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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第五章

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第85話・帝国の祝宴


 帝国の祝宴というものは、同じ「宴」の名を冠しながら、その皮膚を幾枚も持っている。


 式典めいた催しであれば、磨き上げた床に整った靴音が落ち、杯の音さえ節度を帯びる。笑顔の奥に利害があり、乾杯の裏に派閥があり、拍手には計算が刻まれる。言葉選びですら政治の演奏。


 だが、魔物討伐の祝宴は違う。

 これは、祭りだ。

 大広間の扉が開く前から、肉の焼ける匂いが鼻を殴り、酒の気配が喉を鳴らす。吊るされた灯りが揺れ、壁際には樽がずらりと並ぶ。配膳の皿は銀ではなく、欠けても気にしない厚手の器。床に落ちた骨など、誰も咎めない。笑い声が天井を叩き、下品な歌が混ざり、拳で卓を叩く音が鼓動になる。


 そして何より――帝王が、そこにいた。

 高座ではなく、兵と同じ目線で、同じ空気を吸って、同じように口を汚して食う。

 冠を外して、荒い言葉遣いで共に笑う。むしろ粗い方こそ、礼儀の空気。


 トロル討伐の帰還から半日も経っていない夜。

 帝城の一角を丸ごと開け放った大広間は、最初の乾杯からすでに熱を持っていた。汗と酒と油の匂いが混ざり、鼻の奥が痺れる。太鼓のように鳴る足踏み、肩を叩き合う音、勝手に始まる合唱。誰かが酒器を掲げて、勝鬨のように吠える。


 中央の長卓に、帝国名物が山と積まれていた。

 肉芋焼き。

 庶民の腹を満たし、兵の魂を救う料理。式典の席なら「貴族の品位にそぐわぬ」と鼻で笑われる代物が、ここでは王冠の宝石よりも尊い。なにせ熱い。香ばしい。量がある。油が良い。酒に合う。

 大きな皿に盛られたそれは、見た目だけなら素朴だ。潰した芋に肉のミンチと玉ねぎを混ぜ、手のひらサイズに成形して、表面に濃いソースを塗って焼き付ける。だが、単純だからこそ誤魔化しが効かない。芋の水分の飛ばし具合、肉の炒めの火の通し方、玉ねぎの甘みの引き出し、成形の密度、そして何より――最後のソース。

 このソースだけは、城でも秘伝扱いだと言う者がいる。

 実際、鍋のそばに立つ料理人たちの目は真剣で、匙を舐める舌は研ぎ澄まされていた。砂糖の甘み、香草の青さ、酢の尖り。料理人の腕次第で、酒の進み方が変わる。


 それを――アギトが、豪快に頬張っていた。

 星髪が、夜空の粉を撒いたみたいに輝く。陶器の器に山盛りの肉芋焼きを抱え込み、熱さなど気にしない顔で、冷ましもせずに食っている。普通の人間なら火傷して泣く。だが、彼女は普通ではない。口の中の熱すらを楽しんでいる。


「んふー♪ これ、いい味してるよー! 今まで食べた中で一番かも!」


 頬にソースを少し付けたまま、アギトが笑う。笑顔が眩しくて、周囲の兵がつられて笑う。

 美少女が笑うだけで、男共の酒の進みが早くなる。


「……このソース、なんだろねぇ。甘味もあるし。蜂蜜ちょっと垂らしてるのかな?」

「かもしれねぇな!」


 古参の槍兵が酒杯を揺らし、鼻を鳴らした。


「ほんの少し焦がした香ばしさもある。くぅー! 酒が進むぜ! ほら、星髪の嬢ちゃんも飲め飲め! 杯が空になってるぞ!」

「あ、ホントだ。ありがとねー」


 差し出された杯を受け取り、アギトは躊躇なく呷る。喉仏が上下し、酒が消える。周りが「おお」と声を上げる。女が豪快に飲むのは、それだけで場が沸く。まして、あの美貌でやるのだから尚更。

 彼女の周りには自然と輪ができた。

 怖い。危険だ。殺されかねない。そう分かっているのに、男は集まる。

 祝宴の酒は、理性も恐怖も薄めていく。


「星髪の嬢ちゃん! この肉芋焼き、二つ目いけるか!?」

「いけるいける! それよりその杯、もっと大きいのない?」

「おいおいザルかよ! 樽から飲むか!?」


 どっと笑いが起きる。

 一方で、ハガネは喧噪から半歩引いた場所にいた。

 ちびりちびりと酒を舐める。杯は小さく、飲む量も多くない。だが、飲んでいる。楽しんでいないわけではない。剣聖の楽しみ方は、自分の呼吸と同じ速度で進む。

 杯は小さい。注がれた酒も少ない。だが、彼の手の動きは迷いがない。喉を通す量は少なくとも、飲むという行為そのものに無駄がない。

 そこへ、酒臭い嵐がやって来た。


「おおい! 飲んどるか、ハガネよ!」


 赤ら顔のウィルトスが、もはや帝王の歩みではない足取りで近寄ってくる。杯を掲げ、半分こぼしながら歩いているあたり、すでに何杯目か分かったものではない。


「余が許す! もっともっと飲んでいいのだぞ! がははははは!」

「喧しい。静かにせんか帝王」


 ハガネは眉ひとつ動かさず言った。


「ただの酒場の酔っ払いではないか貴様」

「なぬぅー? 余は帝国で一番偉い帝王だぞー? 余の飲み方に文句があるのかー?」

「……なんだ、この面倒な酔っぱらいは。おい、従者や侍女はおらんのか。この痴れ者をどうにかしろ」

「がははは! 酒の席に無粋な者はおらん! さあ飲め飲め! 今夜は無礼講だぞ!」


 ハガネは溜息を吐いた。もう何も言うまい、という顔だ。言えば言うほど、絡みは増える。

 その間にも、宴は波のように揺れている。


 ハガネは黙って、周りを眺める。

 笑う者。泣く者。怒鳴る者。歌う者。肩を組む者。片腕のない者。指の欠けた者。傷だらけの者。皆、今夜だけは「元気なふり」をしなくていい。元気だから笑うのではない。笑うことで、元気を捻り出すのだ。


(……この祝宴は本来、憎しみと悲しみを酒で洗い流す場)


 ハガネは知っている。戦が終わっても、戦は心の中で終わらない。血と泥と鉄の匂いは、洗っても残る。残るから、上から酒をかける。笑い声で蓋をする。

 けれど今夜の笑い声は蓋ではない。フリでもない。

 心の底から笑っている。


(死者が出なかった。理由はそれだけだ)


 ハガネの思考は冷たい。戦場を渡り歩いた者の思考は、余計な飾りを持たない。

 トロルの群れ。数十。隊の陣形を崩し、兵の腕をへし折り、盾を砕き、喉を裂く魔物。再生力があるぶん、倒れたと思って油断すれば立ち上がり背中から襲い掛かる。死人が出ない方が不自然だ。勝ったとしても、血の値段を払うのが常。


 だが、今回は死者がいない。損害ゼロ。

 その奇跡の根幹に――あの星髪の娘がいる。


 逸脱したアギトの力が、戦場の計算を狂わせた。死ぬはずの者が死ななかった。

 その力を恐れる者は、相変わらずいる。だが、古参兵が陽気に語り掛ける理由は、笑いながら彼女の傍に集まる理由は『感謝』の意味が一番強い。


 ――お前のおかげで、仲間が死ななかった。


 その感謝が恐怖を薄める。恐怖が薄れれば笑える。

 笑えれば――人は集まる。


 帝王が今日、ただの酔っ払いと化して酒臭くなっているのは、同じ理由だ。

 涙を流さず笑える祝宴。それがどんなに奇跡なのかを知っているから。

 ただ、それはそれとして。


「……おい帝王。臭い。重い。いい加減離れろ」

「なぬぅー? 余が重いだとー? 余は帝国の最高権力者であるぞー? そんな余の酒を飲めぬというのかお前はー?」

「誰もそうは言っておらん……おい。勝手に注ぐな」

「がははははは!」


 この有様はどうにかして欲しいと、ハガネは切に思う。

 鬱陶しいウィルトスは、赤ら顔のままハガネの酒器に酒を満たし、笑顔のまま語る。


「聞いているかハガネよ。余はなぁ……お前とアギトが帝国にいる今が、ひじょーに幸運だと思っている! これだけの力があれば、どんな国にも負けはせぬ! ええい、南王国と停戦中なのが口惜しいわ!」


 酔っぱらいの戯言にしては物騒極まりない言葉。

 それが冗談ではなく、「本音」だと感付いたハガネは低い声で返した。


「……言っておくが、侵略戦争に力は貸す気はないぞ?」

「えー? 駄目かー? 戦争嫌いかー?」

「好きな要素はない。儂は剣の道を究めたいだけで、戦で戦功をあげたい訳ではないのだ」


 ウィルトスは口を尖らせるような顔をしたが、すぐに笑った。


「ふむぅ……余には解らん理屈だなぁ。まあ、それも善し! だからこそ貴様は剣聖なのだろうからな!!」


 そして、また大笑いして杯をあおる。盛大に酔っている。

 だが、縛ろうとしていない。帝王の欲が露骨なほど、どこかで線を引いている。ハガネの自由を奪う気はない。奪えないと理解しているのか、奪う価値がないと判断しているのか――どちらにせよ、そこに鎖はない。

 ウィルトスはいまだに肩を組んだまま。

 ただ酔っぱらいにしては……少しだけ、幼さを宿す瞳で声を紡ぐ。


「なぁハガネ。余は……こういう夜が好きだ」

「酔って絡む夜か?」

「違うわ馬鹿者! ……誰も死んでいない夜だ」


 ハガネは一瞬だけ黙る。

 長い戦乱を生き抜いたウィルトスだからこそ、今日の尊さを理解している。

 憎しみや悲しみを、何度も何度も酒で洗い流しながら生きてきた王なのだ。

 そういう酒が必要な土地で、ウィルトスは生きた。

 そして、帝国そのものが――それを必要とする国になってしまった。

 戦争を好みながら、兵の生還を喜ぶ。矛盾しているようで矛盾していない。

 群雄割拠の大地と歴史が、そうさせてしまったのだ。


 将兵も王も、今日の宴が尊い事を理解している。

 理解しているからこそ。



「陛下! 緊急の報です!」



 大広間の扉が開かれ、飛び込んできた足音に不快感が走る。

 背筋の通った帝城の文官。書類仕事を戦場にする若い男が、祝宴の活気を冷ます。


「……今は祝宴の最中だぞ。宴の空気を壊すだけの知らせであるのだろうな?」


 帝王は不機嫌な顔を一切隠さずに言う。

 すでに目が笑っていない。この奇跡の夜の喜びに、くだらぬ言葉で水を差すなら容赦はしないと顔と態度で示している。

 文官は一瞬だけ唇を噛み、それでも続けた。




「神聖国の武装小隊が、山脈を越えて侵入。こちらの前哨地に接触しました。……交戦が発生しております」




 言葉が落ちた瞬間、大広間の音が止まった。

 兵の手も口も、全てが止まる。

 歌声は消え、酒器が離れる。


 そして、何より――ウィルトスの酔いが消えた。

 顔から血が引くのではない。むしろ血が戻る。酔いの赤が引いて、戦の目が宿る。


「……神聖国だと?」


 声が低くなる。帝王の声だ。大広間の端まで通る、刃のある声。

 周囲の将兵も、同じように顔が変わる。神聖国。山脈。侵入。交戦。


 それは、ただの国境小競り合いとは意味が違う。

 神聖国は山の向こうだ。地理的に遠い。政治的にも、そう簡単に前線へ出てくる国ではない。しかも武装小隊が越境するというのは、外交の言葉ではなく刃の言葉である。

 ウィルトスは文官へ、一歩近づく。酒の臭いは残っているが、足取りはまっすぐだった。


「規模。人数。旗。装備。指揮官。言え。分かる範囲でいい。嘘は要らん」

「人数は小隊規模。二十前後と推定。白い外套、胸に徽章。盾と長槍、そして一部が魔導具を携行。……動きが、兵ではなく神官や騎士のそれです」


 将兵の顔色がさらに変わる。

 神官。騎士。つまり、信仰を背にした武装。


 ウィルトスは歯を見せずに笑った。

 温度のない笑み。

 それは――怒りの笑み。


「無礼講だと言ったが、どうやら無礼にもほどがあるらしいな」


 大広間の空気が、少しずつ形を変えていく。祝宴の空気が戦議の空気に押し潰されていく。杯が下げられ、机が空けられ、誰かが地図を呼べと叫ぶ。兵が走り扉が開き、外へ命令が流れていく。


 祝宴の席は、文字通りひっくり返った。





 ◇◇◇





 さっきまで肉芋焼きの油が光っていた卓は、皿と杯が押しのけられ濡れ布で荒く拭われ、代わりに地図が広げられる。燭台の火は増やされ笑い声は消え、空気の温度だけが残った。酒の匂いはまだ濃いのに、人の目だけが冷える。


 帝国の将たちが集まっていた。もう誰も酒を飲まない。飲めない。

 ウィルトスは椅子に深く腰を下ろし、酔い覚ましの水を杯に満たして一口飲んだ。先ほどまでの赤ら顔は引き、頬の熱が冷めていくのが見て取れる。笑っていた口元は固く閉じられ、眼だけが異様に冴えていた。


 少し離れた位置に、ハガネとアギト。二人とも椅子に腰掛けているが、姿勢が違う。ハガネは背筋が静かに通っており、いつでも立てる座り方だ。アギトは逆に、気怠げに見えるほど柔らかい。けれど、その柔らかさが油断ではないことを彼女の目が証明している。


 地図の中心には、北方の山脈が描かれていた。尖った稜線の記号。その向こうの白い空白。氷原。さらに奥に、小さく囲われた盆地。そこに記された国名。

 北の神聖国。

 ウィルトスは地図の一点を指で叩いた。


「……神聖国は北方の山脈と氷原に守られた盆地国家。外から見れば、閉じた箱庭だ。王国とも、帝国とも、魔国とも――交流が無い。まったく無い」


 淡々とした言葉。だからこそ重い現実。

 交流が無いということは、互いの理解が育たないということだ。理解が育たないということは、誤解が「修正されない」。修正されない誤解は、やがて確信に変わる。

 将の一人が咳払いをして、報告を継ぐ。


「侵入した小隊は二十前後。白の外套。胸に徽章。盾と槍。……陣形が崩れておりません。要塞前の小競り合いにしては、あまりに統率が良い」

「統率が良いのではない」


 ウィルトスは静かに否定した。

 水滴の残る指で、地図の細い峠道をなぞる。

 一本道を指が滑る。


「奴らは統率ではなく、教義で動く。命令を待たず、判断を迷わず、恐れず、引かない。自らの教えが唯一絶対だと信じ切っているからな」


 将たちの顔に苦いものが浮かぶ。

 信仰を背負った敵は、説得が効かない。脅しも効かない。損得も効きにくい。そこにあるのは、勝つための戦ではなく、正しさのための戦だ。正しさの戦は、正しさが否定されるまで終わらない。

 ウィルトスは続けた。


「だからこそ、余は危険だと思っていた。外敵のないぬるま湯の環境で育った国は、外敵を理解する必要がない。理解しないまま、己の正しさだけを磨き育てる。山脈がそれを許した」


 地図の稜線を指で叩く。山脈は美しい線ではない。監視線を集約する線だ。


「交易路は限られ、国境は細い峠道に集約されている。偶然の地形と言えばそれまでだ。だが――外来文化の流入を制限できる。亡命者を逃がさずに済む。監視を一点に集中できる。……神聖国にとって都合が良すぎるがな」


 同席の将が同じ結論に辿り着く。だから沈黙が濃くなる。

 ウィルトスは視線を上げた。


「……現状、要塞の守りは抜かれていないのだな?」

「はい。要塞将が防いでおります。ただ……敵が『たかが小隊』にしては、押しが強い。要塞の外柵がいくつか破られ、前哨の監視塔が一つ焼かれました。死者も出ています」


 その言葉で、地図の上に赤が落ちたように空気が変わる。

 死者。祝宴の匂いが穢された空気。

 ウィルトスは目を細めた。


「分かっておる。たかが小隊で、要塞に攻め込み、戦いが成立しているのがそもそもおかしい。奴らが『神の加護』を得ているのは間違いないだろうな」


 神の加護。

 この世界で、奇跡という単語が最も現実的な意味を持つ言葉だ。

 神の加護は「伝説」ではない。戦場で、日常で、時に人を助け、時に人を壊す「現象」だ。南王国の聖騎士ラディウスが、近年では有名な勇者の名。誰だって知っている。戦史のページに、たまに理屈の外の勝利が記されることを。


 だが本来、加護は珍しい。千人に一人、あるいはそれ以下。小さな恩恵でさえ、そうだ。

 ところが神聖国は違う。

 神官戦士。神官騎士。祈りで鍛え上げた者たち。加護を「組織」として揃える国。


 ウィルトスがかつて神聖国への侵攻を断念したのは、地形だけではない。山脈だけではない。物量を送れないだけでもない。

 質だ。

 質に対抗するためには数が必要。だが数を通す道がない。ならば無理をしない。進撃帝であっても、無駄死にの計算はしない。彼は戦好きだが、戦の愚か者ではない。


「……余は北を「寝ている獣」として扱ってきた。起こさぬように。起きても困らぬように。だが――起きた」


 将の一人が口を開く。


「狙いは何でしょう。偵察か。威嚇か。それとも……」

「分からん」


 ウィルトスは即答した。分からないと言いつつ――何も迷わぬ顔。


「だが、分からんままにでも、今やるべきことは一つだ。防衛だ。敵が来るなら迎え撃つ。それが帝国の礼儀というものだ」


 そこで、ウィルトスの声に熱が宿った。

 それは怒りではない。戦の炎だ。


「向こうがその気なら、答えてやるまでよ。奴らの主神――」


 言葉が続こうとした瞬間。

 会議の空気を、軽く撫でる声が差し込んだ。




「――光輝神ソル・サンクトゥスに、だね」




 アギトだった。

 口調はいつも通り。明るい。軽い。だが目の色だけが違う。そこには宴の光がない。

 星髪の少女は、地図の上の山脈を指でつつきながら――妙に冷えた目で口を開く。


「アタシも手伝ってあげるよ。人間の戦争に手出しするつもりはなかったけど、神聖国なら話は別。北の要塞に、アタシも向かってあげる」


 将たちがざわつく。帝王の目が細くなる。ウィルトスは一度だけ、アギトの顔をじっと見た。酒席で笑っている時の顔ではなく、戦場で敵を測る帝王の顔で。


「それは助かるが……いいのか?」

「いいよ」


 アギトはあっさり頷く。そして、わざとらしいほど軽くウィンクした。


「あっちの神、正直あんまり好きじゃないからね」


 軽口の形をした刃だった。

 神を嫌うと言うのは、普通なら命取りの言葉。

 だがアギトのそれは、単なる感情ではなく……向こうの神を「知っている」者の言い方。

 距離のある嫌い方。まるで性質を理解した上で拒むような。

 ハガネが、静かに口を挟んだ。


「蛇娘。お前の好き嫌いはどうでもよい。必要なのは、敵を止められるかどうかだ」

「止めるだけなら、多分できるよ」


 アギトは笑って答えた。だが、その笑いはどこか冷たい。


「神官戦士とか騎士とか、そういう『人間』ならね。加護があっても、しょせん人間。アタシがさっと行って、バキッとやって、終わり」


 アギトは笑ってから、卓の隅に残っていた酒の杯を手に取り、くい、と飲み干した。将たちの視線が一斉にその動作に集まる。

 まるで何でもないことのように。

 だが、その胸中は違う。


(もっとも、もし仮に光の神が直々に出てきたら――アタシじゃ厳しいんだけどさ)


 アギトは自分の立ち位置を知っている。

 だが、その本音は顔に出さない。彼女は余裕があるように周囲に見せた。


(対抗するなら、アタシの本体か他の番人たち……それか同格の上位神。あの辺が必要)


 アギトは天を仰ぐ。

 天は高い。帝都の天井ではない。もっと上だ。神々の座の上。


(上位神の他の四柱は何やってんの? 君らの同僚、何か変な事企んでるみたいだよ?)


 問いかけても答えはない。沈黙だけが降りる。

 ウィルトスは、アギトの言葉をそのまま飲み込まない。

 帝王はアギトを信頼はしても、依存はしない。

 超常の力に縋るような王ではない。


「……解った。ならば余の目の届くところで動け。勝手に突出するな。要塞将の指揮系統を乱すなよ?」

「はーい」


 返事は軽い。だが、ウィルトスはそれでよしとした。軽い返事をしたからと言って、軽い行動しかしない相手ではないと、帝王はもう知っている。


「お前が行くなら、儂も行こう。北の神官共は昔から気に入らぬからな……防衛戦でなら幾らでも剣を振るおう」


 ハガネが言った。短い宣言。

 だが剣聖が戦場へ行くという事実は、それだけで帝国軍の士気を変える。

 理屈ではなく、空気が変わる。

 ウィルトスは頷いた。


「よし。北の要塞へ増援を出す。峠道を押さえ、敵の退路も見ておけ。……神官戦士が多いなら、こちらは魔導師の配置を厚くする。準備可能なものを全て整えろ」


 将たちが一斉に動く。命令が飛び、書記が走り、伝令が走る。紙がめくられ、印章が押され、地図の上に駒が置かれていく。

 ウィルトスは最後に、地図の峠道の一点を強く指で叩いた。


「余は、北が動く日が来ると想定していた。だが今夜だとは思わなかった。……どいつもこいつも、余の睡眠時間を奪うのが好きだな」


 冗談めかした言葉。だが笑いは起きない。

 アギトだけが、小さく肩を揺らし――再び空を見る。

 意識するのは上位神。光の神以外の、他の四柱。


(良識的でどうにか止めてくれそうな神は……探求神くらいかな。とは言っても、今どこで何してるのかとか、本体ですら分かんないんだけど)


 神々がどこで何をしているか――それはアギトも、分からない。

 ならば、自分の「遊び場」を守る為にはアギト自身が動かなくてはならない。

 今この帝国は、アギトが「楽しんでいる」土地だ。光の神に弄られる謂れはない。


 帝国の歯車は、北へ向けて回り始める。

 閉じた箱庭が、外へ手を伸ばした夜。


 その手が、何を掴もうとしているのか――まだ誰も知らない。



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