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第12話:その本、どこで

地獄絵図

 放課後の図書室、最奥の死角。

 そこは埃を被った古い歴史書や神学書が並ぶ、令嬢たちが滅多に足を踏み入れない聖域だった。


 俺――アルベルタことアルバート・グレイは、今日も今日とて、机の下に隠した聖典を広げていた。

 大衆恋愛小説『薔薇のしずくは恋に濡れて』第44章。


(……ここだ。この仮面舞踏会での描写。ヒロインが扇子を持つ手の角度……手首を返しすぎず、かといって完全に閉じもしない。この「あわや正体が露見しかけた時の絶妙な不自然さ」の表現。素晴らしい。実用性が極めて高いぞ)


 俺は真剣だった。

 商人にとって、優れた先行事例の調査は基本中の基本。

 この一冊に記された、淑女の振る舞いという名の演技プランのおかげで、俺は幾度となく男だとバレそうな瞬間を乗り越えてきたのだ。俺にとってローズ・ブラックウッド先生は、もはや命の恩人と言っても過言ではない。


「――アルベルタ様」


 背後から、ひやりとした声がした。

 振り返ると、そこにはクレイン侯爵令嬢イザベラ様が立っていた。


 だが、いつもと様子が違う。彼女の顔から、あの余裕たっぷりの微笑みが消え、どこか切羽詰まったような、あるいは重大な決意を秘めたような無表情が張り付いている。


「少し、お時間をいただけますか。お見せしたいものがありますの」


 俺の背筋を冷たいものが走った。


(見せたいもの……?まさか、証拠か?俺が夜な夜なコルセットを脱ぎ捨てて、全裸で腕立て伏せをしている現場の写生図とかか。あるいは、俺の荷物から出てきた髭剃りの替え刃か?)


「……承知いたしましたわ、イザベラ様」


 断る選択肢はない。

 商談において、相手が真顔になった瞬間に逃げるのは最悪の悪手だ。


 連れて行かれたのは旧校舎の奥、今は使われていない小さな音楽室だった。

 埃をかぶった古いピアノと、色褪せた楽譜棚。


 イザベラ様は中に入るなり、背後で扉の鍵を閉めた。

 カチリ、という金属音が、静かな室内にやけに大きく響く。


(――終わった。ここで物理的に消されるのか)


 俺は覚悟を決め、脳内で損害賠償の交渉カードを並べた。口止め料の上限は……グレイ商会の今期の利益から逆算して金貨2枚。それ以上は、商売として成立しない。


「アルベルタ様。わたくし、あなたに嘘をついておりましたわ」


 イザベラ様が、楽譜棚の一番下の扉を開けた。

 中から引き出されたのは、麻紐で厳重に縛られた、分厚い原稿用紙の束だった。


「……これは?」

「わたくしが書いたものですわ」


 彼女は束をピアノの上に置き、まっすぐに俺を見据えた。


「ローズ・ブラックウッドは、わたくしですの」


 一瞬、音楽室から全ての音が消えた。

 俺は自分の顔から表情という表情が、まるで砂時計の砂のように抜け落ちていくのを感じた。


「……は?」

「ですから。あなたが先ほどまで熱心に読んでいらしたあの本を、書いたのは、わたくしですのよ」


 脳が処理を拒否した。

 商談で相手が突然「実はわたくし、この国の国王です」と告白してきた時と同じ、あの真っ白な感覚。いや、そんな経験は無いが。


(待て待て待て。ローズ・ブラックウッドといえば、王都の貸本屋に平積みされ、全令嬢が枕を濡らしている大衆小説界の頂点だぞ。それが、目の前のこの侯爵令嬢?俺がこの半年、一字一句暗記する勢いで読み込んできた、あの潜入の教科書マニュアルの執筆者が――)


 膝から力が抜けかけ、俺は慌ててピアノに手をついた。


「アルベルタ様!?どうなさいましたの、そんなに顔を真っ青にして!」

「い、いえ……少々、貧血が……。……違う、貧血じゃない。混乱と感動で、平衡感覚が消失しただけですわ」


 そして、ここで俺は、致命的な過ちを犯した。

 商人として、憧れの取引相手の正体を知った時の興奮を、抑えきれなかったのだ。


「――イザベラ様。第22章ですわ」

「え?」

「ヒロインが正体を隠したまま、愛する者に背を向ける、あの場面。あれを書かれたのが、あなただと仰るのですか」


 俺は原稿の束に、一歩、また一歩と詰め寄った。


「あの場面の指先の描写、わずか三行!たった三行ですわ!それだけで、読者に十年分の後悔と、淑女としての慎みを理解させている。あれ以上でも、あれ以下でも駄目なんです。あの三行が四行になっていたら、あの場面は説明臭くなって死んでいた。それを……あなたが!」

「あ、あの、アルベルタ様……?」

「第30章もそうですわ!手を取って頬に寄せる、あの動作。あれは所作そのものより、直前に置かれた『一拍の沈黙』が効いている。あの一拍がなければ、ただの気障な仕草に落ちていた。計算し尽くされている。実に、実に実用的な……いいえ、完璧な技術ですわ!」


 イザベラ様の顔が、見る見るうちに耳まで真っ赤になっていく。

 彼女は持っていた扇子を取り落とし、両手で口元を押さえ、そのままピアノの脇にずるずるとしゃがみ込んだ。


「……お待ちになって。無理ですわ。心臓がもちませんわ」

「イザベラ様?」

「あの三行は、三十回書き直しましたの。誰にも気づかれないだろうと思って、それでも納得がいかなくて直したものですのよ。……それを、どうして、あなた様は……」


 彼女は震える声で、俺を見上げた。


「どうしてあなたは、そんなに正確に、わたくしの意図を汲み取ってしまわれるの……?」


(そりゃあ、毎日実地で使っているからです)


 俺は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 あなたの書いた通りのタイミングで沈黙を挟むことで、俺の男の素が出るのを防いでいるんです、なんて口が裂けても言えない。


「……一人の読者として、大切に、それこそ骨の髄まで読み込んでいるだけですわ」

「アルベルタ様……」


 イザベラ様が顔を上げた。その瞳には、創作の孤独を理解された者特有の、潤んだような法悦が宿っていた。


 いい場面だった。文句なしに、物語のような一幕だったのだ。

 ――そう。俺の目が、原稿の束の脇に置かれた、一枚の紙を捉えるまでは。


 それは、出版商との契約書だった。

 商人の目は、契約書を見ると勝手に文字を読み取る。これはもはや、職業病を越えた呪いのようなものだ。

 俺は契約書を手に取った。


「…………イザベラ様」

「はい?」

「これ、買い切り契約ですね」

「ええ。原稿をお渡しして、その場でお代をいただく形式ですわ。何度も版を重ねていただいているようで、ありがたいことですわね」

「一作、銀貨10枚」

「ええ、そう書いてありますわね」


 俺の契約書を持つ手が、怒りでわなわなと震える。


「イザベラ様。『薔薇のしずく』は、現在、王都の貸本組合でどれほど流通しているかご存知ですか?」

「さあ……。よく見かける、とは聞きますけれど」

「先月、王都のギルド取引額を調査しました。あの一冊だけで、初版・増刷を合わせて、およそ一万部は市場に出ております」

「まあ、そんなにたくさん」

「定価は銅貨40枚。総売上は銅貨40万枚。銀貨に直して4000枚。金貨に直して――40枚ですわ」


 イザベラ様が、きょとんとした顔をした。


 金貨40枚。庶民の一家族が40年は遊んで暮らせる額だ。この学院の御用商人の座、そのものに匹敵する額。


「本来、作者が受け取るべき適正な印税を一割と仮定しても、あなたの取り分は金貨4枚。庶民の家庭が数年暮らせる額です。……あなたが受け取ったのは、銀貨10枚。四十分の一以下ですわ」


 俺は、契約書をピアノの蓋に叩きつけた。

 

「――やられてますわ、イザベラ様!完全に足元を見られています!あの出版商、あなたが世間知らずの貴族令嬢だと踏んで、買い切り一点張りで押し切ったんだ!増刷の条項が一行もないなんて、これ、次に何万部刷られても、あなたには銅貨一枚たりとも入ってきませんわよ!あなたが三十回書き直したあの三行が、銀貨10枚で叩き売られてるんですわ!!」


 叫んでから、俺はハッと我に返った。

 音楽室が、しんと静まり返っている。

 イザベラ様が、しゃがみ込んだまま、口をぽかんと開けて俺を見上げていた。


(――やった。またやってしまった)


 俺は自分の口を両手で塞いだ。

 侯爵令嬢の前で。地声に近い音量で。猛烈な勢いで金の話を。


「あ、あの、イザベラ様。今のは、その……わたくし、愛する作品が不当に扱われていることに、つい興奮してしまい……」

「――ぐぅっ」


 イザベラ様がうめいた。

 彼女は原稿の束を抱きしめ、額を床につけた。


「四十分の一……。わたくしの、あの三行が……四十分の一の価値で……!」

「イザベラ様!?しっかりしてくださいませ!」

「ローズ・ブラックウッドは、なんて愚かな商人だったのかしら……!」


 しばらくして、彼女はゆっくりと立ち上がった。

 その顔には、絶望ではなく、俺が今まで見たことのない、冷徹で燃えるような決意が浮かんでいた。


「アルベルタ様。もう一度、お聞きしてもよろしくて?」

「はい」

「わたくしの物語には、金貨40枚の価値があると、そう仰いましたのね?」

「市場が、現にそう評価していますわ。わたくしの主観ではありません。数字がそう言っているだけです」


 イザベラ様の目から、大粒の涙がこぼれた。


「……ずっと、恥ずかしいものだと思っておりましたの。クレイン侯爵家の娘が、低俗な恋物語を書き散らしている。誰にも言えず、名前も隠して。お代をいくらいただこうと、それは、後ろ暗い趣味への口止め料のようなものだと。……でも」


 彼女は、ピアノの上の契約書を、迷いなく破り捨てた。


「あなたは値をつけてくださいましたわね。恥ではなく、確かな『商品』として。わたくしの魂に、適正な価格を」

「…………」

「アルベルタ・グレイ様。今後の契約、グレイ商会に全てをお任せしてもよろしくて?」

「――えっ?」

「版権の管理、増刷の交渉、他国語版の権利。全てあなたに預けますわ。手数料は売上の二割……いいえ、三割でも構いません。わたくし、あなたが数字の暴力で、あの出版商を黙らせる姿が見たいのですわ!」


 俺は、少し考えて、商人の笑みを浮かべた。


「手数料は一割で十分ですわ、イザベラ様。それが業界の適正なものですから。……承知いたしました。グレイ商会が、ローズ・ブラックウッド先生の正当な権利を、命懸けで……いいえ、在庫管理の精度に懸けてお守りいたしますわ」

「アルベルタ様……。あなたはやはり、わたくしの物語の中から出ていらした方ですわ」


(いや、俺はソルトポートの港から出てきただけです)


 こうして、グレイ商会は王立女学院の中で、初めて本格的な商売を成立させた。

 相手は侯爵令嬢。商品は恋愛小説。

 母上に報告すれば「あんた、何してるんだい」と呆れられること間違いなしの、斜め上の展開だ。


 音楽室を出る時、イザベラ様が背後から、意味深な声で言った。


「アルベルタ様。……いいえ、バーティ。次の新作の主人公、モデルはあなたに決まりましたわ」

「……光栄ですわ(やめてくれ)」


 俺は淑女の微笑みを貼り付けたまま、廊下を歩き出した。


 バレろよ。

 なんで気づかないんだ。

 俺はあんたの本を、恋愛小説として楽しんでたんじゃない。

 「男が女に化けるための、唯一の救いの書」として、必死に読んでいただけなんだ。

 俺はただ、教科書の著者に、感謝の原価計算をぶつけただけなんだよ。


 その夜、俺は実家の母への手紙に、こう書き記した。


『母上。本日、王都で最も売れている作家の代理人になりました。これで、グレイ商会の出版部門への進出は盤石です。……ちなみに、その作家の小説を使って女装の練習をしていたことは、墓まで持っていく所存です』


 翌日、出版商の事務所には、ドレスを身にまとい、扇子を完璧な角度で構えた死神のような淑女が、金貨40枚分の請求書を持って現れたという。


イザベラは怒らせると怖いです



「面白かった!」


「続きが気になる、読みたい!」


「今後どうなるの!!」


と思ったら

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面白かったら☆5つ、つまらなかったら☆1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!


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