第61話・東の異変
帝国の東端――海風の届く港町には、酒と煙と噂が溜まる場所がある。
看板は煤け、窓ガラスは塩で曇り、夜になると人の声だけがやけに鮮やかになる酒場だ。壁には古い槍と獣の角。天井梁から干し肉がぶら下がり、床は長年の靴裏で黒光りしている。火鉢の炭がぱちりと弾けるたび、話の間が少しだけ伸びる。
その夜は、雨が降っていた。
外は湿った石畳が光り、扉が開くたびに濡れた空気がひと筋、店内に滑り込む。客たちは肩をすぼめ、杯を持つ手を温めるように笑っている。だが、話題がひとつの方向へ寄ると、笑い声は自然に小さくなった。
魔境の大森林。
大陸の中心に口を開けた、国家の境界も法も噛み砕いて飲み込む森。北の神聖国も、西の魔国も、南の王国も――どこの民も、そこを同じ言葉で呼ぶ。
戻らない場所。
そう言って、皆、強がるように笑う。笑いながら、杯の底を確かめる。酒が減るのは早いくせに、話はなかなか先に進まない。
酒場の奥、炉のそばに座る老人が、ひどくゆっくりと口を開いた。
「……森の話が好きか。若いのは、そういうのが好きだな」
老人は元兵士だと言われている。指の節が太く、頬に古い傷がある。今は腰を痛めて槍が振れず、こうして酒場で話を売っている。
若い水夫が、からかうように笑った。
「また森の怪談かよ。北の聖職者も、西のエルフも怖がるってやつだろ? 帝国の兵なら――」
言い切る前に、隣の男が肘で突いた。ひそひそとした声が飛ぶ。
「やめとけ。森は帝国のものでもない。森のことは、口が滑ると縁起が悪い」
縁起が悪い、という言い方が、いちばん怖い。
老人は笑わなかった。炭の火を見つめたまま、杯を置き、低い声で続けた。
「どの国でも、森の噂は似たり寄ったりだ。山が見えた、谷が見えた、平原があった、湿地があった。嘘だと言われる。幻だと言われる。……生還者が少なすぎるからな。複数の証言が揃う前に、語り手が死ぬ」
火鉢の炭が、またぱちりと鳴った。
「だがな」
老人の視線が、酒場の客たちをひとりずつ撫でた。まるで人数を数えるように。
「東の帝国には、少しだけ違う噂がある。笑って聞けるうちは、まだまともだ。笑えなくなったら……その時は、もう聞かなかったことにしろ」
誰かが喉を鳴らした。酒を飲む音だ。けれど、飲み込めていない。
老人は語り始めた。
何十年も前の話だという。
今の港町がまだ木柵で囲まれていた頃。帝国の道が今ほど整っていなかった頃。魔境の森は今よりも、さらに遠くて近かった。
森へ向かったのは、冒険者の一団だった。総勢十名。全員がレベル四十付近――世界の基準で言うところの将軍級の入り口に立つ者たち。兵なら部隊の柱、魔導師なら要塞の砲台、神官なら戦場をひっくり返すほどの格。
構成も良かった。
前衛に盾持ちが二人。片方は巨体で、片方は俊敏。後衛には弓使いと魔導師。中衛に槍使い、短剣使い、治癒役の神官。補助役に罠師と斥候、そして指揮を執る隊長。
いわゆる、完璧な十人。
酒場の吟遊詩人に、彼らは笑って言ったらしい。
「俺たちの武勇伝を詩にする準備をしておけ」
その場にいた者たちは皆、帰還を信じた。信じたというより、疑う理由がなかった。十人が揃って勝てない相手など、帝国の常識には存在しない。
森へ入った日、彼らは門のように見える古い石の柱を越えたという。そこから先は、音が変わった。鳥の声が遠くなり、風が布を擦るような音になり、足元の土が妙に柔らかい。木々は太く、樹皮は黒く、葉は空を覆い隠す。陽が差しているのに、影が濃い。
斥候が「進める」と言い、罠師が「道はある」と言い、隊長が「行くぞ」と言った。
それから一週間。
老人の声が、少しだけ低くなった。
「帰ってきたのは、ひとりだった」
その男は弓使いだった。
金髪の美男子で、港町の娘たちがよく名前を囁いていた。弓の腕は確かで、矢が風を裂く音が見える、と噂されていた。笑い方が軽く、冗談が上手く、酒場で喧嘩を起こしても最後は皆が笑う。そういう男だった。
だが、戻ってきた男は――別人だった。
夜明け前、門番が叫び、石畳の上に人が集まった。雨は止んでいたが、空はまだ暗い。灯りの下に現れた弓使いは、まるで老人のように歩いていた。
背中が丸い。
肩が落ちている。
そして何より――あの自慢の金髪が、真っ白になっていた。
白髪というより、灰だ。光を吸うような白。眉も白く、睫毛も白い。頬はこけ、皮膚は乾き、目の下には深い影がある。瞳は開いているのに、焦点が合っていない。誰かを見ているのではなく、誰にも見えない何かを見続けている。
彼は口を開こうとした。だが、声にならない。喉が震えて、息が漏れるだけだ。
駆け寄った者が肩を掴んだ瞬間、弓使いはびくりと跳ねた。人の手に触れられたことが恐ろしい、とでも言うように。
神官が呼ばれ、彼は神殿へ運ばれた。
治療に当たった神官は、後にこう言ったという。
呪いではない。
魔法でもない。
魂を削られたわけでもない。
ただ――老いた。
恐怖のあまりに老いた、と。
その判断が、逆に恐ろしかった。
一週間で、何十年分の老いが起きるほどの恐怖とは何だ。人間は恐怖で死ぬ。それは分かる。だが恐怖で「老いる」というのは、帝国の常識にはない。恐怖が骨を脆くし、肌を乾かし、目を濁らせ、髪の色を奪う。そんなことがあるのか。
神官は何度も訊いたらしい。
森で何があった?
仲間はどうした?
何を見た?
何と戦った?
弓使いは答えない。
答えられない、というより、答えるための言葉が存在しないようだった。
彼は水を飲み、吐いた。食べ物を口に入れると、噛む動作だけして飲み込めず、泣くように嗚咽した。眠らせようとすると、目を見開いて暴れ、爪を立てて逃げようとした。誰も彼を縛れなかった。縛った瞬間、彼の心が折れてしまいそうだった。
だから、神官は優しくした。祈り、歌い、灯りを絶やさず、恐怖を遠ざけようとした。
そして、ある夜。
弓使いは唐突に起き上がり、壁を見つめて、口を動かした。
誰に向けた言葉でもない。神官に向けた言葉でも、世界に向けた言葉でもない。むしろ、言葉を持っていかれた人間が、残った欠片を吐き出しただけのような声。
「……ホシカミの……アギト……」
老人は、そこで一度、杯に口をつけた。酒を飲むというより、喉を濡らして続きを落とすためだ。
酒場の客たちは、息を止めていた。
水夫の一人が、乾いた笑いを漏らした。
「星の神? そんなもん……帝国の神話には――」
言い終える前に、老人が首を振った。
「分からん。だから噂だ。だから怪談だ。誰も意味を解けない」
帝国の民の知識に「星の神」など存在しない。神聖国の神は『光の神』と聞くが、星を神と呼ぶ話は馴染みがない。ましてアギトとは単純に考えれば「顎」だ。顎とは噛むためのもの。噛むとは破壊の行為。星の神が顎を持つ? 星が噛む?
意味が繋がらない。
繋がらないから、怖い。
「神官は、その言葉を手掛かりにしようとした。『ホシカミ』が何なのか、『顎』が何なのか。『神』なのか『噛み』なのか。いや、そもそも『カミ』が別の意味かもしれない」
老人の声が、さらに落ちる。
老人は自分の歯を指で軽く叩いた。
「顎ってのは、噛むためのものだろう? 噛まれたら終わりだ。骨が折れるとか、肉が裂けるとか、そんな話じゃない」
客の一人が小声で言った。
「……何に噛まれたんだ?」
その言葉に、酒場の空気が凍った。
森は怖い。魔物が強いから怖い。迷って死ぬから怖い。瘴気が濃いから怖い。
そういう「分かる怖さ」なら、帝国は対策できる。
だが、この噂の怖さは違う。
何に出会ったのか分からない。
何を見たのか分からない。
何に噛まれたのか分からない。
ただ、「顎」という言葉だけが残る。
噛み砕くものがいる。
飲み込むものがいる。
口がある。
それが森なのか、森の上なのか、森の奥なのか。
ホシカミとは何なのか。
老人はゆっくり頷いた。
「だから帝国じゃ、この噂が特別に嫌われる。森の魔物が強いだの、迷うだの、狂うだのは……まだ分かる。強ければ殺される。迷えば死ぬ。狂えば帰れない。筋が通る」
老人の目が、火鉢の火を映す。
「だが、ホシカミのアギトは違う。筋が通らない。理屈がない。……一週間で老いる。恐怖で老いる。噛まれたのかもしれない。何に? どこを? どうやって?」
酒場の誰かが、唾を飲み込む音がした。
老人は最後に、淡々と言った。
「弓使いは、その後も生きた。生きてしまった。……老いた体で、言葉が戻らないまま、何年もな。森に入ったことを誇った男が、森の話を聞くと震えて失禁するようになった」
水夫が、杯を握る手に力を込めた。
「じゃあ、結局……森の中で何があったんだ?」
老人は、すぐには答えなかった。
答えられないのではなく、答えを与えること自体が、不用意だと思っている顔だった。
「さあな」
そして、ひどく静かな声で付け足した。
「ただ一つだけ確かなのは――あの十人が、向かうところ敵なしだったってことだ。帝国の常識で測れば、な」
火鉢の炭が崩れ、赤い火が一瞬だけ強くなる。
「森は、常識の外にある。だから……」
老人は杯を持ち上げ、客たちに向けて軽く掲げた。
「森の怪談は、笑って聞け。笑えるうちは、まだ戻れる」
客たちは、ぎこちなく笑った。笑い声は乾き、短く、すぐに消えた。
そして誰もが、無意識に自分の歯を舌で確かめた。
顎があることが、今夜だけは、少し怖かった。
◇◇◇
東の空。
遥か遠方。森の地平線の向こう側。普通の人間の目には、ただの青みがかった空と、薄い雲の筋しかない場所。
けれど、有羽の視界には違うものがある。
目で見るというより、世界の骨格がきしむ感覚として来る。魔力の流れが撓む。重力の向きが、ほんの僅かにずれる。森そのものが、深い眠りの中で寝返りを打ったような――そんな、ありえないほど巨大な「気配」の変化。
そしてその中心にあるのが、東の主だ。
世界天蛇。
成層圏に届く巨躯。地平線から地平線まで輪を描く存在。動くというだけで森の均衡が揺らぐ。力がどうこう以前に、物理現象そのものに近い。
だが、下の庭にいる者たちには、それが見えない。
見えるはずがない。
この大森林は、一種のダンジョンだ。森の外からでも、森の中の「格」をそのまま目で捉えることはできない。位相が違う。座している次元が違う。下位存在は、上位存在を認識できない。極限まで近づいて、ようやく「圧」として理解するのが関の山だ。
有羽は東を睨み、息を整えた。
余計な思考を削ぎ落とす。心拍を落とす。魔力の流れを自分の中で一本に束ねる。あれが起きたのは確かだ。起きた理由が問題だ。
その理由を探るには、自分の目だけでは足りない。
有羽は無言で懐に右手を入れた。
指先に触れる硬い感触。緑の宝玉。
西の主――樹神女帝と通話できる、女帝の暇つぶしの産物。普通の魔導師が何十年かけても作れそうにない代物が、さらりとここにある。
宝玉を握り、魔力を込める。
瞬間、緑の光が薄く滲み、掌の上に像が立ち上がった。
森の西部。巨大樹の頂。そこに据えられた、樹のマネキンのような女の姿。肌は木目のように滑らかで、瞳は深い緑。表情は普段ならどこか戯けた余白を残すのに、今は一切ない。
挨拶も冗談もない。
二人は同時に東を見たまま、最短の言葉だけを交わす。
「――感じたか。女帝さん」
『――ああ。蛇の奴め。動きおったわ』
声に感情は薄い。けれど、薄いからこそ重い。森の主格同士の会話は、怒鳴らなくても森が静かになる。
有羽は目を細めた。
「女帝さん。アンタの『根』なら東まで届くだろ。せめて状況だけでも解らないか?」
『今、やっておる。しばし待て――』
宝玉の向こうで、女帝の視線がわずかに変わる。見ている方向は同じでも、見ている層が変わったのが分かる。森を通して根を伸ばし、東の状態を探る。森と共に生きる存在の、森を使った知覚。人間魔法の結界術とは似て非なる、生態そのものの感覚。
有羽は黙って待った。
その間も東の空は、変わらないようで変わっている。雲が動く。鳥が飛ぶ。森の音が鳴る。すべていつも通りで、だからこそ異常が浮き立つ。いつも通りの世界の上に、いつも通りではない「圧」が乗っている。
下の庭から、誰かが声を出しかけた気配がする。アウローラだろうか。だが言葉にはならない。あの「動くな」の意味を、誰も完全に理解できていないからこそ、誰も問いかけられない。
やがて、女帝がぽつりと答えた。
『……複数の人間が見えるな。十、二十……いや、百はおるな』
有羽の眉がわずかに跳ねる。
「百? その数なら、冒険者や腕自慢が辿り着いた……って訳じゃなさそうだな。帝国の軍隊か?」
『知らぬ。だが装備が良い。おそらくは帝国の――』
女帝の声が、そこでほんの少しだけ詰まった。
宝玉の像の表情が、微細に歪む。木のマネキンみたいな顔に亀裂が走るように。
有羽は反射で問い返す。
「おい。どうした? 大丈夫か?」
『……蛇め。我に気付きおった。領域を広げられた。あちらが見えぬ』
なるほど、と有羽は舌打ちしそうになるのを堪えた。
女帝の根を逆探知した。視界を遮断した。東の主の対応は遅いようで早い。寝ているだけに見せて、起きた瞬間に必要な手当てだけを済ませる。存在の大きさに似合わず、いや、存在が大きいからこそ、無駄がない。
「結界強められたか……ったく、ずっと寝てたくせに対応だけは早いなアイツ」
『全くだ。普段動かぬくせに、無駄なところで勤勉な蛇よ』
短い言い合い。普段ならもっと長くなるのに、今日は続かない。余談に時間を割く余裕がない。
有羽は一度、息を吐いた。東の圧は、まだ続いている。止む気配がない。
「……どうする? 俺が『跳ぶ』か?」
空間跳躍。瞬間移動。最短で状況確認するならそれしかない。
だが女帝の返答は即答だった。
『やめい。お主の空間跳躍は『波』が大きすぎる。蛇どころか、北の『アレ』まで感付くぞ。だからこそ、普段は使わんのだろうが。これ以上、厄介事を増やすな』
北の『アレ』。
有羽の脳裏に、嫌な記憶がよぎる。あれは一度、女帝と共闘してようやく鎮めた。動けば森全体がひっくり返る。今、その名前を出された瞬間、有羽の背中の汗が冷える。
「……だな」
有羽は短く返し、視線を少しだけ下へ落としかける。庭の一団が見える位置だ。アウローラがこちらを見上げ、レジーナが身動きひとつせずに状況を読み取ろうとしているのが分かる。ラディウスは、護衛の前に立つような位置で固まっている。
全員、何も見えていない。見えないのに、何かが起きていることだけは分かっている。
その恐怖を、今ここで増やすべきじゃない。
有羽は視線を東へ戻し、結論を口にする。
「となると……俺らに出来る事は……」
女帝も同じ結論に至っていたらしい。声が少し低くなる。
「とりあえず、お互いに結界を強化して様子見か?」
『そうするしかあるまい。下手に手を出せば、それこそ文字通り『藪蛇』になる』
「酷過ぎるだろそれ……あれは藪に隠れるような蛇じゃないだろうに」
『確かに、の』
女帝の声に、わずかに笑いが混じる。ほんの欠片だ。それでも、主格同士が平常を保つための、必要な余白だった。
そして、女帝の声が一段落ちる。
『……今、隠者のところには南王国の王族が居るんだったな』
「そうだけど……それがどうかした?」
宝玉の像の目が、ほんの少しだけ細くなる。考える顔。計算する顔。森の均衡のための計算ではなく、人間社会の厄介さも含めた計算。
有羽は、その間に結界へ手を伸ばした。
空中で指を動かすだけで、庭を覆う透明な膜がわずかに厚くなる。魔力の層が重なり、空気の密度が変わる。庭の下にいる者たちが、肌で「守られている」と感じたのか、護衛の肩がほんの少しだけ落ちた。
女帝が言葉を切り、そして続ける。
『ふむ……これは提案だが、隠者よ――』
そこで、女帝はある提案を語った。
宝玉越しに聞こえる声は淡々としているのに、内容だけは棘だらけの予感がした。森の内部だけで済む話ではない。蛇が起きた理由が外にあるなら、森の主格としての対応は、森の中だけでは完結しない。
有羽の眼が、ほんの僅かに見開かれる。
笑いも、冗談も、愚痴も消える。
「……マジで言ってる?」
『マジじゃ。これが森の内部だけの問題なら無用だが……蛇が起きた原因が『帝国』にあるのなら話は別であろう?』
帝国。
その言葉を、有羽はすぐに否定しない。すぐに肯定もしない。
考えが早いほど、結論を急ぐと失敗するのを知っている。
「そりゃあまあ……そうか」
認めるしかない理屈が、そこにはあるのだろう。だからこそ余計に厄介だ。
女帝は決めるように言った。
『とりあえず、後でもう一度連絡する。それまで隠者は結界を強化して備えておけ――『何が起こるか解らん』からな』
「ああ……了解」
その返答で、会話は終わる。
宝玉の光がすっと消え、掌の上には緑の石が残っただけになる。さっきまでそこにいたはずの女帝の像が消えたことで、逆に東の圧が際立つ。森の音が戻ったようで戻っていない。鳥が鳴いているのに、鳴き声が遠い。
有羽は宝玉を懐へ戻し、空中で目を閉じた。
結界をもう一段厚くする。庭だけでなく、ログハウス全体を覆う層を増やす。防ぐための魔法というより、世界の波に家を沈めないための重しに近い。
そして、溜息をひとつだけ吐いた。
「……ったく。俺はここで、のんびり暮らしたいだけなのに……なんでこう、厄介事ばかり起きるのかね」
答える者は、いない。
東の空は、黙ったまま重い。
庭の下では誰も動けないまま、有羽の背中だけを見上げている。
森はダンジョンで、森は世界で、森は境界だ。
そしてその境界が、今、静かに鳴っていた。




