第78話・スキエンティアの探求
居間の空気は、ほんの少しだけ重かった。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、木の匂いが濃くなる。空調の魔導エアコンが低く唸り、一定の温度を保っている音だけが響く。窓の外では森が揺れているはずなのに、結界の内側は音が薄い。落ち葉の擦れる気配も、遠い鳥の声も、ここには届かない。
テーブル越しに向かい合う二人の間に落ちた沈黙は、短いのに長く感じた。
有羽は笑えなかったまま、視線を落とし、指先で木目をなぞる。そこに意味はない。ただ、手を動かしていないと、胸の奥に沈んだ重みが形になってしまいそうだった。
スキエンティアは、そんな空気を見て取ったのだろう。視線を泳がせ、わずかに肩をすくめてから、切り替えるように口を開いた。
「そ、それにしても、まさか異世界とはね! いやぁ、お姉さんビックリだよ! びっくりっていうか……うわぁ、って感じ。『世界渡り』は理屈の上では出来るけど、無理無茶無謀の三拍子だからなぁ。想像もしてなかったね!」
言葉が早い。ひどく早い。意図的に軽くして、重い空気を蹴散らそうとしているのが見え見えだった。
その必死さに、有羽は少しだけ救われる。救われる、というのも変な話だが……実際に救われた。今のスキエンティアの言葉に、気にかかる部分があったのだ。
「……ん? もしかして異世界っていう概念はあるの?」
有羽が顔を上げて問う。まだ気分は沈んだままだが、ほんの少しの疑問が沈黙を選ばせない。
そしてその選択は、沈黙よりは余程良かった。沈んだままより何倍も。
スキエンティアはその問いを待ってましたとばかりに、眼鏡の奥の目をきらりと光らせた。重さに沈みかけた空気が、彼女の探求心に引っ張られて少しだけ浮き上がる。
「うん、あるよ! わたし達が今居るこの『世界』以外にも、無数の『世界』が外側にある。それこそ星の数ほど、ね。……君の世界『地球』も、その中のひとつなんだと思う」
彼女はそう言いながら、天井に向かって手を伸ばした。
ログハウスの天井なら、椅子に乗って背伸びすれば何とか届く。机の上に乗ればもっと近い。物理的な距離は努力でどうにでもなる。
けれど彼女が示しているのは、そこじゃない。
届かない距離。いくら手を伸ばしても、指先が何にも触れない空虚。
「星の数ほど、か。そりゃ見つけられないわな」
有羽が思わず吐き捨てるように言うと、スキエンティアは頷いた。
「流石に、ね。わたしは、すっごい神様だけど……そんな神様でも、自分の手の届く範囲しか解らない。星空に手を伸ばしても届かないのは、人も神も同じ」
そこで彼女は、わざとらしく手をぱっと引っ込め、肩をすくめて見せた。
その身振りが妙に人間臭い。神のくせに――いや神だからこそなのかも知れない。
世界という大きな枠組みで見れば、神も人も等しく同じ。
神ですら手が届かない場所がある。それは有羽にとって、僅かとは言え慰めになった。
そんな有羽の様子を知ってか知らずか……スキエンティアは思い出すように言葉を紡ぐ。
「わたしも幾つかは知ってるよ。魔王と勇者が戦い続ける世界。五柱の女神と暗黒神が均衡を保たせる世界。あとは……うーん、巨大なゴーレム? に乗って魔獣と戦う世界とか」
「……なんか、色んな世界あるんだな」
「あるよ。色んな人間がいるように。色んな神がいるように。……世界も、色んな世界がある」
スキエンティアは軽く笑い、すぐに真顔に戻る。
「でもね。わたしが長い時の間に垣間見えた他の世界なんて、本当に数えるくらいしかない。それくらい、他の世界との距離は遠く果てしないんだ」
有羽はその言い方に引っかかった。
覗いたではなく、垣間見えた。
意図して観測した訳ではない。たまたま視界に紛れ込んだ、偶然の欠片。
スキエンティアは続ける。
「たとえるなら……そうだなぁ。分厚い本棚が延々と並んでいて、一冊一冊が世界みたいなもの。わたし達は自分の棚の前で暮らしてる。たまに風が吹いて、隣の棚のページがひらっとめくれて、文字が一瞬だけ見える。そういう感じ」
「……随分と、運任せだな」
「運任せだよ。世界って、そういうものなんだ。神様ですら掌握できない」
彼女は言い切ってから、ぐっと身を乗り出してくる。
「で、『世界渡り』ってのはね……大砲に人間詰めて発射すれば距離縮められるよ、っていうようなもんだからね。正気の理論じゃないよ」
「うわぁ。本当に『理論上』でしかないわけか」
「うん。しかも無茶苦茶な理論。世界と世界の間って、ただの空間じゃない。境界がある。膜がある。押せば押し返してくる。穴を開ければ、世界そのものが『異物だ』って判断して塞ごうとする……とんでもない反発があるから、成功させるには入念な準備が必要」
スキエンティアは指を折りながら、淡々と工程を並べていく。
「世界に穴を開ける。穴を塞がれないように固定する。道を作る。道が崩れないように座標を繋ぎ止める。繋いだ先で『こっちの世界の法則』と『向こうの世界の法則』が喧嘩しないように調停する。その上で、人を送り込む。……ね? 無理無茶無謀」
「聞けば聞くほど、頭痛がしてくるな」
「でしょ。わたし、知性の神だから、こういう工程を考えるのは好きだよ? 好きだけど……実行は別。好きと出来るは違う」
「じゃあ、俺がここに来たのは……」
「一番高い可能性は『事故』だろうね」
スキエンティアは即答した。
掌にポン、と小さな魔力球を生み出す。ゴム鞠のような小さな球。
その球を、テーブルの上に落とすスキエンティア。
示しているのは、高所からの落下。
「こんな風な落下事故の類。たまたま世界に穴が開いて、たまたまその座標に君が居て、たまたま空間が安定してて、たまたまそれがこの世界だった」
「たまたまが多すぎる。いくら何でも酷過ぎない?」
「酷いよ! 酷いけど、そうじゃないと説明がつかないんだもの。偶発的な事故でもなきゃ、『世界渡り』は無理だって……多分」
最後だけ女神の自信がなかった。
何故かと有羽は一瞬考えたが――すぐに理由に思い至る。
自信がない理由は明白。無理と言った口で、目の前に現物が座っているからだ。
世渡有羽という、出来ないはずのことが起きてしまった証拠が。
有り得ないことが起きてしまっている。神様ですら困難――ほぼ不可能と断じている異世界からの転移を果たした者が、いまここに居る。この時点で、スキエンティアは己の考えに自信が持てない。事故であったとしても、何らかの方法で有羽が来たのは事実なのだから。
そして有羽の中には、もう一つの疑問が沈んでいた。
今さら思い出したように浮かび上がってくる。
当時は見ないふりをしていた違和感。
「……俺のこの『強さ』も異様なんだよな」
ぽつりと零すと、スキエンティアの眉が上がる。
有羽の言った言葉を理解しきれていない顔。
「なあ女神様。神の加護で、女神様と同じくらいの強さを与えることって出来る?」
「え? どゆこと?」
「いや、だから……何の力も持ってない人間に、神様が加護を与えて『神様と同じ領域』に届かせることは可能かって聞いたんだけど」
スキエンティアはぱちくりと瞬きをした。理解できない顔。何を言っているのか分からない、というより、前提が崩れている顔だった。
そして、その顔のまま――彼女は一瞬で、有羽の言いたいことを掴む。
「……ちょっと待って」
声の温度が変わる。さっきまでの賑やかさが消え、探求神の計算が走る。
「君って、元の世界から『その強さ』だった訳じゃないの?」
「違う。俺の元居た世界……地球には魔力なんてもんが、そもそも無かった」
有羽は淡々と告げる。
淡々としか言えない。今さら感情を乗せても仕方がない。
だがその淡々とした事実は――神にとって信じがたいモノ。
「俺のこの『強さ』は、この世界に来た時に『備わっていた』後付けのもんだよ」
「はぁ!?」
スキエンティアが思わず声を上げた。完全に虚を突かれた顔。眼鏡の奥の瞳が丸くなる。そこにははっきりと「あり得ない」という感情が浮かんでいる。
「待って待って待って待って!? 確か、君がこの世界に来たのって八年前だよね!? その時にいきなり『その強さ』になったって言うの!?」
「……そう言われると微妙に違う」
有羽は頬を掻いた。思い出すのは、森に放り込まれたばかりの頃の感覚だ。
空気が重い。匂いが濃い。森が大きすぎる。視界の端で何かが動く。足元に根が絡む。水は飲めるが味が違う。火の起こし方を忘れかけるほど、頭の中が真っ白だった。
あの頃の自分は、確かに今ほどではなかった。
「最初はもうちょっと弱かった。ただ、森の魔物倒していくうちに強くなっていって……今の強さになったのは大体四年前かなぁ」
「四年!?」
スキエンティアが椅子から半分立ち上がりかけた。反射で座り直すが、落ち着かない。手が宙を彷徨い、最後にテーブルにつく。
「四年でわたしと同格!? 嘘でしょそんなの!? そんなの、成長速度が壊れてるよ!?」
「嘘じゃないんだなこれが」
有羽は短く言い、視線を逸らした。
言うべきではない情報もある。言ったところで説明がつかない情報もある。
四年前のこと。北で起きたこと。止めたこと。止められてしまったこと。あの時の重さは、まだ言葉に出来ない。
その間、女神の目は真剣だった。
騒がしい彼女でも、今だけは知った事実を咀嚼するのに手一杯。
スキエンティアはぶつぶつと呟き始める。頭の中で何かを組み立てているのが分かる。指先が忙しなく動き、空中に見えない文字でも書いているように。
「四年で神の領域に……いや、絶対無理。単純に時間が足りない。そこまで登れるだけの経験密度は、普通は積めない。森の魔物が強い? それにしても限度がある。……じゃあ、最初から基礎が違う? いや、地球に魔力がないなら基礎もない。……だとしたら、世界側が君を『変換』した? 世界の法則が、君をこの世界用に書き換えた?」
「書き換え……」
「言い方が悪いかな。うーん、翻訳? 変換? 適応? どれも違う。もっと強制的で、もっと根っこのやつ。君の『存在の形式』を、この世界に合わせて作り直した、みたいな……」
スキエンティアは言いながら、自分で首を傾げる。
神ですら言葉を選べない領域。そこに有羽の状況がある。
「でも、それを誰がやるの? 世界そのもの? そんな自律的な機能があるなら、なんで今まで……いや、待って。森」
スキエンティアがぴたりと動きを止めた。
有羽の家。森の中。結界。遮断。管轄外。彼女が最初にぶつかった「見えない輪」。
それらが一本の線で繋がったのだろう。眼鏡の奥の瞳が鋭くなる。
「君、気が付いた時、この森にいたって言ったよね」
「ああ」
「偶然落ちたにしては、場所が悪すぎる。たまたまの事故なら、世界のどこに落ちてもおかしくない。なのに、よりにもよって……ここ」
彼女の指が床を指す。ログハウスの床。つまり、この森。
有羽は苦く笑う。
「……その言い方。ひょっとして神様側でも、ここの森は理解不能だったり?」
スキエンティアは眉を寄せたまま、有羽の顔を見た。
「……昔っからだよ。この森は神の権限が及ばない。わたしがどれだけ探査の糸を伸ばしても、何も掴めない。神の間でも「危険区域」ってことで手出し無用になってる」
「女神さんの性格からすると、何が何でも調べようとしそうだけど?」
「……しようとした事あったんだけどね……その、居るじゃん? この森に、おっかない蛇とか樹の人とか」
「ああ、成程」
目が泳ぎ始めたスキエンティアを見て、有羽は悟る。
この好奇心の固まりである女神様が、森の中を調べようとしない筈がない。
過去に調べようとしたことがあるのだ。そして天蛇、あるいは女帝の領域に足を踏み込んだ。
それでどうなったかと言えば……聞くまでもない。実際に昔、有羽が天蛇の領域に踏み込んだとき殺し合い一歩手前の戦いになったのだから。
スキエンティアも同じなのだろう。どちらと戦い、どんな目に遭ったのかまで解らないが。
「俺も両方知ってるけど……ご愁傷様」
「うう、西側にも東側にも、二度と行きたくないよわたし」
さめざめと涙目になるスキエンティア。
神の視点でも、あの二名の厄介さは同じなんだなと有羽は認識を改める。
同時に、有羽は内心で思った。
(……やっぱりおかしいんだよな、俺の状態も、この森そのものも)
気が付いた時、この森に居た。そして強さが宿っていた。そして戦って、食って、生きて、強くなった。四年で、上位神と同じ位階に立った。
スキエンティアが言う通り、時間が足りない。密度が足りない。普通なら届かない。
それなのに届いてしまった。
その理由が、「事故」で片付くわけがない。
(……あの蛇は、何か知ってるのか?)
女帝よりも古い。森の東で、長く結界を噛み続ける蛇。
そんな蛇に会いに行って、女帝の様子がおかしくなった。今も沈黙を続けている。
そして蛇の分身が、自由気ままに帝国に。何か意図があるのか。それともただの気まぐれか。
もしかしたら――答えを持っているのは、蛇なのかもしれない。
けれど、有羽はそこへ踏み込めない。
女帝からの連絡が無い。宝玉も黙っている。東の空気が、こちらに伝わってこない。帝国は現状では異常なし。何もかも、外見上は平穏で……それが逆に不気味だった。
有羽は女神に視線を向ける。
スキエンティアはぶつぶつと呟きながらも、徐々に顔つきが変わっていった。
困惑から、興奮へ。
恐れから、好奇へ。
そして、有羽もよく知っている「目」になる。
未知を前にした時の、純粋な探求者の目。学者や研究者が宿す、狂気の目。
「……面白い」
ぽつりと、スキエンティアが言った。
その一言に、有羽はぞくりとする。
やはりこの神は悪ではないが――決して善一色な訳でもない。
謎を、異質を、混沌を……「面白い」の一言で探求する狂気染みた一面を持っている。
未知の根源を追い求める者。その過程に危険があろうとなかろうと関係ない。自らの欲求にしたがって突き進む、ブレーキの存在しない神性。
スキエンティアはテーブルの上に手をつき、身を乗り出してくる。今度は押し倒しではない。質問攻めの前兆だ。
「ねえ。君がこの森で最初に目を覚ました場所、覚えてる? どんな匂い? どんな音? 空は見えた? 痛みはあった? 身体は冷えてた? 誰かの声は聞こえた? ……『落ちた』感じだった? それとも『置かれた』感じだった?」
「……質問が多い」
「多いよ! だって重要だもの!」
眼鏡の奥が燃えている。文化オタクの炎。
だがこの炎は消えない。消そうともしていない。
何処までも燃え続ける探求の炎。
有羽は息を吐き、背もたれに体を預けた。
やはり神様案件は碌なものではないと、今更ながらに判断する。
しかし女神の質問は、止まる様子を見せない。
有羽は思い出しながら、おざなりに質問に答えて……改めて思う。
(どうして――この世界にやって来たのか)
その答えは解らない。少なくとも今はまだ。
機関銃のように質問を投げる女神の姿を見ながら……有羽は、そんな闇の底の謎を見つめていた。
◇◇◇
質問を終えた探求神は――今尚、目を輝かせていた。
テーブルの上に両肘をつき、指先を忙しなく動かし、何もない空間に見えない数式でも並べているみたいに、ぶつぶつと独り言を繰り返す。眼鏡の奥の瞳は焦点が合っているようで合っていない。思考が先へ先へと走って、身体の置き場所だけがここに残っている様子。
「……ぬふふふ……森……輪……変換……いやでも……」
笑い声が不気味なのに、本人に自覚がない。
元が美人だから何とか見れる顔。そうでなければ、とても直視できない。
(放っておいても勝手に思考の海に溺れる。よし、放置でいいな)
有羽は、そう判断する。あの残念美人は放置しても、何ら問題ない危険ブツであると定めた。
世界の謎だの森の正体だの、重たい話はまだ胃の中に沈めておけばいい。今は、それより重要なことがある。世界の真理よりも雄弁に叩いてくる現実がある。
(森のことは俺も気にはなるけど……それはそれとして腹は減ったんだよなぁ)
何と言っても腹が減ったのだ。文化オタクの残念美人の質疑応答に、結構な時間を割いてしまった。ただ質問に答えるだけでも疲弊し――腹が飯を求めている。
有羽は立ち上がり、台所へ向かった。床板がきしむ。木の香りが近づく。作業台の表面はいつも通り整っていて、包丁も鍋も、必要な分だけが手の届く位置に並んでいる。生活を壊さないための配置。森に引きこもるための合理性。
そして今、そこには――吊るして血抜きしたばかりの鳥がある。
正確には鳥型の魔物の成れの果てだが、料理にする段階では「鶏肉」として扱うのが有羽の流儀。これ以上、死体に敬意を払う理由もない。払うとすれば美味しく食べることだけだ。
(揚げてよし、焼いてよし、煮物にしてもいいし……悩み所だ)
迷うのも、贅沢の一種。狩って、捌いて、食う。森で生きるなら、結局それが一番確実だと有羽は知っている。
長年ここで生きて来たのだ。弱肉強食の理は身に染みている。
まずは下拵え。羽根を毟る。
普通なら力仕事で、しかも地味に面倒で、指先が脂と羽根でべたべたになって嫌になる工程だが、有羽は魔法でやる。手間をかけるべきところと、手間を抜くべきところの線引きがはっきりしている。楽できる部分は、どんどん魔法で楽をする。
指先を鳴らす。
ぱちん、と小さな音。
空気が震え、魔力が薄い刃のように走る。羽根が一本一本、丁寧に抜かれていく……というより、抜かれて一か所へ集められていく。まるで目に見えない掃除機が働いているみたいに、羽根だけが意思を持ったかのように舞い、隅に小山を作った。
「……はい、つるつる」
あっという間に、羽が抜けた鶏肉の姿が出来上がる。見慣れた光景だ。森の生き物は、時々こうやって食材になる。
次に包丁。
刃がまな板に当たる乾いた音が、一定のリズムで刻まれる。胸、腿、ささみ、手羽、皮。部位ごとに分けて、筋を落とし、脂を残すところは残す。火を入れた時に旨味が逃げないように、切り口を整える。
手は迷わない。迷わないが――途中で、有羽はふと動きを止めた。
(あ、切り過ぎたか……)
煮物にするには細かい。唐揚げにするには小さすぎるものもある。細切れが増えた分、選択肢が変わる。
(……いっそシンプルに『焼き鳥』にするか)
串に刺して、タレをつけて、炭火で焼く。考えた瞬間、舌が勝手に味を思い出す。甘辛いタレ。焦げ目の香り。噛んだ時に溢れる脂。火の強さと距離で変わる食感。
胃が鳴った。
想像しただけで、腹が焼き鳥を迎え入れる準備を整えてしまった。
有羽はため息を吐き、串を取りに行こうと振り返った――その瞬間。
「おわっ!?」
背後に、スキエンティアがいた。
さっきまで居間で「ぬふふふ」と不気味に笑っていたはずの女神が、気配もなく有羽の背後に立っている。いや立っているというより、有羽の背中から手元を覗き込んでいる。探検家みたいな格好のまま、眼鏡の奥の瞳をきらきらさせて。
「何してんのー? ……あ、ご飯作ってたんだ」
「びっくりしたー……いや、そうだよ。飯だよ。人間は腹が減るんだよ」
「神も減るよ?」
「減るのかよ」
さらっと即答された。
スキエンティアは、作業台の上を興味深そうに見回す。包丁の形。まな板の材質。整えられた調味料の瓶。壁際に置かれた魔導箱――有羽お手製の、なんちゃってIHコンロ。
この居住空間の外ではまず見ない代物だ。火ではなく、魔力で磁力を生み出し、鍋の底を発熱させる。安全で、一定で、温度調整が容易。料理に向く。だから作った。ただそれだけの調理器具。
けれどスキエンティアの目には「異界の道具」だ。
彼女は、目を細めてコンロの上に手をかざした。
「火じゃない……磁力を魔法で生み出してる……? なんでそんなこと……」
ぶつぶつ言いながら、彼女は指先を動かす。視線が渦の形を追うように泳いだ。
「あ、そうか。渦になってるのか。それで上に乗せた鍋を発熱させて……はー、なるほどねー」
一見しただけで仕組みを見通す。探求神の名に嘘偽りはない。
その頭脳の冴えは凄まじいが……そもそもの話として、台所を興味深そうに見ている点が有羽には気になった。
「……神様って、料理に興味あるの?」
有羽が半分呆れた声で言うと、スキエンティアは胸を張る。
「そりゃあるよ。昔から供物を捧げるのは定番だし。それに『調理』こそ技術発展の真髄じゃんか。より美味しく、より鮮やかに。工夫と挑戦の積み重ねが、一皿に乗るんだよ」
力説がやけに熱い。文化の話になると、女神は理屈ではなく「推し語り」になるらしい。
有羽は、少しだけ苦笑した。地球の記憶が勝手に蘇る。料理番組の熱。食への執念。季節の味。焼き鳥屋の煙。日本の食文化の面倒臭さと愛おしさ。
――戻れない、と知った直後に思い出すには、少々きつい。
だが今は、目の前の女神がそれを引きずり出してくる。
「それで、何作るの? まだ鶏肉しか切ってないけど?」
「焼き鳥。ようは串焼きだよ。今日は、基本にして王道で行く」
「おー!」
ぱちぱちと手を叩くスキエンティア。単純な料理を前に、退屈だとか言い出すかと思ったら、むしろ目が真剣になっていく。
不思議そうに首を傾げれば、むっとした様子で女神が答える。
「単純なモノにこそ、技術の誤魔化しが効かないんだよ。串焼きなんて、その最たるものじゃないか。焼き加減、串の刺し方、火力の維持……どれかひとつでも誤れば、不出来なものになっちゃうよ」
「よくご存じで。流石は神様とでも言っておくかい?」
「えっへん。それほどでもー」
鼻高々。分かりやすい。分かりやすい上に、妙に期待した顔で有羽の手元を見ている。
……有羽の中に嫌な予感が。
その期待に満ちた顔は見覚えがある。具体的に言うと、南王国の第二王女様が、毎回そんな顔で有羽の調理風景を見ているのだ。
「……え? もしかして女神さんや。アンタ食う気?」
有羽が確認すると、スキエンティアは固まった。次に、信じられないものを見る顔になる。最後に、じわっと涙目になった。
「え!? わたしの分ないの!? 酷いよそんなの!! 苛めだ! 神様苛めだ!!」
「神様苛めって言葉、初めて聞いたわ」
「苛め以外の何物でもないよ!! 美味しそうなモノを前にして食べれない、っていうのは精神衛生上良くないんだから!!」
「神様も、精神衛生とか言うんだ……」
「言うよ! わたしだって食べたい……食べたい食べたい食べたい!」
地団駄である。世界の上位神が、焼き鳥食べたくて地団駄である。
有羽は頭を押さえた。見目麗しい女神が食い意地張って涙目だ。神様とは何ぞや、と思わず哲学めいたことを考えてしまう。
けれど、どんなに考えても目の前の光景は変わらない。
ようするに、焼き鳥食わせない限り、駄々っ子は大人しくならない。
「だーもー、暴れるなって! 解った! 解ったから! アンタの分も焼く! その代わり、大人しくしてろ!」
「わーい!」
即座に泣き止む。現金である。神格とは何ぞや。
有羽は串を用意し、切り分けた肉を刺していく。皮は少しだけ脂を残して、火で落とす分を見越す。腿は繊維に沿って。胸は乾きやすいから厚めに。手羽は骨の位置を避けて刺す。部位ごとに分けるのは、焼き時間が違うから。
スキエンティアは横から覗き込み、いちいち頷く。
「うんうん、繊維に逆らわないの大事。あ、皮は端を留めた方が縮みにくいよね。……串の角度、良いね。火に当たる面が均一になりそう」
「いちいち解説するな。集中が散る」
「集中は美味しさに直結するからね……仕方ない。黙っていようじゃないか」
偉そうに黙る女神。有羽は青筋立てつつ、無言で串打ちを続ける。
結局、二人分の串が出来上がった。
室内で焼くのは煙が出る。なので外で炭を起こすことに。
庭へ出ると、結界の内側の空気が肌を撫でる。森の瘴気は浄化されているから、相変わらず清浄な空気。火起こし用の炉に炭を組み風を送ると、赤い点が生まれて広がっていく。
金網を置く。炭がパチパチ鳴る。
串を並べると、肉の脂が熱で溶け、じゅっと音を立てた。香りが立ち上がる。まだ焼けていないのに、香りだけで胃が暴れる。
スキエンティアが身を乗り出し、目を細めた。何か気になる事を見つけた瞳。
彼女は、金網をじっと見て――ふと顔をしかめた。
指先で網の縁をちょん、と叩く。金属が澄んだ音を返す。
「え? 神鉄? うわぁ、なんて無駄な使い方」
「文句あるなら食わなくていいんだぞ」
有羽が低く言うと、スキエンティアは一瞬で表情を変えた。
「嘘嘘! じょーだん! 冗談だってばぁ、もー。このこのー」
肘で有羽の脇腹をつついて誤魔化してくる。
その女神を無視しながら、有羽はタレ壺を取り刷毛で一度だけ薄く塗る。いきなりたっぷりは塗らない。焦げが苦くなる。薄く塗って、焼いて、塗って、焼く。層を作る。
串を返す。音が変わる。脂が落ちる。炭が鳴る。匂いが強くなる。
その瞬間――スキエンティアの腹が鳴った。
ぐう、と見事な音。
互いに動きが止まる。
「…………」
「…………」
妙な沈黙。
有羽が女神に視線を向けると、眼鏡の奥の瞳が盛大に泳いでる。
お腹の音なんて知りません、みたいな顔で遠泳中だ。
「うるせぇ女神だなぁ」
「あー! 言ったなー! 女神の失態を容赦なく指摘したなー!?」
「はいはい。もうちょっと待っててねスキエンティアちゃん。涎垂らしちゃ駄目ですよー」
「垂らしてないよ! 何言ってるんだい!! 女神を幼子扱いしないの!!」
言い返しながら、スキエンティアは串の焼け具合に釘付けになっていく。肉の表面が白く変わり、脂が透明に滲み、端に焦げが生まれる。炭の火力が均一になるよう、有羽は串の位置を少しずつずらす。熱い場所、弱い場所。風向き。炭の呼吸。
単純だからこそ誤魔化しがきかない――さっきスキエンティアが言った通りだ。
更にタレを刷毛で薄く塗る。焦げる前に、香りを乗せる。甘さが先に立つとしつこい。だから薄く、回数で重ねる。
じゅわ、と音が跳ねた。
タレの焦げる匂いが、森の中で異様に鮮明に広がる。
そして串は順に焼き上がっていく。
皿に乗せた瞬間、油が小さく光る。タレが照り、焦げが香る。湯気が上がる。
有羽は最初の皿を庭のテーブルに置き、スキエンティアに視線をやった。
「……ほら、出来たぞ」
「うん。それじゃ頂くね」
目を爛々と輝かせて、スキエンティアは一本を掴んでいた。熱さを気にした様子もなく、口へ運ぶ。上品でもなく、雑でもなく、妙に真剣な一口。噛む瞬間、彼女の目が一瞬だけ見開かれた。
次の瞬間。
「――うまっ」
誤魔化しの無い一言。
世辞も遠慮も無い、素直な感想。だからこそ、それは事実の宣告。
スキエンティアは串を握ったまま、固まった。目を瞬きもしない。口の中で味を分析している。甘味、旨味、香り、炭の苦味の輪郭、肉の繊維のほどけ方。情報の洪水を浴びて、脳で懸命に処理している顔。
そして処理が終わった瞬間、彼女の顔が崩れる。
「はぁ……おいしい。文明おいしい」
どういう感想だ、と有羽は思った。
けれど、本当に美味しそうに焼き鳥をもぐもぐ頬張る女神を見ていると……何か救われた気持ちになる。神様だって腹が空き、美味い料理の前では気が抜ける。
そんな現実が……少しだけ、有羽の中にある痛みを和らげてくれた。
(……わざと馬鹿みたいに振舞ってくれてんのかね)
視線を向けても、有羽には女神の心情は解らない。
彼女はただ、口の周りをタレ塗れにして焼き鳥を頬張るだけだ。
そんな間抜けな顔を見て、思わず苦笑してしまう。自然に漏れた日常の笑み。
女神の言葉で、僅かにあった「希望」を断ち切られた。
けれど同じ日に、同じ女神の振る舞いで……有羽の心は、少しだけ救われる。
そんな形容しがたい現実を前に……有羽は笑った。
ほんの少しだけ、まだ、笑えた。




