第65話・会談と休憩
長机の上に置かれた緑の宝玉は、淡い光を湛えていた。
その表面は磨かれた鉱石というより――湖面に近い。覗き込めば、底があるようで無い。光が揺れ、揺れの奥から立体の像が立ち上がる。
魔国の重鎮たち。
銀髪の女王メトゥスを中心に、エルフの代表、ドワーフの重鎮、獣人の将軍、そして書記たち。
――全員が、いま「女帝の領域」にいる。森の西部。魔境の大森林。
王宮の大広間ではない。城の会議室でもない。
その背景に映るのは、森そのものが建てたような仮の会談所……言葉で表現すれば「木と石の広間」だ。造りは簡素だが、そこに座る彼らの顔は固い。どれほどの覚悟で踏み込んでいるかが、顔を見ただけで分かる。
一方、南の森奥。
賢者の居住空間の庭は、朝の喧騒をすでに過去にしていた。
風は柔らかく、木々のざわめきは穏やかだが――穏やかであることが逆に異常だった。魔境において、何も起きていない静けさほど不気味なものはない。
庭の長机には、アウローラ、レジーナ、ラディウス。
すぐ後ろに侍女隊と護衛隊が控え、立て看板には有羽の描いた大陸地図が魔法の光で浮かび続けている。縮尺が正確すぎて、見るほどに現実感が増す。
中央に大森林。南に王国、西に魔国、東に帝国、北に神聖国。
話題は当然、東に引き寄せられる。
東の主――蛇の位置。そこに、帝国軍が触れた可能性。
触れただけで世界が軋む相手。
魔国側の発言は、切り込む刃だった。
「帝国が滅び東部が空白になれば、必ず北の神聖国は動く。奴らは自国の信仰こそ唯一絶対だと思っている。東部は大いに荒れるぞ」
ドワーフの重鎮が、岩のような声で言い切った。
机上の推論ではない。彼の目は「見てきた者」のそれだ。長命種の記憶は、歴史そのものになる。
「そうなれば結果的に魔国も無関係ではいられない。現在、神聖国が攻めて来ることは殆どないが……ゼロではない。過激派の一派が、時折山脈を越えて攻め入ってくる。無論、少数なので全て返り討ちに出来ているがな」
続くエルフの代表が、指先で地図の北を示す。
少数がどれだけの意味を持つかを、南側は理解していた。
少数で越えてくる時点で、常人ではない。宗教の狂熱は兵站を軽くする。信仰は飢えを鈍らせる。恐怖も鈍らせる。
さらに獣人の将が低く唸る。
「だが大陸の東にも進出すれば話は別。奴らは必ずそのまま南……王国にまで手を伸ばすぞ。そして万が一にも王国が敗れるようなことになれば、魔国は北と南に挟まれることになる。そうなったら手に負えん」
魔国側が王国の心配をしているようで、その実、魔国の地政学を語っているのが分かる。
友情もある。だが国は、友情だけで動かない。現実の脅威で動く。
王国側も即座に応じる。
この場にいるのは、交渉に長けたレジーナと、軍の感覚を持つアウローラ、そして現実の線を引けるラディウスだ。
「王国と帝国の国境沿い――辺境伯の治める領地に赴き、軍備を整える必要があります。その際には、第二王女アウローラ・ウィル・ミラ・アウストラリスが戦地に赴くことになるでしょう」
それが王族の政治。妹を矢面に立たせる宣言を、姉が公的に発する。だが、そこに躊躇がないのは妹がそれを望むからだ。アウローラもまた、目を逸らさずに頷く。戦う覚悟ではなく、守り抜く覚悟。彼女は将軍肌だ。国と民を死なせないために、前に出る。
「魔国には救援を要請します。この会談が終わった後、第一王女である私と聖騎士ラディウスが魔国に赴き、「正式」に救援を要請する。森の中の話し合いだけでなく、現地に直接赴いて魔国国民に誠意を示すわ」
レジーナの声は柔らかい。だが、言っていることは硬い。
森の会談は秘密裏の手段。
正式な来訪は国としての誓約。
この二枚を同時に差し出すことで、相手の逃げ道を塞がずに、背中を押す。
外交の刃――その呼び名が、ふっと現実味を持つ。
「王国の船も出そう。魔国の船の受け入れに対して、関税を下げる。海陸両方の交流を密にする。余計な横やりを許さない体制を造ろう」
ラディウスが続けた。
軍の話だけではない。物流と財と条約の話に落とす。
戦の前に、戦わないための地盤を固める。聖騎士らしい現実主義だった。
会談は白熱していく。
地図の上で指が走り、矢印が飛び、道が引かれ、海路が結ばれ、各国の距離が縮まっていく。
――縮まっていくほど、森が壁であることが際立つのも皮肉だった。
そこへ、恐る恐る手が上がった。
「あの……帝国側が無事に済んで被害が発生しない可能性は、考慮しなくていいのでしょうか?」
魔国側の若い真面目そうな書記。
声が震えている。
だが目は逃げていない。
ここまで話が「帝国滅亡」を前提に進むことに、心が耐えきれなくなったのだろう。
この場で口にするのは、勇気が要る。空気は最悪。
けれど、多角的視点は必要だ。彼は正しい。
――正しいはずだった。
宝玉越しに、女帝が薄く笑った。
普段の稚気ではない。
森の主としての、冷えた笑み。
『考えてみればいい。お主達魔国の者が、百名を超える軍を率いて我の領域に足を踏み入れた場合の未来を』
その瞬間、魔国側の空気が凍った。
背景の木と広間が、急に狭く見える。
重鎮たちが一斉に息を止める。若い書記の顔色が、紙のように白くなる。
『――我が、生かして帰すと思うか?』
喉が鳴る音が、こちらまで聞こえそうだった。
南側も同じように凍った。
レジーナは、ほんの僅かに喉が鳴るのを自覚する。
もし、王国が有羽の居住空間に百名の兵を入れたら?
もし、王国が彼を「保護」や「管理」の名目で囲ったら?
結果は、今目の前の女帝の言葉と変わらない。
アウローラの額に、冷や汗が。
(……本当に、危なかったんだな……)
かつての自分。森に踏み込んだ自分。拒絶された自分。
あれは、追い返されたのではない。
――生かして帰されたのだ。
その張り詰めた沈黙を、別の気配が割った。
軽い足音。気配は薄い。
気づけば、有羽が庭へ入ってきていた。
手には盆。
湯気の立つカップと、小さな皿がいくつも。
「はい。紅茶と……おからクッキー。程々に休憩も入れてね。頭だけ熱くなると、ロクな結論にならないから」
その声が、いつもの気怠い調子だったのが救いだった。
さっきまで世界が動くだの、帝国が滅びるだのと言っていたのに、急に「おやつ」である。
王族であろうと重鎮であろうと、胃袋には逆らえない。
おから――という言葉に、王国側は首を傾げる。魔国側も同様。女帝すら「?」の顔をする。
未知の単語は、それだけで場を人間の温度に引き戻した。
アウローラが、まず一口。
噛む。
目が丸くなる。
「あ。優しいのに香ばしい味。ゴマが入ってるんだな……うん、美味しい」
尻尾が見えそうな表情で、もくもく食べ始める。
緊張で硬くなっていた侍女たちの肩が、少しだけ落ちる。護衛隊の腹が、正直に鳴る。
レジーナも恐る恐る口にし――
「……あら。控えめなのに、ちゃんと満たされる甘さね」
ラディウスはもう少し職人的な目で、香りと食感を確かめる。
「口の中でほどけるのに、噛んだ満足感が残る。戦の前に食べても重くならなさそうだ」
映像越しの魔国側が、じっとそれを見ていた。
食べられない。食べられないのが分かっているのに、見てしまう。
人間の心理は、戦略よりも正直だ。
そこへ、女帝が動いた。
『……ふふん』
なぜか勝ち誇った声。
宝玉越しに見える女帝の分身が、森の果実籠を抱え、魔国側の重鎮たちに配り始めた。
赤い果実、黄金色の果実、翡翠みたいな房の実。みずみずしさが映像越しでも分かる。
『隠者に負けはせん。我の庭で作られた最高級のフルーツよ! これには勝てまい?』
「あ? 樹からもいだだけじゃねえか。何を偉そうに……せめて綺麗にカットとかできないんですかねぇ、女帝さんはぁ?」
有羽が、わざとらしく挑発する。
戦略会議の空気が、一瞬で「喧嘩」に寄る。
それも――くだらない喧嘩に。
『お? お主、我を侮るか? いいだろう、見ておれ我の華麗なカッティングを!』
女帝の分身が、指を鳴らすような動きをした。
次の瞬間、果実がふわりと宙に浮く。薄い光の刃が走り、皮が剥かれ、種が抜かれ、宝石みたいな一口大に整えられていく。
『そらそらそらー!』
森の主が、やることが果物の飾り切りである。
魔国の重鎮たちは、敬意と困惑を同時に浮かべていた。
女帝は得意満面で胸を張り、有羽は青筋を立てて歯軋りする。
「……へっ。無駄に器用なマネキンさんですねぇ。練習でもしてましたぁ?」
『ははん。負け犬の遠吠えがよく聴こえるのぅ?』
「あ?」
『お?』
国の命運を語っていたはずの面々が、そろって呆然と見守っている。
王国の王女たちも、聖騎士も、侍女も護衛も。魔国の重鎮も女王も書記も。
いま、森の主二人が――映像越しに、果物と菓子で張り合っている。
何をしているのか、この二人は。
心底くだらない。
――だからこそ、救われる。
誰もが気づいていた。
この会談は重い。息が詰まる。
一歩間違えれば、互いの疑念が刃になる。
だから、どこかで空気を緩めなければいけない。
有羽の茶と菓子は、ただの差し入れではない。
女帝の果物は、ただの対抗心ではない。
誰かが、ふっと息を吐いた。
緊張の糸が、少しだけ緩む。笑ってはいけない場面で、笑いそうになる一歩手前の感覚。
あの恐怖の話の直後に、甘味と果物で喧嘩するという落差が、凝り固まった思考を一瞬だけ解かす。
魔国側の画面で、メトゥスが小さく息を吐いた。
王としての顔のまま、ほんのわずかだけ柔らかくなる。
「……続けましょう。けれど、その前に一息を。焦りは判断を鈍らせますから」
レジーナも頷く。
アウローラはクッキーをもう一枚口に入れて、元気よく頷く。
「うん! 休憩大事!」
「あなたは食べ過ぎ。何枚目よそれ」
レジーナの小言に、場がまた少し笑う。
宝玉の光は揺れ、地図の線は静かに輝き続ける。
世界は揺れている。
けれどこの庭の長机だけは、いま確かに、呼吸を取り戻していく。
◇◇◇
庭の長机を吹き抜ける風は、木々の匂いを運んでいた。
魔境の風にしては優しすぎる。優しすぎて、逆に落ち着かない。
緑の宝玉は机の中央で淡く輝き、表面に波紋のような光を走らせながら、魔国側の立体映像を映し出し続けている。
魔国の重鎮たちは、女帝の領域――西部の「木と石の広間」で果物に舌鼓を打っていた。女帝の華麗……ということになっているカッティングで整えられた果実は、香りが強く、滴る蜜が光を受けて宝石みたいにきらめいている。
一方、王国側。
紅茶の湯気が、朝の張り詰めた空気を少しずつ溶かしていた。
侍女たちが用意した白い布の上に、おからクッキーの皿。素朴な焼き色。胡麻の香り。噛めばほろりと崩れて、甘さが短く温かさが長い。
休憩は、単なる休憩ではない。
会談が白熱した今、誰もが脳を酷使しすぎている。ここで息を整えなければ、言葉の端で国が軋む。
魔国側では書記が羊皮紙に走り書きをしている。早口で交わされた提案、想定、条件、留保。
王国側では侍女隊が、同じ内容を見事な手際で整理していた。言葉を記録へ落とし込む速度は、宮廷の教育の賜物だ。レジーナの目が一度だけ侍女たちに向き、ほっとしたように細まる。
アウローラは、クッキーを最後の一枚まで平らげ、紅茶を飲み干し――そして、唐突に思い出したように顔を上げた。
その表情は、ひどく素直でひどく真剣。
「そういえば有羽」
名を呼ばれて、有羽はカップを口元から外す。
いつもの気怠げな顔。だが目だけは、ちゃんと人の話を聞く目だった。
「ん? 何?」
「あちらの女帝様との話はどうなったんだ? 蛇の対処を決めるとか言っていたが……」
その瞬間、長机の周囲に、ふっと沈黙が落ちた。
レジーナもラディウスも、侍女隊も護衛隊も――同じことを考えていたのだろう。
さっきまで国の未来ばかりを並べていたのに、森の核――東の主の話は、あまりに重くて、逆に思考の外へ押し出していた。
有羽は、なぜか妙にあっさり言った。
「それならもう済んだけど」
「え!? い、いつの間に!?」
驚愕が波のように伝染する。
誰も見ていない。誰も聞いていない。そんな時間はなかったはずだ。
そして何より、あんな重大なことを「いつの間にか」で済ませていいのか。
有羽は肩を竦めて、悪びれもせず続けた。
「だって、ぶっちゃけると『どっちが殴りに行くか』を決めただけだし」
宝玉越しに、女帝が即座に乗る。
相変わらずマネキンのような表情のまま、声だけがやけに楽しそうに跳ねた。
『そうよな。あのボケ蛇が暴れるようなら、『どっちがシバキに行くか』を決めただけよ』
――殴る。シバく。
言葉だけ聞けば、路地裏の喧嘩だ。
だが話しているのは、森の主格。
災害を「殴る」で片付ける存在。
何人かは口を開きかけて、閉じた。突っ込みたいのに、突っ込んだら壊れそうな次元の違いを感じてしまったのだろう。
女帝は、さらにあっけらかんと告げた。
『ちなみに今回、蛇鎮圧役は我じゃ。以前、隠者が蛇とやり合ったからの。次は我の番じゃろ』
全員が、同じ表情になる。
――いや、そんな決め方でいいのか。
誰もが口まで出しかけて、飲み込んだ。
言っていい相手ではない。言っていい立場でもない。
そして何より、言ったところで「主」の尺度は変わらない。
有羽は苦笑し、指でこめかみを軽く叩いた。
「それくらいの差でしかないんだよ。だってアイツがどう動くか、まだ分かんないし……」
東の方角を見る。
ここからでは澄んだ空しか見えない。
けれど、その向こうに「東の主」がいる。
見えないのに、見えているような顔で、有羽は続けた。
「女帝さん。まだ東の様子、見えないんだろ?」
『うむ。まだ領域広めたままじゃ。奴め「戸」を閉めよってからに。我が根を差し込めぬ』
女帝の口ぶりは軽いのに、言っている内容は重い。
根が差し込めない――森そのもの視線が、東の主の「壁」に弾かれている。
『一体何をしておるのか……百人くらい、喰らうにせよ潰すにせよ一瞬だろうに』
さらり、と言った。
そこで、空気がひときわ冷えた。
百人くらい。
喰らうにせよ潰すにせよ。
一瞬。
その尺度の違いが、王国側の胃を締め付ける。
帝国兵がどうとか、軍がどうとか、条約がどうとか――そういう話が、急に遠くなる。
上位存在にとって、百の命は「数」ですらない。
ただの「手のひらの虫」だ。
宝玉越しに、メトゥスが小さく息を飲むのが見えた。
女王として顔を保っているが、紫水晶の瞳に、ほんのわずかな怯えが宿る。
彼女は慎重に言葉を選び、恐る恐る問いかけた。
「女帝陛下。その、東の領域に人が足を踏み入れたことは今までなかったのですか?」
女帝は、少しだけ顎を上げて考える素振りを見せる。
長い年月を持つ者の「思い出す」は、人間のそれとは違う。
巻物をほどくように記憶の層をめくる。
『あー……そうじゃな。まあゼロではない。長い年月の内、数えるほどだが奴の縄張りまで『届いた』者は居た。だが……』
そこで一度止まる。
一拍が、妙に長い。
その一拍の間に、王国側の全員が同じ想像をした。
――届いた者たちは、どうなった?
女帝は、指折り数えるような仕草をし、淡々と結論を落とした。
『……うむ。無事に生きて還れた者はおらぬな。昔、一人だけ逃げおおせた者が居たらしいが……そやつも決して無事ではなかったようじゃ』
その一言で、場の温度が二段階は下がる。
魔国側の書記が、ペンを持つ手を止めた。
王国側の侍女が、思わず紙を握り締める。
護衛隊の一人は、背中の汗が冷えたのを感じた。
――逃げおおせた。
――無事ではなかった。
王国や魔国の者は知らないが、帝国で語られている都市伝説がある。
森から戻った弓使い。白髪。焦点の合わぬ目。
そして意味不明の言葉――ホシカミのアギト。
レジーナの喉が、乾いた音を立てた。
彼女は恐れを飲み込む。今ここで口に出しても、話が拗れるだけだ。
けれど心の中で、確かな線が引かれる。
森の東に触れる、ということは国の話ではなく、世界の話なのだ。
女帝は、さらに続けた。
『というより……今回のように大人数が辿り着いたのは初めてじゃな。それこそ万年見て来たが、一度に百名は……おお、初めての事態だ』
いやはやびっくり。
その呑気さが、逆に怖い。
初めては、予測不能を意味する。
予測不能は、対処不能に近い。
有羽が、無意識に顎に手を当てた。
いつもなら気怠げに流すのに、今は違う。
彼の脳内では、見えない東の状況を、可能性で埋めている。
「……どうなってると思う?」
女帝は即答せず、少し考えるような間を置いた。
その間が、王国側には耐えがたい。
森の主が考える時間を必要とする相手。
それだけで十分な恐怖。
『百の人間達が死ぬのはほぼ確定だろうよ。問題は……何故、未だに動きが見えないのか』
女帝の声が低くなる。
さっきまでのふざけた調子が消えて、森の主の声になる。
『確かに数の多さは初めての事態だが、それでも百程度なら「寝返り」程度の動きで潰されて死ぬ。わざわざ「起きて」対応したということは……』
女帝が言葉を探す。
そして――冗談みたいな仮説を落とす。
『……食事を堪能中?』
「うげ……」
有羽が露骨に嫌な顔をした。
王国側も魔国側も、想像してしまったのだろう。
成層圏に届く蛇が食事をする光景。
その食事が、百人をつまむ程度で終わるという発想。
「でもそれにしたって長くない?」
有羽が言う。
その「長くない?」が重要だった。
感覚の尺度が狂っている二人が、長いと言っている。
『そうなんじゃよな……』
女帝も同意する。
彼女の声が、ここで初めて引っかかりを帯びた。
そして、二人は同時に気づき始める。
――これは、想定していた蛇の行動と違う。
領域を広げ、視線を遮り、外からの観測を断つ。
それは言ってみれば準備の動きだ。
獲物を仕留める動きではない。
怒りで暴れる動きでもない。
女帝が慌てたように言った。
『え? ちょっと待て。あのボケ蛇、一体何やっとる? 何でただ領域広げて視線遮るだけで、何も動いておらんのじゃ?』
その言葉に、魔国側王国側、両国の背筋がぞわりとした。
何も動いていない――それが一番怖い。
動けば、まだ対処できる。
災害として受け止められる。
だが、動かずに準備だけしているなら、それは意図を持っている。
意図。
上位存在の意図。
それは、国の計算が届かない。
沈黙が落ちる。
沈黙の中で、誰もが同じ問いに行き着く。
――見えない場所で、何が起きている?
――なぜ、起きたのに、動いていない?
――動いていないのなら、いま何をしている?
有羽が、珍しく真面目な顔で言った。
「……マジでちょっと怖くなってきた。女帝さん。あいつ殴りに行く時は気を付けてね」
宝玉越しに、女帝が即座に返した。
声が少し裏返る。
『まてぃ! 我を見捨てるな! 我もちょっと怖くなってきたぞ!?』
慌てる女帝。
それが余計に怖い。
主が慌てるというのは、人間が雷鳴に驚くのとは違う。
森そのものが「計算を外した」ということに近い。
魔国側の画面の隅で、書記が小さく震えながらも筆を走らせていた。
恐怖に負けていない。記録を残す。
その姿を見て、レジーナは一瞬だけ胸の奥で何かが沈むのを感じる。
――この場にいる全員が、もう「戻れない場所」に片足を入れている。
東は今も沈黙している。
沈黙のまま、領域だけが広がっている。
見えない壁が、森の東側に張られ続けている。
国の対処は、形になりつつある。
会談の方向性も見え始めている。
それでも――森の内部の対処だけが、定まらない。
東は今も沈黙に包まれていた。
沈黙は、静けさではない。
嵐の前ですらない。嵐がもう空にあるのに、降ってきていない――そんな気持ち悪さ。
休憩の甘さは口の中に残っているのに、
喉の奥だけが、砂のように乾いていく。
世界天蛇は、まだ動かない。
それが、いちばん恐ろしい事実だった。




