第64話・繋がる国と国
朝食の余韻は、もう庭に残っていなかった。
いつもなら護衛や侍女も、朝食の感想などを言って盛り上がるところだが――今日に限っては微塵も無い。あるのは静かな緊張感のみ。
庭の長机に腰を下ろしているのは、アウローラ、レジーナ、ラディウスの三人。
少し離れて侍女隊と護衛隊が控える。
都ではないのに、背筋が伸びている。気配は王宮の警備と同じ。
その中心に、有羽が立て看板を運んできた。
大きな木製の板。厚みがあり、表面は削って整えられている。そこに、何のためらいもなく有羽は指先を当てた。
指が光る。
淡い、しかし異様に輪郭のはっきりした光。
その光を宿した指が動くたび、木の表面に線が焼き付くのではなく「浮かぶ」。白銀の筋が、まるで最初からそこにあったかのように現れていく。
最初に描かれたのは外枠。大陸の輪郭。そこから山脈、川、海岸線、そして主要な街道らしき筋。さらに国境線が引かれる。線の迷いがない。縮尺のズレもない。
正確すぎて、怖い。
見ていた護衛が、思わず喉を鳴らす。
侍女が息を吸い損ねて、肩を小さく跳ねさせる。
レジーナは、顔に出さないまま内心で乾いた笑いを零した。
(この地図の制作技術だけで国が欲しがる。海図、街道図、補給線。これを作れる人間が、森で紅茶を飲みながら暮らしている……)
王国でこの才能を見つけたなら、爵位を与えて終わりではない。
権限も資金も、人も、情報も、あらゆる手段で囲い込み、決して国外に出さない。というより、出せない。出した瞬間に他国の軍が強くなる。
(……どこの国の生まれなのよ、本当に)
レジーナの中で、見知らぬ異国への評価が勝手に下がっていく。この領域の人材を手放すのは、国そのものの失態レベル。森に引きこもっている事実が信じられない。
実際は異世界から来た人間なのだど、ここにいる誰も想像できない。仮に口にされても、理解の範囲外だ。理解できないものは、政治にならない。
有羽の指が止まった。
「はい、こんな感じ」
大陸の中央に、魔境の大森林。
南に王国。西に魔国。東に帝国。そして北、山脈に囲まれた神聖国。
さらに、有羽は森の東西南北に丸を打つ。
森の「主」がいる地点だ。南は自分の居住圏、西は樹神女帝、北は絶対に近寄るなの場所、東は――あの蛇。
全員の視線が自然に東へ吸い寄せられる。
アウローラが立ち上がり、地図の東端を指でなぞった。爪が木に触れて乾いた音がする。
「有羽。この東の蛇がいる場所ってどんなところなんだ? 簡単に辿り着ける場所なのか」
有羽は、少しだけ口元を歪めた。
笑いではない。面倒な説明を選ぶ時の顔だ。
「簡単じゃないな。俺が昔に行った時の感じだと……アウローラ達だと正直厳しい。護衛さんや侍女さんより、数段上の魔物がうじゃうじゃいる」
一拍おいて、有羽がさらりと言う。
「あー、レベルで言うと……五十から六十くらいが、普通に出る」
護衛と侍女が、ほぼ同時に呻いた。
「げ」
「ひっ……」
声の種類は違うが、意味は同じだ。
レベル五十、六十。英雄譚が生まれる領域。倒せたら一生自慢できるどころか、詩にされて酒場で歌われる。そんな存在が「普通に出る」場所など、理解の外。
ラディウスが静かに息を吐いた。
彼の脳裏には、かつて倒した魔界の悪魔がよぎっている。あの時ですら、聖剣の力を借りてようやく倒せた相手。感覚でいえば五十台。
ならば、この場所は……。
沈黙の中で、ラディウスが言葉を置く。
「ようするに……帝国は本腰をあげて森の攻略に赴いた、ということだね。調査目的とは思えない。帝国の主力が向かった可能性が高い」
有羽が頷く。
「百人って数も、俺の感覚だと『部隊』だ。冒険者が十人でどうこう、じゃない」
レジーナは地図の東を見つめながら思考を走らせる。
帝国が百を超える戦力を森の奥まで通せた。つまり、兵の質も高い。指揮も統制もある。補給はどうした。道をどうした。斥候は。偵察魔法は。地形改変は。
そして、最も嫌な可能性が頭を叩いた。
英雄級が混じっている。
伝説級が混じっている。
剣聖の名まで、思考の端をかすめる。
アウローラが一度首を振った。自分の頭の中の仮定を、いったん机の外へ追い出す仕草だった。戦場の将が、迷走を断つ時の動き。
そして彼女は、別の角度から結論を引きずり出した。
「……多分だけど、その踏み込んだ帝国軍の中に、帝国の皇帝――帝王ウィルトスがいる」
護衛隊がわずかに反応する。侍女隊が息を止める。
レジーナの瞳が、ほんの少しだけ冷えた。
アウローラの声は、憎しみよりも確信に近い。
「あの男は勇敢で誇り高い王だ。部下だけに先陣を任せるとは到底思えない。自分が前に出ることで、兵の心を引っ張るタイプだ」
怨敵だからこそ、過小評価しない。
憎むからこそ、よく見ている。
レジーナが頷く。
「現皇帝ウィルトスが死亡するとなれば、帝国の混乱は未曽有のものになるでしょう。元々東部は群雄割拠の土地。それをウィルトスが押し潰して統一した。上に立っていた指導者が消えれば……」
「かつての大戦乱が再び起きる」
ラディウスが静かに継いだ。
補給線も、徴税も、治安も、軍の統制も。全部が「皇帝の存在」で繋がっている国は、切れた瞬間に裂ける。
ラディウスは、看板の森の周囲に引いた丸を指でなぞった。
「本来、魔境の森は軍が踏み入れられる場所じゃない。この森の別名は『不帰の森』。どこの国でも触れてはならない禁断の地。……帝国が主の場所まで突き進めたのは、運が良かったのか悪かったのか」
「両方でしょうね」
レジーナが小さく言う。
「辿り着けた幸運と、辿り着いてしまった不運」
沈黙が落ちた。
森の木々は揺れていないのに、空気が重い。結界の中は快適で、風も穏やかなのに、誰の心も穏やかになれない。
その静寂を破ったのは、音ではなく光だった。
緑色の宝玉が、有羽のポケットの中で微かに脈打つように光った。
まるで心臓だ。森の心臓。
有羽は宝玉を取り出し、掌の上に乗せる。
光は柔らかいのに、視線を引き寄せる力が強い。
レジーナは、喉の奥が少し乾くのを感じた。
森の主格が絡む会談。王都の会議室より、よほど危うい。それでも、避けられない。避ければ、世界に置いていかれる。
アウローラが、思わず有羽の手元を見つめる。
彼女の眼には恐怖よりも先に「理解しよう」という気持ちがある。だから強く――そして危うい。
有羽は一度だけ、周囲を見回した。
護衛隊、侍女隊、王族、聖騎士。全員の顔に「問い」がある。だが言葉にはならない。今は、繋がること自体が答えになる。
「それじゃ――繋げるぞ」
有羽の声は、いつもの気怠さをまとっていた。
そしてその気怠さのまま、宝玉に有羽の魔力が流れ込む。
緑の光が一段強くなり、掌の上で小さな太陽みたいに膨らむ。光は球体から溢れ、空間に薄い膜を張った。
宝玉が淡く脈打つたび、庭の空気が一段ずつ別の場所に染まっていく。
結界の中にいるはずなのに、遠く西の森の深部――根と樹冠の気配が、こちらへと侵入してくる。
有羽の掌に乗った緑の宝玉の上に、立体の像が立ち上がった。
最初は輪郭だけ。次いで木目の質感。人形めいた身体。無機質な顔。そこに、深い緑の光だけが灯る。
樹神女帝の分身。
有羽はもう慣れた顔で宝玉を軽く傾け、像を見やすい角度に整える。だが、庭にいる他の者たちは違った。
護衛隊の肩が一斉に強張り、侍女隊が息を呑む音が重なる。誰も悲鳴を上げないのは、上げた瞬間に喉が凍りそうだと本能が理解しているからだ。
情報の伝達が一瞬で済む。
国と国の会談が、距離の意味を失う。
それがどれほど恐ろしいか――理解できる頭を持つ者ほど、理解してしまう。
レジーナは、眼を見開いたまま動けなかった。これを『道具』として成立させた発想。国境も伝令も、待つ時間も、物理的な安全も、その多くを無意味にする可能性。
もしこれが人の手で量産できるなら、槍より砲より危険だ。
王都の重鎮たちが喉から手が出るほど欲しがる未来が、はっきり見える。欲しがった瞬間、国は争いに向かう。情報は刃だ。早く届くほど深く刺さる。
だがそれよりも、驚愕した事がある。
女帝の姿を見たレジーナの唇が、かすかに動く。
「……精霊王」
呟きは小さいのに、庭の空気を切った。
宝玉の向こうの女帝が、「お?」と首を傾ける。マネキンじみた顔が、ほんのわずかに人間くさい表情へ傾いた。面白い玩具を見つけた子供のような、稚気を孕んだ微笑。
『その名で呼ぶという事は……うむうむ。どうやら南王国の王族は、我の事をちゃんと伝承しているようだな。善き善き』
「……どゆこと?」
有羽が心底わからない顔で首を傾げた。彼にとって女帝は「西の主」であり、畑を持ち、液肥を蜜みたいに吸い、テレビ電話な魔道具を暇つぶしで作る相手である。建国とか伝承とか、そこまでの知識は持っていない。
護衛も侍女も同じ顔をする。え? 精霊王? なにそれ? と。
女帝はうんうんと頷き、何でもないことのように言った。
『いやなに。南王国の建国にも、我ちょーとばかし関係しておるのでな。魔国程深い繋がりではないが……王国はきちんと覚えて、受け継がせているようだ。うむうむ』
その瞬間、アウローラの目が丸くなる。何かを思い出したように。
ラディウスも息を呑んだ後、目を伏せて深呼吸した。心の中で余計なものを知ってしまった、と処理している顔。
レジーナは、頭の中で王家の資料を片っ端から引きずり出していた。建国神話。古い盟約。精霊信仰の裏にある「実在の影」。王族が代々口伝で引き継ぐ、書に残さない事項。
(……まさか、これが『本人』……?)
確かに伝承には「森の王冠」のような存在が出てくる。王国の初期、飢饉と疫病の年に、森から助けがあったという話も。だがそれは象徴で、寓話で、政治的な神話だと――そう扱うことが合理的だったはずだ。
ところが今、宝玉越しに、本人が「関係しておる」と言った。
レジーナの表情が壊れ始める。困惑、驚愕、理解、否認、再理解。百面相の速度が速すぎて、側で見ている侍女たちが微妙に怖がっている。
女帝は軽く手を振るような仕草をして、ぴしゃりと言う。
『ま、その辺は今回の件には無関係なので黙っておけ。隠者が言うところの「おふれこ」というやつじゃ。ここは魔境の森の中。映像越しの秘密の会談なのだからな。無視じゃ無視』
「無視……建国を手助けした伝説の精霊王を無視……しかも実態は、魔境の森の主の一人で、魔国の――」
レジーナが呻く。
呻きが、叫びに変わりかける。
「――真の支配者……? ああ……あああああああ」
両手で頭を抱えたレジーナを、ラディウスが慣れた手つきで支える。
「レジーナ。とりあえず落ち着いて。はい深呼吸。はい吸ってー、吐いてー」
「ひっひっふー。ひっひっふー」
「いやそれ、違う呼吸法だから」
思わず、有羽がぼそっと突っ込んだ。
庭の空気がほんの少しだけ緩む。ほんの少しだけだが、その「ほんの少し」がなければ、全員が張り詰めたまま折れそうだった。
そのとき、宝玉の光がもう一段明るくなり、女帝の背後――西の側の空間が広がる。森の西のどこか。オアシスの中心か、あるいはその近傍。そこに集められた面々の姿が、次々と映り込む。
銀髪。紫水晶の瞳。深緑のローブドレス。
メトゥス・ラウルスリム。
その周囲に、威厳のある者たちが並んでいる。エルフだけではない。鍛えた金属みたいな眼のドワーフ。鬣のような髪を持つ獣人。淡い刺繍の礼装を着た書記官らしき者たち。皆、急造の集合だと分かるほど、しかし「公の顔」を作っている。
王国側の侍女隊が息を呑んだ。王宮で見たことのある魔国の重鎮が混ざっている。式典で遠巻きに見た、外交の場の相手が、いま宝玉越しにこちらを見返している。
メトゥスは微笑んだ。だがそれは私的な微笑ではない。表情は柔らかいのに、距離はきっちり取られている。女王の微笑。
「……お久しぶりです、有羽様。このような形で再会することになるとは思いませんでした」
「ども、メトゥスさん。こっちも思ってなかった。次会う時は、米の話だと思ってたから」
有羽が軽く会釈する。
メトゥスは小さく頷き、言葉を選ぶように目を伏せてから告げた。
「既に準備は整っております。……有羽様が望まれる時には、いつでも」
その「いつでも」が、外交の言葉だとレジーナは理解した。私的には「あなたが来てくれるのを待っている」。公的には「我々は動ける」。両方の意味が、一文に収まっている。
有羽は「それは助かる」と小さく返すだけ。余計な言質は取らせない。
ただそのやり取りを視界の端で見ていたアウローラの胸が、むかむかした。
理由が分からない。
美女と話しているから? いや、そんな単純な話じゃない。むしろアウローラは、メトゥスを知らないわけではない。式典の場で顔を合わせたこともある。優雅で、賢くて、怖い女王。
だから余計に、むかむかする。
有羽が「自分の知らない顔」で会話しているように見えた。森の家での、有羽の雑な口調ではない。相手を見て、言葉を選んでいる顔。
そして何より、メトゥスは有羽のことを「有羽様」と呼び、有羽はメトゥスのことを「メトゥスさん」と呼んだ。
名前で呼び合った。
その事実が――アウローラの胸を苦しくさせる。
(……なんだそれ。私が勝手に、むかむかする権利なんて――)
思考がまとまる前に、アウローラは勢いで口を開いてしまった。
「よ、よし! これで互いの国の代表が揃ったな! 魔境の森の中で直接顔を合わせない異例のことだけど……突発で、準備なんて全然できてないけど!」
言った瞬間、自分で「正直すぎた」と分かって、顔が赤くなる。
レジーナが頭を抱えた。やっと思考を収束させたばかりの脳が、妹の言葉でまた揺さぶられたのだろう。
「正直すぎる告白はやめなさい、アウローラ……事実は言っていい場合と駄目な場合があるの」
「だ、だって本当のことだし!」
「黙らっしゃい」
姉妹のやり取りが、宝玉越しに魔国側にも届く。
魔国側で、老境のドワーフが「はは」と低く笑った。笑い方が分厚い。長い年月を鍛冶場と政治の場で過ごした者の喉の鳴り。
「準備ができておらぬのは此方も同じじゃ。あまりに急なことだったのでな」
続けて、老人のエルフが穏やかに頷いた。目が鋭い。穏やかな声に反して、言葉の芯が硬い。
「うむ。そして今回の会談は……その「急な事」に対する準備を話し合う場である。準備が整っておらぬのは、むしろ自然だ」
レジーナは心の奥で、ほんのわずかに安堵した。
魔国は混乱していない。少なくとも見せ方を崩していない。
そして何より――メトゥスがそこにいる。
レジーナは彼女の顔を見た。私的な場なら、冗談のひとつも交わせる相手だ。互いの趣味や、美容の話題や、式典の後の疲れを笑い合ったこともある。
しかし今は「公」だ。
メトゥスの微笑は親しみではなく、国の仮面。レジーナ自身も同じ仮面を被る。友人の視線ではなく、王族の視線で見返す。
その視線の交差だけで、場の温度が一段下がった気がした。
そして、女帝が場を切る。
『では互いに話し合うが良い。本来ならば、このような場を作ることは無いが……東の蛇が動いた以上、何事もなく終わることは、おそらくない』
女帝の声には感情がない。だが感情がないからこそ重い。森の均衡が揺れているという事実だけが、そこにある。
『森だけではなく国が大きく動く事になる。西部は魔国も含めて我の領域なのでな。流石に無視はできん……隠者、お主もそうだろう?』
宝玉越しに視線を向けられた有羽は、肩をすくめた。
「……まあね。王国の王族さんとこれだけ関わっちゃったらな。俺も無視はできないよ」
言葉は軽い。だが、続きは軽くない。
「だけど俺と女帝さんが手を出せるのは、蛇のことに関してだけ。結果的に生じる国のいざこざは、俺と女帝さんの管轄外」
『うむ。それで正しい』
女帝が頷く。頷き一つで、森の規則が確定したような感覚が走る。
『それ故に――この場を作った。我は隠者と蛇の対処について話す。お主らは国の対処について語り合うがよい』
言い切ると同時に、女帝の像の周囲の空気がまた一段冷えた。
レジーナは背筋を伸ばし、指先を組む。アウローラは膝の上の拳をゆっくり開いて呼吸を整える。ラディウスは視線を一度落としてから、まっすぐ宝玉の向こうを見た。
魔国側でも、重鎮たちが姿勢を揃える。書記官が羊皮紙と羽ペンを準備し、墨壺の蓋が静かに開く音がした気がした。もちろんこちらには届かないはずなのに、場の緊張が音を幻聴に変える。
有羽はレジーナとアウローラ、ラディウスに視線を向ける。いつもの気怠げな顔のまま、目だけで「頼んだ」と言う。
レジーナは小さく頷いた。王族としての礼ではなく、交渉者としての合図。
アウローラは胸のむかむかを飲み込み、王女の顔に切り替える。
ラディウスは息を整え、背筋を伸ばした。
そして、映像越しに、魔国側の重鎮たちが同じように姿勢を正す。
魔境の森の中、直接会わない会談。
伝令も道程も、全てをすっ飛ばした、国を揺るがす異常な席。
始まりの鐘は、女帝の一言で鳴らされた。
――本格的な会談は、これから。
今はただ、全員が同じ一点を理解している。
東の蛇が動いた。
その事実だけで――世界はもう、昨日のままではいられない。




