第79話・魔境の森と王国の辺境
食事を終え、炭火の匂いを纏ったままログハウスへ戻る。
扉を閉めると、外の森の湿り気がすっと遮られ、代わりに木材の乾いた香りと、室内に滞留した焼き鳥の甘い残り香が鼻先をくすぐった。結界があるから、煙も匂いも外へは流れない。家の中だけが、なんだか「屋台」みたいな匂いを放っている。
有羽は串や皿を片付け、手を洗い、布で軽く拭いた。炭は火鉢ごと外に残し、火が落ちるようにだけ魔力で整えてある。火の始末だけは、いくら面倒でも雑にできない。
一方のスキエンティアは。
「神は満足じゃー……」
満足顔でテーブルに突っ伏していた。頬がほんのり赤い。酒は出していないはずだが、何故か赤ら顔。黒縁眼鏡がずれ、空色の髪が頬に張り付いている。神らしい威厳はゼロ。あるのは、食後に動けなくなった人間のそれだ。
(……この女神、いつまで居る気だ)
有羽は椅子に座り直し、腕を組んだ。目だけを細め、突っ伏したままの女神を見下ろす。
「で、アンタはいつになったら帰るの?」
スキエンティアは顔を上げ、ぱちぱち瞬きした。
まるで「何でそんなこと聞くの?」という顔。
「え? 帰らないよ?」
「は?」
思わず、有羽の口から間抜けな音が漏れた。
スキエンティアも同じように首を傾げる。意味が分からないのはこっちだと言わんばかりに。
「だってぇ、まだ君の技術の話ぜんぜん聞いてないんだもん。聞き出すまで帰るつもりはありません!」
「威張って言うな! ここは俺の家! ボケ女神を置いとく暇はないんだよ!!」
「あー! またボケ女神って言ったー!!」
頬を膨らませてぶーたれる女神。上位神のはずの存在が、食後の子供みたいな反応をする。
しかし有羽も、今ばかりは譲れない。問題が多すぎるのだ。
外界に持ち出された蛇の分身。沈黙する女帝。森の内側も外側も、いつ崩れてもおかしくない。
そこへ「文化オタク女神」が居座る――面倒な事、この上ない。
「こっちは今、色々忙しいの! 文化オタクの女神様の相手なんてしてる暇ないの! 分かる!? 分かったなら、おうちに帰りなさい!!」
「えー!? やだやだやだ!!」
スキエンティアは椅子から跳ね起き、子供のように手足をばたつかせる。さっきまで満足げに突っ伏していたとは思えない暴れっぷり。
「わたしは君の知識を聞きに来たのに、焼き鳥食べただけで帰るのなんて、やだやだやだ!! もっと君の話聞きたい、技術見たい、君のこと知りたい!!」
「うるせぇ!! 他の世界の知識も根っこは同じだ!! 特別なもんじゃねぇ!! 積み上げて築き上げて出来上がったもんだ! この世界と根は同じだよ!!」
「そんなこと分かってるよ!!」
スキエンティアが机を叩いた。
思わず視線を向けると――想像よりも真摯な瞳。
「わたしは、特別な『何か』じゃなくて、積み重ねられた歴史の『道程』が知りたいの!! 人間達の頑張る姿が、手を伸ばす光景が、わたしにとっては知りたい『モノ』なの!!」
その言葉だけは、妙に真剣だった。
知識を「結果」ではなく、「過程」として愛している。だからこそ、南王国の記録に泣き、森の賢者の影を嗅ぎつけて、管轄外と知りながら地上へ降りた。
見た目が残念美人の駄々っ子でも、核心は神の探求。
有羽は額を押さえた。押さえた指の隙間から見える女神の目が、きらきらしている。悪意はない。ただ、欲がある。欲望の形こそが「探求」なのだ。
「……話が通じねぇ」
「通じてるよ! 君が拒否してるだけ!」
「拒否するに決まってんだろ!! 神様の滞在なんて誰が許可するか!!」
「なにさ! けちんぼ!! 減るもんじゃないんだし、いいじゃない!!」
「減るんだよ! 俺の精神の安定とかが!!」
ぎゃあぎゃあと言い合う女神と有羽。
互いに、やいのやいのと言い合って――いつの間にか言い合いは「言葉」を飛び越えていた。
スキエンティアが机越しに身を乗り出し、手を伸ばす。飯前にやったように再びしがみ付いてでも納得させる気なのだろう。
有羽は反射で手を出し、女神の手首を押し返す。同じ轍は二度と踏まない。
手と手が組み合わさった。
そして――手四つの体勢。
「ぐぎぎぎぎ……!」
「うぎぎぎぎ……!!」
見た目だけなら、ただの意地の張り合いである。年若い男女が、机を挟んで押し合っている。ほとんどコント。馬鹿なじゃれ合いだ。
だが中身は違う。
有羽の腕の周りに、見えない密度の塊が生まれる。空気がわずかに歪み、空間が一瞬だけ揺れる。
スキエンティアの側でも同じだ。指先の関節の動きに合わせて、概念術式が展開される。『怪力』という単語を、世界のルールにねじ込むような無茶なやり方。
ただし二人とも、本気ではない。
本気で押し合えば、机は割れる。床が抜ける。世界が世界でいられなくなる。
だから抑えている。
抑えているのに――抑えてなお、圧は滲む。
(こ、このボケ女神……! こんなトンチキでも神は神か! 押し切れねぇ……!)
(こ、この賢者……! 『怪力』の概念術式を編んで押してるのに、びくともしない……! これが八年前までは只の人間だった!? 冗談きつすぎ……!)
二人の視線が交錯し、互いの「格」を改めて測り直す。
有羽は理解した。目の前の相手は、女帝や天蛇と同じ側の存在だ。
スキエンティアは知ってしまった。目の前の賢者は、神がいるべき場所に立っている。
だからこそ、馬鹿馬鹿しい押し合いが実は危うい。
このまま力比べを続けた場合――先に世界に亀裂が入る。
それを同時に理解したから、ふっと二人が力を抜く。
ぱん、と乾いた音がして手が離れる。
二人とも反射で椅子を引き、距離を取った。ぶらぶらと手を振る。
……手首が痛む。骨が軋む。
お互いに本気ではないのに、身体に亀裂を刻んだ感覚だけが残る。
(見た目はただの残念美人だけど……マジでやり合ったら拙いなこりゃ。割に合わなすぎる)
(手、いった!? わたしじゃなかったら手首粉砕してるよ!? ……本気でやり合ったら、わたしでも危ないなぁ)
睨み合いが続く。
目は鋭い。口は悪い。そして二人とも頑固者だ。
けれど、ここで喧嘩しても得るものはない。損しかしない。
同格同士の喧嘩ほど、無意味なものはない。
(……妥協点)
(……譲歩点)
同時に、同じ結論へ辿り着く。
先に口を開いたのはスキエンティアだった。机に手をつき、真面目な顔になる。
「こっちの要求は『地球の知識』。それさえ教えてくれるなら、わたしは君の邪魔はしないし、大人しくしてる。それに、君の欲しい『知識』を教えてあげたっていい」
有羽は眉を寄せた。
話が急に取引になった。だがこれは、有羽にとってありがたい申し出である。
有羽が欲しいものは、今まさに情報だ。蛇の分身への対抗。森の仕組み。女帝の沈黙の意味。外界の政治の波。天に座す神なら、何かしらの俯瞰を持っているかもしれない。
だから、有羽は深く息を吐き――降参の形を選ぶ。
「俺の要求は『俺の周辺に迷惑かけないこと』。滞在は……構わん。諦めた。力尽くで追い出そうにも、労力と被害の方が大きすぎる」
「いえーい! やったー!」
スキエンティアが両手を上げ、椅子の周りをくるくる回り始めた。喜び方が子供である。
「喜ぶなっ! ホントは追い出してぇんだよ!! 仕方なくだ、仕方なく!!」
「仕方なくでも許可は許可だよ! へへーん!」
有羽の頭に、痛みが走る。女神が居座る未来を考える前に、すでに現在進行形でうるさい。
しかし同時に、有羽は思う。
この女神は、本当に新しい知識を知りたいだけだ。権力も侵略も興味が薄い。危険な意味での野心がない。その一点だけは、救いだ。
有羽は口を開いた。
「で。アンタが教えてくれる知識って、どこまでだ? 何でもって訳じゃないだろ」
「んー……わたしが教えられる限りなら、基本的に何でもいいよ?」
スキエンティアは軽く言う。だがすぐに補足する。
文化オタクではなく……神の顔で。
「普通の人間になら知識を与えることはしないけど……君なら大丈夫でしょ?」
「どういう理屈で言ってるんだか……」
「だって、知識云々の前に――君、その気になったら国のひとつやふたつ、簡単に壊せる力持ってるじゃない。わたしと同じで、さ」
有羽は黙り込んだ。
反論できない。概ね事実だからだ。
森の外に出なくても、やる気になれば国を焼ける。王都を沈められる。山を削れる。海を割れる。そういう確信が、自分の中にある。
そして――それをやっていない。
やる意味がない。やったら戻れない。実行したが最後、完全に人じゃなくなる。
スキエンティアは声のトーンを落とし、淡々と続けた。
「どういう理屈かって言われればそういう理屈。世界を揺るがせる力を持ちながら、その力を振り回していない。この森の中で留まってる……その時点で一定の信用はある。なら私の知識だって教えることができる」
探求神は、知識の果てにある災厄も知っている。
知識は火だ。暖も取れるが、街も焼く。
場合によっては、国すら壊してしまう場合がある。
だからこそ、彼女は普段、加護を与えない。眺めるだけ。記録を愛でるだけ。
「……一応考えてんだな。神話でも、アンタが人に加護与えた例は少ないし」
「ま、まあ、わたしの場合、他の神からも注意されてるから、元々加護与えられないんだけどね……」
スキエンティアが急に目を逸らした。指と指をつんつん合わせる。
この女神様は誤魔化す時、解りやすく目が泳ぐ。
「他の神?」
「うん。無暗に加護与えると、従属神の子達に怒られちゃう……」
「おい。部下に怒られてんじゃねぇか」
「部下じゃないもん! 同僚の、えーと……ちょっと下の子達……」
「部下だろ」
有羽が即座に斬り捨てると、スキエンティアは「うぐ」と喉を鳴らして縮こまった。
「だってさぁ、わたしが加護与えようすると、みんなして『駄目』って言うんだよ。『知識を配るのは違反です』って。『観察は構いませんが介入は駄目です』って。みんな厳しいんだよぉ……」
「……情けねぇ上司だなぁ」
「情けなくない! 注意されてるだけ!」
「それが情けないって言うんだろ」
有羽は呆れながらも、少しだけ安心した。
この女神には「縛り」がある。好き勝手に知識を配れない。だからこそ、世界は崩れていない。
そして、その縛りがあるからこそ――有羽にだけ例外が許される理由にもなる。
有羽は、溜息を吐いた。
「……分かった。邪魔しないならそれでいい。俺の知識も好きに訊け」
「やったー♪ さあ、色々聞いちゃうぞー」
「ただし、住み込みのルールは守れ。勝手に道具いじるな。勝手に術式触るな。勝手に結界に手を入れるな」
「了解! わたし、偉いから守れるよ!」
「最初に結界いじってたのは誰だ」
「……それは、えーと、探索の一環で……」
「反省してねぇな」
「してるしてる! 反省してるってば! ほら、このとーり!」
スキエンティアがわざとらしく頭を下げる。この女神は低姿勢になることを何も躊躇わない。威厳や見栄えより、知識の探求の方を選ぶ。
危険性は薄い。ただし無視はできない。放置するとうるさい。
厄介極まりないが……しばらく騒がしい同居生活になりそうな流れだった。
しかも期限が解らない。神の気が済むまで――それが果たして何日後の話なのか。
憂鬱な気持ちになりつつ……有羽はふと思った。
「あのさ、女神さん。ここに滞在するのは解った」
「うんうん! しばらくの間よろしくねー!」
「むかつく笑顔、どうもありがとう。……それでちょっと聞きたいんだけど、おたく大丈夫なの?」
「? 何が?」
「いや、だから地上にホイホイ降りてきて滞在なんてして。部下の従属神に怒られたりしないの?」
そこまで言って、ぴたりとスキエンティアが固まる。
徐々に目が泳ぎ、汗がだらだら流れ始め、息を止めるように頬が膨らんでいく。
顔を見ただけで解る。大丈夫じゃなさそうだった。
「……言っておくが、俺は一切庇わないからな。もし他の神が訪ねてきたら、速攻でアンタ突き出すからな。覚悟しとけよ?」
「ええっ!? そんなのってないよ!? 助けてよー! みんな怒る時怖いんだよー!!」
「だったら帰ればいいだろうが!! ほら、お帰りはあちらですよ!!」
「やだやだやだぁー!!」
「うるせぇ!! そして何度も言うが、しがみつくんじゃねぇ! それでも神かアンタは!?」
「神だってしがみついて徹底抗戦する時があるんだよっ! 今がその時! ……ああああ、待って待ってそっちは玄関だよ!? 引き摺っちゃやだぁー!!」
ぎゃあぎゃあ。
結局、有羽にしがみついて喚く女神と、そんな女神をズルズル引き摺りながら出口に向かう有羽。森の静けさとは真逆の騒がしさが、ログハウスの中に広がる。
有羽はしがみついてくるスキエンティアを見て、ふと思った。この女神、構ってないと暴れる大型犬そのものだ、と。放置すると文句を言い、無視すると暴れるわんこ。実際の愛玩犬なら、可愛いだけで済むのかもしれないが、相手は生憎と神である。あまりに厄介すぎる。
けれど……有羽の中の何かが、この女神に対して直接的な排除を拒む。
その理由は、有羽自身解っていた。
この女神は少しだけ――アウローラに似ているのだ。
あのお日様みたいな王女様も、放置すると駄々っ子になってしまうから。
だから少しだけ、情が動いている。僅かに似ているスキエンティアに。
(……今頃、何してるのかね。まあクロエが傍に居るから安全だと思うけど)
今はいない、南王国の第二王女。
彼女は王国と帝国の国境に向かい、帝国の動きを見張っている最中。
そんなアウローラの様子を――ふと考えた。
◇◇◇
そこはアウストラリス王国の北東端。
海の匂いも、山の影も届かない。見渡す限りの草原が、緩やかなうねりを繰り返して遠くへ遠くへと続き、一本の大河がそれを割るように流れている。遮るものがない分、空は広く、風は容赦がない。吹き付ける風は草を撫で、草は波のように揺れ、揺れはそのまま国境の「緊張」を伝える合図のよう。
ここは最前線だ。
地図の上の線――国境線が、そのまま現実の境界になる土地。踏み違えれば、国と国がぶつかり合う。人の暮らしが燃え、畑が荒れ、川が血で赤くなる。
名をグラードライン辺境伯領。
そして、その中心に座すのが要塞都市グラードラインである。
遠目にもそれは「街」というより「機構」だった。城塞・軍需倉庫・鍛冶街がひとつの塊になり、戦のために組まれた歯車が、日々きしみながら回っている。
城壁は、対人戦のための見映えを捨てている。見栄えよりも現実を重視する壁。
厚い土塁の上に石壁が重ねられた複層構造。砲撃を受けた際に衝撃を逃がす角度と、魔物突撃を受け止める重量。土塁には幾重にも補強材が埋め込まれ、石壁には修繕用の溝と引き上げ具が規則正しく並んでいる。城壁の外側には浅い堀、堀の外側には、踏み固められた殺風景な地帯が広がっていた。敵も魔物も、近づけば必ず見える。近づけば必ず射貫ける。近づけば必ず――殺せる。
城門の周囲には、倉庫群が張り付くように建ち、木箱が積まれている。箱の側面には軍の刻印。中身は矢、穀物、干し肉、予備の弦、鉄。鍛冶街は更にその奥。叩く音が絶えない。昼も夜も、炉は燃える。戦はいつ来るかわからない。だから準備は常に「今」だ。
この領地には二つの軍がある。
一つは、対帝国を念頭に置いた「国境軍」。侵入、偵察、砲撃、補給線工作の兆候――その芽を先に潰すための軍隊。前に出るより先に、潰す。最前線は、力ではなく目と耳と足で勝つ。
もう一つが、魔物討伐を主とする「境界狩猟軍」。国境付近に出現する魔物や野盗を掃討し、街道を保ち、村落の暮らしを守るための軍隊。森から来るもの、草原から来るもの、川から来るもの。帝国だけが敵ではない。この土地は「境界」そのものが敵だ。
この二つを束ねるのが、グラードライン辺境伯領。
辺境伯が座する城は、大城ではない。豪華ではない。けれど堅牢で、機能的で、戦に向けた設計だけは徹底している。石段は広く、廊下は短い。連絡が遅れない。致命傷になるほどの遅れを、許さない。
そして、その城の修練場には――汗と金属音と、緊張が満ちていた。
砂を敷いた床。周囲には木柵。訓練用の標的が並び、壁には打撃痕が刻まれている。観覧席と呼ぶには簡素な階段状の足場に、境界狩猟軍の兵士や従者が数名。彼らは声を出さない。視線だけが動く。ここで行われるのは、ただの稽古ではない。国境の未来の縮図だ。
相対しているのは二人の女性。
ひとりはセシリア・フィナ・グラードライン。
齢は十八。辺境伯の娘であり、境界狩猟軍の中隊長。礼儀正しい貴族令嬢の立ち姿を保ちつつ、その内側に鋼がある。髪は戦闘に邪魔にならぬようまとめられ、動きやすい訓練服の上から簡素な胴当てを着けている。装飾は少ない。必要なものだけ。手に持つ模造剣の柄でさえ、飾りではない。握りの擦れが、積み重ねた時間を語っていた。
セシリアが求めるのは、美しさではない。
国境を護る強さだ。
その瞳に映るのは、茶会の席ではなく、草原の地平線である。帝国の砲列の影であり、魔物の突撃である。民の泣き声であり、兵の血である。そういうものに背を向けないために、彼女は剣を握る。
そして、そのセシリアの前に立つ相手は――第二王女アウローラ・ウィル・ミラ・アウストラリス。
金色の髪を高く束ねたポニーテール。青空のような瞳が、真っ直ぐにセシリアを捉えている。手には同じ模造剣。だが、剣の「重さ」が違う。持ち方、重心の置き方、呼吸の仕方――そこに積み上げた実戦の時間が滲んでいる。
見た目は可憐な金の姫。けれど中身は英雄級。
セシリアは、自分の心臓が普段より速く刻んでいるのを自覚していた。鼓動は胸の内側から響き、指先まで震えを伝える。汗が額に浮かぶ。訓練場の風は乾いているのに、皮膚が妙に湿る。
圧。
アウローラから放たれているものは、威圧ではない。脅しでもない。ただ、実力差がそのまま空気を重くしている。目の前に立つだけで、「遥か上」からの圧を突きつけられる。
セシリアは知っている。
この二年、アウローラは魔境の大森林へ幾度となく足を踏み入れた。帰ってくるたびに、謎の情報と、貴重な素材と、そして「生きて帰った」という実績を持ち帰った。生きて帰ることは、最も単純で最も難しい勝利だ。
セシリアはアウローラを尊敬している。目標としている。
だからこそ、今日、胸を借りようと願い出た。
――だが。
向かい合った瞬間、思った以上に差が大きいことを知る。
強い相手と対峙したとき、人は二つの反応をする。飛びかかるか、固まるか。
今のセシリアは、後者だった。
剣を構えているのに、足が動かない。踏み込むイメージが作れない。脳が一瞬だけ「無理だ」と囁く。そんな囁きが、全身の筋肉を硬くする。
その刹那を、アウローラは見逃さなかった。
不敵な笑み。戦場に出る者の笑み。
「どうしたセシリア嬢。国境に魔物が迫った時も、そのように立ちすくむだけなのか?」
「――――」
言葉が、刃のように刺さった。
セシリアの背筋が、ぞくりと冷える。熱で茹っていた思考が、一気に研ぎ澄まされる。そうだ。国境で、魔物が迫ったとき、帝国の偵察が忍び寄ったとき、立ちすくむ選択だけは取れない。
辺境伯の娘として、そして中隊長として。
負ける時もある。傷つく時もある。だが、動かないのは罪だ。
セシリアは小さく息を吸う。肺を満たし、腹に落とし、視線を前に固定した。剣先が僅かに揺れ、その揺れを手首の角度で殺す。呼吸と共に、身体が「戦う形」に戻っていく。
「――行きます」
声は低く、短い。
アウローラの目が、満足そうに細くなる。
「――来い」
セシリアは一気に踏み込んだ。
砂がはねる。足元の沈み込みを計算し、重心を前へ。狙いはアウローラの手首。武器を落とさせる。模擬戦であろうと、最短で勝ち筋を取りにいく。境界狩猟軍の中隊長の判断は、実戦の癖。
剣が走る。鋭い直線。迷いが消えた分、速度を増した。
――並みの兵士なら、手首を打たれ、模造剣を落とす。
だが、相手はアウローラだ。
彼女は受け止め――否。受け止めただけではない。受け止める瞬間に、セシリアの剣の軌道と体重の移動を読み切る。
衝撃。
セシリアの腕に、岩壁を殴ったような反動が跳ね返ってきた。剣が震える。握りがぶれる。手首が痺れる。防御の技が、重く、固い。剣と剣が噛み合った場所から、鈍い音が響いた。
セシリアは歯を食いしばる。腕だけではない。全身が受け止めている。脚が踏ん張り、腰が支え、背が耐える。
アウローラは、そのまま余裕の声で言った。
「良い剣撃だ。芯に響く」
「……っ!」
こちらの台詞だ、とセシリアは心の中で叫ぶ。芯に響いているのは、むしろ自分の骨の方。
だが喉は鳴らない。声を出す余裕がない。ここで息を乱せば、鍔競り合いの圧に負ける。負けた瞬間、姿勢が崩れ反撃が入る。実戦ならそのまま死ぬ。
セシリアはアウローラの腕の動きを見ようとする。肩の微細な捻り、肘の角度、足の向き、重心の位置。隙を探す。しかし、どこにも隙が無い――いや、違う。
無いのではなく。
作られていない。
隙を与えない姿勢。隙を見せない呼吸。攻めを誘って崩すのではなく、崩れないように立ったまま勝つ。
アウローラは、鍔迫り合いから軽く力を抜く。その瞬間、セシリアが前へ崩れかける。それを見越して、アウローラの剣が迫る。
「動かないのなら――こちらから行くぞセシリア!」
旋風。
連撃。
模造剣とは思えない鋭さ。叩きつけるのではなく、斬る。正確には斬るのではなく、制圧する。剣が空気を切る音が、ひゅ、と短く鳴る。セシリアは必死で受ける。受けるたびに腕が痺れ、受けるたびに足場が削られる。
攻撃は重い。だが重いだけではない。速い。間がない。間合いの管理が徹底している。セシリアが反撃しようとした瞬間に、必ずその芽を潰す一撃が来る。
防御で手一杯。
それでも、セシリアは食い下がる。境界狩猟軍の中隊長として、誇りがある。国境を守る者として、ここで折れるわけにはいかない。
(まだ……まだぁ……っ!)
剣を受け、弾き、防ぎながら。
目だけは死なずに、次の手を探し続ける。
――そして、その瞬間が来た。
セシリアの意識が剣先に吸い込まれ、わずかに足元への注意が薄れた。
その一瞬。
アウローラの足が、滑るように動いた。剣ではない。剣のための足。戦場のための足。相手の「土台」を奪う足。
セシリアの足首が払われる。
「――あ」
視界が一段下に落ちた。膝が崩れる。尻餅をつく。砂が舞う。呼吸が詰まる。
次の瞬間、首元にひやりと添えられる模造剣。
触れているだけ。力は乗っていない。けれど、それが逆に明確だった。
これ以上は要らない。
これで終わり。
あまりに鮮やかな詰みの一手。セシリアは、呆れと納得と悔しさが混ざった苦笑を漏らした。剣に集中しすぎて足元を疎かにする――自分が最も嫌う失態を、完璧に引き出されてしまった。
いや、正確にはアウローラが、戦場で勝つための手を躊躇なく選んだだけ。そこに王族の甘さはない。実戦の現実がある。
セシリアは両手を上げた。
「――降参です。アウローラ殿下」
首元の剣がすっと離れる。アウローラが一歩引く。
そして向けられた顔は――同じ女性であるセシリアですら胸が高鳴るほど、眩しい笑顔。戦場での厳しさと、日向の温度が同居した笑顔。
セシリアは、そこに「王国の強さ」を見た気がした。押し付けではない。叱咤でもない。強くなれ、と言うだけでなく、強くなるための痛みを必要な分だけ与える笑顔。
「いい剣だった。流石は国境を守り抜く辺境伯の娘。セシリア嬢のような者が国境を護ってくれることを嬉しく思う」
アウローラが言う。汗を払う仕草が軽い。呼吸が乱れていない。
セシリアは悔しさを飲み込み、立ち上がろうとした。脚が少し震える。だが、それも含めて自分の現実だ。現実を直視しなければ、国境は護れない。
「……殿下。わたしは、まだ足りません」
「足りないのは当然。私も足りないよ」
アウローラはさらりと言った。そこに驕りはない。むしろ、驕る暇がない者の言葉。
「世界は、私達が思ってるよりずっと早く動く。帝国も、魔物も、風も、川も。だから――動ける身体と、動ける心を作ろう。君の剣にはその心があった。ならば後は身体だけ」
そしてアウローラは手を差し出す。
セシリアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。尊敬が、ただの憧れで終わらない。目標が、手の届かない天上で終わらない。
悔しさはある。圧倒された事実は消えない。
だが同時に、前へ進む道が見えた。
手を取り立ち上がるセシリア。
握る手が温かい。ともすれば華奢な姫の手なのに、伝わる力は強い。
日向のような強さ。民の前に立ち、上で見守り、剣を握る王族の手。
「……ありがとうございます。殿下」
自然と頭を下げる。下げずにはいられない。
頭を垂れて忠誠を誓わずにはいられない、天性の王聖が目の前にあった。
アウローラはそんなセシリアの様子に、ただ肩を竦めて応える。
「礼はいらぬ。お互い国を守る者同士だろう?」
その言葉にセシリアの胸が高鳴った。
王都から離れた辺境で、血と土に塗れる自分達を「同士」と言ってくれる王女がいる。
それだけでセシリアは、天にも昇る気持ちを抱いた。
修練場の土埃の向こうで、鍛冶の音が響く。
鉄を叩く音。兵が走る足音。遠くの河が流れる音。
ここは最前線。
それが、要塞都市グラードラインの日常だった。




