第76話・出会い
アウローラたちが王都へ帰還してから、二週間が過ぎ――三週間目が終わろうとしていた。
その頃、有羽は森の南部で戦闘行為を終えていた。
目的は単純――魔物退治。
有羽の結界を壊そうとする「やんちゃ者」が出たからである。今回の相手は、鳥型。
魔境の大森林に生まれる魔物は、強い。とは言え、強いだけならまだいい。たまに、力と同じだけ――いや、それ以上に自尊心だけ育った個体が混ざる。
人間的な言い方をすれば、跳ねっかえりのチンピラ。血の気の多いゴロツキ。身の程知らずの若造。
そいつが、結界に嘴を叩きつけたのだ。
結界の外縁で鳴き立て、羽根を逆立て、森の主に喧嘩を売る。そんな威勢のいい鳥がいるというだけで、森の南部の空気は一段と面倒くさくなる。
そして有羽は家の外へ出た。
で、追い回した。
最終的に文字通り、絞める。
結論――今夜は鶏肉料理で決定。
倒した魔物の死体を樹に吊るし、血抜きの準備を整える。羽毛を押さえ、切り口を作り、流れる赤を黙って見送る。森の匂いに混ざる生臭さが、妙に現実を引き戻す。
(どうしてこういう身の程知らずは、手遅れになってから慌てるのだろうか……)
しみじみとした疑問が胸に浮かぶ。
最初は、生意気に襲いかかってくる。すぐに敵わないと理解した途端、慌てて逃げ出す。なら逃がしてやる――そんな答えを落とすほど、森は優しくない。追いかける有羽。けたたましい鳴き声。哀れな足掻き。最後は、命が尽きる。この八年の間に、何度も発生した事柄。
向かってくるなら容赦しない。それが有羽の常だ。こういう手合いは、迷惑なだけでなく、放っておけば次もやる。なら食材に変えるのが一番合理的だった。
今回の魔物は、本来なら結構な高ランクだ。レベル換算なら五十に届く荒くれ者。人間の将軍級さえ超える個体。
だが森の南で主として居座る有羽にとっては、活きの良い鶏肉でしかない。
血の落ちる音を聞きながら、有羽は最近のことに思いを馳せる。
森の外へ出ていった、『蛇』の分身。
それに対応しようと動き出した王国と魔国。
これから揺れ動くことが、ほぼ確定している世界情勢。
(……女帝さん、蛇の様子を見に行ってから、あんまり連絡ないんだよな……)
森の内部でも動くつもりではいた。静かな生活は、しばらく無理だろうと判断していた。なのに現実は――外界がどうあれ、森の内側だけは妙に静かだ。
原因はひとつ。東部まで根を伸ばし、様子を見に行った女帝が沈黙を選んでいるからだ。
有羽に対しても、最後に届いた声は短かった。
『……今は動くな、隠者。我は、少し考えるべきことがある。お主はしばらく――動かないでくれ』
感情を押し殺すような言い方。それきり女帝は黙った。
女帝から渡された宝玉は沈黙し、森の風もやけに穏やかに吹いている。穏やかすぎて、かえって薄気味悪い。胸騒ぎすら覚える。
(東で何があったのやら……俺も東に行ってみるべきかな……いやでも、アイツとは前に殺し合い一歩手前の戦いしたことあるし……またそんなことになったら拙いしなぁ)
悩む。森の主の領域は、軽い気持ちで赴ける場所ではない。言葉の通じる女帝が例外なのだ。
安易に動けば、争いの匂いが立ち込める場所。だからこそ悩む。
だが悩んだところで、有羽の選択肢は狭い。
森の外には出られない。出る気が沸かない。出るという機能が欠けている。有羽は森の外に出ない。この森の中で完結する生活を続けて来た。
思わず、小さくため息が漏れる。
(……ずっと、そんな生活をしていた筈なんだけどな)
八年前、この世界に来てから――有羽はずっと、人との関わりを断って生きてきた。
崩れたのは二年前だ。
アウローラと森の中で出会った、あの日。あそこから、少しずつ歯車がずれた。
今では、定期的に有羽の元へ訪れる第二王女。お日様みたいな存在。面倒だったはずの付き合いが、いつの間にか当たり前のように生活に組み込まれている。
いつから、そうなったのか。
考えても答えは出ない。あるいは、答えを出したくない。
答えを出した瞬間、決定的に、致命的に、「何か」が取り返しのつかないことになる――そんな予感だけが、胸の奥に残っている。
(……ま、いずれにせよ、俺に今できる事は「待つ」こと以外に何もないんだけどね)
有羽は、樹の下で血の落ち具合を確かめる。そろそろ終わりそうだ。手早く解体して、今夜の献立を組む。塩焼きか、煮込みか、カレーに放り込むか。迷うのは、そういうことでいい。
一日置きに、一応クロエから「送信」は来ている。
内容は主に、王国の国境の様子だ。
アウローラと共に、すでに帝国との国境付近の街――辺境伯が治める要塞都市で日々を過ごしているらしい。クロエの映す映像が脳裏をかすめる。城塞と職人街が一体化した都市。硬い石の壁、鋲の打たれた門、煙突の列。兵の足音と、金槌の音が絶えない場所。
そこで随分と――可愛がってもらっているようだった。
(……完全にマスコット扱いされてるっぽいんだよなぁ……どうしてああなった)
アウローラだけではない。辺境伯の周囲にも、都市の住民にも、クロエはすっかり馴染んでいる。
監視・通信のための送受信用ゴーレム。
ただし見た目は、可愛さ全振りのぬいぐるみ人形。
役目はちゃんと果たしている。だから文句はない。ないが、見ていると納得はできない。なぜ戦略兵器が抱っこされ、頭を撫でられ、頬をむにむにされているのか。
とにかく情報はクロエ経由で届く。
今のところ、国境に異常なし。
それはそれで、恐ろしい結果だった。
(蛇の分身が帝国に行って、それでも異常が見当たらない……逆を言えば、蛇の分身は「帝国に馴染んでる」とも取れるよな。クロエが辺境伯のところで可愛がられてるみたいに)
異変が起きるはずの存在が居て、それでも異変が見えない。
そこから推測される事実は――適応しているということ。
天災のような力が、暴れることなく帝国に溶け込んでいる。暴れないから安全、とは限らない。むしろ逆だ。安全そうに見えるだけの爆弾。導火線に火がついてるかどうかすら判断できない火薬。始末が悪いにも程がある。
国境を越えて、帝国の帝都まで監視の目を伸ばせれば、何か掴めるかもしれない。
だが現実的には厳しい。
王国の草も、帝都での情報収集は難しい。クロエが「芽」を伸ばして覗き見れば――という発想は出るが、同時に危険も跳ね上がる。見つかった瞬間、何が起こるか分からない。相手は分身とはいえ、蛇だ。
(どうしたものか)
有羽は悩む。
ちょうど血抜きが終わりかけた魔物を見下ろしながら――こんなふうに、簡単に終わってくれればいいのに、と馬鹿みたいなことを思った。
森の問題は、血抜きして終わる類じゃない。
分かっているのに、分からないふりをしたくなる。
血が落ちる音が、ぽたり、ぽたり、と細くなっていく。赤黒かった滴は、いつの間にか薄い色へ変わり、やがて途切れ途切れになった。
「……よし。こんなもんか」
有羽は吊るした魔物の脚を解き、ずしりとした肉の重みを腕に受ける。羽毛の脂と、森特有の湿気が混ざった匂いが鼻を刺す。今夜の献立を頭の片隅で組み立てながら、居住空間へ戻ろうと足を向けた――その瞬間。
結界が、鳴った。
◇◇◇
(――何?)
正確には、音がしたわけではない。結界を構成している術式の「継ぎ目」が、わずかに軋む感覚。虫が葉をかじる程度の情報は無視できるが、これは無視できない。
明らかに――結界が開けられそうになっている。
足が止まる。肩に担いだ鳥が揺れ、羽が音を立てた。その小さな音すら煩わしく感じて、有羽は鳥をいったん地面に下ろし、息を殺す。
目を閉じる。意識を、結界の内側へ深く沈める。
外敵を阻む防壁。上位のドラゴン相手でも侵入を拒むように組んだ結界だ。届くのは精々、外で何かが騒いでいるという振動だけ。風の音も、雨の匂いも、必要なら遮断できる。
そして、その結界に「足を踏み入れる許可」を持つのは――限られた者だけ。
アウローラ。レジーナ。ラディウス。侍女隊と護衛隊。これらの王国の者には許可を与えた。名前と魔力の署名。これらを備えていない者は、結界を絶対に踏み越える事ができない。
だからこそ、今の感覚は異様だった。
破ろうとしているのではない。力任せに殴って割ろうとしているのでもない。
結界の「継ぎ目」を、解こうとしている。
鍵穴に針金を差し込んで、少しずつピンを押し上げるような。絡まった毛糸玉を、一本ずつ根気よく解くような。慎重で、丁寧で、妙に礼儀正しい破り方。
(……こんなの、初めてだ)
八年暮らしてきて、結界を壊しに来た連中はだいたい同じだった。押す。殴る。噛む。燃やす。叫ぶ。最後に逃げるか、締めるか。
解除を試みる魔物はいない。森の魔物は凶暴で、鍵を開けるという発想がまずない。
有羽の意識が冷たく、低く、鋭利に落ちる。視界が狭まったような集中。胸の奥で、スイッチを押す感覚。身体の意識が、戦闘用に切り替わっていく。
(……勘弁してくれよ。蛇だけでも頭痛いのに、この上「正体不明」の何かが侵入?)
外界に出た天蛇の分身。女帝の沈黙。クロエが運ぶ不穏な静けさ。
その上で、今度は自分の領域に、同格級の何者かが侵入を試みている。
悪態のひとつも吐きたくなる。けれど無駄な行為はせず、迅速に。
判断は早く。迷いは削ぎ落として。
有羽は鳥の死体を掴み上げ、気配を消した。足音を殺す。森の空気と自分の魔力の輪郭を重ね、存在感を薄める。呼吸のリズムさえ森に合わせる。木々の影を縫うように、居住空間の方へ滑る。
頭の中では、攻勢術式が次々に組まれていく。
物質崩壊――触れたものを「原初」に戻す。
空間断裂――距離すら「断絶」する。
擬似時間停止――相手の「世界」を置き去りにする。
精神破砕――意思そのものを「抹消」する。
人間相手には絶対に使わない。アウローラたちに片鱗すら見せていない。見せる必要がないし、見せるような相手が居た場合、森が戦場になる。
そして有羽の感覚が正しければ……今、結界を解こうとしている相手は、見せる必要がある相手だ。
(……アウローラたちが居ないのは不幸中の幸いだな)
ここで戦闘になったら、巻き込む。守りきれる保証はない。有羽は普段は穏やかに接しているが――襲いかかってくる相手には容赦をしない。死骸となった鳥の魔物と同じだ。冷静に、淡々と、命を絶つ。
距離が縮む。結界の外縁が近い。術式が解けかけているがはっきり分かる。
ある程度接近したところで、気配を完全に断ち物陰に潜む。
視界領域を広げ、精度を引き上げて、結界の「縁」に居る存在を確認する。
そして、有羽は見た。
結界の前に、座り込んでいる女がいる。
その女は、有羽の結界に対して――。
「あーー!! もーー!! どうなってんのこの結界ーー!? ひねくれ過ぎじゃない、この防壁はーー!?」
全力で文句をぶつけていた。
森の静けさに、場違いな叫びが響く。予想だにしていなかった振る舞いをしている。
……解りやすく端的に言うならば……じたばたしながら、ぶーたれていた。
駄々っ子みたいな女が、結界の前で喚いている。
(……なにあれ)
物陰に潜んだまま、有羽は瞬きもせず観察する。
空色の髪。黒縁の眼鏡。恰好は探検家みたいな、動きやすそうな服。腰にポーチ、肩にサイドバッグ。見た目だけなら、どこにでもいそうな「若い研究者」か「好奇心旺盛な冒険者」だ。
が、ここは魔境の大森林。
普通の女性が、無傷で、こんな深部まで来られるわけがない。アウローラたちは初回、息も絶え絶えだった。護衛だって顔色を失っていた。
けれど眼鏡女は結界をバンバン叩きながら、口では「おりゃー」とか「うりゃー」とか言っている。……パッと見だけなら、迷子の残念女。
だが、有羽には見える。
叩くたびに、掌から繊細な解除術式が流れ込んでいる。精密で無駄がなく、高密度。国の魔導師が張った結界程度なら、「おりゃー」の一声で霧散する類のものだ。
見た目が馬鹿なだけで、やってることは超常。
それに――あまりに容姿が整い過ぎている。服装の乱れも、髪の崩れも、何もない。
天上の美人が探検家に扮している……そんな、有り得ない姿。
女はぶつぶつ独り言を続けていた。
「ぐぬぬぬぬ……わたしが、ここまでてこずるとは……やるなぁ森の賢者。どんなに大声上げても一向に家の中から出てこないし……そう簡単に、わたしに顔は見せないってことね。よーし気合入って来た」
有羽の眉がわずかに動く。
(呼んでたのか。……まあ、返事があるわけない。俺、外で鶏捕まえてたからな)
タイミングが良いのか悪いのか。女はさらに結界の構造を読み、勝手に分析を始める。
「高密度の防御障壁……位相をずらして、そもそも攻撃が届かない設計……やるねぇ。これじゃ正面からぶつかっても、精々音が響くだけだ。更に気温調整や瘴気の浄化まで……うーん、なんて手の込んだ職人仕事。こんな森の中に引きこもるにしては大げさすぎないかい?」
(余計なお世話だ)
有羽は内心で小さく舌打ちし、音のない歩みで背後へ回り込む。距離を詰める。女は結界に夢中で、背後の気配に気づかない。
そして、女は言う。
「でもでも! こんなのはだねぇ、わたしの手に掛かればちょちょいのちょいと……ちょいと……ちょい……だーもー!? 複雑に絡まりすぎなんだってこの結界!! 根性捻くれてなきゃこんな結界作らないよ絶対に!!」
「悪かったな根性捻くれてて」
「ホントだよ!! もうちょっと綺麗に組める筈だって! こんな絡みつく毛玉みたいな術編み込んで……解除する方の身にもなれっていうんだよ!!」
「わざとだよ。複雑なほうが解除し辛いだろ?」
「あー、成程ねー。侵入者対策かー。まあそれなら一理あるか。……でもだよ? それにしたって駄目だって! きったないよこの術式! もっと整理した方が綺麗で無駄がないしー。こりゃお姉さんが教えてあげなきゃ駄目だねー」
「ほう。随分と凄いんだなお姉さんは。人の家に不法侵入しようとしてるくせに」
「えー!? やだなぁ、人聞きの悪い事言わないでよぉ。わたしはただ――」
そこでようやく、女の動きが止まった。
錆びた人形みたいに、ぎこちなく首だけが回る。眼鏡越しの瞳が、有羽を捉える。
目と目が合った。
女の顔が一瞬だけ固まり、次の瞬間――乾いた笑いが森に響く。
「あ、あははは……ははははははは……」
汗が額から滑り落ちる。笑っているのに、口元が引き攣っている。さっきまでの勢いが急に消えて、目に見えてわかる焦りが。
有羽は、笑わない。瞳がジトっと沈んだまま動かない。
「……で? 人が外出中に喚き散らしてたおたくは、どこのどなた様?」
「…………えっと」
しばし沈黙。眼鏡美人はこほん、と咳払いをひとつ。
そして慌てて立ち上がり、胸を張って宣言した。
「森の生態を調査する、美人探検家ティアちゃんです!」
「…………」
「ティアちゃんです!」
「…………」
「ティアちゃん……なんだけど」
無言の圧に負けたのか、女は肩をすぼめて視線を泳がせた。嘘が雑すぎる。
この魔境の森に一人で入り込み、有羽の領域まで辿り着ける美人探検家なんて、居る訳がない。いや、居たとしても無傷で来れる訳がない。
この場所に無傷で来れた――その時点で、普通の「存在」でないことが明確だ。
有羽は、瞬時に掌の中で術式を編む。
黒い、密度の高い塊。見た目はただの「黒い球」のようにしか見えない。
だが、その「黒い球」を目にした女の反応は、明らかに激変する。
目がぎょっと見開かれ、半歩後ずさった。
「ちょ!? ま、ままままま待って待って! 暴力反対!! 物質崩壊とか、そんな物騒な魔法仕舞ってーー!! わたしは別に争いに来たわけじゃないんだからー!!」
両手を前に出し、必死に首を振る。
その瞬間、有羽は確信した。
(一瞬で見抜いたな、こいつ)
この術式は、普通の魔導師なら「黒い球状の魔法」にしか見えない。アウローラ級でも、せいぜい「危険な気配がする」程度。緻密に編み込まれた術式の本質まで掴むには、人の知覚領域では荷が重すぎる。
しかし、この女は「物質崩壊」と言い当てた。一瞬で掴んだ。
有羽の声が自然と低くなる。
「――この術式、南王国の腕利きでも判別出来ないと思うんだけどな」
「あ」
女の口が、わずかに開く。しまった、という顔。
有羽は一歩、詰める。結界の前。逃げ場は無い。
有羽自身――逃がす気が無い。
「もう一度聞くぞ――アンタはどこの誰だ?」
ジト目が、真面目な双眼に変わる。
有羽の編んだ術の詳細を、一瞬で掴んだその時点で……相手の力量がかなりのものだと解る。
下手に会話を引き延ばす気はない。正体を確定させて対応する選択を、有羽は選んだ。
女は、数秒だけ迷ったように見えた。だが次の瞬間、諦めたように息を吐き肩を落とす。
「えっと……神様です」
「……は?」
「神です。地上では――探求神スキエンティアって名前で呼ばれてます」
森の空気が、わずかに沈む。
想像の外の名前。初めて出会う「異世界の神」。
真実なのか、嘘なのか。
本当ならば何故ここに。嘘ならば偽る理由は。
無数の考えが有羽の脳裏を巡る。解ったのは――「厄介事」に対面しているという事実。
(……勘弁してくんない? 神様案件とか丁重にお断りしたいんだけど……)
だが、目の前の現実は変わらない。
黒縁眼鏡に、化粧っ気のない探検家衣装。
それなのに整い過ぎてる顔立ちと容姿の女神様。
探求神スキエンティアと森奥隠者は、こうして出会ったのだった。




