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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第五章

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第82話・辺境伯夫妻


 談話室には、まだ地図が広げられたままだった。

 バルドゥール・レオン・グラードライン辺境伯は地図の上に腕を組み、顎に指を当てていた。古傷の走る頬が、微動だにしない。夫人も対面に腰を下ろし、口元に手を添えたまま、視線だけで地図を辿っている。


 夫婦の考えは、同じ一点に収束していた。

 ――第二王女アウローラの来訪。

 一週間以上前だ。だが国境の家にとって、一週間前とは昨日と同義である。昨日の巡回の報告が、今日の生存に繋がる。昨日の曖昧さが、今日の死人を増やす。だから、記憶は鮮明に残る。


 数名の侍女と護衛。物見遊山ではない、訓練されている歩き方。装いは簡素だが、立ち姿が隠しようのない王族。その頭の上に――あの小さなぬいぐるみゴーレムが、ちょこんと乗っていた。


 クロエ。

 初対面の瞬間、夫人が最初に抱いた感想は、実に不謹慎だがこうだった。


(……なにあれ、かわいい)


 だが、その可愛さを貫いてきたのはアウローラの最初の言葉。


『帝国への恨みを忘れられない馬鹿な王女――「そういう体」で来ていることになっている。周知のほどをよろしく頼めるだろうか?』


 辺境伯はその瞬間、自分の眉が僅かに上がったのを覚えている。夫人もまた、驚きのあまり息を飲んだ。突然の来訪、それを正当化する理由――あまりにも無理がある。政治の体裁としてはあまりに強引。


 そして何より。

 アウローラの目が、愚か者のそれではなかった。

 理性を持ち、状況を測り、必要な言葉を必要なだけ選ぶ者の目。恨みで暴走する王女ではなく、恨みを抱えたまま制御している将の目だった。


 今なら、その強引さの意味がわかる。

 クロエの力を知った今なら。

 夫人は小さく呟いた。声は柔らかいが、その裏に緊張がある。


「……殿下は仰いました。帝国に動きがある、と。そして強大な力を内に秘めていると」

「うむ」


 辺境伯は頷き、机の端に重ねて置かれていた報告書の束を引き寄せた。封蝋が割られた紙が何枚もある。どれも同じ性質の情報を、違う経路から拾ったものだ。国境の主は、一つの報告で信じない。二つで疑い、三つで準備し、四つで動く。


「既に帝国に潜入した『草』から報告は届いておる。帝王ウィルトスが率いる精鋭が魔境の大森林に入り――損傷軽微で帰還したと」


 夫人の指先が、紙面の上を滑った。そこに記された数行が、室内の空気を一段冷たくする。

 帝王ウィルトス。百名余りの精鋭。魔境への侵攻。帰還。損害軽微。


「……裏取りが取れてしまいましたわね」

「ああ。殿下の言葉が真であることの証明だ」


 辺境伯の声は低い。怒りでも恐怖でもなく、ただ状況を並べている声。

 夫人は息を吐き、そして正面から言葉にした。


「そして殿下の言葉が真ならば……帝国に秘められた力とは、クロエちゃんと同等の「力」を持った何者かだということ。魔境の森の主とも言える存在……その分身だとか」


 言葉にした途端、荒唐無稽が現実になる。

 クロエと同等。


 最初は理解できなかった。可愛いぬいぐるみと同等の力? では、その同等は何の同等だ? 可愛さの同等? そんな考えさえ浮かんだ。

 だが今は違う。

 クロエは辺境伯領の地図の上を歩き、敵の存在を叩いて告げる。たったそれだけで、兵の死傷者を減らし、巡回を最適化し、作戦を変える。予測を必然へ変える。


 もしその力が、帝国の側にもあるのなら。


 夫人は頭を抱えたい衝動を、貴婦人の表情で封じ込める。

 辺境伯は書類を一枚、もう一枚とめくる。そして別の束を机の中央に置いた。封蝋が二重。署名が複数。閲覧者の名が欄外に短く列挙されている。限られた者にしか開示されない類の紙。


「実際のところ、帝国にいる分身とやらがどれほどの力を持っているのかは解らぬ」


 辺境伯は正直に言った。推測はできるが、断定はできない。


「だが、「同格」というだけで脅威なのは確かだ。芽姫のレベル測定結果、お前も見ただろう?」


 夫人は苦笑し、目を伏せた。


「ええ……計測具の故障を疑いましたもの。わたくし、あの時ほど、道具に裏切られてほしいと思ったことはありません」

「儂もだ。だが残念ながら正常だった。儂のレベルも、セシリアのレベルも正常に測れたからな」


 紙面に記された数字。


 ――八十五。


 クロエのレベル。剣聖ハガネの七十を越える域。人が努力で届く範囲からは、すでに外れた数値。

 夫人は溜息をひとつ、音を立てずに落とした。


「あんな可愛いクロエちゃんがどうして……最初はそう思いましたけれど。……でも、あの探査能力なら納得がいきます。あれはもう、人が辿り着ける領域ではありません。クロエちゃん一人居るだけで、斥候の価値が揺らいでしまいますわ」

「言葉を話せぬから、そうとも言い切れぬぞ?」


 辺境伯は口元を僅かに緩めた。笑いというより、苦い安堵だ。


「……もっとも、意思疎通は充分可能だ。恐ろしい力の持ち主であることに変わりはない」


 言葉を話せない。それは弱点であり、同時に救いでもある。

 もし言葉で情報を伝えられたら。

 ……クロエの言葉が「神託」と同じ扱いになりかねない。即座に軍の中心へ組み込まれ、存在が政治の核心になり、護衛が増え、監禁に近い管理が始まる。望む望まないに関わらず、あの小さな体は「国策」にされてしまう。

 夫人はその考えに触れたのか、夫の目を鋭く見据えた。

 柔らかな表情の奥に、刃が覗く。


「……クロエちゃんを監禁しようものなら、わたくしも黙っていませんわよ?」

「早合点するな。儂も同じだ」


 辺境伯は即座に肩をすくめた。

 そして地図の端を指で軽く叩き、言葉を続ける。


「芽姫はのびのびと日光浴している姿が、一番愛らしい。儂らの仕事は、芽姫を芽姫のままでいさせる事だろうよ」


 可愛いものは可愛いままで。

 そんな願いを、ただの甘さとして笑う者は辺境には少ない。辺境伯夫妻は誰よりも、血生臭い現実を見てきた。だからこそ、平穏の価値を知る。弱い者が弱いままでいられる尊さを、この夫妻は深く知っている。

 夫人は微かに頷き、そして声を落とした。


「……殿下が、無理矢理な理屈をつけてでも国境に来るわけですわね」

「ようするに、帝国にもレベル八十台の何者かが居るという事だ。国も世界も揺れるだけの力」


 辺境伯は静かに言い切る。

 夫人は指先で地図をなぞった。指が置かれる地点は、帝国の首都。


「それだけの力となれば……帝国に何らかの動きが生じてもおかしくありませんわ。……かの国境将ですら揺れ動くことも」

「それはない」


 即答だった。

 辺境伯の声には確信がある。長年戦ってきた宿敵に対する、奇妙な信頼だ。

 国が違えど、同じ国境を護る貴族同士。

 互いの「仕事ぶり」を、血と骨で知っている。


「グレゴールは、力に溺れるような愚物ではない。仮に芽姫クラスの存在が全面協力したとしても……条約を破り、国境線を踏み越える選択は取らぬだろう」


 夫人はその言葉に、安心と不安の両方を覚えた。

 安心は、敵将が理性的であるという事実。

 不安は、敵将が理性的であるがゆえに、帝国の内側で何が起きているか深く読めないという点。

 辺境伯は続けた。確信の次に、現実を置く。


「……奴の周りの人間はともかく、帝国の全てが同じ考えとは、とても言えんがな」


 帝国は広い。野心家もいる。焦りもある。条約を邪魔と感じる者もいる。帝王ウィルトス自身、停戦を選んだのは敗北ではなく計算だろう。状況次第で計算を変えてもおかしくない。

 そして――魔境へ踏み込み、損傷軽微で帰還したという事実がある。

 何かを得た可能性。何かを見た可能性。何かに触れた可能性。あるいは、何かに「触れられた」可能性。

 夫人は地図を見つめた。川、草原、関所、帝国側の道。線と点で描かれた世界は、現実よりずっと単純だ。現実は線の上に血が乗る。


「殿下が馬鹿な王女のふりをしているのは、王都の目をごまかすためだ。王都の貴族は、真実より物語を好む。だから恨みという物語で納得させる」

「そして、こちらには真実を渡してくださった……芽姫と、その示す地図で」

「うむ」


 辺境伯は、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「……殿下は芽姫を使い、帝国を監視するつもりだろう。それ以外の選択はない」


 断言に近い静けさだった。声は低く、しかし揺れていない。

 これは憶測ではない。状況から導かれる唯一の答えだ。

 夫人は、すぐには頷かなかった。頷く前に一度だけ、ほんのわずかに瞼を伏せる。

 辺境伯は続ける。


「森の主の分身がいようといまいと関係ない。停戦状態であろうとなかろうと無関係だ。敵対国を監視する術があって使わないのは、無能のすることだ」


 監視は汚い行為ではない。国境において、それは礼儀だ。

 敵を信じるか信じないかとは別の話である。信じるだけでは負ける。疑うだけでは戦争になる――その中間が必要。そのための諜報だ。汚いからやらない、などと言える国は、平和ではなくただの惰弱である。


 辺境伯は、心の中で帝国側の国境線を思い浮かべた。

 河向こうの関所。橋。見張り台。兵站の積み場。帝国側にも、同じように「目」がある。自分が帝国を監視するなら、帝国もこちらを監視する。互いに当然だ。国境とは、互いの当然が重なる場所である。


(この領にも、帝国の放った草は居る。居ない方が不自然だ)


 辺境伯は表情を変えず、内心でそう断じる。疑いではない。前提だ。前提にして初めて、防衛が成立する。

 夫人が、地図の中ほど――帝国側の奥に視線を置いたまま口を開く。指先は帝都ヴァリエントの位置に近い。


「帝都まで「目」を向ければ、魔導師に察知される危険があるとあなたは言っていたけれど……実際のところ、察知されると思うの?」


 問いは素朴に聞こえる。だが中身は、刃のようだ。

 察知されるか。されないのか。


 されるなら、その瞬間に芽姫は「存在そのもの」が戦略兵器として認識される。帝国が動く理由になる。動きはすぐではないかもしれない。だが、必ず「準備」が始まる。準備は、止められない。

 辺境伯は、即答しなかった。即答できない問い。

 だからこそ、ここで話し合っている。


「難しいところだ」


 短く言ってから、辺境伯は視線を上げた。

 夫人を見る。その目には戦場の計算と、家庭を守る計算が同居していた。


「我が領地の魔導師は、芽姫の力を察知できなかった。だが帝国の技術革新は王国の上を行く。……かつての「銃」を覚えているだろう?」


 夫人の指が、わずか震えた。覚えている。忘れられるはずがない。

 銃。鉄と火薬の道具が、剣と盾の世界に持ち込まれた日。勇敢な者が、名誉ある突撃の最中に倒れた。甲冑を貫く小さな鉛の塊が、武の体系を嘲笑った。

 そして何より――あの戦争の決定的な転回点となったのが、アウローラの禁呪級の雷嵐だったことも。天災のような魔法で砦が潰れ、幾千の兵が灰塵になったことも。勝ったのに、誰も勝者の顔をしていなかった夜も。

 辺境伯の声が続く。


「あの時のように、新たな発明が帝国にあってもおかしくない。魔導技術、観測術式、対探査の結界。芽姫の「視線」そのものを拾う仕掛けが、既にある可能性は否定できぬ」


 夫人は、ゆっくり頷く。


「……やってみなければ分からない、ということですわね」

「そうだ」


 辺境伯は頷き返したが……その頷きは肯定ではなく苦味だった。


「そして、やってみた後では遅すぎる」


 夫人が目を閉じ、長く息を吐く。辺境伯も同じように息を吐いた。溜息ではない。熱を逃がすための呼吸だ。感情が燃え始める前に、一度冷やすための呼吸。

 帝国に目を向けなければならない。だが、向ける距離が問題だ。

 国境線付近に留めれば、危険は減る。だが情報は浅くなる。帝国が何を準備し、何を隠し、どこに「力」を置いているか――深部は見えない。

 帝都まで届かせれば、情報は桁違いに増える。だが危険も跳ね上がる。芽姫が見た瞬間に、帝国側が「見られた」と理解したら、逆にこちらが「覗かれる」可能性すら生まれる。

 夫人が静かに言った。


「安全と情報は、いつも反比例ですわね」

「国境とは、そういう場所だ」


 辺境伯は、地図の端に置かれた別の書類束を引き寄せた。そこには兵站の記録、鍛冶街の稼働率、矢弾の在庫、医療班の薬の生産状況――戦う前の数字が、国境では最初から並んでいる。


「いずれにせよ、要塞都市の軍備を整えるのは確定だ。……レベル八十台の存在となれば、それは怪物と言っていい。人類が確認できている最大の竜種ですら七十台だ。八十という数値は常軌を逸している」


 夫人は、視線を地図から外さずに言う。


「条約を無視して、王国へ攻め込んでもおかしくない数値……」

「数値は、理屈を捻じ曲げるからな」


 辺境伯は低く呟いた。勝てると信じた者は、条約を紙切れにする。それが戦の歴史だ。だからこそ、勝てると思わせてはいけない。勝てると思わせる材料を、集めさせてはいけない。


 沈黙が落ちる。

 辺境伯が、突然、話題を変えたように見える言葉を口にした。


「――最悪の場合、お前はセシリアと共に王都まで退け」


 夫人の視線が、初めて地図から辺境伯の顔へ移った。驚きではない。怒りでもない。

 妻として、母として、反射的な拒否の瞳。


「あなた」

「最悪の場合は、だ」


 辺境伯は言い直した。逃げの言葉ではなく、備えの言葉。


「儂とてまだまだ死ぬ気は無い。だが、我がグラードラインの血をここで絶やす訳にはいかない。息子は王都の学園にいる。……お前とセシリアと、三人が生き残ればいくらでも再建できる」


 夫人は唇を結び、しばらく黙っていた。言い返したいのではない。感情が、胸の奥でぶつかっている。夫が「家」を語るとき、それは弱さではない。最前線で生き残ってきた者の、最も強い誓い。

 夫人は静かに言った。


「あなたが残るのは、当然ですわね。……あなたが逃げる選択を取るなど、最初から考えられませんもの」

「ここが最前線だからな」


 辺境伯は、淡々と返した。その淡々が、彼の矜持だ。

 夫人は、指先で机を軽く叩く。ほんの一度。決意の合図のように。


「ならば、私も最悪の場合に備える準備はしておきます。でも――」


 夫人の声が少しだけ強くなる。貴婦人の声ではない。辺境伯夫人の声だ。


「それは最悪の場合に限ります。あなたが生きることを、私は前提にします。セシリアも同じ。息子も同じ。……グラードラインは、家族を前提に再建する。死人を前提にするつもりはありません」


 辺境伯は、微かに笑った。妻の強さを知っている笑み。


「相変わらず、お前は手厳しい」

「手厳しくなければ、国境は護れませんわ」


 夫人は柔らかく言って、しかし視線は鋭いまま。

 辺境伯は、再び地図を見る。帝都ヴァリエント。そこに芽姫の「目」を向ける未来。向けない未来。どちらも正しいようで、どちらも危険。


 そして、頭の中には王女の姿が浮かぶ。

 辺境伯は、低く呟いた。


「……殿下は命懸けで此処へやってきた。馬鹿な王女の仮面を被り、国を戦火で燃やさぬ為にだ」


 夫人は、小さく頷く。


「ならば私たちは、その仮面の裏の意志に応えなければなりませんわね」

「うむ」


 忠誠とは、盲目的に従うことではない。

 王族の意志を守るために、時には言葉の外側で働くことだ。

 辺境伯は、地図の国境線を指でなぞる。一本の線。だが、その線は何よりも重い。


「国境線はまだ動かない。動く様子はどこにもない」


 そして、指が止まる。止まった先は、関所の印だ。


「だが一度動き出したら、どこまで燃え広がるか解らない火種が――両国にある」


 夫人が静かに言う。


「クロエちゃんがその火種を「見つけられる」なら……使わない選択はないですわね。でも、見つけた火種に触れれば、火はこっちにも移る」

「だからこそ、距離と手順が要る」


 辺境伯の声には、すでに結論が混じっていた。監視はする。だが慎重に。段階的に。国境線から始め、兆候があれば少しずつ深く。相手の反応を見る。見られたかどうかを読む。

 辺境伯は、最後に言った。


「難儀なものだ……だが、退く道はない。ここが最前線だからだ」

「最前線だからこそ、守れるものもありますわ。……芽姫が日向で眠る光景を、民が笑いながら日々を過ごせる暮らしを、私たちが守るのです」


 夫人もまた、穏やかに言った。

 暖炉の火が、ふたりの影を揺らす。


 地図の上の線は動かない。けれど、線の上に立つ者たちの思考は止まらない。

 火種が燃え上がらないように。燃え上がる前に摘み取れるように。


 そして、可愛いものが可愛いままでいられる世界を――ほんの少しでも長く続かせるために。


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