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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第五章

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第81話・感情と理屈


 談話室を出ると、城の空気は少しだけ乾いていた。鉄と土と油の匂いが混じり、遠くで槌を打つ音が規則正しく響く。城塞の中庭は広く、壁は分厚く、空はひどく高い。帝国の砲撃を想定した土塁が、ただの地形ではなく防ぐという「意思」そのもののようにそびえ立っている。


 その中庭の一角――石壁が影を作り、日だまりだけが切り取られた場所に、クロエを連れてきた。アウローラの腕の中で、嬉しそうにはしゃいでいる。


 中庭にやってくる途中で、セシリアが小さなコップに水を入れてきた。陶器ではなく、軽くて割れにくい木製の器。要塞都市の生活が生んだ、実用の選択。辺境伯の令嬢がしなくていい仕事の筈なのに……セシリアは満面の笑みで「芽姫の給仕」をしている。可愛さには勝てないらしい。


 クロエは両手で受け取ったコップを抱え、んくんくと音を立てて水を飲む。口元を濡らしながら、ほんの少し首を傾ける仕草がいちいち愛らしい。飲み終えると、満足げに「ふぅ」と言いそうな顔をして、コップをそっと置いた。


 そして。

 ぽかぽかと陽の当たる石畳の上で、くるりと丸くなる。

 自分の身体を抱きしめるように縮こまり、クロエはすぐに瞼を閉じる。小さく上下する身体。くぅくぅと寝息が聞こえてきそうな、柔らかな沈黙。

 ――その光景を前に。

 アウローラとセシリアの顔が、もう、どうしようもなく蕩けていた。


「はぁ……クロエちゃん……今日も可愛い。ずっと眺めていられる……」


 セシリアは頬を赤らめたまま、隠す努力を放棄していた。武門貴族の娘で、血と汗と土に塗れて戦う土地に生きているのに、今だけは心が溶けている。

 アウローラも同じだった。尊敬される王女の顔を保とうとしているはずなのに、目尻がどうしても下がる。視線が、寝ているクロエの丸みに吸い寄せられる。


「本当なら、もっと大々的にクロエの可愛さを宣伝したいくらいだ……あれは世界に誇っていい可愛さだと私は思っているが、セシリア嬢の意見はどうだ?」

「全面的に支持します! クロエちゃんは可愛い! 可愛いは正義! この世の真理です!」


 二人は、がし、と手を握り合った。

 肩書も立場も、今だけはどうでもよかった。要塞都市の娘と、王国第二王女。身分差があるのは事実だ。それでも、クロエを前にした瞬間、二人の魂の階級は同じになる。


「そうか! 解ってくれるか!!」

「当然です!」


 声のトーンまで似てきて、二人は同時に笑い合う。

 クロエの前では理性は雪のように溶けてしまう。

 それでも、セシリアの視線はやがて真剣さを帯びる。クロエの丸い背中を見つめながら、言葉が自然と低くなった。


「……情報探査用ゴーレム。我が領の魔導師を総動員させても、クロエちゃんほどの力を持ったゴーレムは作り出せないでしょうね。能力だけじゃなく……あの自我も」

「うん。自我を持ったゴーレムの作成は、創作系魔導師の永遠の難題だ。普通のゴーレムは、あんな可愛い仕草を絶対に取れない。もっと無機質で、命令通りに動くだけのものが普通だ」

「しかも、お水を与えて日光を浴びるだけでいいのでしょう? ……維持費が安すぎます」

「ゴーレムは維持費も大変だからなぁ。樹や石のゴーレムならまだしも、鉄のゴーレムなんかは強力だけど維持費が……」

「分かります。アイアンゴーレムは維持費どころか、材料費の時点で終わってますから。ゴーレム一体分の鉄で、どれだけ兵の装備を整えられるか……」


 アウローラとセシリア。軍の財政を知る二人は、同時に溜息を吐く。

 ゴーレム作成は、魔術師が「素材」に律法を刻み、「核」を宿して動かす技。

 材料は主に、木材や土、そして石の三つが主流。なんと言っても材料の確保が容易だ。鉱石に比べてコストも優しい。鉄で作ろうとすると、金が湯水のように消費される。


 そして刻む律法――与える命令は単純であるほど安全だ。「境界線を越えた者を止めろ」「扉に触れる者を警告しろ」。ここまでならまだいい。

 けれど、少しでも言葉が曖昧になれば、命令は牙を剥く。


 ――そこの兵士を倒せ。


 こんな命令は最悪だ。ゴーレムは「敵味方」の区別がつかない。「そこの」がどこまでを指すかを理解できない。「そこの兵士」が居なくなるまで攻撃し続ける。周囲の兵士が全て「倒れるまで」ゴーレムの攻撃は止まらない。


 決められた行動以外は行えない。故に、創作系魔導師は融通の利くゴーレムの作成を、完成形として追い求めている。そしてどの国でも、実現できていない。自意識のあるゴーレムは、魔導師たちの永遠の難題だ。


 だがクロエは違う。


 膝の上に乗る。頭によじ登る。抱っこをねだる。嬉しいと全身で喜ぶ。褒められるとふんすと胸を張る。叱られるとしょんぼりする。

 それは、命令の集合体では説明がつかない。


 ――小さな人格がある。


 理外。理屈の外側に踏み込んだ存在。

 本来なら、檻に入れて研究対象にしてもおかしくない。むしろ、この世界の「常識」からすれば、そうしなければならない。だが現実は違う。檻に入れた瞬間、要塞都市の女性陣全員が敵に回りかねない。

 セシリアはぽつりと呟いた。声が、少しだけ尖る。


「あんな可愛いクロエちゃんを創り出したのが……噂に聞く『森の賢者』。凄い方、なのですよね」


 言葉は褒めている。けれど、口の端に小さな棘がある。

 自覚して隠そうとしても、隠し切れない棘。

 アウローラはそれを見逃さなかった。

 少しだけ笑って、そして少しだけ寂しそうに問いかける。


「やはり――セシリア嬢も、有羽のことは気に入らないか?」

「い、いえ、そんなことは……」


 セシリアが反射で否定しようとして、止まる。アウローラの目が、誤魔化しを許さないほど穏やかで、誠実で、そして少しだけ疲れている。


「正直に言っていい。宮廷の連中のように、連行だの処罰だの口にされては困るが……感情までどうこう言うつもりはない。こういうのは理屈じゃないからな」


 その声は、少しだけ寂しそうだった。

 セシリアは眉を顰めた。戦場の娘の眉は、道理の通らぬ言葉を聞くと鋭くなる。


「連行、処罰……そのようなことを宮廷は言っているのですか? お言葉ですが、魔境の森は王国の領土ではありません。何を、どう処罰するつもりなのか……」

「単純に、私が何度も勧誘している有羽が頷かないのが『王国に対する謀反』、あるいは『王家に対する反乱』と言っているんだよ。奴らは、王族に逆らう賢者を感情だけでなく、理屈の面でも認めたくないらしい。自分たちが正しいことにしたいんだ」


 アウローラの声は淡々としていた。けれど淡々としているからこそ、そこに積もったものが感じられる。怒りと諦めと寂しさが混じった、複雑な感情。


「……なんというか、その……私には理解できない考えですね」


 セシリアは本音を吐いた。

 辺境は単純だ。敵がいる、守る、倒す。そこに回りくどい「理屈の捏造」はない。あるのは殺伐とした現実だけ。


「だろう? 王都は、中々困った者が多いんだ……まあ、感情だけなら解る話でもあるんだがな」


 アウローラは意味深にセシリアを見る。その視線が、まっすぐに刺さった。

 セシリアは一瞬、視線を逸らしそうになって――観念した。逃げない。武門の娘として、戦場で逃げないのと同じ。


「……はい。正直、森の賢者殿に、私は良い感情を抱いていません。宮廷貴族のような無茶を言うつもりはありませんが……その、感情が認められません。王女殿下の誘いを無下にするなんて……そんなこと、私は……認められません」


 言った瞬間、胸が熱くなる。怒りではなく羞恥の熱。

 理屈では分かっている。森の賢者に従う義務はない。王女の誘いは命令ではない。断る自由がある。そこに罪はない。


 けれど感情が許さない。

 敬愛する人が手を伸ばして、何度も何度も、笑って、真剣に言葉をかけて、それでも拒まれる――それを見て好印象を抱けという方が無理だ。

 アウローラは、否定もしないし肯定もしない。ただ、静かに問う。


「……別に、直接有羽のところに行って剣を突きつける、みたいなつもりはないのだろう?」

「ありません。絶対に」


 セシリアは即答した。そこだけは迷いがない。


「誓って言えます。私の感情で、賢者殿に危害を加えるつもりは一切ありません。その選択をした瞬間、私は貴族としての誇りを捨てて、法の境界を理解できぬ者になる。……そんな者に、国境を護る資格はない」


 辺境伯の娘として、国境を守る者として、そこだけは絶対に譲らない。剣を握る者が法の線を踏み越えれば、結局守るものこそを壊す。

 アウローラはゆっくりと頷いた。肩から力が抜けるのが見えた。


「……うん。それで良い。それで充分。というか、そうであるべきなんだよなぁ」


 アウローラは小さく笑い、次いでぽつりと本音を漏らす。


「セシリア嬢みたいな者ばっかりだったら、楽なのになぁ」

「それはそれで――国が回りませんよ」


 セシリアも苦笑する。辺境の正しさだけで国は動かない。政治には政治の泥がある。分かっている。分かってしまうからこそ、嫌になることもある。


「私は、結局のところ辺境育ちの武骨者にすぎません。政治の綱引きや、言葉で人を縛る技巧は、王都の人間の方が上です」

「解っているだけ充分に上澄みだよ。それにセシリア嬢が武骨者なら、宮廷は戯け者だらけだ。姉上も父上も苦労してるんだ……」


 アウローラは遠い目をした。王族という檻の中で、誰が一番苦労しているかを、彼女は知っている。だからこそ、本音が出てしまう。


「セシリア嬢が国境警備を担っていなければ、直属の部下に取り立てたいくらいなんだぞ?」

「そんな……お戯れがすぎますよ」

「何も戯れてないんだけどなぁ」


 言い合いながら、二人の視線は自然とクロエへ戻る。

 日だまりで丸くなって眠る芽姫。小さな背中がゆっくり上下し、時折ぴくりと動く。夢でも見ているのか、抱っこをねだるみたいに小さく手を動かして、また静かになる。

 戦の話も、政治の話も、王都の戯け者の話も。

 この寝姿の前では、一瞬だけ遠ざかる。

 アウローラは声を落とした。


「……有羽は、ああいうふうに穏やかに眠れる場所を、森の中に作ったんだろうな。自分のために。誰のためでもなく」


 セシリアは答えない。答えたくないわけではない。

 答えが、自分の感情をさらに複雑にするからだ。


 ――賢者が、王女の誘いを断るのは、もしかしたら「王女を傷つけたい」からではなく、ただ動けないだけかもしれない。

 あるいは、動かないと決めているだけなのか。


 どちらにせよ……セシリアの中の棘は消えない。消えてくれない。それが感情の難しい所だ。


 けれど、棘が刺さったままでも、剣を容易く抜いたりはしない。

 国境において、剣は脅しの道具でも感情で振るう物でもないのだ。

 彼女はそれを、よく知っている。


 日だまりの中で、クロエが小さく寝返りを打った。ころん、と丸い体が少し転がり、またぴたりと落ち着く。

 その可愛さに、二人はまたどうしようもなく顔を緩めた。


「……可愛いは、やはり強いですね」


 セシリアがぽつりと呟く。


「うん。要塞も落とせるくらいにな」


 アウローラが返して、二人は顔を見合って小さく笑った。


 国境は緊張している。

 帝国は不気味に静か。

 蛇の分身は外界にいる。


 それでも今この瞬間だけは――芽姫の静かな寝姿が、世界を少しだけ柔らかくしていた。





 ◇◇◇





 国境警備とは、実戦だけ行っていればいい任務ではない。

 他の政務と同じように、書類仕事は山ほどある。


 従者とメイドが、作業用のテーブルと椅子を手際よく並べた。背の低い書類箱、朱と黒の封蝋、地図筒、羽ペン、乾きやすい紙の束。お茶の代わりに、湯を注いだ薬草水まで用意されている。


 その傍――ちょうど陽が当たる位置に、クロエが丸くなっている。


 何故、クロエの傍で書類仕事をするのかと言えば……目を離す訳にはいかないからだ。

 クロエの力は他国に渡せない。クロエの身柄は安全に保つ必要がある。


「……作業、始めようか」


 アウローラは声を落とした。クロエを起こさないようにという配慮が、自然に口調に滲む。


「はい。殿下は閲覧のみで結構です。必要箇所だけ、こちらでまとめます」


 セシリアはすでに書類の束を整えていた。

 書類は山ほどある。

 最近の魔物討伐報告。野盗の捕縛記録。新兵教育の進捗。武具の修繕と補充、矢の在庫、乾燥肉と穀物の配分、巡回ルートの変更点、斥候の行動記録――そして、クロエの探査結果がどう成果に結びついたかの照会。


 セシリアの筆は早い。無駄がない。文字が速く、そして整っている。実務で鍛えられた者の筆圧。親の七光りではなく、汗と血と報告書で掴んだ中隊長の座。書類の端々に、彼女の現場感覚が滲む。


 アウローラはそれを黙って見ているだけ。


 だが彼女が直接手伝わないのは、怠けではない。むしろ逆。王族が領地経営に口を挟むことは、その領地貴族を信じていないという宣言になり得る。辺境伯領は王国の盾であり誇りだ。そこに余計な楔を打ち込む愚は犯せない。


 しかし、今回ばかりは事情が違う。


 ここ一週間の成果の多くに、クロエの探査が絡んでいる。斥候の足で見つけた成果だけではない。芽姫が地図を叩いて示し、そこへ兵が動き、結果が出た。つまり、報告書の「根拠」の部分に未知の要素がある。王女として、クロエの管理者として、そこを見ないわけにいかなかった。


 アウローラは書類に目を滑らせる。読み方は早いが雑ではない。必要な数字だけ拾って終わらせる読み方ではなく、体系として把握する読み方。


(巡回の間隔、補給の回転、訓練日の配分……無駄がない。魔物の討伐数が伸びるのは当然だ)


 報告書の冗長な部分を切り、重要な箇所を拾い、要点を整える。若いのに、セシリアは机上の仕事をできる。こういう人材は、王都でも不足している。

 ふと、セシリアの視線がクロエに吸い寄せられた。ほんの一瞬、指が止まる。次の瞬間には何事もなかったように筆が走る。

 その一瞬の静止がなんだか可笑しくて、アウローラは内心で頷いた。


(わかる。わかるぞ。眺めたいよな)


 ある意味、クロエの傍にテーブルを持ってきてまで作業をする一番の理由は……あの可愛い姿を見続けていたいからだ。目を離せないのではなく、離したくない。

 アウローラも、ページをめくる指が自然とゆっくりになる。書類の山より、日だまりの丸い寝姿の方が、どう考えても心にいい。だが、要塞都市の王女と中隊長が、勤務中に「癒やし優先」はさすがに体裁が悪い。


 アウローラは咳払いをひとつして、視線を帳簿に戻した。

 そして、読み進めるほどに、仕事の見事さが際立っていく。


 巡回ルートの組み方が合理的だ。訓練の評価が現場に直結している。武具の修繕が滞らない体制。補給の無駄がない。兵の疲労度も把握されていて、休養と訓練が噛み合っている。魔物討伐も、野盗掃討も、戦果を誇るためではなく、領民の安全を保つための「作業」として淡々と積み上がっている。


 だから領民が安心している。

 本来、不穏でしかない国境の土地で――子どもが走り、職人が笑い、夜に酒場の灯が消えない。紙の上の数字と、現場の暮らしが一致している。これは、才能だ。努力だけでは到達しない域。


(辺境伯が敏腕なのはもちろんだが……このセシリア嬢が、ちゃんと動かしている)


 アウローラはセシリアを見る。

 彼女は人材ではない。人財だ。国が欲しがる宝の域。

 そんな宝が上手く回す領地の帳簿を、感心しながら見る。


 見事な領地経営――だからこそ、見えてくるものがある。

 こちら側がこれほど整っているということは――向こう側も整っている可能性が高い。


 国境の平穏は片側だけでは成立しない。どれほどこちらが理性的でも、向こうが愚かなら火種は必ず生まれる。停戦協定や不可侵条約は紙だ。破ろうと思えば破れる。破らないのは、紙が強いからではない。人が強いからだ。理性という名の「強さ」が、剣を鞘に収める。


(……国境にいるのは、王国だけではない)


 アウローラは静かに息を吐いた。

 大河の向こう。帝国側の国境にも、優れた者がいる。そうでなければ、この三年間の静けさは説明がつかない。魔物や賊は国境を選ばない。人が荒れれば賊が生まれる。その「荒れ」が国境付近で起きていないのは、向こうも押さえ込んでいるからだ。


 対になる国境将。帝国国境軍司令。

 グレゴール・ヴァルツァー辺境将。


(愚か者に国境は護れない。これはどの国でも同じだ。魔国も、王国も……帝国だって同じ)


 理屈はわかる。

 向こうが優れていることは、悪ではない。むしろ歓迎すべきことだ。優れた将が国境を守るなら、無駄な血は減る。流民も減る。賊も減る。領民が救われる。王国にとっても、帝国にとっても。

 ――だが。


(それでも、感情が許さない)


 アウローラの胸の奥が、わずかに疼いた。

 セシリアが、有羽の態度を理屈では理解していても感情が許せないのと同じだ。理屈と感情は、仲良く手を繋いでくれない。


 アウローラは息を吐き、セシリアを見た。真っ直ぐな瞳。国と民を想う貴族の瞳。十八の娘が、鎧を選び、剣を選び、民の安心を選んでいる。その姿が誇らしい。

 だからこそ、裏切ってはいけないと思う。


「なあ、セシリア嬢。君から見て、帝国の国境将はどう映っている?」


 セシリアの筆が止まった。インクの先が紙に触れたまま、動かない。

 その沈黙は短い。だが短いからこそ、重い。

 慎重な面持ちで、セシリアは口を開く。


「向こうの将ですか……一言で言えば、難敵です。油断のならない相手。合理的で現場主義な、国の境を護るに相応しい将……父も同じ考えだと思います。私より長く、敵将とは戦い続けていますから」


 アウローラは頷いた。否定する理由はない。むしろ、その答えを聞いて安心する部分がある。現場の将が現場を見ている証拠。


「そうか……敬意は抱いているか?」


 セシリアはアウローラを見た。表情から、問うているものが何かを理解した顔。三年前の戦で、第二王女が何を失ったか――辺境の者は、戦の結果を肌で知っている。王都の噂よりも、遺体の数で知っている。


 だから、すぐに答えられなかった。

 アウローラは焦らせない。責めない。ただ、確認だけをするように静かに言う。


「大丈夫だ。セシリア嬢が何を言っても罰したりはしない。……ただ、確認なんだ。相手のことと、自分の感情の確認」


 アウローラの声は穏やかだった。穏やかで、揺れていない声色。

 しかし揺れていないのは声だけで、内側が異なることは解る。

 セシリアは一度だけ深く息を吸い、胸の奥に沈んでいるものを掬い上げた。


「――長年戦ってきたからこそ、敬意は抱いています」


 言い切ってから、言葉を継ぐ。


「あの将は無駄な血を嫌う。誉れある名将……そう評して差し支えないでしょう。ヴァルツァー辺境将が帝国側の国境を護っていなければ、国境線はもっと荒れていたはずです。帝国側から流れる魔物や賊の数が著しく少ないのは、彼が優れた領地経営を行っている証拠です」


 それは冷静な評価だった。戦場の敵として政治の相手として、現実の存在としての評価。

 けれど、そこで終わらなかった。

 セシリアの目の奥に、別の色が差す。悔しさに似た、痛みの色。


「でも……同時に、心の底から憎んでもいます」


 胸に手を当てる。まるで、そこから溢れそうなものを押さえるように。


「三年前の戦で、私も仲間を大勢失いました。友人もいた。慕ってくれた部下もいた。……思い出すだけで、恨み辛みが湧き出てきます。友の仇を取りたい、と叫ぶ心も、ここにあります」


 敬意と憎悪。相反するものが、同じ胸に同居している。

 どちらか一方なら、どれほど楽か。どちらか一方なら選べた。だが現実は、両方を握ったまま歩けと命じてくる。


「……そうか。答え辛いことを聞いたな。すまない」

「いえ。滅相もありません」


 短いやり取り。だが、そこには痛みを知る者同士の礼がある。余計な慰めを言わない。代わりに、沈黙を共有する。

 アウローラは顔を上げ、空を見た。要塞都市の空は広い。広いのに、どこか低い。土塁と石壁がそう感じさせるのかもしれない。


「なあ、セシリア嬢。感情は難しいな」

「……はい。とても難しく思います」


 セシリアは正直に答えた。正直に答えられる相手がいることが救いなのかもしれない。

 その時、クロエが小さく、ころん、と寝返りを打った。丸い体が少しだけ転がり、またぴたりと落ち着く。

 その動きがあまりに無邪気で、二人の胸の重さに釣り合っていなくて、思わず笑いが漏れそうになった。

 アウローラは声を潜めて言った。


「……あの子は、平和の顔をしているな」

「はい。あまりにも」


 セシリアも小さく頷く。

 書類はまだ山ほどある。国境は静かで、不気味なほど。敵将は優れ、だからこそ油断ならない。条約は紙で、感情は血を流す。


 それでも二人は筆を取り、書類に目を落とす。

 守るべきものがある。

 たとえ感情が難しくても、難しいまま守るのが彼女たちの務めだった。



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