第83話・帝国の魔物討伐
帝都ヴァリエントは、水に抱かれて生きていた。
東部平原の中央。二つの河川が合流し、一本の大河となって西へ南へと流れ落ちていく、その結節点。そこに築かれた帝都は、常に動き続ける。
朝から晩まで、川面は忙しい。船が列を成し、荷船が綱で引かれる。岸には荷役の声が飛び交い、縄が軋み、木箱が乗せられ、鉄のインゴットが鈍く光る。河が運ぶのは水と穀物だけではない。鉱石も武具も情報も、そして――恐怖もだ。
大河の上流で魔物の群れが見つかった、という噂が流れれば、それは朝の鐘より早く帝都を走る。商人は荷を止め、警備隊は甲板に増員を立て、露店の料理人は「今日は川魚が高い」と嘆き、酒場の酔いどれは「魔物が来るなら俺が倒して勇者になってやる」と叫ぶ。誰もが、川の上に目を向ける。水脈とは、帝国の血管であり、同時に外から入る毒でもあった。
そして今、その毒が――実際に現れる。
上流の草地帯。水を求めて大河へ寄り、周辺の獣と人の匂いに誘われて集まった魔物の群れ。トロル。再生力と膂力を持ち、棍棒を振るい、盾を潰し、陣形を押し崩す厄介な魔物。推定レベル二十から三十。兵士の「腕」だけで言えば同格だが、戦場での厄介さは一段上。切っても戻る。刺しても戻る。焼かなければ止まらない。止め損ねれば、ただ一体で小隊規模の損耗を生む。
――それが、群れになっている。
本来ならば、半日掛かりの大仕事だ。前衛が受け、槍兵が脚を止め、弓兵が目を射、火術師が焼き、補助が傷を塞ぎ、後方が崩れぬよう押し止める。戦功を積む場であり、同時に誰かが死ぬ場でもある。
だが、帝国軍が出た理由は討伐だけではない。
帝王ウィルトスが――自ら出る、と言ったからだ。
進撃帝。帝王自ら前線へ立ち、旗を振り、敵の息の匂いを嗅ぎたがる悪癖。部下の諫言も、宰相の憂いも、近衛の苦い顔も、彼の歩みを止められない。帝国の軍は強い。強いが、その強さの根にあるのは、しばしば帝王の衝動でもある。
そして今回――帝王以上に現場を困らせる存在がいた。
星髪を靡かせる絶世の美少女。名をアギト。
帝国兵たちが最初に彼女を見た時、その認識は二つに割れた。
――美しい。
――そして、怖い。
美しさは理解できる。だが怖さは、理屈の外。人の形をしているのに、人の戦い方をしない。武器を持たないのに、武器より鋭い。魔法を詠唱しないのに、魔法より理不尽。何より、笑っている。戦場で笑う者は、普通は狂人か英雄だ。そして彼女は、そのどちらでもあった。
「いやっほーー! アギトちゃんのお通りだぁー! てぇーい!!」
声が弾けた瞬間、地面が跳ねた。
彼女が踏み込むたび、足元の土が沈み草が散る。夜空の粒子のような微光が、後ろに尾を引く。まるで星座が地上へ落ちたかのように、残光が弧を描いて走る。躍動は軽いのに、威圧は誰よりも重かった。
トロルが吼える。群れの先頭が腕を振り上げる。棍棒が振るわれる――が、振るわれた瞬間にアギトはその距離を消していた。
素手で。
彼女の両手の指が並ぶ。指は指のまま。爪が伸びるでもない。獣の牙が生えるでもない。だが、並べられた指は、巨大な顎の歯列に見えた。そう見えるのではなく、そう「なる」。概念が変わる。人の骨格のまま、捕食の構造へと変換される。
薙ぎ払う。まるで草を刈るように。
トロルの胴が裂けた。肉が千切れ、再生しようと蠢く細胞ごと、何かに噛み砕かれるように崩れる。トロルの再生能力の「前提」を破壊される――そんな死に方だった。トロルは倒れるのではなく、「解体」される。
「柔い柔い! どうしたトロル共! こんなんじゃアタシの暇つぶしにもならないよっ!!」
戦場の理屈が、笑い声で踏みにじられた。
トロルの群れは、数で押せば人を潰せる。だが、その数が通じない相手の前では、ただの雑音でしかない。数は、意味を失い雑事になる。
そして、そんなアギトの活躍を見ていた帝国兵たちが――怒鳴った。
「おおい!? 星髪の嬢ちゃん、勘弁してくれよっ! 俺たちの取り分が無くなるじゃねぇか!」
「そうだそうだ! 嬢ちゃんが暴れちゃ戦功上げられないんだよ! 少しは加減しろ!!」
槍兵が叫び、弓兵が笑い、盾兵が肩を竦める。怒号の中に、冗談が混ざる。帝国の兵が彼女を「怪物」としてだけ扱っていたなら、こんな言い方はできない。口を利いた時点で、それは「仲間」の枠に入った証。
「あ、ごめーん」
アギトは軽く舌を出した。形だけの謝罪なのが丸わかりだった。
兵たちは苦笑する。こいつは困った嬢ちゃんだ、と言いながら、トロル配下のゴブリンを狩る。槍で突き、盾で押し、剣で刈る。命の取り合いの最中なのに、空気が妙に軽い。戦場の中に「余裕」が生まれている。
その余裕を、容赦なく言葉で切り裂く者がいた。
「突出しすぎだ蛇娘。お前は落ち着きという言葉を知らんのか?」
剣聖ハガネ。
いつの間にか、アギトの傍にいた。鉄剣を振るっている。神鉄の刀は折られたが、ハガネの「剣」は折られていない。獲物が変わっても、斬撃の密度は変わらない。息を吐く暇もない連斬。剣線が幾重にも重なり、トロル配下のゴブリンが紙切れのように裂ける。トロルの再生箇所を見極め、腱を断ち、関節を落とし、動きを止める。人の戦い方の極致。
「お爺ちゃんこそ、剣振り回し過ぎ。もう年なんだから落ち着きなさいって」
「お前が言うでない。実年齢は何万歳だ戯け」
「それは本体の年齢! アタシは……精々、数百歳?」
「充分ババアではないか」
「失礼なこと言わないの! アタシは永遠の十七歳なんだから!」
言い返しながら、アギトは指を噛み合わせるようにしてトロルの腕を千切り、ハガネは言葉の合間に剣を滑らせてゴブリンを断つ。口喧嘩と殺しが同じ呼吸で並ぶ。
その喧嘩の裏で、戦は終わりへ向かっていた。
トロルは再生しようとする。だがアギトに裂かれた個体は、再生の糸口が見つからない。ハガネに斬られた個体は、動けない。動けないトロルは、ただの肉の塊だ。そこへ槍兵が止めを刺し、魔導師が炎を入れ、弓兵が目を射る。兵たちの戦いもまた、機能している。
その最中――銃声が乾いた空気を割った。
パン、と短い破裂音。火薬の臭いが一瞬で風に乗る。弾丸が飛ぶ。混戦の中、トロルの頭部を貫き、目を撃ち抜き、脳を破壊した。トロルは膝から落ちる。再生が追いつく前に、命の芯を断たれた。
撃ったのは、帝国兵の一人。銃兵隊の一人。頬に煤がつき、目は細い。手は震えていない。撃つべき瞬間を見逃さず、引き金を引いた。
「――ほう。良い腕だな。この混戦の中、的確に撃ち抜くか」
ハガネが言う。銃を使わない男の評価だからこそ、重い。銃を軽視していない。恐ろしさを理解している。引き金一つで鉄を貫く貫通力。魔力障壁や魔力装甲で対処はできるが、不意打ちの銃は多くの者にとって死そのものだ。
三年前――王国との戦。剣に長けた公爵令息が、銃で死んだ。ハガネはそれを知っている。帝国兵も知っている。だから銃は帝国の誇りであり、同時に戦の恐怖でもある。
アギトは、銃声を聞いても眉ひとつ動かさない。直撃を受けても傷一つつかないと確信しているからだ。銃弾が彼女の皮膚を破れる未来が、頭の中に存在していない。
だが、別の意味で――アギトは銃を見ていた。
何か、異質なものを見る瞳で。
陸地で魚を見つけたような。そんな形容しがたい目で。
(……ま、アタシが考えても仕方ないか)
疑問は脳裏をよぎっただけで、すぐに霧散。彼女は「考える」より「遊ぶ」が先に来る。
だからまず、戦場を見渡した。
敵は全滅間近。倒れたトロル。散らばったゴブリン。血と土の匂い。再生しきれない肉の残骸。通常ならば、勝利の歓声と共に負傷兵の呻きが響く。だが今回は、負傷が少ない。兵たちは「助かった」という顔をしている。それも当然だ。半数以上の敵が、アギトの手で引き裂かれているのだから。
逸脱。
その言葉が、兵たちの胸の奥に影のように残る。冗談が言えるうちはいい。笑い合えるうちはいい。だが、もしこの力が敵に回ったら? もしこの力が帝国の意志とズレたら? もしこの力が帝都に向いたら?
兵の中に、目を逸らす者がいる。笑いながらも、アギトの背を直視できない者がいる。恐怖が完全に消えたわけではない。恐怖は、馴染みの仮面を被ってそこにいる。
そして、遠く。
隊列の後方――旗が揺れる場所に、帝王ウィルトスがいた。血塗れの戦場を眺める目は、満足げで、戦果を嬉しそうに見つめている。無数のトロルも配下のゴブリンも瞬く間に倒されて、兵の損傷はほとんどない。
帝王は、笑った。
笑い方は、戦好きの帝王そのもの。だが目の奥にあるのは、支配者の算段だ。彼は理解している。アギトはただの戦力ではない。帝国の未来を変えるカード。そしてそのカードは、切り方を誤れば自分の首も飛ばす。安易に、この力を振るう訳にはいかない。
しかし――帝都ヴァリエントは水に抱かれて生きている。
水は、流れる。噂も、流れる。恐怖も、流れる。
いずれ、川の流れのように広がっていく。
レベル八十台。
怪物の力。
それが今、帝国の旗の下にある。
それが、どれほどの意味を持つのか――この戦場の兵はまだ知らずにいた。
◇◇◇
戦いが終わったあとの戦場は、勝利の余韻よりも先に「後始末」の匂いが立つ。
血と泥と、踏み潰された草。折れた槍の柄。矢の欠片。潰れた盾の縁にへばりつく黒ずんだ肉片。大河から吹く湿った風が、まだ温い土の熱を撫でていく。
帝国兵たちは、もう叫ばない。剣の音も、槍のぶつかる鈍い音も消えた。代わりにあるのは、重いものを引きずる音と、号令の短い声と、火が爆ぜる音だった。
ゴブリンの死体が山になる。小さく、数が多い。群れの厄介さは生きている時だけではなく、死んだ後にも続く。
「耳、切ったか! 数が合わねぇと報告が通らんぞ!」
「はいよ、こっちは五十七! ……うげ、臭ぇ!」
耳だけを切り取る。討伐の証明。耳の数だけが唯一の信用。ゴブリンは素材にならない。肉は食えない。皮膚も使えない。道具にできるほどの強度も美しさもない。害獣。だから燃やす。
焼却担当の火属性魔導師が、鼻を押さえながら火を起こしていた。
「……誰だよ、ゴブリンの焼却が簡単な仕事とか言ったやつ!」
「簡単だろ。臭いだけだ」
「その「臭いだけ」が致命的なんだよ……おえっ」
魔導師の掌から、火が走る。乾いた草が一気に燃え、脂が弾け、煙が立ち上る。鼻を刺す、酷い焦げ臭さ。兵たちが顔を背け、目を細める。吐き気を我慢する者もいる。だが火を止めるわけにはいかない。死骸は疫病を呼ぶ。戦場は、勝った後で病に負けることがある。
対して、トロルの死体は扱いが違った。
こちらは素材になる。食用にはならない。毒素が多すぎる。仮に解毒しても、肉質が最悪だ。腹を満たすためにトロルを食う者は、よほどの物好きか、よほどの飢えているかの二択。
だが、捨てることはない。
トロル特有の再生能力は「肉」に宿る。肉そのものが医療の素材になる。毒素は解毒薬の引き出しに使える。それゆえに薬師たちは常に求めている。各国で引く手数多の素材。研究材料としても価値が高い。戦場で倒せば、それは金に変わる。
帝国の兵たちは、トロルを荷車へ運びながら汗だくになっていた。
「おい、脚からだ脚! 胴を掴むと滑るぞ!」
「分かってる、分かってるが重ぇんだよっ……! 誰だよ、トロル一匹は「荷車一台分の恵み」とか言ったやつ! 恵みが重過ぎるんだよ!」
荷車は何台も出ているのに、死体の数がそれを上回る。血で濡れた土に車輪が取られ、縄が食い込み、木軸が軋む。兵が声を合わせて「せーの」と持ち上げる。そのたびに、トロルの肉がぶよ、と妙に生々しく揺れた。
臭いはゴブリンよりはマシだが、それでも臭い。そして、薬の素材になるとはいえ現場の兵にとってはただの重い肉塊である。
その様子を、少し離れたところから三名が眺めていた。
帝王ウィルトス。剣聖ハガネ。星髪の少女アギト。
ウィルトスは王だ。自ら荷車を押すことはしない。役割が違う。彼が手を出せば、兵の手が止まる。兵の呼吸が詰まる。効率が落ちる。帝王は指示を出し、終わりを見届け、次の戦のために頭を働かせる。それが仕事。
ハガネも同じだ。彼は客将。剣の腕一本でここにいる。剣を振るう時以外は、そこに座っていてもらったほうが兵が動きやすい。伝説が荷車を押す光景は、現場を萎縮させてしまう。
そしてアギト――彼女は、手伝おうとした。
した、のだが。
「丁寧に乗せてくれよ!? 荷車が壊れちまう!」
「アギトの嬢ちゃん! あんたは向こうで休んでてくれ! 適当に放り投げれば良い訳じゃねぇんだから!!」
「えっと……邪魔なんで、あっち行っててください」
最後の一言が一番容赦なかった。遠慮がない。情け容赦がない。だが現場は正しい。アギトの手伝いは、手伝いにならないのだ。
彼女は大雑把すぎる。
持ち上げる力が強すぎる。扱いが雑すぎる。トロルを「よいしょ」で投げれば荷車が死ぬ。荷車が死ねば運搬が止まる。運搬が止まれば素材が腐る。腐れば金が減る。
だから、止める。お嬢ちゃんはあっち行っててね、と遠ざける。
結果アギトは頬を膨らませて、ぶーと不機嫌そうに腕を組んでいた。
「つまんなーい。みんなアタシを除け者にするー」
戦場ではトロルを引き裂く矛盾の塊が、子供のように拗ねていた。
ハガネは鉄剣を膝に置き布で刃を拭いながら、淡々と言った。
「ものには適材適所がある。蛇娘、お前は暴れるのは得意だが……繊細な荷運び仕事は致命的に向いていない。乱雑に扱うと、素材は素材でなくなるのだ」
「ぶー。面倒くさーい」
ウィルトスが笑った。豪快で、腹の底から響くような笑い声。
「うわっはっはっは! お主の弱点が見えたのう! アギトよ、お主元の身体が「あの巨躯」なせいで――細かい作業が苦手だな? 裁縫とか全然出来ぬだろ?」
「……針と糸でやるやつ? ……あんなの、必要ないもーん」
べー、と舌を出してそっぽを向く。反抗の仕草が、兵の笑いを誘う。
帝国に来て三週間。アギトは驚くほど馴染んでいた。
最初の頃、兵たちは距離を取った。目を合わせなかった。槍の穂先が無意識に彼女へ向いた。あまりに強いものは、人の本能を刺激する。恐怖が先に立つ。
だが戦場を共にし、血を見て、勝って、笑って、その日を生き延びてしまうと、恐怖は形を変える。恐怖が消えるわけではない。消えない。だが、扱える位置へ落とし込む。
だから――古参の兵などは、陽気に声をかける。
「おい。アギトの嬢ちゃんがすねてるぞ。こりゃ、また酒を奢ってやらなきゃならんな」
「でも、あの嬢ちゃんザルだからなぁ……酒場の酒が、樽で無くなるぞ?」
「皆で金出しあえばどうにでもなるさ。……おおーい、嬢ちゃん! また今度、おじさんたちと一緒に呑まないかー?」
「え? お酒飲めるの!? うん、行く行くー♪」
目を輝かせてすぐに機嫌を直すアギト。実にチョロい蛇娘。
古参兵はこうやって、平気でアギトを誘える。
新参の兵はまだ怯える。遠目に眺め、視線を逸らし、噂話に頼って距離を測る。だが古参は違う。必要以上に恐れていない。危険を感じていないわけではない。危険の程度を受け入れているのだ。
歴戦の兵の境地――「死ぬときは死ぬ」。
それは諦めではなく、生き延びるための技術だ。無駄に恐怖で手を止めれば、死が近づく。ならば恐れるべき時だけ恐れ、恐れなくて良い時は笑う。笑いは呼吸を整え、目を曇らせない。だから酒に誘える。
ウィルトスは、彼らの軽口を咎めない。むしろ許す。許す理由があった。
今アギトを誘っている兵たちは、ウィルトスにとって「見覚えがありすぎる」連中だ。若い頃から共に戦場を走った者たち。帝王になる前から、帝王になった後も、何度も死線をくぐってきた明友。身分差で測れない絆がそこに。帝王の笑い声は、彼らの笑い声と同じ高さにある。
「おおい、お前達! あまりアギトを飲ませすぎるでないぞ? 酒代で身持ち崩す兵なぞ、笑い話にもならんからな!」
「分かっとりますよ陛下! なぁに、我等がその辺の見極めが出来ないとお思いで?」
「思っておるから言っておるのだ! 余と共に、ゲロ吐いてのた打ち回るまで飲んだ夜を忘れたか!?」
「そんなこともありましたなぁ!」
馬鹿笑いが起こる。戦場跡で、帝王と兵が酒の失敗談で笑う光景は、帝都の宮殿ではあり得ない。ここには口煩い貴族がいない。帝王はただの「戦友」の顔を見せる。
――その空気の中で。
ハガネだけが、静かに剣を見ていた。
鉄剣。帝国の兵が渡した量産品だ。よくある剣。だが今日、この剣はトロルを斬った。数十を斬った。斬って、斬って、斬り続けた。その結果、剣身には僅かな歪みが生まれている。
常人には分からない。目で見ても分からない。触れても分からない。だが剣を打つ鍛冶師と、剣で生きてきた者には分かる。ほんの少し、線がズレた感触。
アギトが覗き込み、ぽつりと言った。
「お爺ちゃんどうしたの? ……ああ、少し曲がっちゃってるねぇ」
その言葉に、近くの兵が目を丸くする。彼女は剣士でも鍛冶師でもないのに歪みが分かる。
蛇の分身。星髪の怪物。視界の解像度が違う。
ハガネは頷き、そして言う。
「……未熟。儂もまだまだよな」
剣の所為にしない。鉄の所為にしない。己の所為にする。求道。愚直。だから剣聖なのだが、基準があまりに高い。
ウィルトスが呆れた声を出した。
「……お前なぁ。トロルを、ただの鉄剣であれだけ斬っておいて、未熟なわけないだろう。それで未熟なら、余の帝国に優れた剣士は一人もいないことになってしまうわ」
「事実は事実だ。僅かとはいえ歪んだ以上、それは刃筋がズレていた証拠。真に線を通せば、トロル如きに剣は歪まぬ」
求める基準が高すぎる。高すぎて、理解できない。
ウィルトスは苦笑しながら、その愚直さを――面白いと思った。
(……鉄剣で頂に立つ男……ならば)
帝国の宝物庫に、ひとつ埃を被ったものがある。
刀。帝国がかつて得た戦利品。あるいは――帝王家の古い遺産。
いずれにせよ、扱える者がいなかった代物。
(ハガネなら、あれを扱えるかもしれん)
ウィルトスの口元に、にやりと笑みが浮かぶ。戦好きの帝王は、面白いことを思いつくと止まらない。国のため、という建前もある。だが本音はもっと単純だ。強い者に、強い刃を握らせた時、何が生まれるのか見たい。
そしてその力が――戦場で振るわれる瞬間も見たい。
彼は軽い調子で、しかし断れぬように言った。
「なあ、ハガネよ。帝都に戻ったらちょいと付き合え。お主に見て貰いたい刀がある」
ハガネが静かに視線を向ける。眼差しは変わらない。何事からも逃げない瞳。
アギトは興味深そうに首を傾げた。
「へぇ? 何か面白いの持ってるの?」
「誰も扱いきれぬ「じゃじゃ馬」がひとつある。ハガネならあるいは、と思ってな」
「おい。儂に厄介者を押し付ける気か?」
「まあ、そういうな。一度見てみろ。切れ味「だけ」は保証するぞ?」
ウィルトスは肩を竦めながら、運搬作業を行っている兵達に目を向けた。
戦場の端では、ゴブリンたちの焼却作業が続く。トロルの死骸の積荷は、徐々に形になりつつある。勝利の後の片付けは、あと少しで完成の見通しだ。
そして片付けが終われば、次が来る。
帝都に帰還し……またひとつ動き出す時。
王国の国境では、芽姫が地図を叩き、帝国の内を覗こうとしている。
帝国の戦場では、蛇娘が酒を誘われ、帝王が刀を思いつく。
水は流れ、噂は流れ、火種も流れる。
各国で、それぞれが異なる思考で動き、世界の道が作られていく。
国ごとに違う場所に立ちながら――あるいは、同じ地点へ向けて歩き出そうとしていた。




