え物のように小さく貼られた一枚の紙。
見積書だ。
俺――アルベルタことアルバート・グレイは、朝の登校時にそれを見つけ、そして足を止めた。
止まってしまったのだ。
商人の目は、見積書を見ると意志に関係なくピントが合う。これは病である。反射神経が数字に直結している以上、どうにもならないのだ。
『総額 金貨100枚』
俺はまばたきをし、もう一度見た。
やはり、そこには「金貨100枚」と、挑戦的なまでの桁数が並んでいる。
(……噴水一基で、金貨100枚だと?)
金貨100枚。庶民の一家族が百年遊んで暮らせる額だ。この学院の御用商人の座、その年間の納入総額が金貨50枚程度。それを二年分一括で注ぎ込むというのか。
「まあ、素敵ですわね」
「三百年記念にふさわしい、立派な噴水ですこと。お値段も、それだけ高貴なものなのでしょうね」
周囲では、令嬢たちが完成予想図を眺めて感嘆の声を上げている。
誰一人、隣の見積書を見ていない。いや、正確には読めていないのだ。この学院において、金額の書かれた紙は「立派さの証明書」以上の意味を持たない。数字が大きいほど、徳が高いとされる異世界なのだから。
俺は吸い寄せられるように見積書に一歩近づいた。
そして、内訳を読んだ。
――読まなければよかった。
『大理石(王都南部産) 金貨32枚』
(南部の大理石?この中庭に?あれは日照で焼けて、五年で黄ばむ石だ。それに南部からの輸送費だけで、石代の四割が消える。北部の花崗岩なら変色せず、輸送費込みで三分の一に収まるはずだ)
『導水管(鉛製) 金貨18枚』
(鉛管だと?高低差が約3メートルもない自然流下の噴水に、なぜ加圧用の高価な鉛管がいるんだ。陶管で十分だ。金貨4枚で釣りが来る)
『設計料 金貨20枚』
(――設計料が総額の五分の一!?噴水だぞ。天空の城でも建てる気か)
俺の手が震え始める。
これは、水増しなんて生易しいものじゃない。
水増しというのは、正しい数字に少し色を付けることを言う。これは違う。これは、最初から「この学校の奴らは高い金の話をすれば喜ぶ」と舐め切った業者が、取れるだけ取る前提で組んだ、文字通りの強盗計画だ。
(……つまり、これを組んだ人間は、学院の誰も内訳を精査しないと確信しているんだ)
俺は目を閉じ、深呼吸をした。
黙っていろ、と自分に言い聞かせる。
『薔薇のしずくは恋に濡れて』によれば、淑女は金の勘定に細かくなってはいけない。俺はこの学院において部外者だ。余計な口出しをして、これ以上目立つのは得策ではない。
俺は踵を返した。見なかったことにしよう。噴水が金貨100枚だろうが、学院の予算が尽きようが、俺の懐は痛まない。
「あら、バーティ。あなたもこれを見ていたの?」
エレノア様だった。
(――終わった。このタイミングで、この人に捕まるなんて)
「ごきげんよう、エレノア様」
「素晴らしい計画でしょう。中庭に噴水ができれば、わたくしたちのお茶会の景色が一段と映えますわ」
「……そうですね。実に豪華な、お値段通りの計画だと思いますわ」
俺は精一杯の、含みを持たせた淑女の微笑を浮かべた。これで察してくれ。
だが、エレノア様は純粋な瞳で俺を覗き込んできた。
「ねえ、バーティ。あなたはどう思って?商家の方から見て、この『三百年記念』にふさわしい価値があるかしら」
その一言だった。
この学院で最も権威ある令嬢が、俺に意見を求めた。
俺の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
――正確に言えば、切れたのは我慢ではない。商人としての職業倫理が、物理的な限界を超えたのだ。
「エレノア様」
「ええ」
「この見積もりは、金貨65枚ほど『盛られて』います」
広間の空気が一瞬で凍りついた。
周囲の令嬢たちが一斉にこちらを向く。
俺は、指先で見積書の一行一行を突き刺すように指し示した。もう、止められる奴はいなかった。
「まず大理石。南部産と書いてありますが、この中庭は南向きで日照が強い。南部産の白大理石は五年で醜く黄ばみます。三百年記念の噴水が、五年後に薄汚れた黄色になってもよろしいのですか?北部の花崗岩なら変色せず、輸送費込みで金貨11枚。ここで21枚浮きます」
「バ、バーティ……?」
「次に導水管。鉛製と書かれていますが、この庭の高低差では加圧の必要がありません。陶管で金貨4枚。わざわざ鉛管を使う理由は、ただ一つ。その方が業者の儲けが大きいからです。ここで14枚」
誰かが息を呑む音がした。俺の低音の声が、広間に朗々と響き渡る。
「そして設計料。噴水一基の設計に総額の五分の一を払う慣行は、この王国のどこにも存在しません。不当な中抜きです。……総じて、この噴水の適正価格は金貨35枚です」
完全な、耳が痛くなるような静寂が降りた。
令嬢たちは、俺が口にした生々しすぎる数字の暴力に、ただただ立ち尽くしている。
そして、その静寂を破ったのは、背後からの重々しい杖の音だった。
「――グレイさん」
俺の背中を氷の刃が撫でた。
振り返ると、そこには黒いドレスの老婦人が立っていた。
ミセス・ホロウェイ。この学院の学監であり、規則がドレスを着ているような人物である。
(……ああ、終わった。俺の潜入生活、ここで幕だ)
「ホ、ホロウェイ先生。ご無礼を、お詫びいたします……」
「淑女は」
彼女は、眼鏡の奥の鋭い目で俺を射抜いた。
「淑女は、公衆の面前で金額を声に出しません」
「……はい」
「まして、玄関広間で金貨だの銀貨だのと……市場のような真似をするものではありません」
「……深く、反省しております」
俺は、退学の宣告を待つ罪人のように項垂れた。
だが、老学監の口から漏れたのは、意外な言葉だった。
「――で。その花崗岩とやらは、どこで手に入りますの」
「……え?」
俺は顔を上げた。ミセス・ホロウェイの瞳は、叱責ではなく、極めて実務的な輝きを帯びていた。
「北部のハーヴィル領の南隣、ケルダル地方に採石場がございます。今の季節であれば十日で王都に入ります」
「陶管は」
「王都東部の窯元がまとめて焼いております。……わたくしが話をすれば、優先して回せます」
「設計は」
「……王都の石工組合に相談すれば、図面込みで請けてくれます。設計料を別立てで取る必要などありません」
ミセス・ホロウェイはしばらく沈黙し、杖を一度、強く突いた。
「――グレイさん。教員室へいらっしゃい」
俺は覚悟を決めて後についていった。
背後で、エレノア様が「バーティ!」と叫ぶのが聞こえたが、振り返る余裕はなかった。
教員室に入るなり、ミセス・ホロウェイは引き出しから分厚い書類の束を取り出し、机に叩きつけた。
「これが、過去五年分の改修見積もりです。全部お読みなさい」
「……はい?」
「読んで、先ほどと同じことをおっしゃい。どこが、いくら、なぜ、不当なのかを」
俺は呆然と彼女を見た。
「ホロウェイ先生。わたくしは生徒で、しかも部外者の商家の娘でございます。学院の運営に口出しできる立場では……」
「わたくしは三十年、この学院で書類に判を押してまいりました」
彼女は静かに、だが重く言った。
「そして三十年、その内訳を理解できたことが一度もございません」
「……」
「見積もりというものが、高いか安いかしか分からないのですよ。高ければ立派なものが建つ、安ければ粗末なものが建つ。わたくしたち貴族は、そう教わって育ちました。けれど……」
彼女は書類の束を、俺のほうへ押しやった。
「あなたは、内訳が読める。三百年の歴史があるこの学院に、内訳を読める人間が一人でもいたことが、これまで一度もございませんでしたの」
俺はその言葉の重さに、しばらく動けなかった。
三百年。三百年間、誰も中身を精査せず、ただ「お高いこと」を喜んで判を押し続けてきたというのか。
(……この学院、お嬢様教育以前に、経営基盤が腐り落ちてるじゃないか)
商人として、放っておけなかった。
三時間後。俺は五年分の見積もりを精査し終え、赤いペンで真っ赤に添削した書類を返した。
ミセス・ホロウェイはそれを一枚一枚めくり、最後に小さく息を吐いた。
「よろしい。これまでの業者は全て出入り禁止にいたします。……グレイさん。来期の予算会議に、出席なさい」
「――え?」
「あなたが計算し、わたくしが判を押します。生徒会顧問ならぬ、『生徒会会計顧問』という枠を今、作りましたわ」
「あの、わたくし編入生でして……」
「淑女は金額を声に出しません。……ですから、あなたが会議室の中で、わたくしの代わりに静かに『適正価格』を宣告なさい」
その日の夕方には、話は学院中に広まっていた。
例によって、内容は原形をとどめていなかった。
「聞きまして?バーティ様が、学院を騙そうとした悪の秘密結社(業者)を、言葉一つで浄化されたそうですわ」
「ホロウェイ先生が、バーティ様の賢明さに涙を流して膝を折られたとか……」
(誰も膝を折っていないし、浄化もしていない。ただの過剰請求の指摘だ!)
エレノア様は「わたくし、あなたの隣に立っていたことを一生誇りに思いますわ」と潤んだ瞳で俺を見つめ、シャーロット様は「なぜわたくしを呼ばなかったの!悪徳業者なら、わたくしが叩き斬って差し上げたのに!」と憤慨し、リリー様は「バーティ様、お身体は……。学監先生に無理難題を押し付けられて、心が磨り減っていらっしゃいませんか?」と本気で心配している。
イザベラ様は例によって、猛然と新作を書き殴っていた。
「孤高の会計士……愛と数字の狭間で……ああ、筆が止まらないわ……」
バレろよ。
なあ、頼むよ。
俺はあの時、正義感で動いたんじゃないんだ。
商人が、目の前で金貨65枚をドブに捨てられるのを見て、黙っていられるわけがないんだ。あれは勇気じゃない、ただの職業病だと言っているだろう!
そしてその反射のせいで、俺は今、学院の財布を握る実質的な監査役になってしまった。
中身は男。正体は不審者。立場は生徒。
誰か一人でいいから、この学院の裏帳簿を握っている編入生が、実は女装した商人の息子だってことに気づいてくれ……!
その夜、俺は実家の母への手紙に、こう書き記した。
『母上。学院の予算会議に出ることになりました。御用商人の座どころか、学院の財政そのものを立て直す羽目になっています。五年分の帳簿を読む限り、この学校、あと三年で破産します。俺は今、沈みかけの豪華客船で、穴の開いた船底に算盤を叩き込んでいる気分です』
翌朝、俺の机の上には、ミセス・ホロウェイからの「追加の監査資料」という名の死刑宣告が届いていた。
会計士を!!!雇って!!!!!
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