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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第四章

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第63話・女帝の提案


 朝食が終わった。

 皿は空になり、湯気は薄れ、パン屑の散った木の天板だけが「今ここに生活があった」と主張している。侍女たちが素早く動き回り、布巾で拭い、カップを下げ、温い飲み物を新しく置き直す。その手際は、王宮の作法というより、ここ――賢者の家の流儀に馴染んだ動きだった。


 満足げな顔は、確かにある。

 ただ、本当に少しだけだ。

 誰もが、腹が満ちた分だけ余計に「現実の重さ」を正面から受け止める準備が整ってしまったような顔をしていた。

 有羽は水の入ったコップを手に取り、ひと口飲む。喉を潤し、息を整え、あえていつもの調子で口を開いた。


「さて――それじゃ皆さん。お腹も満たされたところで、話を戻そうと思う」


 言いながら、有羽は視線をアウローラへ向ける。


「そこのアウローラなんかは、おかわりまでして準備万端みたいだしね」

「うん! 今日も美味しかったぞ!」


 即答。

 皮肉が皮肉として着地する前に、元気の勢いで踏み固められてしまった。

 レジーナが半眼になる。


「やだこの子。皮肉が全く通じない……」


 ラディウスが、堪えきれずに口元を押さえた。護衛隊の何人かが肩を震わせる。侍女隊も、手を動かしながら視線だけで笑い合う。

 さっきまでの凍りついた空気が、少しだけ人間に戻っていく。そういう、愛される存在の空気。


 ――だが、今はそれで終われない。


 有羽はコップを置き、指を組み、机に肘をついた。気怠げな顔のまま、声だけを少し低くする。庭の温度は変わらないのに、言葉が落ちた場所だけ冷える。


「さっきも言ったけど、東で結構拙い事が起きた。でっかい蛇さんに、帝国軍が接触の疑い。そこで皆さんに質問です。これからどんなことが起きると思いますか?」


 少し間を置いてから、わざと軽い口調で付け足す。


「ちなみに蛇さんは、とっても強いです。俺とタメです。戦うとどっちが勝つか分かりません」


 その軽さが、逆に胃に痛みを。

 侍女隊の手が止まりかけ、慌てて動きを再開する。護衛隊の顔が引き攣る。彼らは強い。将軍級だ。だが、強くなったからこそ分かる。

 この結界が、異常だということが。

 空気の清浄さ、温度の安定、音の通り方。森の瘴気がここでは危険として扱われていない。人が使う魔法の精度じゃない。術式というより、世界の仕様変更。


 そして、さっきの「圧」。

 あれを浴びた後で「俺とタメ」と言われたら、笑い話にできる者はいない。

 沈黙の中、意外なほど早く口を開いたのはレジーナだった。


「帝国軍は、東の蛇に全滅させられる――その可能性が高いでしょう」


 声は落ち着いている。怯えがないわけではない。だが怯えに支配されていない。弱いからこそ、弱いものの未来を考える声。

 有羽は素直に頷いた。


「その通り。俺もそうなる可能性が一番高いと思ってる」


 レジーナは戦えない。だからこそ、戦場の言い訳を一切排した推論をする。恐怖や願望を削って削って、最後に残る最悪を最初に置く。王族の手つきだ。


「東の蛇は、基本的には大人しい。寝たまま動かない」


 有羽は指先で空をなぞるように言う。


「でも今回、起きた。ってことは、何かが原因で「起こされた」って思うのが普通。そして近くには百人近くの帝国兵。……まあ、向こうの兵士さんには悪いけど、今頃もう死んでると思う」


 言い方は淡々としている。

 そこに、ほんの少しだけ憐憫が混じった。帝国が嫌いかどうかとは別だ。災害に巻き込まれた人間の無情さは、胸に引っかかる。

 アウローラが唇を噛む。憎しみがある。夫を奪われた国だ。それでも、兵の死を「ざまあみろ」と笑えないのが、この王女の清さ。

 ラディウスが静かに言う。


「眠っているものを叩き起こした、と。その場合……報復は避けられない」

「そう。別に東の蛇に限った話じゃない。眠ってる魔物を叩き起こした。そんな認識でいい」


 有羽は肩をすくめた。軽い仕草に見えるが、目は笑っていない。


「叩き起こされた側がどう反応するかは、性格次第。でも共通してるのは――縄張りに踏み込まれて、無関係でいられる奴はいないってこと」

「……攻撃はされるね。間違いなく」


 ラディウスは遠い目で言う。戦場の経験が、その言葉に重みを足す。縄張り。主。侵入。報復。戦い。

 王国の誰もが、帝国の未来が暗いことは理解した。


「ま、そこまではいいよ。俺が問題にしてるのはその後」


 庭に、沈黙が落ちる。


「これは王国の皆さんにこそ考えて貰いたい。百を超える帝国兵が森で消息を絶ったら――次に帝国は、どんな反応をする?」


 その問いは、戦場ではなく政治の問いだった。

 空気が変わる。

 アウローラの目が鋭くなる。戦略の目だ。レジーナの顔が静かに冷える。外交の目だ。ラディウスの視線が宙を泳がずに定まる。兵站と実務の目だ。

 まずアウローラが、短く言い切った。


「第二陣を送る」


 迷いがない。


「その場を確認するために、偵察だけじゃなく戦力を伴った隊を送る。帝国は面子を重んじる。兵を失って黙って引き下がる国じゃない」


 言葉の端に、憎しみが混じりそうになるのを、彼女自身が噛み殺した。拳を握り、ほどく。呼吸を整える。王族として、それを見せない。

 ラディウスが続く。


「数が百というのが本当なら、補給線が伸びている可能性がある。つまり帝国はすでに「足場」を作り始めている。反応は早いはずだ。救出、調査、そして――必要なら制圧」


 最後にレジーナが言う。外交の視点。国の顔のまま。


「そして、その動きは必ず周辺国に波及します。王国にも、北の神聖国にも。帝国が森へ本格的に手を入れるなら、黙って見ている国はありません」


 有羽は小さく頷いた。ここまでの答えは、予想通りだ。

 問題は、次の一手。

 アウローラが、少しだけ言いにくそうに口を開く。


「……帝国は、横紙破りはしない。不可侵条約を破って王国に殴りかかるような真似は――基本、しない」


 言い切るのが苦しい。憎い相手に「理性がある」と認めるのは、喉に小骨が刺さる感覚だ。それでも、彼女は言う。だからこそ、三年前のアウローラは感情を押し殺せた。

 レジーナが引き取る。


「ですが国が荒れれば話は別。兵を失い、軍の顔が潰れ、皇帝の威信が揺らげば――帝国は「成果」を求めます。森を踏破するという成果。あるいは、森に関する何らかの対外的な主張」


 ラディウスが、さらに現実的な線を足す。


「それが成功しなければ、内政が荒れる。荒れた国は外に敵を作りたがる。理屈じゃない。空気としてそうなる」


 有羽は、三人の答えを聞いた上で、静かに言った。


「で、もしもそれで蛇と帝国が本格的に争うことになったら――帝国は、国そのものが消える」


 言葉が重すぎて、一瞬、誰も息をしなかった。

 有羽は続ける。淡々と。淡々としすぎて怖い。



「断言する。万に一つの勝ち目も無い」



 庭に、重さが増す。

 侍女の一人が息を詰め、護衛隊長がわずかに顎を引いた。レジーナの手が膝の上で静かに組み直される。ラディウスは、目を閉じて一度だけ深呼吸をした。


 アウローラは、視線を落とす。

 帝国が消える。それは、仇が滅ぶという意味でもあるのに、彼女の顔には喜びがない。代わりにあるのは、世界が歪む音を先に聞いたような嫌な予感だ。

 レジーナが、低く言った。


「……帝国という蓋が消える」

「そう」


 有羽が即答する。


「極端な話、大陸の東側が「空っぽ」になる未来まである。そうなったら――北の神聖国は、南下を選択肢に入れる。帝国が消えた空白は、誰かが埋めるから」


 レジーナの目が細くなる。王国の地図が頭に浮かんでいる目だ。北からの圧。西の魔国。南王国の内政。停戦の意味が変わる。

 ラディウスも同じ結論に到達している。彼は軍人ではないが、騎士として戦場を知っている。空白は戦争を呼ぶ。空白に誰も手を出さない世界は、存在しない。

 有羽は肩をすくめた。


「だから、今は(けん)が無難。ここで落ち着いて、動きを見て、考えをまとめる。俺の結界の中が、森の中で一番マシな避難所なのは多分間違ってない」


 その言葉に、侍女隊と護衛隊の緊張がほんの少しだけ緩む。

 怖い。だが、怖いからこそ、今はここに留まれるのが救いだ。逃げるより、守られる方が確率が高い。


 そして――有羽は、懐に手を入れた。

 右手が取り出したのは、緑色の宝玉。

 朝の光を受けて、深い森色に煌めく。宝石というには無機質で、魔道具というには異様に美しい。近くに置いただけで、周囲の空気の密度が変わるような気配があった。


 アウローラが眉をひそめる。レジーナもラディウスも、侍女隊も護衛隊も、同じ表情になる。

 誰も、それが何か知らない。

 有羽は掌の上で宝玉を転がし、淡々と言った。


「――これは提案。俺じゃなくて、「西の主」からの提案」


 西の主。

 その一言だけで、全員の背筋がぴんと伸びた。

 魔国と関わりが深い。森そのものみたいな存在。賢者と同格――その程度の情報しかない相手。だが「その程度」で十分すぎるほど、恐ろしい。

 有羽は、視線を三人に向ける。王女たちと聖騎士に。国の中枢に。

 そして、あくまで軽い口調で、重すぎる言葉を落とした。



「――魔国の女王と、会談してみない? 今回の件、『森』だけじゃなくて『国』が動くことになると思うからさ」





 ◇◇◇





 魔国王宮の食堂は、本来なら祝いの場に使われる。

 天井は高く、梁は黒檀に近い色で重厚に組まれ、壁際には森の恵みを象った彫刻が並ぶ。窓の外には緑が近く、風が通るたびに葉擦れの音が、薄い布のカーテンを揺らして囁く。


 その、格式ある食堂の中央。

 大きな円卓を囲んで、四人が揃って唸っていた。


 魔国女王メトゥス・ラウルスリム。

 宰相。

 大臣。

 王宮料理長。


 メトゥス以外、全員が爺である。しかも、見事に三人とも「年季の入った頑固」顔をしている。普段なら威厳が圧になる面子が、今日は揃って眉間に皺を刻み、顔をしかめ、同じ方向に魂を吸い寄せられている。


 理由は一つ。

 カレーだ。

 ――南の賢者が森で渡した、あの一杯。


 あのとき、メトゥスが味わった衝撃は、王冠の重ささえ一瞬忘れさせた。香りが合体し、ひとつの味を作ってしまう異様さ。辛いのに止まらない、汗が出るのに心地よい、胃が熱くなるのに次の一口を求める狂気。

 あれを魔国に持ち帰らない手はなかった。

 女王としても。

 そして、一人の美食家としても。


 再現はできる――最初は誰もがそう思っていた。

 香辛料は魔国の十八番だ。魔国は香辛料の国だ。香辛料の畑は国の血管であり、交易の武器であり、生活の常識だ。料理長は胸を叩き、宰相は計算し、大臣は国庫の紐を握りしめた。


 ――結果。

 魔国の試行錯誤は、今日のこの皿に集約されている。


 メトゥスが、ゆっくりとスプーンを口に運ぶ。

 舌の上で、辛味が跳ねる。

 香りは強い。

 だが、すぐに分かる。


 違う。

 辛さが前に出過ぎている。香りが喧嘩している。旨味が追いつかない。あと一歩、というより、根本が違う。

 メトゥスが言葉にするより先に、料理長が叫んだ。


「違う……これじゃない! あの時食べた味は、もっと深みがあった! 辛さの中に旨味があった! だがこれは……辛いだけだ!」


 その声に、大臣が唸るように頷く。


「うむ。こちらは匂いがキツいだけだ。似ていると言えば似ている。だが、似ているだけで終わっている。……とてもあの美味には届いておらぬ」


 宰相は、さらに冷徹な言い方をした。


「香りの方向は近い。だが、味の層がない。辛味が一枚板で、旨味が薄い。……貴族の宴では出せぬ。民の屋台にも出せぬ。どちらにも刺さらぬ、中途半端だ」


 それを聞いて、料理長は歯噛みした。皺だらけの手が震える。


「くぅ……この私に再現出来ない料理があろうとは……!」


 老人が三人、同時に悔しがっている。

 客観的には奇妙な光景だ。魔国の最高権力とその周辺が、茶色い汁の前で、少年みたいに悔しがっている。


 だが、メトゥスは笑えなかった。

 笑っている場合ではない。

 この茶色い汁は、味の問題ではない。

 国の未来の問題だ。

 香辛料の扱いに長けている魔国ですら、再現できない。

 つまり、それだけ革新だということ。


 革新は、武器になる。

 文化にもなる。

 交易品にもなる。

 外交の札にもなる。

 そして、何より――人間の心を動かす。

 メトゥスは、静かに指先を組んだ。紫水晶の瞳が卓上を見つめる。


(香辛料は単品で使うもの……それで十分だった)


 それが魔国の常識だった。

 香辛料は道具であって、主役ではない。

 香りづけ、薬効、保存、邪気払い、匂い袋、酒の風味、肉の臭み消し。用途に合わせて一種を選ぶ。それで十分だった。十分に豊かだった。


 だからこそ――

 組み合わせる、という方向へ発想が伸びなかった。

 今になって思えば、それが答えだ。豊かさが、扉の前で立ち止まらせていた。

 そしてその扉を、異物が蹴り開けた。


 賢者は料理の流派の話などしない。ただ、当然のように「混ぜて」「煮て」「整えて」出した。魔国の歴史が積んできた香辛料文化を、別の角度から完成品にして見せつけた。


 悔しい。

 だが、それ以上に――欲しい。

 メトゥスは唇を結び、皿を見下ろす。


「ここまで複雑で困難だったとは……私の予想を超えていましたね」


 言葉にした途端、料理長がぐしゃりと顔を歪める。


「申し訳ありません女王陛下。私は驕っていた。王宮料理長という地位に就いて、それで満足してしまっていた……料理の道に終わりなどないというのに……!」


 その料理の道に殉じる勢いの告白を聞きながら、宰相が現実的に言う。


「とはいえ、原因ははっきりしておる。香辛料の火入れ、油の扱い、野菜の甘味、酸味、乳の丸み……単品で完結していた我らの知識では、合奏に向かぬ。音は出せるが、曲にならぬ」

「曲……」


 大臣が呟いて、悔しそうに拳を握る。


「曲になれば、国が動く。いや、もう動いておる。あの夜から」


 卓の端には、試作品の記録が積まれている。香辛料の種類、量、煮込み時間、野菜の火の通し方、油の種類、塩のタイミング。紙束には番号が振られ、端に小さく「第七十四号」「第七十五号」と書いてある。

 七十を超えても、辿り着けない。

 香りは寄る。辛さも寄る。だが、あの「止まらなさ」が来ない。

 メトゥスは、静かに言った。


「これは……『米』との交換でレシピを貰わない限り、辿り着けないかもしれません」


 老獪たちの目が、一斉にメトゥスへ向く。

 女王の判断を待つ目。

 メトゥスは、頷いた。


「分かっています。米の準備は?」

「整っております、陛下」


 宰相の言葉は即答だった。準備が整っている、というより整えさせたが正しい。国庫の許可。湿地帯のリザードマンとの調整。徴収ではなく、対価を払う形の制度。民の反発を抑える名目。全てが組まれている。

 魔国の重鎮達が全力で整えさせた。

 その理由は、知っているからだ。賢者が『米』を求めていることも、その欲が嗜好の範囲を超えていることも。


 そして――彼らは既に「禁断の合体」を試していた。

 城に、僅かにあった米。

 リザードマンの湿地帯から献上された、試験栽培の少量。


 それを、炊いた。

 香りは淡い。粒は小ぶり。だが、確かに米だった。湯気が立つだけで、空気が変わった。


 そこへ、カレーをかけた。

 あの瞬間、食堂にいた者たちは――もう政治家ではなかった。

 ただの生き物だった。


「カレーと米の組み合わせ……!」


 大臣が両手を天に掲げる。怖い。ちょっと怖いが、感動の形なのだろう。


「あれが魔国に常設されるなら、リザードマン達も文句は言いますまい! あの味こそまさに究極! 至高! 世界最強の組み合わせ……!」


 料理長が、目元を拭った。


「涙は辛さのせいです。決して心が動いたわけではありません」

「いや、心が動いている」


 宰相が冷静に突っ込み、大臣が「黙れ宰相」と言い返す。どちらも重鎮とは思えない。だがそのやり取りが、逆にこの国の健全さを示している気もした。

 メトゥスは小さく息を吐き、卓に指を置いた。


「南の賢者を、恐れていないわけではありません。……むしろ恐ろしい。あの方は、魔導体系の外側にいる」


 記憶がよみがえる。森の西で見た、樹神女帝と賢者の連携。無から器が生まれ、一拍で加工され、当然のように差し出される。世界が「そういうもの」であるかのように扱われていた。

 恐怖は正しい。

 だが――欲は、それとは別に燃える。


「それでも、欲しい。手に入れたい。国に取り込みたい。……いえ、国というより、未来に置きたい」


 宰相が頷き、大臣が強く同意する。


「このカレーを作った南の賢者。陛下の考えが当たっておれば、南王国との関わり合いがあるとか。……早急にレシピを得るべきでしょうな。王国でも作られる可能性が高い」

「うむ。いかに我が国が香辛料の扱いに慣れていようと、後塵を拝するのは頂けぬ。カレーの先陣は我が国が切りたいものよ」


 料理長が、いつになく真剣な目で言う。

 メトゥスは、内心で同意した。


(私もです)


 あの一杯が、国を動かす。

 だが、その国を動かすのは『欲』でもある。

 女王としては最低だと思う。だが女王である前に、生き物だ。舌と胃袋を持つ生き物だ。


 メトゥスは、椅子の背にもたれ、目を閉じた。

 女帝経由の連絡を待っている。


 南の賢者が、森で何を考えているのか。

 王国とどこまで繋がっているのか。

 取引の線引きをどこに置くつもりなのか。


 恐怖はある。女帝と賢者の力は、国を滅ぼすことすら可能だ。だが同時に、その二人は理屈ではなく、均衡で動く存在でもある。ならば――そこに接点を作れるのは、王という役割のはず。


(恐怖と欲。誠意と打算。……どれも捨てられない)


 メトゥスは、静かに言った。


「次に連絡が来たら、すぐ動けるように。人員も、献上品も、言葉も。……全部」

「承知」


 宰相が短く答え、大臣が頷き、料理長が拳を握る。

 ……その時だった。


 大食堂の空気が、ほんのわずかに歪んだ。

 風が通ったわけではない。魔力が揺れたわけでもない。だが、葉の影が一瞬だけ濃くなり、天井の枝が音もなく沈む感覚があった。

 メトゥスの背筋が冷える。


 ――この感覚は知っている。


 森で、樹神女帝の前に立った時。

 あの「世界が私を見ていない」ような圧。

 そして。

 声が、脳裏に直接届いた。


『――女王よ』


 樹神女帝ドライアド・エンプレスの声だ。

 大食堂にいる三人の老人が、同時に硬直した。口を開けたまま動かない。汗が一滴、宰相のこめかみを伝う。大臣が、皿の縁を掴む。料理長は椅子の肘掛けを握り潰しそうになる。

 メトゥスだけが、ゆっくりと息を吐いた。

 ここで怯えたら終わる。

 女王の仕事は、恐怖の上に立つことだ。


(来た)


 メトゥスは目を閉じ、心の中で返事を作る。


(どうか……カレーと米の話であってください)


 だが女帝の声は、望んだ温度ではなかった。

 遊びや気まぐれの声ではない。

 暇つぶしの声でもない。

 森の「主」の声だ。


『――すぐに我の領域まで来い』


 胸が、ひゅっと縮む。

 だが次の瞬間、さらに重い意味が落ちてきた。


『――今回限りの特別で『道』を造る。書記も何名か連れてこい』


 道。女帝が道を造る。それは、通常の外交ではあり得ない。女帝の気まぐれと、女帝の都合が一致した時にだけ起きる。

 意味はひとつ。

 急げ、ということだ。


『――隠者の領域に、王国の王族がいる。会談だ。一日では終わらんだろう。簡易的な住まいも用意してやる』


 会談。

 王国の王族。

 隠者の領域。

 その単語の並びだけで、メトゥスの胃のあたりが冷えた。南の賢者の家に、南王国の王族がいる。すでに会っている相手――第一王女だろうか。

 そこへ自分も呼ばれる。


(カレーの話だけではない)


 メトゥスは瞬時に理解した。カレーも米も、今は枝葉だ。根は別にある。


『――準備を整え次第、すぐに訪れよ。東の蛇が動いた。世界が揺れるぞ』


 最後の言葉が、決定打だった。

 東の蛇。

 女帝がそう呼ぶ存在が動いた。

 世界が揺れる。


 メトゥスは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。恐怖が湧く。だが王は、恐怖を噛み砕いて命令に変える。

 顔を上げた時、紫水晶の瞳には迷いがなかった。


「宰相。直ちに動きます」


 宰相が息を呑み、次いで深く頷く。


「御意。どの規模で?」

「最小で最大の効果を。私、大臣、将軍。護衛は精鋭。書記は三名――速記ができ、口が堅く、倒れても筆だけは離さない者を」

「最後が物騒ですが、承りました」


 メトゥスは立ち上がり、椀の残り香を背にした。

 王宮食堂の扉へ向かいながら、最後に短く告げる。


「これは機密です。噂になれば、国が揺れます。……いえ」


 女帝の言葉を思い出し、言い直す。


「世界が揺れます。全員、私の帰還まで、口を縫いなさい」


 宰相と大臣が、同時に深く頭を下げる。

 料理長も、悔しさと興奮と恐怖を混ぜた顔で、膝をついた。

 扉が開き、外の廊下の空気が流れ込んだ。


 その瞬間、メトゥスの胸の奥に、遅れて別の感情が芽を出す。

 恐怖。

 責務。


 魔国は、世界のうねりに巻き込まれる。

 カレーが国を動かすのではない。


 ――国が、世界に動かされる。


 そしてその中心には、森がある。

 南の賢者と、西の主と、東の蛇。

 その狭間に、魔国女王メトゥスは、立たされようとしていた。



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