第62話・語られる東の脅威
庭の上空に、ひとつの影が静かに降りてくる。
風に乗ってふわり、という軽さではない。空気そのものが、影に道を譲っている。重力が礼をしている。そんな錯覚を残しながら――有羽は、ゆっくりと地上へ戻ってきた。
腕を組んだまま。
眉間に深い皺を刻み、真剣そのものの顔で。
降下の最中も、有羽の視線は東の空を離れなかった。遠い。森の南部から東部まで、距離はある。普通の人間なら、そこへ辿り着く前に何度も死ぬ。それでも「見える者」には見えるものがある。
だが、庭にいる者たちには何も見えない。
アウローラ、レジーナ、ラディウス。侍女隊と護衛隊。皆が見上げているのは、ただ空に浮かぶ賢者の姿だけだ。彼らの視界には、雲の向こうにまで達する巨大な存在も、空の「塗り替え」も、映らない。
見えないのに。
全員が息を止めている。
さっきまで、確かにそこにあったものが、身体の中に残っていた。
有羽という人間が、別の何かに置き換わったような圧。呼吸が浅くなり、背筋が勝手に伸び、目を逸らすことすら許されない感覚。今は消えている。消えているはずなのに、胃の奥に冷たい石が沈んだままみたいに、抜けない。
だから、誰も口を開けない。
問いたいことは山ほどあるのに。
何があった?
なぜ東を見た?
何が起きている?
この森で?
声にした瞬間、何かが割れてしまう気がして――誰も、先に踏み出せなかった。
有羽が地面に足をつける。
芝がわずかに沈み、露が弾けた。
その瞬間、ほんの少しだけ空気が緩む。賢者が「人間の場所」に戻ってきた、と身体が理解したのだろう。
それでも一同は、まだ動けない。
有羽は腕を組んだまま、顎に手を当て、深く考え込むように唸った。
「……うーん……」
沈黙が長くなる。
長くなるほど、問いが喉元で膨らんでいく。
ついに、アウローラが一歩だけ前へ出た。足音が妙に大きく聞こえる。自分の声が震えるのを嫌って、彼女は短く息を吸った。
「有羽……? 一体、何があったんだ?」
その問いは、恐る恐るというより、壊れ物に触る手つきだった。
有羽は、ようやく視線を東から引き剥がし、こちらを見た。
「――え? あ、ああ……」
そして、頭を掻く。
いつもの、面倒くさそうな仕草。
眉間の皺も残ってはいるが、さっきまでの別次元の冷えた顔ではない。気怠そうで、困ったようで、やたらと人間臭い。
「んー、どう言ったらいいかなぁ……」
一同が、思わず息を吐く。
安堵が、目に見える形で広がった。護衛の肩が少し落ち、侍女たちの指先の力が抜ける。レジーナですら、胸元を押さえる手がほんのわずか緩む。
有羽は頭を掻きながら、言葉を選ぶようにぽつりぽつりと語り始める。
「……この森に、厄介な奴が居ることは教えたよな?」
「うん。西と、北と、東にそれぞれ……有羽並みに面倒なのが居るんだろ?」
「俺並みってどういうことだよ」
有羽は眉を寄せた。だが、その不満はいつもの軽口で、場に残る恐怖を溶かす役目を果たした。
「……まあ、それは置いといて。そういうこと。西は会話が通じる。魔国と繋がりが深い「主」。北は……もう何て言うか、絶対に近寄っちゃいけないタイプの「主」」
護衛隊の何人かが、無意識に背中の武器の位置を確かめた。
意味がないと分かっていても、身体が動く。
「で、さっき俺が見てた東だけど」
有羽は、また東の空へ視線をやる。
ほんのわずか、眼差しが鋭くなる。さっきの圧の欠片が、指先で触れられる距離に戻ってくる。
「……基本的に、東の主は寝てる。動かない。俺も結構長いことこの森に居るけど、滅多なことじゃ起きないし、動かない」
そこまで言われて、全員が同じ結論に辿り着く。
だからこそ、有羽の次の言葉が刺さる。
「――起きた。動いた。しかも、周りに百人近くの帝国兵が居たっぽい」
有羽は肩をすくめる。言葉だけ聞けば、ただの情報だ。だが、その情報が意味するものは、王族ほど重く受け取る。
レジーナの顔色が微かに変わった。レジーナは笑顔を消さないが、目が数を計算し始める。百人。森の東。帝国軍。接触。
アウローラは、目を見開いたまま瞬きを忘れる。怒りが先に立つかと思いきや、今はまだ理解が追いついていない顔だ。怒るには、話が大きすぎる。
ラディウスは、息を吸う音すら抑えた。聖騎士としての直感が告げている。帝国が動いた、という事実だけで危ないと。
「帝国が……東の主に接触した、ってことかい?」
ラディウスが、低く確認する。
「多分な。正確なところは見えてないけど……状況だけなら、そんな感じ」
有羽は言いながら、自分の胸の奥に引っかかる「提案」のことを思い出しかけて、やめた。今は言わない。言えないのではなく、先に訊くべきことがあった。
有羽は話題をずらすように、唐突に問う。
「で、ちょっと聞きたいんだけど……アウローラ。今回、どれくらい滞在する予定なんだ?」
「……一応、三日の予定だ。そうですよね、姉上?」
レジーナが即座に頷き、言葉を継ぐ。
「ええ。本来なら、賢者様の許可が得られれば延長も考えていましたが……今の話を聞く限り、私たちは帰還した方が良い状況で――」
「いや、逆」
有羽が被せた。
早い。迷いがない。
その短さが、かえって重い。
「予定通り三日はここに滞在しておいて。そっちの方が安全だから」
「……安全?」
レジーナの目が細くなる。政の直感が警鐘を鳴らす。安全? この森の中で? しかも何かが動いている状況で?
有羽はレジーナの疑念を見抜き、説明を重ねる。
「正直、東の主がどう動くのか俺にも分からない。……でも、ひとつ言えるのは、あいつが動く時は被害がデカい。森の中の地形が変わりかねない」
護衛隊の隊長格が低く息を吸った。地形が変わるという言葉は、戦場で言う「陣形が意味を失う」に等しい。逃げ道も、守りも、作戦も、全部ご破算になる。
ラディウスが、慎重に問いを差し込む。
「それだけ凶暴な魔物、ということかな?」
理性的な確認。だが彼の指先は、無意識に震えていた。騎士として、魔の気配を読む。さっきの有羽の圧を浴びた男の感覚が、今、判断を誤らせないように必死に踏ん張っている。
有羽は首を振る。
「いや。どっちかっていうと大人しい方……なんだけど」
有羽は言葉を探すように、指で自分のこめかみを掻いた。
「……あいつ、図体がでかいんだよ」
誰も理解できない。
理解できないから黙る。
有羽は、その沈黙に慣れている。慣れているはずなのに、今日は少しだけ苦笑が出た。
「……あのね。本当にでかいの。雲突き抜けちゃうくらいでかい蛇なの」
「…………は?」
音が出たのは、誰の口からだったか分からない。護衛か、侍女か、王女か。全員が同じ顔をしている。口を開けたまま、時間が止まったみたいに。
雲を突き抜ける。
それは、城壁より高いとか、塔より高いとか、そういう話ではない。世界の景色を変える大きさだ。
有羽はその反応を見て、逆に安心する。自分だけじゃなかった、と。
「うん。分かるよその反応。俺も最初見た時、そうだったし。デカすぎんだよ、あいつ」
アウローラが、ぽかんとしたまま、口から勝手に疑問をこぼす。
「有羽は……戦ったのか? その、おっきい蛇と?」
有羽は一瞬、遠い目をした。
あの時の空の圧。位相の違う存在が、こちらを認識するだけで世界が歪む感覚。皮膚が薄くなったように、全部が剥き出しになる恐ろしさ。
「……ちょっと小競り合いになったことが一度だけ。お互い、続けると不味いって分かったから止めた」
「森を破壊しかねないから、かな?」
ラディウスが冷静に推測する。巨大な存在同士が戦えば、地形が変わる。森はダンジョンだが、森は森でもある。世界の装置でもある。
だが、有羽は首を横に振った。
「いや、そうじゃなくて……どっちか、あるいは両方が『墓の下』に埋まるから止めただけ」
言葉が落ちた瞬間、音が消えた。
鳥の声も、風の音も、炭の弾ける音も。聞こえているはずなのに、頭が拾わない。
一同が理解したのは、単純な結論だ。
有羽が相打ちになり得る相手。
その時点で、王国の戦力だの、国力だの、政治だの、そういう尺度は紙屑になる。
触れてはいけない領域が、森の中に実在していた。
レジーナが、喉を鳴らす音がした。王女としての表情を保とうとするが、目の奥が人間の恐怖を隠し切れていない。
有羽は、その空気を断ち切るみたいに、少しだけ口調を戻した。
「だからさ。予定通り滞在してて欲しい。ここなら護れる。逆に言うと、ここから離れたら護れない。無茶な強行軍するくらいなら、見が無難」
「見……様子見、ということですね」
ラディウスが噛み砕く。
「うん。俺の結界がある範囲で、まず状況を見る。変な揺れが来たら、すぐ押さえる。……森の地形が動くと、帰り道すら消えるかもしれない」
その言葉で、護衛隊の顔が引き締まった。つまり帰還ルートが消える。森の中では、帰り道が消えるのは死に直結する。
侍女たちも、笑顔が消えた。彼女たちは有羽宅で堕落しているように見えるが、野営で生き延びてきた者たちだ。危機の匂いを嗅ぐ鼻は鋭い。
重い沈黙。
その中で、アウローラが――あえて空気を読まずに、椅子を引いた。
ぎ、と音が鳴る。
「……よし。じゃあ、食べよう」
「ア、アウローラ?」
レジーナが驚いて声を漏らす。
アウローラは、平然とパンを手に取った。ベーコンエッグの皿を自分の前に引き寄せる。冷めかけた黄身が、まだ少しだけ艶を残している。
「こんな時だからです、姉上。食べましょう。何が起きるか分からないなら、食べられる時に食べる。それが今できることです」
その理屈は、あまりにも軍人だった。アウローラは戦場で、食える時に食う。眠れる時に眠る。それが生き残るための基本だと知っている。
言いながら、むしゃむしゃ食べ始める。噛む音がやけに元気だ。
「結構冷めてしまいましたけど……大丈夫! 有羽の家のパンとベーコンエッグは、冷めても美味しいので!」
笑顔で言い切る。緊迫していた空気が、わずかにひび割れる。
護衛の一人が、堪えきれずに小さく笑いかけて、喉の奥で止めた。上官がいる。王女がいる。だが腹は鳴る。現実は容赦がない。
ラディウスが、ゆっくり席についた。
「君の妹の言う通りだよ。食べられる時に食べよう。お腹を空かしてちゃ、いざって時に動けない」
柔らかな声に、レジーナが押し黙る。
レジーナは理屈を理解している。理解しているが、感情が追いつかない。今ここで朝食を摂っていいのか。森の東で何かが動いたかもしれないのに。だが、王族として危機対応をする時ほど、体力と判断力が必要だ。
そこをラディウスは、レジーナにだけ聞こえる声で刺してくる。
「というかね、レジーナ。昔の君だって似たようなことしてたじゃないか。魔界の悪魔に僕の領地が襲われた時、君は倉庫漁って干し魚を……」
「う」
レジーナが、ぴくりと眉を跳ね上げた。
「……あれは、その……若気の至りというか……ね……」
目を逸らす。笑顔が崩れる。ラディウスの前でだけ生まれる羞恥の赤面。
ラディウスは少しジト目だ。夫婦の間にしかない温度で。
「ほら」
「分かったわよ! 食べるわ!」
レジーナが、やけくそ気味に椅子を引く。
そしてパンに齧りつき、ベーコンエッグを口に運ぶ。
もぐ、もぐ、と二回咀嚼して。
「あら……ほんと。美味しい」
呟きが漏れる。
その瞬間、侍女の何人かが心底安心した顔になる。護衛隊の一人が「ですよね」とでも言いたげに頷く。
有羽はその様子を見て、心の中でだけ呟く。
(……この国の人、肝が据わってるっていうか、肝が胃に直結してるっていうか)
そして、もう一つ。
この場が崩れないようにするには、結局こういう「日常」が必要なのだ、と。
大げさな説明も、勇ましい号令もいらない。
怖いなら食べる。腹が満ちれば、呼吸が戻る。呼吸が戻れば、目が前を向く。
有羽は、食卓の端に立ったまま、東の空をもう一度だけ見た。
結界の外では、誰かが世界を撫で回している。遠い場所で、帝国が何かに触れた。触れてはいけないものに。
有羽は視線を戻し、いつもの気怠い声で言った。
「……とりあえず、俺も食おう。話はそのあと。腹減った」
その言葉に、庭の空気がほんの少しだけ温まる。
パンの香りと、卵の匂いと、誰かの小さな笑い声。
朝食は続く。
世界が鳴っていることを知りながら、なお――食べられる時に食べる。
それが、この森で生き残るための、最初の選択だった。
更新を再開します。第四章開始です。
それと、総合評価500、そしてブクマ100突破しました。
皆様の応援のおかげです。ありがとうございます。
その感謝の意味も込めて、この長編の過去を舞台にした外伝短編を投稿しました。
興味があれば読んでみてください。
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