第86話・上位神
昼の森は静かだった。
木漏れ日は柔らかく、風は湿り気を含み、土は暖まっている。森という場所が本来持っている静かな呼吸――それを背景にして、ひとつだけ場違いな「四角い箱」がそこに立っていた。
四角い箱。
それは角があり、面があり、直線で造られた箱。木の家のような温もりの意匠も、石造りのような重厚な飾りもない。扉と窓が切り抜かれた、無機質な構造物。
魔境の森の中ですら異物。
名はコンテナハウス。元々は海を渡るための頑丈な箱を、住居の形に改造した構造物。だが、この森の中でそれは、船も港もない場所に突然現れた異物だ。しかも、有羽が呼び起こしたのはただの形ではない。素材の一部に神鉄を混ぜ込み、魔法で骨格を組み上げ、断熱や防湿まで含めて住める状態へ落とし込んだ。
その横で、まるで祭りを見つけた子どものように跳ねているのが女神がいた。
「おおおおおおおお!? こ、これがコンテナ……! 改造、再利用、その果ての新たなる形……! 頑丈で利便性も高い……ふぉおおおおおおお!」
叫び声が森に反響する。鳥が驚いて枝から飛び立ち、遠くで小動物が草を揺らして逃げる。だが本人はお構いなし。むっはー! と胸いっぱいに吸い込むように息を吸って、コンテナハウスの壁を撫で回している。
探求神スキエンティア。
知性と創造と学問を司る女神。その名に恥じぬ行動力と、そして抑えという概念を忘れた情熱の塊。彼女は扉の前で一度礼儀正しく咳払いをして――扉を開けて突入した。
中はまだ殺風景だった。ベッドと椅子とテーブル。最低限だけを置いた空間。壁と天井が直角に切り取られている。
「ふふふ……ふふふふふ……この「箱の中」という感覚……! 空間を制御する思想が、形として完結している……! こんなの、この世界の人達じゃ絶対に掴めない概念……!」
スキエンティアは嬉しそうに回る。足音がコンテナの床板に響く。
女神が言うように、荷物を入れるための箱を家にする思想は、異世界には無い。
全ては有羽の魔法――再起魔法が支えている。
過去の知識へアクセスする再起魔法。かつての記憶の断片を引き上げ、必要な理屈を現在へ持ってくる。その感覚は、思い出すというより「掘り当てる」に近い。
大喜びのスキエンティアを視界に納めながら、有羽は呆れたように言う。
「あとの細かい家具はそっちで作ってくれ。アンタなら作れるだろ?」
「うん! 大丈夫大丈夫! こう見えても知性の探求神様だからね! 家具作りの魔法くらい、ちょちょいのちょいだよ!」
「そりゃ安心……それで、こっち」
有羽は言って視線を奥へ向けた。コンテナの中ほど、連結されたもう一つの箱。扉を開けると、空気が変わる。湿度と石鹸の匂いが、ほんのりと――まだ薄いが確かにそこに。浴室がある。
そこには浴槽があり、シャワーがある。水を引く仕組みも排水も、最低限だが整えてある。
その瞬間、スキエンティアの勢いが嘘みたいに止まった。
「……ちゃんとおたく専用の浴室作ってやったんだからな……もう二度と騒ぐなよ。いいな?」
有羽が低い声で言うと、スキエンティアは一瞬で縮んだ。しおしおに萎びている。探求神はまるで叱られた猫のように正座する。
「は、はい。反省してますぅ……」
その姿を見ていると、有羽の脳裏に昨夜の光景が蘇った。
スキエンティアがこの居住空間に滞在することになって、食事をして、地球の知識を聞き出して、そして夜。入浴の時間。
浴室に入った彼女は、シャワーを試した。湯の温度を変えた。シャンプーの泡立ちに歓声を上げた。ボディソープの匂いに感動した。身体を清潔にするという行為を、まるで文明の結晶のように扱った。
そして――興奮の勢いのまま、外に飛び出してきた。
服も着ずに。
まっすぐ。真っ裸のまま有羽のところへ。
『すごいすごい! これ凄い発明だよ! 体を清潔にするだけじゃなく、文字通り磨き上げる考え! いやぁ、地球生まれの人達は凄い恵まれている――』
『服を着ろぉっ!! このボケ女神ぃ!!』
赤くなった顔のまま、有羽は手当たり次第の布を投げつけた。投擲としては完璧だった。命中も完璧だった。だが問題は、命中したところで事態が軽くならないこと。
独身男性にとって、破壊力が高すぎた。目に毒というより、呼吸が止まるレベルの猛毒だ。ハブ毒並みの致死量。
そして今。その犯人は、浴室の前でしおしおになっていた。
指先で自分の人差し指同士をつんつんと合わせ、上目遣いで有羽を見ている。
「興奮のあまり、独身男性の目の前に真っ裸で突撃する。そんなあなたの今後が、俺はとても不安です」
「は、はいぃ……もうしません。しませんから……」
とんでもない美女のくせに、本人に自覚が薄い。いや、薄いというより――おそらく価値観が別次元。神にとって肉体は衣服であり、精神と知性こそが本体。そういう感覚があるのかもしれない。
有羽は頭を抱えたい気分で息を吐いた。
するとスキエンティアが、妙なことを言い出した。
「で、でもさぁ……わたしの裸なんて、別にたいしたもんじゃないでしょ?」
「――は?」
思わず声が漏れた。反射だ。反論より先に、呆れが出た。
たいしたものじゃない? 何を基準に言っている? この世にたいしたものが存在するなら、その筆頭が目の前の女神だろう、と有羽は本気で思った。
スキエンティアは、困ったように頬を掻く。
「だ、だってさ、わたしの同僚の方が、よっぽど凄い美人だし……」
「あんたの同僚っていうと、確か『月の神』の」
「うん。月麗神ノクタヴィア、だね」
その名を出した瞬間、森の昼が少しだけ遠くなった気がした。
月麗神ノクタヴィア。
月と夜、不安と夢を司る神。世界全域に薄く広い信仰を持つ。特に都市部――夜に働く者が集まる場所、娼館街、修道院、眠れぬ者が祈る夜。そういう場所で信仰が厚い。
女たちの夜の神様。
「まあ伝承ではやたらと美人に描かれてるみたいだけど……そんなに?」
「凄いよ。ホントに」
有羽が問うと、スキエンティアは大きく頷いた。
そして、彼女は描写する。
「夜空を背負ったような黒髪でね。星のない夜の深さをそのまま髪にしたような黒。淡く光る銀の瞳。月光が水面に落ちた時のように冷たくて、けれど触れたら溶けそうな綺麗な眼差し」
スキエンティアは火照ったような顔で、月の女神を語る。
神の目線ですら「美しい」と評する月の美貌を。
「肌は月光みたいに白い。でも白いのに生々しくない。見ているだけで安心する白さなんだ。……そして、薄布を幾重にもまとったようなドレスを着てるんだけど、どこまでが布でどこまでが夜なのか分からない造りでさぁ……近づいたら視線が勝手に追っちゃう。追わずにいられない。人の心を撫でるみたいに綺麗なんだ」
スキエンティアはそこで、わざとらしく肩を落とした。
「彼女に比べたら、わたしなんて雑魚も雑魚。お茶の出涸らしみたいなものだよ」
「出涸らしでその顔なら、世の中の茶葉が泣くわ」
有羽は思わず突っ込んだ。突っ込んだが、心のどこかで納得もしてしまっている。女神が「別格」と断言する美貌。想像が勝手に膨らむ。
スキエンティアは悪戯っぽく笑い、最後に追い打ちのように言った。
「多分、有羽君も一度見たら目を奪われちゃうね。あれは反則……元々『心の揺らぎ』を愛する神だから、男性の恋心なんてもう……掌で転がすようなもんだね」
口調は軽い。けれど内容が物騒だ。
恋心を掌で転がす。つまり、人間の感情を玩具にできる神だということになる。
有羽は、うっすらと背筋がぞわりとした。興味と警戒が同時に立ち上がる。男として気になるのは当然だ。だが「近づいてはいけないもの」の匂いもする。
それでも、好奇心は止まらない。
女神が絶賛するほどの。となれば、他の上位神も気になるのが人の性。
「じゃあ他の上位神も、何かしら際立った容姿だったりすんの?」
有羽がそう聞くと、スキエンティアは少し考える顔をした。
上を見て、唇を尖らせる。
「いや、他の同僚は……あー、でもノングラータの奴は、ころころ性別も変えたりして遊んでるなぁ」
「……放浪神? 各国でクソ神扱いされてる放浪神様?」
「様なんてつけなくていいよアイツに。むしろ人間達の扱いは、大分良心的。実際のアイツはもっと酷いから。ゴミクソだから」
据わった目で女神が言う。かの神はゴミクソなのだと。
放浪神ノングラータ。
自由と選択と逸脱と可能性を司る上位神の一柱。
有羽が遊戯の駒にもした神のひとつ。変身自在で、人々からは貧乏神だの不幸の神だの商売繁盛の敵だの、好き放題言われている神。
だが、人間達が散々ネタ扱いしている様でさえ、スキエンティアに言わせれば良心的。
有羽は顔を引き攣らせた。どんな評価だ。神々の同僚関係は、思っていたより俗っぽい。そして思っていたより辛辣だった。
スキエンティアは、なおもぼやく。
「性別も外見も、その日の気分で変えるしさ。『自由』って言葉を免罪符にして、他人の人生に石投げて笑ってるんだよアイツ。……金貨入った財布をわざと人の前に落として、変化する人間関係を観察して楽しんでる、って言えば分かる?」
「ゴミすぎるだろ、それ」
有羽が突っ込むと、スキエンティアはこくこくと頷いた。
「でしょ? だからさ、人間達が『貧乏神』とか『不幸の神』とか言ってるの、まだ優しいんだよ。実物はもっと酷いもん」
有羽は頭痛がしてきた。自由を司る神と聞けば聞こえは良いが、自由とは責任の投げ込みでもある。選択を増やすのは、迷いを増やすのと同義。ノングラータは善でもなければ悪でもない。言うなれば世界そのものを遊戯の盤面と見なして楽しむ「トリックスター」。性格の悪い神だということが分かった。
「じゃあ、おたくら上位神のトップは? 覇皇神ヴェルミクルムは世界中で石像も建てられて、権威の象徴みたいになってるけど」
有羽は言いながら、過去に聞いた話を脳裏に思い浮かべる。
何せ、ここ二年ほどは南王国の第二王女様が、家に突撃してきた。
大体の世界情勢は雑談のついでに聞き及んでいる。
その中に、世界各地で奉られている神の話もあった。
覇皇神ヴェルミクルム。
巨大な王冠を戴く王。剣を天に掲げ、地上を見下ろす姿。玉座に座り、世界そのものを眺める神の王。王国の大通りに立つ石像。帝国の城門に刻まれた紋章。諸侯領の広場にある噴水の装飾。衛兵の盾の意匠。石工の大会のテーマ。お土産屋の木像。
俗世の権威を象るものには、だいたい覇皇神の影がある。
有羽は、尋ねるというより確かめるように続けた。
「人間社会が作る「権威」のデザインって、覇皇神様の要素だらけじゃん。王冠、王笏、玉座、剣、背後の光輪……。覇皇神の信仰って、広く浸透してる……って、なにその変な顔?」
スキエンティアは露骨に顔を歪めていた。
筆舌に尽くしがたい顔、というのはこういう表情だ。嫌悪ではない。困惑でもない。
どれでもある妙な顔。
「いや、その……うーん。なんて言ったらいいのか……」
スキエンティアは腕を組んでうんうん唸り、わざとらしく空を見上げる。
本当に、凄く微妙で複雑そうな顔。
やがて、観念したように言った。
「ヴェルミクルムの奴は、その……姿とかないから」
「へ?」
有羽の声が素で間抜けになる。
姿がない? 神の頂点と言われる覇皇神が? 世界に石像の数、何体あると思ってるのか。玉座に座った神の王、あれ全部ウソなのか。
「無形って訳じゃないんだけど……姿を持つことに固執してないというか、必要性を感じてないというか……」
スキエンティアは説明を探すように、言葉を左右に転がす。
探求神でも説明できないものはあるらしい。
そして、ひと息置いてからさらに踏み込んだ。
「――物事の殆どを『変数』としか思ってない、って言ったら解る?」
有羽は瞬きを忘れた。
変数。数式。入力と出力。条件と結果。
そこに感情はない。理想もない。価値観すら薄い。
あるのは規則と調整だけ。
「……つまり、神様っていうより計算機みたいな?」
有羽が言うと、スキエンティアは肩をすくめた。
「それが近いね。正確には……盤面そのもの、って感じ。世界の形を安定させることが第一。秩序を維持して、崩れないように調整する。だから戦うとか、勝つとか、負けるとか……そういうの、あいつの存在領域に最初から無い」
言い方が淡々としているのが逆に怖かった。スキエンティアの語り口に、個人的な好き嫌いが混ざっていない。そこにあるのは、観察記録の温度だ。
彼女は、例を挙げる。
「ある国が滅びる――地形の微調整」
「……は?」
「戦乱が数十年続く――熱量の偏り」
「……」
「英雄が誕生する――偶然の揺らぎとして問題なし」
「……」
「神が死ぬ――自然循環の一部」
最後の言葉は流石に、有羽の握る拳に力が入った。
神が死ぬ。それを『循環』と言える視点。
地上の人間の生死とは、重さが違いすぎる。
違いすぎるのに、同じ世界の話として並べられている。その事実が恐ろしい。
「……アンタや従属神が死んだとしても、か?」
有羽は確認するように問う。
スキエンティアはあっさり頷いた。
「うん。実は大昔『神』ってもっといっぱい居たんだよ。今みたいに整理されてなかった。神同士の戦乱もあって……世界そのものが揺れて歪んで、ぐちゃぐちゃになりかけた時代があった」
探求神の声が、少しだけ遠くなる。
「最終的に『従属神十柱』『上位神五柱』で落ち着いた。その時も、ヴェルミクルムは一切声を荒げたりしなかった。怒鳴ったり、泣いたり、嘆いたり。そういう反応は、最初から持ってない」
有羽は、ゆっくり息を吐く。
(機械染みた神様もいるもんなんだな)
いや、機械より酷いかもしれない。機械は目的のために作られた道具だ。だが覇皇神は『盤面の形』そのもの。目的というより、存在理由が世界の枠組みに組み込まれている。
触らぬ神に祟りなし。
有羽は内心でそう結論づける。触れなければ害はない。
触れない限り、ただそこにあるだけ。
覇皇神ヴェルミクルムは、言うなれば台風や竜巻のような神。
意思疎通を求める事が間違っている。
「……じゃあ、人間が作ってる覇皇神の像って、全部人間の想像?」
「そだね。人間は象徴が好きでしょ。形がないと不安になる。だから冠を載せる。玉座に座らせる。剣を持たせる。支配の神だから支配者の姿にする。そういう……人間側の都合」
スキエンティアは、少しだけ顔をしかめた。
「でもね、あいつからすると、その像がどう見えようが、たぶんどうでもいい。崇められても、貶されても、盤面の形が保たれるなら同じ。それがアイツの思考」
その言葉に有羽は理解した。覇皇神が「怒らない」のではない。「怒り」という現象が存在しないのだ。怒る暇があったら調整する――否、暇とかいう概念すらない。調整が存在そのもの。
有羽は視線を森へ向けた。枝葉の揺れ、木漏れ日、虫の微かな羽音。それらすべてが、覇皇神にとっては「盤面の揺らぎ」でしかないのかもしれない。
有羽は、そこで話を切り替えた。
「となると残るは一柱。光輝神ソル・サンクトゥス――こいつはどんなだ?」
問われた瞬間、スキエンティアの顔がまた別方向へ歪む。
今度は困った者を見る目。どうしたもんか、という顔。
「ソルの奴はそうだねぇ……何とも言えないんだよ。何せ、ここ千年近く顔も見てないし」
「千年?」
有羽の眉が上がる。
「うん。神聖国に「降りて」以来、天上に還って来ない。存在も力も感じ取れるから、確実に居る。でも連絡も取れない。いや、正確には……取れる手段はあるはずだけど、向こうに取る気がない。扉を叩いても開けないって感じ」
有羽は思わず首を傾げた。
「……いいの、それ? おたくたち、神が地上に降りたりしたら部下に怒られるって言ってなかった?」
「怒られるよ。それに全然よくない。でも、従属神の子達が何言ったって、力の差は歴然だしね……実際の所、本気で拒否する上位神を縛れる存在なんていない」
「アンタは縛られてるみたいだけど」
「う。……だってぇ、あの子達怒ると、わたしと口聞いてくれなくなるんだもん」
「子供か」
「そんなこと言わないの!」
探求神は胸の前で左右の指を突き始め、いじいじ拗ね始める。人間関係……というか神関係? のいざこざが情緒で動いている。覇皇神の話の直後だと余計に滑稽だった。
有羽は軽く肩をすくめ、話を戻す。
「じゃあ、ソルは従属神の怒りも掟も無視して地上に居続けてるってことか……覇皇神ヴェルミクルムは文句言わないの? 物事を変数としか思ってないなら、一国に構い続ける神って危ないだろ。偏りじゃん」
スキエンティアは、即座に首を横に振った。
「逆だよ。一国が箱庭の中で遊んでるだけの状態だから……ヴェルミクルムは何も言わないんだ。北の山脈の内側で完結してる。外へ熱量が漏れない。盤面を揺らさない。だから「許容」されてる」
有羽は、うっすら背筋が寒くなる。
盤面を揺らすかどうか。それだけで判断される。倫理も、善悪も、幸福も、悲劇も、そこでは二次的な情報だ。覇皇神の視座は、人の血の温度では測れない。
スキエンティアは続ける。
「まあ、ソルの奴が自ら他国に攻め込もうとでもしない限り、干渉しないだろうね。箱庭の中で、箱庭を維持してるだけなら。閉じた系は、安定してるから」
有羽は聞きながら、思考の奥で過去を思い出す。
(北……ねぇ)
この言葉が口に出ないのは、自分の中に引っかかりがあるからだ。
世界規模の変動。
スキエンティアは今、北の箱庭は盤面を揺らさないと言った。
だが有羽は知っている。盤面を揺らす規模の変動が、すでに起こっていることを。
四年前。北の番人の暴走。
あの戦いは魔境の森の内部だったから外へ被害が及ばなかっただけだ。もし森の外で起きていたら、国境どころか地形そのものが書き換わっていたかもしれない。神々ですら動いた規模の大変動。世界の歪みが飽和しかけた、境界の裂け目の話。
「なあ、女神さん」
有羽は、声の調子を変えないように意識して言った。
平成に。小波すら見えない水面のような声で。
「四年前くらいにさ――何か「変な揺れ」とか感じなかった?」
「四年前? ……うーん、何それ。知らない」
スキエンティアは、きょとんとした顔で返す。
即答に近い。迷いがない。演技でもない。
その態度を見て――有羽は確信する。
(やっぱり知らない)
目の前に居るスキエンティアは、あの戦いを知らない。
知らないのではない。感知できていない。上位神でさえ。
それが意味するものは、ひとつではない。森が外界から切り離されるほどの場所であること。内側で起きたことが、外に漏れないように設計されていること。
そして――覇皇神の盤面にすら、届かない領域があるということ。
有羽は、森の葉音を聞きながら、言葉を飲み込んだ。
上位神ですら感知できない戦いが、森で起きた。
それは、世界が見たくないものを見ないための仕組みなのかもしれない。
見ないから、盤面は安定する。
見ないから、箱庭は守られる。
――見ないなら、いずれ破綻する。
そういう未来の匂いだけが、森の昼の空気に紛れて、薄く薄く漂っていた。




