第10話:わたくしの友人ですの
愛称って憧れるよね
「原価の女神」あるいは「真実の聖女」。
そんな不名誉極まりない二つ名が学院中に定着し始めた頃、俺――アルベルタことアルバート・グレイは、さらなる理不尽な事態に直面していた。
それは、学院における序列の崩壊である。
本来、この王立女学院は厳格な身分社会だ。公爵家を頂点とし、爵位の高さがそのまま発言力の強さとなる。商家の娘である俺は、本来なら廊下の端を歩き、高位貴族に声をかけられれば平伏すべき存在のはずだった。
だが、今の俺が廊下に出ればどうなるか。
「あ、アルベルタ様!ごきげんよう!」
「あの方よ、バートン子爵令嬢を救い、銀貨一枚の虚飾を暴いたという……」
「なんて気高い横顔。わたくしもあの方に原価を問い詰められたい……」
最後の一人は確実に性癖が歪んでいる気がするが、とにかく、俺の周囲には常に畏敬の念を抱いた令嬢たちが集まるようになっていた。
(まずい。これでは潜入任務どころか、目立ちすぎて実家の母上まで表彰されかねない。商人というのは、本来影に潜んで甘い汁を吸うものだろう。どうして俺がスポットライトを浴びているんだ)
俺が重い溜息(※周囲には『憂いを帯びた聖母の溜息』と変換される)をつきながら中庭を歩いていると、前方に華やかな一団が見えた。
中心にいるのは、エレノア様ではない。彼女のライバル派閥とされる、侯爵家の令嬢を中心としたグループだ。
「あら、あれが噂の編入生?」
「商家の娘の分際で、エレノア様に取り入っていい気になっているという……」
彼女たちは、俺を苦々しく思っているようだった。
本来の正しい反応だ。
(よし、もっと嫌ってくれ!そして俺を孤立させてくれ!)
「ちょっと、そこのアルベルタと言ったかしら」
リーダー格の令嬢が、扇子で俺を指し示し、冷笑を浮かべた。
「聞き捨てならない噂を耳にしましたわ。あなたが我が学院の伝統あるお茶会で、無作法にも品定をなさったとか。商人のいやしい感覚を、この神聖な学び舎に持ち込まないでいただけます?」
これだ。この展開を待っていた。
俺はここで「申し訳ございません」と頭を下げ、大人しく引き下がるつもりだった。
だが、その背後から、全てを凍りつかせるような、圧倒的な圧を伴う声が響いた。
「――わたくしの友人に、何か用かしら?」
人だかりが割れる。
現れたのは、エレノア・ヴァンス様だった。
彼女の後ろには、シャーロット様、リリー様、イザベラ様という『アグネスの四輪花』がそろっている。
「エ、エレノア様……!」
令嬢たちは一瞬で顔を真っ青にした。公爵令嬢に睨まれれば、彼女たちの社交界での未来は終わる。
「今、何と仰ったの?アルベルタが『いやしい』?ふふ……面白い冗談ね。彼女の目は、わたくしたちが失ってしまった『清廉な真実』を見抜く宝石。その彼女を侮辱することは、わたくしの審美眼を侮辱することと同義ですわ」
エレノア様が、俺の隣に立ち、当然のように俺の肩を抱き寄せた。
公爵令嬢が、商家の娘を友人と呼び、守るために立ちはだかる。
この瞬間、学院の序列は塗り替えられた。アルベルタ・グレイは、ヴァンス公爵家が全面バックアップする、不可侵の聖域となったのだ。
「も、申し訳ございませんでした!わたくしたち、つい……!」
令嬢たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
残されたのは、俺と、いつもの濃いメンバーたちだ。
「アルベルタ、大丈夫だった?あんな奴らの言うことなんて、気にしなくていいのよ」
「ええ、アルベルタ様!あんな軟弱な者たちに、あなたの誇りは傷つけさせませんわ!」
(いや、むしろ彼女たちの味方をしたかったんだけどなぁぁぁ!)
俺が内心で絶叫していると、エレノア様がふと真剣な表情で俺を見つめた。
「ねえ、アルベルタ。わたくしたち、もうこんなに仲が良いのに、いつまでも名前呼びだなんて、他人行儀だと思わない?」
「はあ。そうでしょうか」
「ええ!もっと親密で、わたくしたちだけの特別な呼び名が欲しいわ。……そう、愛称よ!」
その提案に、他の三人が食いついた。
「素晴らしいわ!宿敵として、もっと呼び捨てに近い響きが欲しいと思っていたところよ!」
「アルベルタ様の愛らしさを凝縮したようなお名前……素敵ですわ……!」
「読者にも、愛称があった方が親密度が伝わるわね……」
俺は嫌な予感がした。
令嬢たちの愛称といえば、名前の一部を取ったり、最後に『リー』や『ナ』をつけたりするのが一般的だ。例えばエレノア様なら『ノア』、リリー様なら『リル』。
俺の名前はアルベルタ。なら『ベル』とか『アル』あたりが妥当だろう。
だが、エレノア様がパンと手を叩いて、満面の笑みで宣言した。
「決まったわ!あなたの気風の良さと、凛々しさを象徴するような呼び名……。今日からあなたのことは――『バーティ』と呼ばせていただくわ!」
「…………は?」
俺は、素の男のトーンで聞き返してしまった。
バーティ(Bertie)。
それは俺の本当の名前――アルバート(Albert)の、最も一般的なニックネームだ。
つまり正真正銘「野郎」の呼び名である。
「バーティ……。なんて響きかしら。少し異国風で、中性的で、それでいて知的だわ!」
シャーロット様が感動に震えている。
「バーティ様……。ああ、なんだか、あなたの魂の深層に触れたような、不思議な安心感がありますわ……」
リリー様が、俺の腕にしがみついて頬を染める。
(当たり前だ!俺が実家で、親父や従業員から呼ばれていた名前そのものなんだからな!)
「……イザベラ様。これ、おかしいと思いませんか?バーティって、その、なんだか男の子みたいな響きではありませんこと?」
俺は最後の望みをかけてイザベラ様に振った。
だが、彼女は恍惚とした表情でペンを走らせている。
「いいえ。むしろそれが『正解』よ。あえて男性的な響きを愛称に据えることで、あなたの持つ高潔な騎士道精神がより際立つわ。これこそが最先端の麗しき背徳感……!読者もきっと悶絶するはずだわ!」
(ダメだ。この人が一番ダメだ!)
エレノア様が、俺の手をぎゅっと握りしめた。
「バーティ。いいかしら?わたくしたちの前では、あなたはこの愛称で通してほしいの」
断れるはずがなかった。
公爵令嬢の期待に満ちた瞳、そして「バーティ」という自分の本当の愛称を呼ばれる気恥ずかしさと恐怖。
「……ええ。喜んで、エレノア様。その呼び名、嫌いではありませんわ」
俺は精一杯の淑女の微笑みを浮かべた。
嘘ではない。嫌いではない。むしろ、一番自分らしい名前だ。
だが、それが女学院のアイドルとしての名前になった瞬間、これ以上ないほど危険な爆弾へと変貌した。
「さあ、行きましょう、バーティ!」
「トレーニングの時間よ、バーティ!」
「バーティ様、お疲れですか?」
中庭に、令嬢たちの華やかな声が響く。
「バーティ」という呼び名は、瞬く間に学院中に広まり、もはや公式の愛称として定着してしまった。
放課後、俺は自室の鏡の前で、ドレス姿の自分を見つめた。
(バレろよ……。マジでバレろよ……。愛称が『バーティ』って、もうヒントどころか、正解を叫んでいるようなもんじゃないか。誰か一人くらい、『それ、男の名前じゃない?』って突っ込んでくれよ……!)
しかし、その日の夕食。
俺の部屋に届いたメニューのカードには、綺麗なカリグラフィーでこう記されていた。
『親愛なるバーティ様へ。本日の原価計算を考慮した、最高のサラダをご用意しました。 ――食堂一同より』
「もおおおおおおおお!!!」
こうして俺は、正式に『アグネスの四輪花』のバーティとなったのである。
男だから何も問題ないな!ヨシッ!
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