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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第五章

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第77話・女神への問い掛け


 ログハウスの中は、外の森と切り離されたように静かだった。

 木の香りが淡く残り、木の床は素足にやさしい。窓の外には、結界越しの緑がぼんやりと揺れている。鳥の血抜きの匂いも、湿った土の匂いも、ここへ入った瞬間に薄れていく。居住空間の空気は乾きすぎず、寒すぎず、いつも通りに整っていた。


 その整いが、今は緊迫感を逆に高めている。


 居間のテーブル。そこに向かい合って、有羽とスキエンティアが座っている。椅子の脚がわずかに軋み、音がやけに大きく感じた。


 有羽は腕を組んで、ジト目のまま動かない。普段なら、湯を沸かすなり茶を出すなり、最低限の客人対応はする。だが今は、そんな気分ではなかった。そもそも客人かどうかも怪しい。結界をピッキング行為して侵入未遂をやらかした時点で、客ではなく案件である。


 一方のスキエンティアは、背筋を丸めて指と指をツンツン突き合わせながら、上目遣いで有羽の顔色を伺っている。さっきまで森で「おりゃー」と喚いていた人間が、今はしおらしくしている。何か言いたげに唇を開きかけては閉じる。

 室内の空気が、妙に重い。


(神。探求神。この世界の、五柱の上位神の一柱)


 有羽の思考は、声に出さず高速で回っていた。

 この世界には十柱の従属神がいて、その上に五柱の上位神がいる。そんな話は、どの国にも伝わっており、森に引きこもっていても耳には入る。女帝からも、さらっと聞いた。役割、司る概念、信仰者の傾向、加護の気まぐれさ。


 探求神スキエンティアは、特に名が通っている。

 学者、職人、鍛冶屋、魔導研究者、医術師、料理人――何かを作り、積み上げ、試す者が口にする「憧れの神」。実際に加護を受ける者は少数だが、名前だけは軽い祈りと一緒に世界中を飛び回っている。親しみやすいというより、生活の隙間に入り込んでいる。

 知名度という点で言うのなら、おそらく世界最高峰の上位神。


(そんな神が……こんな……ねえ?)


 改めて、目の前の女を見る。

 黒縁眼鏡。淡い空色の髪。探検家みたいなジャケットとズボン。腰にポーチ、肩にバッグ。

 そこだけならば普通の人間。

 けれど顔立ちと容姿が、あまりに整いすぎている。

 目、鼻、口……パーツの配置があまりに美しすぎる。そして洒落っ気の無い服装だから気付きにくいが、身体の起伏が見事すぎる。出るとこは出て、引っ込むところは引っ込む。

 容姿端麗という言葉を、正しく形にした姿。

 見た目だけで「人間ではない」と納得できてしまう。そんな美女。


 だが、有羽の脳裏には、結界の前で床に座り込み、髪を掻き乱しながら「ひねくれ過ぎ!」と喚いていた姿が焼き付いている。あの絵面を見た後で「上位神です。偉いんです」と言われても、感想が迷子になる。実際、今の有羽の目は「珍獣」を見る眼差しだ。判断に困っている。

 どう対応しろというのか。拝むべきなのか。追い返すべきなのか。そもそも追い返せるのか。


(……いや、それ以前に)


 有羽は、内心で舌打ちする。

 容姿云々よりも、最初の前提が問題なのだ。

 つまるところ――。


(何で俺のとこに来てんだよ、この神様)


 そこが分からない。知識と探求と創造の神が、わざわざ森の奥の引きこもりを訪ねる理由が見えてこない。敵意がないのは、動きや言葉の端々で分かる。分かるが、それはそれで厄介だ。敵なら斬ればいい。敵じゃない相手の好奇心を、一体どう対処すればいいのか。

 沈黙が長くなりすぎて、有羽は先に口を開いた。


「あー……で、探求神様だっけか。アンタは何しにこの森に? というか俺のとこに? 何も無いだろ、こんな場所に」


 わざと雑に言う。神だろうが関係ない。ここは自分の住処で、相手は侵入未遂の容疑者だ。敬語を使う義理が無い。

 だが、その問いに対しスキエンティアの瞳が一瞬で光った。


「何言ってるの!? ありまくりだよ!!」


 急に声が大きくなる。テーブルにバンと手を当てて、身を乗り出してくる。さっきまでの上目遣いは一瞬で消えた。目の奥で、炎が燃えている。


「あそこに見える台所も! 壁についてる空調を整えてる変な箱も! 棚の保存容器も! 床の断熱のやり方も! 全部……全部っ、現在の文化レベルを大きく超えてる!!」

「……声、でかい。ちょっと落ち着け」

「だって興奮するんだもん!! 落ち着いてなんていられないよっ!!」


 真顔で言い切った。理屈を通す顔ではなく、感情で押し切る顔。想像上の神様にあった荘厳さや威厳からは、対極にある勢い。だが彼女にとっては「いつも通り」なのだろう。理性の割合が少ない。あまりにも探求心と好奇心に寄りすぎている。

 有羽は肩を落とし、ようやく合点がいった。


(……なるほど。そういうことか)


 南王国で再現が進んだ品々――料理、衛生、生活道具。あれは人間にとっては革命だが、神の目から見ればもっと露骨に「異物」として映る。時代の段差が、目に見える形で表出している。源泉を辿れば、必然的にここへ引っかかる。

 拳を握って熱弁するスキエンティア。眼鏡がずれそうになるのを、指で押し上げる。


「南王国で突然発展し始めて! わたしが天界でどれだけ驚いたかっ!! 我慢できなくなって探しに来たんだから!! この技術の起点はどこにあるのかって!!」

「よく辿れたもんだな。王都で結構再現されてるとはいえ……いや、逆か。王都で再現されてるからここまで……」

「それだけじゃないけどね」


 有羽が言いかけた瞬間、スキエンティアは頬を膨らませた。

 そして、じとーっとした目で有羽を見てくる。

 拗ねた女の子みたいな顔。


「……君、わたしに信仰心抱いてるでしょ。すごーく、おざなりな信仰心」

「……は?」


 思わず声が間抜けになる。有羽は眉を寄せ、反射的に問い返した。


「信仰心? 俺が? アンタを?」

「してる! すんごく細い糸みたいな薄い信仰だけど……してる。片手間に信仰してるのが丸分かりなのに……何でこれで、信仰が成立してるのか凄く不思議なんだけど」


 不満げに、ぷくーっと頬を膨らませたまま言う。整った顔のままで。

 元が良いと、不満げな顔ですら可愛く見えてしまう――そんな場違いな感想を有羽が抱く。

 つい視線を逸らし、有羽は考える。


(信仰……信仰? 俺が異世界の神様を? いやいや無い無い。そもそも俺、日本生まれの日本育ちだぞ? 異世界の神様を信仰はおろか、誰かと神様に関して話したことすら――)


 そこまで考えて、脳内で一つの会話が浮かび上がった。

 アウローラと、森の中で交わした会話。レジーナが訪れた時に、話の流れで信仰する神の話になった時があった。

 あの時、有羽は。




 ――なあ、有羽は……なんの神様を信仰してるんだ?

 ――俺はそうだなぁ。探求神スキエンティア様、だな。




「あ」


 思わず漏れた音に、スキエンティアの目が細くなる。


「なにその顔? そういえばそんなこともあったなぁ、みたいな顔。……わたし、これでも上位神だよ? もうちょっと真剣に拝んでもいいと思うんですけどー?」

「いや、あれは……」

「なに? 言い訳?」

「……悪い、誤魔化しに使った」


 ぽつりと呟くと、スキエンティアが一瞬だけ固まった。

 次の瞬間、頬を膨らませたまま机をバンバン叩く。


「誤魔化しぃ!? わたしに対しての信仰を誤魔化しに使ったの!? いくら何でも酷過ぎない!? これでもわたし神様だよ!? 失礼すぎでしょ!!」

「んなこと言われてもなぁ……ってか、そこが謎なんだけど。あんなちょっとした会話で、神様と縁って結ばれるのか?」

「……普通、結ばれないはずなんだけどなぁ」


 スキエンティアは頬を引っ込め、今度は少し真面目な顔になった。指と指を合わせた手元を見つめ、何かを選ぶように言葉を組み立てる。


「ただ、賢者君の場合は……元の力が大きいから、そのせいだと思う。薄い信仰でも「糸」になっちゃう。そういう、変な成立の仕方をしてる」


 淡々とした説明。だが、そこに混じる「探求」の気配が隠しきれていない。

 スキエンティアは続ける。


「こうして直接見て余計に解っちゃう――わたしと君、殆ど同格だからね」


 室内の空気が、ほんの少しだけ張る。

 有羽は内心で同意していた。目の前の女は、「神」だ。冗談でも比喩でもなく、本当に超常の領域にいる。力の密度が、存在の重さが、言葉の端々に滲んでいる。普段はそれを隠しているのだろうが、こちらの目からは誤魔化せない。


 そして同時に、彼女の言う通りでもある。

 有羽の存在格は、目の前の女神と同じ位置に立っている。

 理屈ではなく「解る」のだ。目線が同じだと。感じているモノが同一だと。


「正直、わたしと同格の存在なんて滅多に居ないから……それだけでも多少は気になってるんだけどね」

「多少かよ」

「多少だよ」


 即答。迷いがない。有羽が神と同格な事実は、彼女にとっては些事。

 スキエンティアにとって大事なのは別の事。

 その別の事柄が知りたくて――今、顔を輝かせているのだ。


「わたしからすれば君の素性はオマケで――知りたいのは君の知識! どんな技術を知ってるの!? どんな概念を知ってるの!? その知識の底はどこまで深いの!?」


 身を乗り出し、机を両手で掴んで、ずいっと顔を近づけてくる。瞳孔が開ききっていて、目が怖い。好奇心の火力が強すぎる。


「いきなり身を乗り出すな! 瞳孔かっぴらいて近づけるな! 怖ぇんだよ!」

「怖がられても止まらないよ!」


 有羽が椅子を引いて距離を取ろうとした瞬間、スキエンティアの動きが速かった。

 椅子の脚が床を擦る音。次いで、布擦れ。スキエンティアは椅子から滑り降りるようにして、テーブルを回り込む。そして――有羽の足へ、ためらいなくしがみついた。


「ね? ね!? 教えて教えて!!」

「うわっ、何してんだ!?」

「君の知識! 君の技術! その体系!! 気になって気になって、居てもたってもいられなくなっちゃったんだから!!」

「神様が抱きつくな!」

「神が抱きついちゃいけないって誰が決めたのさ!?」


 顔を上げて叫ぶスキエンティア。むっはー! と雄たけびを上げながら……けれど真剣そのものの目で。情熱の燃え上がり方が酷い。一度火をくべれば、燃え続ける焚火だ。


「体の火照りが収まらないんだよ!! こんな体にした責任取ってもらわないと!!」

「誤解を生みそうな発言するんじゃねぇ!!」


 有羽は顔をしかめた。本当に色々困ってる。

 スキエンティアは見た目は美女だ。すんごい美人だ。スタイルも……はっきり言って格別に凄い。抱き着かれている脚を通して、豊満な胸の感触が伝わってくる。布越しだって言うのに破壊力が大きい。

 健全な男子としては無視できない。無視しなくちゃいけないのにできない。

 悲しい男の性である。


「縋りつくな! しがみ付くな! 神様だろアンタ!?」

「神が縋っちゃいけないって誰が決めたのさ!? 馬鹿言うんじゃないよ!! 神だって、全てを掛けて叶えたい欲求があるんだから!!」

「いいから離れろっての!!」

「いやだね!! 教えてくれるまで離さないよわたしはっ!! スキエンティアの執着を甘く見ないことだね!!」

「だー!! 解った! 解ったからとりあえず離れろ、このボケ女神!!」

「ボケ女神言った! 今ボケ女神って言った!」


 ぎゃあぎゃあ。

 森の主と天上の女神が、まるで痴話喧嘩の様相。

 傍から見ると、彼氏に縋りついて引き留める彼女に、見えない事もない。

 だが、実際は違う。探求心を拗らせた女神の暴走に四苦八苦する哀れな男の、必死の抵抗だ。


 静かな森の中で、ぎゃーすか騒ぐ男女がいる。

 残念ながらそのトンチキ騒ぎを止める人材は、この場には居なかった。





 ◇◇◇





 ――それからしばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した頃。

 ログハウスの居間は、まだ若干の熱気を保ったままであった。


 そこに、息を荒くした女神と、汗だくの有羽がいた。

 スキエンティアは頬を赤くし、鼻息まで荒い。むはー、むはーと胸を上下させ、目の奥にギラギラした火を灯したまま、有羽の方へ今にも突進してきそうな気配を漂わせている。本人は自覚がないのか、あるいは自覚しても止める気がないのか。どちらにせよ、危険な動物みたいである。


 有羽は、どうにかこうにかその女神を引き剥がし、テーブル越しに距離を取っていた。椅子を一脚分ずらし、半歩引き、呼吸を整えて、噴き出る汗をどうにか抑えようとする。

 そして両手はファイティングポーズ。全力の防衛姿勢であった。


(よく解った。この女神様、一言で言うと「文化オタク」だ)


 知識というものに目がない。技術が発展していく光景が大好き。未知の概念が一つでもあると、居てもたってもいられなくなって突っ込んでくる。理性で止まるタイプではない。

 地球にいた頃、アイドルの追っかけは珍しくなかった。推しのライブがあると聞けば遠征し、グッズを買い、帰りの新幹線で泣く。そういう熱量の偏りを、有羽は知っている。

 目の前の女神は、それと同じ匂いを持っている。

 ただし推しているのは人ではない。文化だ。知識だ。試行錯誤だ。積み重なっていく記録と改善の軌跡だ。

 ――厄介である。それもとんでもないレベルで。


(……まあ、俺と敵対したり、大陸に戦火をもたらすとか……そういう危険性が無さそうなのは安心点かな? くっそ面倒な女神様なことに変わりないけど)


 神話に残るスキエンティアは、人を呪い殺す神ではない。災厄を撒く神でもない。むしろ背中を押す神だ。人の創意工夫が芽吹くと喜び、研究が進むと泣いて喜び、世の発展を面白がって見守る。


 ただし――善とは限らない。

 技術が進めば、人は便利になる。同時に、人は殺しやすくもなる。鍛冶が進めば剣が鋭くなり、魔導具が洗練されれば兵器が手軽になる。それを抑えるブレーキが、彼女にはない。

 彼女は、ただ「見守る」。

 だからこそ、ブレーキは人間側が握るしかない。人が律し続ける限り、彼女は害をなさない。逆に、人が欲に負けても彼女は止めない。


 だが、今の時点で有羽にとって厄介なのは、スキエンティアのこういう性質そのものより――森の外に出た蛇の分身の方だ。あちらは何をしでかすか、予想がつかない。

 それに比べれば文化オタク女神は、少なくとも目下の爆弾ではない。

 スキエンティアは方向性だけは解りやすい。

 満足するだけの餌を与えれば大人しくなる。たぶんきっと。


 そう判断した瞬間、有羽の中で一つの方針が固まる。

 それに――有羽自身にも、目論見がある。


(……相手が「神」だって言うんなら、聞きたい事もある)


 今まで胸の奥に沈めていた問い。どうせ答えはないだろうと諦め、考えるのを止めていた問い。それが、目の前にいる「上位神」の存在によって、再び浮上してしまった。


 ずっと心の奥底に眠らせていた問いだ。

 それを聞く、数少ない機会。


 有羽は椅子に深く腰を下ろし、テーブルの向かいのスキエンティアを見た。

 女神の目はまだギラついている。大好物の皿を目の前に置かれ、「待て」と言われた犬みたいな顔だ。頬が赤く、呼吸が早く、肩が上がっている。

 ――うっかりすると噛まれそうな雰囲気。


「とりあえず女神さんや」


 有羽は声の温度をわざと低くして、相手のテンションを下げにかかる。


「アンタの願いは解った。俺の知識を知りたいんだな?」

「うん! うんうん!!」


 スキエンティアは即答し、勢いよく頷く。髪がふわりと揺れ、黒縁眼鏡がずれかける。直している間も目は有羽から離れない。


「お姉さんはそれが知りたくて、もうどうにかなっちゃいそうなんだよ!! 教えてくれるまで動かないからね!!」

「……解った。解りたくないけど、解った」


 有羽はこめかみを押さえた。動かないと言いつつ、無視すれば猛犬のように飛び掛かってくるのは確認済みだ。身を以て知った。まだ若干、足に柔らかな感触の名残がある。

 その感触の記憶を振り払うように、真っ直ぐスキエンティアを見据える有羽。


「俺が教えられる限りは教える……その代わり、と言っちゃなんだけど、俺もアンタに訊きたいことがある」

「え? わたしに? いいよいいよ!」


 女神はぱっと表情を明るくして、椅子から身を乗り出す。今にもテーブルを越えてきそうになるのを、有羽が手のひらで制した。

 それでも止まる様子は全くなかったが。


「お互いに知識交換しよ! すぐしよう今しよう! 互いに探求し合おうよ!!」


 勢いが凄い。まるで尻尾を振る「わんこ」だ。サモエドのような大型犬が、全身で突撃してくる幻影が脳裏に浮かぶ。

 その幻影のせいで……脳裏に焼き付いた、「別の笑顔」が浮かびあがる。



 太陽みたいな笑顔。呼んだらすぐ飛んできそうな、わんこみたいな第二王女。自分の名前を呼ばれただけで幸せそうに頬を赤らめる、あの子。

 ――アウローラ。

 有羽は、その姿を頭の奥へ押し戻すように息を吐いた。


 今から口にする言葉は、もしかしたら。

 ……もしかしたら、あの子を悲しませるかもしれない。

 それでも――聞かずに済ませることができなかった。



「なあ女神様」



 声が、思ったよりも乾いていた。

 ずっと目を逸らしていたのに、いざ口にすると思考が揺らぐ。

 それでも……それでも、一縷の望みをかけて、有羽は問うた。




「アンタ――異世界から転移した人間のこと、知ってるか?」




 スキエンティアの表情が、瞬時に変わる。

 ギラついていた好奇の熱が、一旦静まった。目を丸くし、口が少し開いた。何を聞かれたのか理解するのに、時間が掛かっている。

 神ですら、理解の外から掛けられた問い。


 有羽は、そのまま続けた。

 息を吸い、言葉を紡ぐ。ずっと閉じていた扉を、錆びついた鍵で開けるように。




 有羽が八年前、この世界に来たこと。元の世界があり、そこでは空が高く、街は光っていて、夜にコンビニが開いていて、冬の駅のホームは寒くて、夏のアスファルトは熱かったこと。

 それを「地球」と呼ぶこと。

 そして、自分の知識が、その世界の文化によるものだということ。


 ――長い語りになった。


 初めは理屈で語った。次に出来事を語った。途中から、思い出を語った。思い出すつもりのなかった匂いまで口にした。

 夜のイルミネーション。梅雨のじめつき。夜更けの自販機の灯り。深夜のコンビニのBGM。湯気の立つカップ麺。冬の息の白さ。何でもない日常の断片。

 それらはこの森の快適さと引き換えに、ずっと遠ざけてきたものだった。

 言葉にするほど、胸の奥がじわりと痛む。出血ではない。傷口に触れた時の鈍い痛み。

 有羽は最後まで語り終えた。途中で止めなかった。


 止めたら――二度と言えなくなる気がした。


 語り終えた居間は、しんと静まり返る。

 壁に設置されたエアコンの低音だけが、妙に響く。

 スキエンティアは、呆然とした顔で有羽を見ていた。

 ぽけー、と口が開いている。整った顔面が台無しになるほどの間抜け面。

 しかしそれは、想定外の情報を必死に呑み込むための呆然。


「はー……」


 ようやく息を吐き、スキエンティアはゆっくりと瞬きをした。言葉を探すように視線が宙を彷徨い、やがてぽつりと呟く。


「異世界……そうか。そうなんだ」


 それは、理解しようとする声だった。

 有羽の言葉を懸命に、「事実」として咀嚼する声。


「確かに、それなら技術発展の基点が変な事にも、一応理屈がつくか」


 ぶつぶつと独り言を重ね、目を閉じる。額に指を当てる。神であっても、一度に飲み込むには重い話なのかもしれない。

 やがて眼を開き――スキエンティアは最初に結論だけを告げた。


「はっきり言うよ」


 声音が変わった。さっきまでの軽さが消え、余計な飾りのない真っ直ぐな言葉になる。


「異世界からの稀人は、わたしの知る限り『君が初めて』。そんな事が起こっていたなんて『今日初めて知った』」


 その一言で、有羽の中に僅かに残っていた可能性が崩れた。


 ――神が自分を召喚したのではないか。


 頭の片隅で何度も浮かび、何度も打ち消してきた疑念。自分の意思ではない理不尽に意味を与えるための、最後の逃げ道みたいな仮説。

 それを、彼女はあっさり否定した。

 そして、続ける。


「……何を期待してるのか、何となくだけど解るよ」


 スキエンティアの目が柔らかい。労わるように、痛みを知っている者の目で有羽を見る。


「でもごめんなさい。わたしにも『元の世界への送還方法』なんて知らない」


 ゆっくりと、言葉が落ちる。

 聞きたくないと思っている言葉を。言って欲しくないと思っている言葉を。

 けれど真摯に、嘘の色を一片も滲ませずに――女神は言った。




「わたしは、君の元居た世界が何処にあるのかすら解らないんだ」




 有羽は、その目を見て悟った。

 嘘をつく理由がない。誤魔化す必要もない。そもそも彼女が有羽に取り繕う必要がない。


 だから――これが答えだ。

 この世界の神ですら、帰し方を知らない。

 探求の女神ですら、地球へ送還する知識を持ち合わせていない。

 日本の空は、もう二度と見られない。

 その事実が、理解の刃ではなく、静かな重さとして胸に沈む。


 有羽はしばらく黙っていた。

 胸の奥が、変に冷たかった。痛いのに、熱がない。刃物で切られた直後のような感覚。

 泣くほど感情が動かない。涙の出ない自分がいる。もう慣れてしまった自分がいる。

 有羽は苦笑した。声が出ない笑い。口角だけが上がる。


「神様って、万能じゃないんだな」


 自分でも驚くほど、乾いた笑みが漏れた。

 揶揄しているのか自嘲なのか、有羽自身でも分からない。

 けれどスキエンティアは怒らなかった。眉を寄せもせず、ただ穏やかに首を振った。

 それは、あまりに静かな声。


「万能じゃないよ。わたしはこの世界の知識と創造に関わる神であって……世界の外側まで手を伸ばせるわけじゃない」


 言葉に棘がない。断言ではあるのに、突き放す冷たさがない。


「届かないものは届かないんだ」


 その一言が、余計に痛かった。

 優しい声色なのに――まるで、胸の奥が抉り取られるようで。


 何故、こんなに痛むのか。

 有羽は思う。思い返す。この世界に来てから築き上げたモノを。


 居間は快適だ。食も住まいもある。強さもある。誰にも束縛されない自由がある。上位神と同格の格――それはこの世界で最上の立場と言っていい。

 どんな国の権威も通じない。望めば、何でもできる。

 有羽は言ってみれば「最強」の力を持っている。チートだ。無敵だ。有羽に勝てる人間なんて、この異世界のどこにも居ない。望めば望んだだけの結果を掴む事ができるだろう。

 かつて読んだ漫画の主人公のような、何者にも勝てる力。




 ――いらない。

 ――心の底から、いらないと思った。

 ――こんなものが欲しかった訳じゃない……そう思った。




 強さなんて要らない。面倒な生活でもいい。忙しくてもいい。縛られてもいい。

 ただ、あの世界の匂いが欲しかった。

 都会の排気ガス。夏の夕方の空気。コンビニの明かり。夜更けに聞こえる遠い車の音。何でもない日常の断片。


 それだけが、どうしても手に入らない。

 もう二度と手に入らない。

 それが今――現実になってしまった。


「……ごめんね」


 スキエンティアが、小さく頭を下げた。

 謝る必要なんてないのに。何も悪くないのに。


 それが余計に、胸の奥を締めつける。

 涙は出なかった。思っていたほどの衝撃もなかった。騒ぐような感情の揺れもない。たぶん、心のどこかで最初から分かっていたのだ。


 だから……痛みだけがいつまでも残る。

 こうなることが分かっていたから、目を逸らし続けていたのに。


 有羽は口角を上げようとした。いつものように、どうでもいいみたいに笑ってみせようとした。


 ――上手く、笑えない。

 ――残る痛みが、顔を歪ませるだけ。


 目を逸らした先の窓の外で、森が静かに揺れている。ここは異世界だ。帰り道のない場所。

 その現実だけが、空調の低音よりも確かな重さで居間を満たしていった。



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