第66話・続く会談
午後の光が、森の天蓋を透かして庭に落ちる。
日差しはあるのに、暑くない。
有羽の結界が、湿度も温度も、風の肌触りさえも程よく整えている。
長机の上には、緑の宝玉。
宝玉の向こう側には、魔国の重鎮たちが立体映像として浮かび上がっている。
木と石の広間。女帝の領域に仮設された会談スペース。
そこに、書記が数名。筆が止まらない。
果物の皿が片隅に置かれ、噛むたびに小さく音がする。甘い香りが、緊張の合間を縫って漂っている。
王国側も同じだ。
侍女隊が紙束を整理し、項目ごとにまとめている。
レジーナの横には、すでに会談要点の簡易草案が並び始めていた。
――会談は、思いの外スムーズだった。
誰もが、それを薄々理解している。
この場に居る者は、全員が国の「上澄み」だ。
余計な腹を抱えた者がいない。
個人の領地、個人の利権、個人の名誉。
そういった毒が混ざらないと、国と国の話はこんなにも直線的に進むのか、と。
それが逆に、重い。
この場にいるのは、ごく少数。
そして全員が「森の主」の存在を、肌で理解している。
だが――外は違う。
王都に戻れば、誰もこの空気を知らない。
この恐ろしさも、この理屈も、この結界の「圧」も。
魔国側の重鎮の一人が、深く溜息を吐いた。
映像越しでも、その吐息の重さだけは伝わる。
「……内容は纏まった。しかし、どう進める? 事情を知らぬ者は納得せんぞ?」
もう一人、ドワーフの老人が顎髭を撫で、渋い声を重ねる。
「反発は確実に生まれる。むしろ生まれない方がおかしい。儂達とて、女帝陛下の存在を知っておるから納得できるのじゃ。何も知らぬ者が、この案を受け入れるかと言われれば……」
その言葉に、王国側も沈黙する。
レジーナが額に手を当てた。
彼女は平静を装えるが、今はさすがに頭痛が顔に出ている。
「ええ……。王都に戻れば、当然『なぜ今?』が出ます。『何を根拠に?』も。帝国の動きが確定していない段階で動くのは、政治としては最悪に近い。けれど――」
続きが言えない。
言えば「森の主」を根拠にせざるを得ないから。
そして、それを知らない者に語れば――狂気の妄言と取られる。
ラディウスも、軽く頭を抱えていた。
貴族の顔。騎士の顔。夫の顔。
全部が、同時に苦い。
「帝国に被害が出れば情報はいずれ届く。それからならば動ける……しかしそれでは」
貴公子と評しても過言ではないラディウスの眼が、今は鋭い。
その目は真面目。真面目すぎて刃物のような鋭さ。
「あまりに遅い。遅くなれば、何のためにここで会談したのか分からなくなる」
魔国側の獣人が、拳を軽く机に置いた。
怒りではなく、焦りだ。
「だが王権を使っての無理強いは確実に遺恨を残す。国内で反乱の芽が生まれる」
その指摘が現実的すぎて、全員の胃が痛む。
王国は地方自治が強い。
魔国は評議会制で種族が割れている。
どちらも、上から押し込めば割れる構造だ。
――だからこそ、スムーズに決まった方が、今度は重石になる。
そして、その場で。
アウローラだけが、平然としていた。
彼女は、湯気の消えた紅茶のカップに指を添えたまま、淡々と述べる。
「――私が、未だに帝国を憎んでいる事は、多くの貴族が知っています。だから憎しみを捨てられない馬鹿な王女を装って国境まで赴くことは難しくありません」
一瞬、空気が固まった。
宝玉越しの魔国側の書記が、ペン先を止める。
王国側の侍女隊も、同じように筆を止めた。
護衛隊の数名が、息を吸い直す。
馬鹿な王女を装う――
それは、自己犠牲ではない。
政治の技術だ。
アウローラは続ける。
「必ず動きがある筈です。辺境伯は常に帝国を警戒している。不可侵条約の上で胡坐をかくような御仁ではない。私が赴き、必ず情報を掴んできます」
声音は落ち着いている。
けれど、目が違う。
戦場で命令を出す者の目。
熱と冷えが同居した、国を支える王族の顔。
レジーナが妹を見る。
妹の横顔を見る。
そこに、驚きと、誇りと、ほんの少しの痛みが混ざる。
侍女隊が、誇らしげに胸を張る。
護衛隊も、背筋を伸ばす。
彼らは知っているのだ。
この第二王女が、戦場で飾りではないことを。
魔国側の重鎮たちも、目の色が変わった。
特に獣人の将らしき男が、ゆっくり頷く。
「……腹を括った者の顔だ。王国は、良い将を持っておるな」
メトゥスは、その言葉に反応しない。
反応しないまま、アウローラを見つめる。
友好国の姫。
それでも、王として評価する目だ。
アウローラの提案は、政治的に強い。
なぜなら、説明が要らない。
憎しみは、理由になる。
誰も疑いづらい。
そして、動いた結果が「情報」として戻ってくる。
レジーナは小さく息を吐いた。
頭痛の種が一つ、別の形にまとまった。
痛みが消えたわけではない。
ただ、「道」になった。
「……分かったわ。あなたが行くなら、私は王都で整える。外交文書、王命、辺境伯への筋、国内の火消し……全部必要になる。だからあなたは、動くなら確実に情報を掴んで帰ってきて」
「任せてください。私は――負けず嫌いですから」
ここで、ほんの少しだけ、わんこの影が戻る。
それが逆に、救いだった。
だが――救いは長く続かない。
有羽が、ふと視線を宝玉に向けた。
そこに映る女帝へ。
そして、誰もが避けていた質問を再び投げる。
「……まだ見えないの? 東の様子」
『うむ……マジでなにやっとんのアイツ? もうすぐ夜じゃよ? 何で動かないの?』
女帝の声は、ふざけた言い回しなのに、切実だった。
強さの序列で言えば同格。恐れる必要はない。
だが――理解できないものは、怖い。
有羽は顎に指を当てた。
アウローラが、思案顔で問いかける。
「なあ有羽。東の蛇の様子って、私達の感覚でいうとどんな感じなんだ? いや、動きが無いのは不気味っていうのは軍でも同じだから理解はできるんだけど」
有羽は指を一本立てて、噛み砕く。
「そうだなぁ……まず、とっても強くて、でも無口で何考えてるんだか分からない剣士が居るとします」
魔国側の書記も、宝玉越しに身を乗り出した。
レジーナも、ラディウスも、侍女も護衛も、全員が耳を澄ませる。
例え話の形を取れば、理解の足場ができる。
「で、その剣士が突然立ち上がり、剣を鞘から抜きました」
全員が息を吸う。
その瞬間の想像は、嫌でもできる。
戦場の緊張。
殺気。
恐怖。
「そこで終わり。何もせず、ただ立ち尽くして数時間無反応――それが今の蛇の状態です」
一拍。
そして、アウローラが思わず叫ぶ。
「…………怖っ!」
魔国側からも、小さな悲鳴のような声が漏れた。
ドワーフの老臣が「うわ」と呟き、獣人の将が耳を伏せる。
メトゥスは、表情を崩さないが、指先がほんのわずかに震えていた。
怖い。
暴れる方が分かりやすい。
攻めるなら攻めろ。怒るなら怒れ。
何もしないまま、剣だけ抜いている。
相手が何をするか分からない。理解できない――恐怖だ。
有羽は、視線を地図へ向ける。
看板の東部に描いた印。
そこが今、見えない。
「だから猶更、こっちも様子見しかできない……いや、このまま動きが無いなら、どっかのタイミングで女帝さんが接触に行くのも選択肢には入るか……」
女帝が、宝玉越しに即座に反応する。
声音が、完全に幼児化した。
『ええっ!? 我一人でか!? 嫌じゃよー! こわいもん!』
「俺だって嫌だよ!」
有羽が即座に突っ込む。
そのやり取りが、場の空気をほんの少しだけ軽くした。
軽くしたのに、内容は最悪だ。
「……まあ、後詰で控えとくから、覚悟決めといて。どの道どっちかは行く事になるだろうし」
『うー、嫌じゃよー、怖いよー』
森の主が泣き言を言う光景。
それ自体が笑えない異常。
レジーナが、紙束を指で揃えながら、絞り出すように言った。
「……国の方針は決まりつつある。でも、実務が重い。帰国後の調整……説明、根回し、反発の処理……。森の主の存在を伏せたまま動かすなら、言葉の組み立てが要るわ。現状、私が魔国に赴く理由が作れない」
魔国側の重鎮も頷く。
「我らも同じじゃ。評議会は特に面倒だ。『森の主がそう言った』などと言えば、半分は信じ、半分は笑い、残りは牙を剥く。種族ごとに反応が違う」
ドワーフが唸る。
「だが、動かねば詰む。東が空白になれば北が動く。北が動けば南も西も燃える。燃えれば、香辛料も船も畑も民も――全部が灰になる」
それは脅しではない。
数字でもない。
ただの現実だ。
アウローラは、拳を握っていた。
憎しみを装う。
憎しみを武器にする。
そのために、胸の奥の『本物』を一度撫でて、鞘にしまう。
――彼女は、そういう器だ。
ラディウスは、妻の横顔を見た。
レジーナは、疲労の中でも目が鋭い。
頭痛を抱えながら、王女の顔を捨てていない。
彼は小さく息を吐き、そして口に出さずに決める。
帰国後、最初に矢面に立つのは自分だ。
妻を守りつつ、政治の盾になる。
有羽は腕を組み、ぼんやりと空を見上げた。
いつも通りの居住空間。
だが、東だけが違う。
見えない壁。
沈黙したままの蛇。
(はてさて、どうしたものかね……)
有羽の思考は、二つに分かれて渦を巻く。
一つは国。
伝える方法。動かし方。嘘のつき方。真実の隠し方。
もう一つは森。
東の主。沈黙の理由。領域を広げ続ける意味。
それが「食事」ならまだいい。
だが、もし違ったら――
その先を考えた瞬間、
有羽はほんの少しだけ、眉間を寄せた。
◇◇◇
昼の気配が薄れ、森の天蓋の色が少しずつ深くなる。
夕暮れの光は赤くもならず、ただ静かに夜へ滑る。
長机の周囲には、疲労が漂っていた。
決して無駄な疲労ではない。
むしろ、よく回った歯車の摩耗。
短い時間で、過ぎるほどに多くの判断を積み上げた結果の倦み。
魔国側の映像では、女帝の領域――西部の仮設広間が映っている。
書記の指は黒くなり、紙束の角が乱雑に重なり、誰のものか分からない水差しが机の端に寄せられている。
議論がスムーズだった証拠。手が止まる暇がなかった。
王国側では、侍女隊がまとめた議事の骨子が、すでに三段階に整理されている。
ひとつ「帝国が荒れる前提の備え」
ふたつ「神聖国の動きを見越した線」
みっつ「魔国との共同防衛と交易の固定」
アウローラは、椅子の背に寄りかかったまま、珍しく黙っていた。
元気が消えたわけではない。
むしろ、元気を仕舞っている。
この場の重さを理解しているからこそ。
そして有羽は――
ふいに、何かを思い出したように席を立った。
ログハウスの中へ入って、すぐ戻る。
手に持っているのは、紙束とペン。
それだけのことなのに、場が静まる。
彼が紙に向かって、さらさらと何かを書き始めると全員が息を殺した。
ペン先が走る音が、妙に大きく感じられる。
インクが紙に染みる、かすかな匂い。
彼の横顔はいつも通り、気だるげで――
なのに、その指先の動きだけが異様に迷いがない。
有羽は書き終えると、紙を一枚だけ抜き取り、丁寧に折りたたむ。
封筒に入れ、指先で封を整え、封蝋を落とした。
赤黒い蝋が、丸く広がる。
その中心に、指で押し印を刻む。
紋章ではない。
けれど、ただの押し印でもない。
それは、「破れば分かる」という形の意思表示だ。
中身の価値よりもまず、信頼の作法を先に置く。
この世界の貴族にとって、これほど分かりやすい礼儀はない。
有羽はその封筒を、ひょいとレジーナに差し出した。
「はいこれ」
あまりにも軽い動作。躊躇しながらもレジーナは受け取る。
反射的に両手で。
軽い。けれど中身は重い。
理屈ではなく経験で感じ取っていた。
「……賢者様? これは一体?」
声が少しだけ固い。
彼女は冷静だが、冷静なほどに異常を嗅ぎ取っている。
有羽は、さらりと言う。
「カレーのレシピ」
――凍りつく。
王国側の空気が、文字通り止まった。
護衛の一人が、無意識に槍の柄を握り直す。
侍女が紙束を落としかけ、寸前で支える。
アウローラは目を丸くし、口が半開きのまま固まった。
ラディウスですら、一瞬だけ瞬きを忘れる。
宝玉の向こう側でも同じだ。
魔国の重鎮たちが、同時に硬直した。
ドワーフの老臣の鼻が、ぴくりと動く。
獣人の将が喉を鳴らす。
メトゥスは表情を崩さない。
崩さないが、その瞳の奥の色が変わった。
飢えだ。
欲望だ。
そして、それを表に出さずに握り潰す王の技術。
その最中、有羽が続ける。
「それ、『賢者からの頼まれもの』ね。『魔国の女王のところまで』持って行ってくれる?」
「……あ」
それだけで、レジーナは理解してしまった。
この封筒は、ただの手紙ではない。
通行証だ。
大義名分だ。
レジーナとラディウスが魔国へ赴く「表向きの理由」。
会談で固まった方針を、王都の現実へ落とすための楔。
これがあるだけで、反発の形が変わる。
賢者の頼まれものは、無視しづらい。
王国の貴族達には賢者の存在は知れ渡っている。
賢者に恩を感じている者。賢者を恐れている者。
そして賢者を利用したい者も――全員が注視している。
有羽は先に自分で釘を刺した。
「ま、それでも王国側で文句は出ると思うけどね。『レジーナ殿下を伝令扱いとは何様のつもりだ!?』とか『無礼極まる!』とかね。それでも――」
レジーナは即座に繋げる。
言葉の速度が、普段の外交の場そのままに。
「……ええ、それでも考えられていた反発は半分に減ります。賢者様の行動に注視している貴族は多いので。ですがこれでは――」
賢者が、有羽が、王国側の反感を買う。
反発を本来受けるべきは王族だ。
それを、森の賢者に肩代わりさせる形になる。
有羽は苦笑した。
「俺は別にいいよ。森から出る気ないし。遠くでぎゃあぎゃあ言われても大丈夫」
「そういう問題じゃないだろ有羽!!」
アウローラが立ち上がる勢いで叫んだ。
その声には、怒りだけじゃない。
焦りと、痛みと、そして――今この瞬間に「王族であること」を思い出した者の責任が混ざっている。
「国の上に立って責任を負うのが王族だ! その責任を、関係のない者に押しつけてどうする! それで楽になった瞬間――私たちは、王族じゃなくなる!」
レジーナも静かに言葉を足す。
声音は柔らかい。けれど刃の鋭さを持って。
「ええ。その選択だけは出来ません。恩を仇で返す真似は、信頼を損ねることになります。その欠落は金貨では贖えない」
有羽は、少しだけ目を細めた。
怒っているわけではない。
この人たちがそう言うだろうことを、どこかで予想していた目。
「それは分かってるよ。俺も『こんな状況』じゃなきゃ提案しなかった。自分の足で女帝さんのところまで行って、米とレシピを交換してた」
彼は、看板に描いた大陸地図へ視線を移す。
精巧すぎる大陸図。
その東部を、指先でそっと撫でた。
「だけど今、時間が無い。一手の遅れが致命的だろ? 少しでも対応を早めた方が良い」
そして、わざと呑気な声色で続ける。
「……俺、本当に米食いたいんだって。大陸巻き込んだ戦争とか起こったら、呑気に米料理食えなくなっちゃうだろ? それは嫌なんだ」
呑気を装う。
その装いが、優しさだと全員が分かっている。
お前たちが背負え、ではなく……俺のせいにして進めと言っている。
それが分かるからこそ、王族は簡単に頷けない。
「申し訳ないって思うなら、国のいざこざはどうにかしてくれな。俺がここでのんびり米料理楽しむ為に、さ」
魔国側の重鎮たちも、表情が変わった。
彼らは政治家だ。
有羽の言葉の裏の計算も、覚悟も、全て嗅ぎ取る。
レジーナは、唇を結んだ。
封筒を握る指に、力がこもる。
そして、覚悟を決めて頷いた。
「……承知しました。この『頼まれもの』、必ず魔国に届けますわ」
「姉上!?」
アウローラが目を見開く。
呑み込めない。
理性では分かる。
感情が納得できない。
レジーナは妹を見て、冷たくはない声で言う。
むしろ、優しいからこそ厳しい。
「呑み込みなさいアウローラ。帝国が滅びれば、大陸全土が揺れる戦が発生します。そして帝国が荒れる未来はほぼ確定です。二人の森の主が断言している事。私達も同じ認識でしょう?」
「それは……! ……それは、そうですが……!」
アウローラは唇を噛み、視線を落とした。
拳が震える。
怒りではない。
納得したくないのに納得出来てしてしまう痛みだ。
宝玉の向こうで、メトゥスが静かに立ち上がった。
彼女は重鎮たちに視線を一つ送り、全員が無言で頷くのを確かめる。
王としての所作。
そして、有羽へ恭しく一礼を。
「王国を迎える準備を整えておきます。必ず王国へ援軍を送れる段取りも。……そして、有羽様に渡す米の準備も。全て、必ず」
言葉の端が揺れない。
そこにあるのは、恐怖ではなく、責任だ。
森の主に呼ばれた女王は、今、逃げるという選択を捨てている。
レジーナも、宝玉越しに視線を返す。
私的な友人の目ではない。
国の代表者の目。
「お願いします女王陛下。私達も王都に帰り次第、すぐに向かいます。……誰にも文句は言わせません」
その誰にもには、王都の貴族も、評議会も、商人も、軍も、含まれる。
そして、場合によっては「民意」さえ含まれるのだろう。
そこで、ラディウスが立ち上がった。
いつもなら柔らかな笑みを浮かべる男が、今は静かに腰の剣を抜く。
刃は純白。
澄んだ塩のような、清涼な白。
派手さがないのに、目が逸らせない。
聖剣。かつて魔界の悪魔を討滅した、塩刃。
ラディウスは言った。
軽さは無い。祈りを捧げる聖騎士の声。
「我が聖剣に誓おう。『賢者の頼まれ物』、決して中身を覗き見ない。必ず魔国に送り届ける」
彼は一拍置き、さらに続ける。
「もうひとつ安心の為に誓おう。『我等王国はカレーのレシピを賢者から聞いていない。レシピの内容は魔国にだけ知られる物になる』……これで、邪推も入らないだろう?」
レジーナの瞳が、ほんのわずかに細くなる。
彼女は理解した。
夫は誓いを盾にしながら、政治の刃も同時に差し込んでいる。
宝玉の向こうで、女帝が低く笑った。
『海神……蒼宙海神サルマリエの剣か。海と港と誓約の剣。魔国の者よ、これ以上の保証は存在せんぞ? あの聖騎士は神に誓った。疑う余地は無い。あの封筒の中身を得られるのは、お主達魔国の者だけぞ』
宝玉の向こうで、魔国の重鎮たちの表情が変わる。
疑念が薄れ、計算が始まり、そして理解が落ちる。
誓約は、魔国にとっても言葉以上の価値を持つ。
特に――神の剣に誓われたなら。
魔国側に走る安堵。
書記の筆が再び走る。
保証という言葉は、国を動かす。
その瞬間、ラディウスの瞳だけが、ほんの僅かに悪戯っぽく細まった。
彼は内心で、こっそり舌を出す。
(うん。僕は嘘は言ってないよ。賢者からカレーのレシピなんて教えてもらってない……妻が、スパイスの中身を舌で言い当てただけさ)
聖なる誓いを掲げながら、嘘を一切乗せずに――真実は語らない。
神罰も下ることはない。
一片の嘘もついていないから。
彼は聖騎士であると同時に、侯爵家当主で、王女の夫だ。
守るべきものを守るためなら、「ルールの内側」で最大限に動く。
レジーナは封筒を胸元に寄せ、深く息を吸った。
その顔は、王女の顔に戻っている。
アウローラは悔しそうに唇を噛み、でも頷く。
納得できないのではない。
納得した上で、許せないだけだ。
自分ではなく有羽が矢面に立つことを。
有羽は、封筒を一瞬だけ見つめた。
小さな手紙。
その中身が、香辛料の革命になりうる。
そして今は、外交の鍵にもなる。
「……じゃあ、頼んだよ」
有羽のその言葉は軽い。
だが、頼まれた側は知っている。
有羽は戦争が嫌で。
大陸が壊れるのが嫌で。
自分の平穏が失われるのが嫌で。
――そして、たぶん、目の前の人間たちが巻き込まれるのが嫌だったから。
反感を買う覚悟をしてでも、王国が進める理由を作った。
森の空は、ゆっくりと夜へ向かっている。
東は相変わらず沈黙のまま。
けれど――こちらは動いた。
たった一手。
手紙一つ分の、わずかな時間短縮。
そのわずかが、時に国の命運を分ける。
全員が、それを理解していた。




