第75話・探求心
――この世界には神が居る。これは全ての国が等しく持つ、共通認識だ。
世界の概念を司る神々。十柱の「従属神」と、五柱の「上位神」。世界を構築するあらゆる要素は、全て神が司っている概念。人が息を吸って生きるのが当然のように……この考えを疑う者はいない。この異世界に生まれた者達は、この考えを当たり前のように信じている。
そして、実際問題……何も間違っていない。
この世界は、神の力が大きく関わっている。世界の起源の段階から、神の御業が関わっている。国の成り立ちから、神の気配が漂っている。
西の魔国では、土の神や農業の神が広く信仰されており。
東の帝国では、戦の神や鍛冶の神の派閥が多く。
そして南の王国では、海を司る海神の信仰が根強く広い。
生活に根差している。神の力と恩恵は、国の特色にも関与しており……異世界の人々は、神との距離が近い。疑う隙間すら無い。有るのが当然で、無い世界など想像だにしていない。
だからこそ……一度でもその神を信仰していると言ったのなら……繋がりが生じる場合がある。
誤魔化しは効かない。嘘も虚言も通じない。それだけ神との繋がりは深い。
例えそれが、軽口の類だったとしても――神と人は繋がる時がある。
細く、薄い糸なのだとしても――可能性は消えない。
◇◇◇
そこは、世界の何処かに在る、神の住まう領域。
遥か遠くの天の彼方か。あるいは視界には映らない世界の裏側か。
いずれにせよ解っているのは、地上に生きる生命体には決して認識できない空間であること。
そんな世界の――地上では「天界」と呼ばれる神の住まう土地に、一人の女性が居た。
無数の書棚が、雲海の上に果てしなく伸びている……そんな異質な場所に。
黒縁の眼鏡。淡い空色の髪。野暮ったいローブを身に纏った……美女。
容姿や服装に拘っている様子はない。化粧っけもない。香油の匂いすらしない。あるがままの姿で、ただローブを羽織っているだけの女性。それなのに……目を見張る程の美貌。
人間では有り得ない美しさを纏っている。存在そのものの格が違う。
仮に各国の王都でこの女性が歩けば、皆が放っておかないだろう。着飾ればどれだけの美貌に変わるか想像もできない。
だが、眼鏡の麗人は自らの容姿に、なんら執着はしていない。
彼女が執着するものはただひとつ――新たな「知識」である。
「うおーん、おんおんおん……」
で、そんな眼鏡美女は現在、ひたすら泣いていた。咽び泣いていた。
手にしている書物は、「地上の事柄」が記された書物。その内容を見て読んで、感動に打ち震えているのだ。よく見ると鼻水まで垂らして全力号泣。美女のガン泣きである。
「すごい! すごいよ南王国……! あなた達、本当にすごいっ! 何なの、ここ最近の躍進ぶりは!? お姉さん、涙が止まらなくて止まらなくて……」
えぐえぐ泣きながら本の頁をめくる眼鏡美女。
彼女のめくる本に記されている地上の事柄……それは南王国の文化についてだ。
食文化、衛生技術、生活魔道具、保存や熟成技術……一朝一夕では決して発展しない、数々の文化が急成長を遂げている。
少し前までは緩やかな成長速度だった。人の歴史の歩みは、少しずつ土台を作っていく地道な作業。それが当たり前で、それが必然。どの時代でもどの国でもそうだった。
それが今――何倍もの速度で進んでいる。
眼鏡美女は震える手で、更にページをめくる。
――発酵管理に関する実験記録。
――油の温度帯による衣の食感比較。
――魔力格納型冷却箱の改良案。
目に映るのは、試行錯誤の列だ。
与えられた技術ではない。積み重ねていく過程の歴史。
「うぉぉぉぉぉぉん……尊い……」
眼鏡美女が、再びでかい声で泣き始めた。とてもうるさい。
「見てよこれ……! 失敗して、記録して、次の改善点ちゃんと書いてる……!? 『温度を変えてみたが、衣が油を吸いすぎて失敗』って書いてる……! 『次は油の量と鍋の厚みも条件に入れること』って書いてるぅぅぅ!!」
人が積み重ねて試作していく様を、彼女は見る。
ズルではない。南王国で発展中の技術は、ちゃんと人間達が創り上げている「知識」だ。
本を持つ手が、ふるふると震える。
眼鏡の奥の瞳が、ダバダバと涙を流す。
そして両手で本を抱きしめて、天を仰いだ。
「こういうのが……こういうのが……大っっっっ好きなんだよぉぉぉおお!!」
天上において、更に天高くまで響く歓声であった。
誰にも見られることなく、誰にも注意されない。どんな大声をあげても、この空間で彼女を止める者は一人として存在しない。
だからこそ、彼女は流れるように別の本を掴む。
書架には、まだまだ幾つもの本が並んでおり……この棚にあるのは全て南王国の事柄。
「保存食の研究……化粧品の改良……手順、併用、分岐……うわぁぁぁぁぁぁ!!」
めくればめくるほど、眼鏡美女の情緒がおかしくなっていく。
彼女の読み進める内容は、全てに共通する解がある。
丁寧な仮説。
明文化された失敗。
前の記録を踏まえた次の一手。
読めば読むほど鼻水が出る。だから、鼻をすすりながら次々に読み漁る。
――髪を痛めない洗剤の配合テスト。
――皮膚刺激の少ない化粧水の試作。
――試作品ごとの肌の潤いアンケート。
「うおーん、おんおんおん……尊死しちゃう……こんなの尊すぎて死んじゃうよぉ……!」
ついに眼鏡美女は、その場にぺたりと座り込んだ。
ローブの裾をぐしゃっと握り、わんわん泣きながら笑っている。
「何これもう……偉い……偉すぎる……! 誰だよ、こんな真面目に試行錯誤してるの……王都? 王家? 職人? 全員まとめて撫で回したい……!!」
半泣き半笑いの顔で、目元をごしごし擦りながら……彼女はふと、眉をひそめた。
「……でも、あまりに発展が急すぎる。ここ一年ほどの「根っこ」が、なんかおかしい」
突如として真剣な目になる。
そして、先程までの泣きっぱなしの残念美人の姿からは想像できない――あまりに高度な魔法術式が展開された。
手にしている本、書架に収められている本の一冊一冊から「由来の糸」を読み取る術。
今、彼女の視界にはページの文字だけでなく、そこに至るまでの「知識の流れ」が薄い光の線として見えている。
南王国。
王都。
第二王女、アウローラ・ウィル・ミラ・アウストラリス。
侍女隊と護衛隊。
第一王女、レジーナ・スィル・ステラ・アウストラリス。
王宮の技術官。
そこまではいい。
それぞれの努力の軌跡が、しっかりと見える。
けれど。
「……ここ」
いくつもの線が、ある地点で一本に集約されていた。
冷蔵技術。
低温熟成。
油の扱い。
洗剤・石鹸・化粧品。
衛生観念。
調理器具の形状。
全ての根に、別方向から差し込んだ「一本の線」が混ざり込んでいる。
眼鏡の奥の瞳で、その線の先を見据える。奥へ奥へ――逃さぬように。
そして見た。見つけた。
「……うわ、この森かぁ」
思わず、といった風に漏れる声。
同時に広大な大陸地図が、彼女の背後にふわりと開く。
南王国。そのすぐ北に広がる魔境の大森林。
線は、王都から北へ北へとのび――その途中で途切れた。
視界に入るノイズ。魔境の大森林を、ぐるりと取り囲む「見えない輪」。
全てを遮断するその「輪」は、彼女の視界さえも弾いた。
「あー……やっぱ駄目か。あそこって管轄外だからなぁ……」
額に手を当て、苦笑。
ならばと、その外縁を辿る。
記録の余白。侍女隊のメモ。アウローラの報告書。
ところどころに、同じ単語が生まれていた。
――森の賢者の住まい。
――森の賢者から聞いた話。
――森の賢者の調理器具。
「森の賢者……ふむ?」
眼鏡をくい、と押し上げて……彼女の中で興味の戸が開く。
腕を組み思考。そして探索。「糸」が伸び、更なる知識が映し出されていく。
「森の賢者。人間? エルフ? ドワーフ? いや、でもこの体系化された知識の入れ方……地上の既存文化じゃない……?」
確認するように呟きながら、魔法を発動。
彼女の左手に、一瞬で白きメモ帳が現れる。
そして右手には筆。そのまま流れるように、走り書きが始まった。
「ここ一年での技術飛躍。分野の広さ。食、衛生、生活魔道具。再現の可能性を前提とした説明。第二王女アウローラを介した継続的な知識流入……」
凄まじい速度でメモ帳が埋まっていく。
無数の文字列が、白い紙を黒色に変えて――眼鏡美女の口元に楽し気な笑みが。
「……やばい。この導き方、すごい好き。尊くて理想的」
王国の発展の根元に居る、賢者の輪郭。
知識を、再現可能な形で国に渡している。けれど完成品を渡しているわけではない。賢者は知識の基礎と、到達点の形だけを教えて――その過程を秘している。
結果、王国は到達点を目指して試行錯誤することになり、技術がきちんと身に付いていく。
ただ与えるだけではこうはいかない。研究し、探索し、思考し……その果てに生まれるモノを掴む導き手。伸びしろを残した、未来への発展を夢見させる道筋。
「むっはぁぁぁぁぁぁ……尊い……!」
もう何度目の咆哮だろうか。眼鏡美女はこみ上げる感情を抑えきれず、棚に額をこすり付ける。
そして棚を両手でバシバシ叩く。落ち着きがない。
「なんなのこの賢者! こういう、成長させる教え方大好きなんだけど!! 考える余地、成長する未来、自分の手で掴み取る成果! どれもこれも、私好みだよ!!」
大興奮で立ち上がり、その場でぐるぐる回り始める。
完全に怪しい不審者だ。ここが地上ならば、間違いなく衛兵を呼ばれる。
「……気になる。一体何者なの、森の賢者」
回転運動を止めて、真面目な顔で考え始める眼鏡美女。
彼女は再び「糸」を伸ばした。少しでも手掛かりを探す為に、懸命に「糸」を伸ばす。
僅かな取っ掛かりで構わない。自身の「探求心」をここまでくすぐる相手――絶対に逃さない覚悟。
目を閉じ、意識を集中させて、何か正体を掴む手掛かりはないかと、「探査の糸」を伸ばし続ける。
慎重で執拗な捜索。
やがて――ひとつだけ「細い糸」が見えた。
舐めるように見て、ようやく発見できた「薄い繋がり」。
「……へ? ……信仰心?」
けれど、掴んだ「糸」の種類を知って、思わず呆けた顔をしてしまう。
森の奥。
人の営みからは遠く離れた場所。
周囲と異質な「快適な空間」の気配。
そこから薄く細い糸が一本だけ、自分に向かって伸びている。
信徒の糸だ。信じて仰ぐ線。
ただし――
「いや、ほっそ!? 薄すぎるんだけどこの信仰心!? ていうか、ホントにこれ信仰なの!? すごくおざなりに「信じてますよー」って言ってるのが丸わかりなんだけど!?」
ありえないぐらい薄い繋がり。
酔っぱらいのホラ話レベルの信用度の無さ。むしろ信仰しない方が良いまである。
むしろ――こんな糸が発生することがありえないレベル。
「ええ……? なんでこれで信仰心が成立してるの……? どういう人間が、どういう思考で祈れば、こんな薄い信心が成立するんだろ……?」
いわば、米粒に絵画を描いているようなものだ。
ちゃんと絵の形になってるけれど、小さすぎて誰の目にも映らない。そんな祈り。
この時点で謎ばかりな森の賢者。眼鏡美女の好奇と困惑が同レベルに膨れ上がる。
それ故に――更に深く潜る。
薄く細い繋がりを、慎重に手繰り寄せて。
やがて、ある地点に辿り着く。
そこには世界のラベル付けがなされていた。
彼女の瞳に浮かび上がる。世界そのものに刻まれた、森の賢者の名が。
――森奥隠者
「……へぇ」
見えた情報を確認して、感嘆の息を漏らす。
彼女が掴んだ輪郭は、森の賢者の名前と「存在の格」だけ。
地上の人間達が語る「レベル」と同一の基準。存在の強度を示す値が、映し出されているのだが――。
「……わたしと同格か」
ぽつりと呟く。
自身と同等の値。地上の生命体としてはありえない数値。
十柱の従属神の位さえも超えて――。
「まあ、それはどうでもいいとして」
だが彼女にとって「存在の格」の数値など、何の興味も惹かれない。
鼻紙以下。蟻の行進の方が、よほど興味深い。
そんなことよりも。
「重要なのは――この森奥隠者から流れ出ている知識の質だよ!!」
棚から飛び出してくる記録の数々を、指先で弾く。
低温熟成の概念。
菌と発酵の扱い。
油と水の分離。
皮膚刺激の少ない界面活性の発想。
うどん、という謎の食文化。
天ぷら、という衣揚げの技法。
「見たことない単語と概念が多すぎる……! なに、うどんって……天ぷらって……コシってなに……? 食べ物に腰があるの……?」
メモ帳が、どんどん新しいページで埋まっていく。
記載されていく知識の多くが、彼女ですら未知な概念。
この世界に新たに刻まれていく技術体系に他ならなかった。
「……むー……」
棚の前で唸ったあと、彼女は突如ぴたりと動きを止める。
少し顎を上げ、空中に浮かぶ大陸地図と森の深部を睨む。
「知りたい」
ぽつりと、心からの声が出る。
「知りたい知りたい知りたい知りたい!!」
両手で髪をわしゃわしゃかき乱し、床の上を足踏みする。
抑えきれない感情を表現するように。
「森奥隠者……! 森の賢者……! この試行錯誤を、誰がどんな顔で、どんな声で説明してるのか……! 知りたい知りたい知りたいぃぃぃぃ!」
駄々っ子のように床に座り込み、ばたばた足を動かす残念美人。
止まらない。探求心が止まらない。
「むーー!! 原典を……原典を読ませろ……っ!!」
そして、もう一度だけ探査の糸を深く潜らせる。
けれど、大森林の外縁に阻まれて全ての視線を遮る。情報が、一切伝わってこない。
判明するのは名と力量だけ。どれだけ目を凝らしても、彼の者の詳細は掴めない。
「……くっ。やっぱ駄目かぁ。あの森、ホントに管轄外なんだよね……どうなってるのよホントに」
奥歯を噛みつつ、森を睨む。
あの森へは近づけない。世界の創造と同時に存在する、別位相の領域。
なにより、あの森に昔から住まう『蛇』と『樹』の存在格は、従属神を越えて上位神の領域。理知的な判断としては、探らず近寄らずを貫くのが正しい。
だが――。
「……それで、黙っていられるわたしじゃないからね」
眼鏡美女の口元に、危ない笑みが浮かぶ。
「管轄外? 番人? 知識の源があって、そこから世界が面白くなってるのに? ここから先は見ちゃダメって札だけ貼られてるの? はぁ?」
眼鏡の奥の瞳が、めらめらと燃え上がる。
「そんなの、行くに決まってるじゃん」
勢いよく立ち上がり、パンと両手を打ち鳴らした。
瞬時に姿が光に包まれて――服装が変わる。
ローブが解け、地上仕様の服に形を成す。
丈夫な革靴。
膝までのズボン。
動きやすいジャケット。
腰には小さなポーチと、本を入れるためのサイドバッグ。
見た目だけなら、どこにでもいそうな若い研究者――元の美しさに陰りは一切無いけれど。
黒縁眼鏡の奥の瞳が、きらりと輝いた。
「よし! たまには地上で……人間達みたいにダンジョン探索だー!」
おー! と自分で自分に合いの手を入れ、右手を掲げた。
目を輝かせ、肩で風を切りながら、意気揚々と地上へ向かおうとする眼鏡美女。
その間際――最後に彼女はもう一度だけ、南王国の書架に手を触れた。
「これから、頑張ってきた君たちの「知識の源泉」を見に行くよ」
指先で、本の背表紙を撫でる。
第二王女の報告。
第一王女の研究。
侍女隊のメモ。
王宮の技術官たちの記録。
全てが愛おしい。前を向いて、一歩ずつ頑張って先へ進む人の光。
彼女が大好きな――ずっとずっと見てきた、人の営み。その歴史。
「君たちのやってる試行錯誤が尊いって、賢者さんに伝えるかどうかは別として……」
くすりと笑う。
宝物を見るような瞳を携えながら。
「少なくともわたしは、心の底から褒めてるからね」
そう告げると、彼女は踵を返した。
天高くの、天上の足場の縁に立ち……下界を見下ろす。
魔境の大森林は、遠目にも濃く深く、黒々とした緑で大陸を呑み込んでいる。
その南端に――森奥隠者が、静かに暮らしている。
「待っててね、森の賢者さん。あなたの「知恵と技術」の話を、わたしは聞きに行くから」
美女は悪戯っぽく笑い、次の瞬間――光の粒子となって解けた。
細かく分割された光の粒は、流星のように大気を滑り、雲を抜け、風に混ざり、森の上空へと落ちていく。
人の身では決して実現できない、天蓋の魔法式。それを息をするように実行し、移動手段として行使する。
そう。彼女は人ではない。
地上の人々が信仰する十柱の従属神――それさえも超える上位神。
五柱の偉大なる存在。その内の一柱。
創造、研究、探査、発展……人間達の「積み重ね」「工夫」「試行錯誤」から連なる努力をこよなく愛する『探求の女神』。
才能と創造を司る、知性の上位神。
その名は、探求神スキエンティア。
――人知れず、探求神が地上に舞い降りる。
その現場は、天界の書架に薄い余韻として残っただけで。
地上の誰も知ることはなかった。




