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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第三章

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第60話・『朝』


 朝の森は、夜とは別の顔をしていた。

 鳥の声が澄み、葉擦れの音が軽く、空気は冷たくも甘い。木漏れ日が芝の上に踊り、庭の長机には白い光が斜めに差し込んでいる。

 新設の客間――その柔らかすぎる幸福の巣から、レジーナは引き剥がされるように起こされた。


「ほら、レジーナ起きて。もう朝だよ」


 声は優しい。だが、容赦がない。

 レジーナはふかふかの寝具に丸まり、完全に世界と和解していた。王宮で培った「浅く眠る技術」は、このベッドの前で無力だった。


「…………ぇ?」


 ぽけ、とした顔でラディウスを見つめる。

 まぶたが重い。頭がふわふわする。

 寝ぼけ顔の第一王女という貴重な存在が、ここに完成している。


「……まだ、夜よ……」

「さすがにそれはない」


 ラディウスが笑いを噛み殺す。

 ソファでさえ立てなくなりかけていた彼も、朝の空気でいくらか人間に戻っていた。もっとも、妻があまりにも気持ちよさそうに寝ていたので、起こす手つきは最後まで優しかった。

 だって妻が、涎垂らして寝ているのだ。起こすのが可哀そうだった。


 レジーナはもぞもぞと顔を枕に埋め、最後の抵抗を試みる。

 だが、その抵抗は「低反発」に吸われて消えた。


「……朝……?」


 自分でも驚くほど小さな声。

 王宮の寝具に不満など抱いたことがない。むしろ一級品しか知らない。

 それなのに――このベッドは、身体の芯をほどき、神経の端を撫で、思考の余白にまで温度を与えてきた。


 レジーナは目を開けたまま、数秒だけ呆然とする。

 しばらく、ぽけー、とした顔のまま夫と見つめ合う。

 王宮でならありえない沈黙だ。

 互いの表情を、ただ眺めるだけの時間。

 それがここでは自然に流れてしまう。

 そして、ふいに現実が追いついた。


「――っ!」


 レジーナは飛び起きた。

 頬が熱い。耳まで熱い。

 背筋が反射で伸び、寝乱れた髪を慌てて手で押さえる。


「ご、ごめんなさい! わたしったら、なんて見苦しい……!」


 王女としての羞恥心が、ようやく戻ってきた。

 戻ってきた瞬間、寝具に敗北していた記憶まで鮮明になる。

 ――涎。

 ――深い寝息。

 ――しかも幸せそうな顔。

 思い出すだけで胃のあたりが恥ずかしさで捩れる。

 ラディウスはくすりと笑う。


「大丈夫。ここは王都じゃないんだから。賢者殿の領域だよ……眠りこけたって、誰も怒ったりしないさ」

「も、もうっ!」


 レジーナは反射で、夫の胸元をぽかぽか叩く。

 もちろん痛くない。

 むしろ「安心して叩ける」という事実が、昨夜の時間の価値を物語っている。

 ラディウスは笑いながら受け止め、付け加えた。


「アウローラや侍女達はもう起きている。君も身だしなみを整えるといい。……外でアウローラの侍女長が待ってるから」


 その言葉に、レジーナはぐっと唇を噛む。

 起きるのが遅い。

 王女として、完全に落第である。


「もう、もうっ!」


 ぽかぽか。

 しかしその手は、どこか嬉しそうだった。


 レジーナはシーツから抜け出して、身支度を整えるために鏡へ向かう。

 曇りのない鏡に映った自分の顔は「快適な寝具に溶けた王女」ではなく、南王国の第一王女だった。

 けれど髪は、やけに艶がある。肌も、やけに整っている。

 昨日の湯と、あの「泡立つ洗浄剤」の威力を否応なく実感させる。


(……これは、反則だわ)


 言い訳ではない。

 本当に反則なのだ。

 王宮でさえ、これほどの快適は用意できない。


 そうしてレジーナは、扉の外の侍女長を迎えいれる。

 外は快晴。木の香りがする。

 差し込む朝の光が明るい。

 それだけで、心が少し軽くなる。


 そんな、柔らかな朝の一幕。





 ◇◇◇





 一方、庭はすでに戦場だった。

 ただし剣ではなく、皿とコップとパンで。

 有羽は長机を中心に動き回り、焼きたてのパンを籠に並べ、ベーコンエッグを木皿に載せていく。

 火の管理も、皿の配置も、全員分の動線も一つの「段取り」として頭の中に組み上げられているのが見て取れる。


「コップ足りないー!」

「こっちフォーク二本! えっ、いや三本!?」

「水差し、ここ置きますね!」

「バター! どこですかバター!」


 侍女隊は慣れた手つきで、護衛も当たり前のように動く。

 すっかり「共同生活の一員」の顔をしていた。


 ただ一人。

 アウローラだけが、まったく働いていない。

 椅子に背筋を伸ばして座り、両手を膝に置き、まるで良い子の見本のように待機している。

 動かない。

 動けば邪魔になると学習している。

 その代わり、待ちきれなくて頭だけが左右に揺れている。


「まっだかなー、まっだかなー」


 言葉も揺れる。わんこである。

 そこへ、身だしなみを整えたレジーナとラディウスが現れた。

 つい数刻前まで、第一王女が涎を垂らしていたなど、誰が信じるだろうか。

 髪は艶やかにまとまり、衣服はきちんと整えられ、顔は王族の微笑を纏っている。


「おはよう皆。いい朝ね」


 優雅に微笑み、声も澄んでいる。

 まるで最初からこうだったかのように。

 王女とは、そういう生き物だ。

 だが――その完璧に、容赦なく突き刺さる声がある。


「あ、おはようございます姉上! ぐっすりでしたね! やっぱり有羽の作るベッドは凄いんですね! 私も最初はそうでした! 全然起きれなくて爆睡しちゃったのでお揃いです!!」


 全部言う。

 本当に全部言う。

 レジーナはにっこりと微笑んだまま、音もなくアウローラの横へ歩み寄った。

 そして、頬をつまむ。ひねる。


「いひゃいいひゃい。いひゃいでふ」

「嘘おっしゃい。全然平気な眼をしてるじゃない……もう」


 手を離す。

 姉妹の空気が、そこにふわりと広がる。

 王宮の規律も、護衛の目も、社交の鎧も――ここでは少しだけ薄い。


 ラディウスはその様子を見て、胸の奥で静かに息を吐いた。

 昨日の夜の「重い会話」が、今は一旦棚に上がっている。

 代わりにそこにあるのは、朝の光と、食欲と、笑いだ。


 レジーナは手際よく動く有羽の背を眺める。

 晴れた空。木の香り。整えられる皿。

 そして、ふと思う。


(今回、私の滞在期間は()()()()()三日を予定している。賢者様とのやり取り次第で前後するとは陛下にも言ってあるし……ぎりぎりまで延長したいわね)


 レジーナは心の中で言い訳を積み上げる。

 事前に、やり取り次第で延長もあり得ると言ってある。

 だから延長してもいい。

 決して、堕落ではない。

 決して、寝具と食事の虜になったわけではない。

 情報収集と距離感測定だ。

 胸中で、言い訳が勝手に増殖する。


(決して御飯の美味しさや、寝具の快適さに敗北した訳ではないわ。これらの製法の手掛かりを掴む為よ。止むを得ない判断よ。ええ、間違いないわ)


 言い訳の最後に、ほんの少しだけ本音が混じる。


(……昨日の遊戯のリベンジも……ちょっとだけ)


 護衛達も侍女達も席につき始める。

 少し遅めの朝食だ。

 誰のせいかは言わない。

 言えば、王女の微笑が「別の微笑」に変わる。

 有羽が苦笑しながら声を上げた。


「それじゃまあ、全員揃ったことだし。朝飯を――――」


 そこまで言った。

 笑顔で。

 人当たりの良い、善性の笑顔で。



 ――そして、その笑みが消えた。



 目の前の空気が、ほんの一瞬で切り替わる。

 昼夜を分かつ境界のように、軽さが消え、重さが落ちる。

 有羽は、音もなく席を立った。

 椅子の脚が擦れる音すら立てない。

 そして静かに、空を見上げる――東の空を。


「……有羽?」


 アウローラがきょとんと問いかける。

 その声は、朝の明るさを保ったまま。

 けれど、有羽は答えない。視線は遥か彼方。何もないはずの「東の果て」へ。

 次の瞬間。



「――全員、そこを動くな」



 声が落ちた。

 低く、鋭く、命令というより「警告」。

 脅しではない。

 安全のための声。

 だからこそ、背筋に冷たいものが走った。


 同時に――尋常ではない()が、有羽の身体から滲み出る。


 護衛達が反射的に身を固くする。

 侍女達は息を呑み、皿に伸ばしかけた手を止める。

 レジーナは微笑を保ったまま、瞳の奥だけを凍らせた。

 そしてラディウスは――聖騎士としての感覚が、言葉より先に理解した。


(なん……だ……!?)


 強い。

 強い、などという単語が軽い。

 強さの底が見えない。

 有羽という存在は、昨日の会話の中で「危険」だと理解した。

 だが、理解と実感は別物だ。

 今、実感が襲ってくる。

 十年前に打倒した魔界の悪魔――あれは確かに恐ろしかった。

 だが今のこれは、恐ろしいのではなく……比較の対象がない。


 レジーナは戦士ではない。

 魔術師でもない。

 だから「強さ」の数値は分からない。

 それでも――津波の前に立った時のような、あの身体の覚悟だけは分かった。


(これが……賢者の……本当の力……!?)


 息が詰まる。

 空が広がる。

 家が小さくなった錯覚に陥る。

 そして、有羽は――


浮遊(フロート)


 一言で、ふっと浮かび上がる。

 風を踏むように。

 重力を忘れるように。

 音もなく、庭の上空へ。

 結界の縁へ。

 さらに、その外側――遥か上へ。


 その瞬間、地上に残された者たちはようやく呼吸を取り戻す。

 あの圧は押し潰すためではなく、()()()()()()()()()()()()だった。

 距離が離れたことで、呼吸が戻ったのだと理解できてしまう。


 全員が見上げる。

 空の高み。そこに有羽が立っている。

 いや、立っているという表現すら曖昧だ。

 ()()()()()だけで、空が彼の足場になっている。


「有羽……」


 アウローラは凍えそうな恐怖を味わっていた。

 有羽に対して――ではない。

 何故か有羽が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、胸が苦しかった。


 けれど有羽は――南部の主、森奥隠者フォレスト・ハーミットは上空で動かない。

 彼は東を見つめ……否、違う。睨んでいる。

 見えない何かを、静かに。





 ◇◇◇





 時を同じくして。

 魔境の森の西――西部の主、樹神女帝ドライアド・エンプレスもまた、東の空を睨んでいた。


 オアシスに根を張る巨大な樹。

 その頂点に、分身の樹人形が座している。

 マネキンめいた顔。感情の読めない無機質。

 有羽と冗談を交わす「穏やかな気配」は、欠片も感じ取れない。


 風が吹く。

 葉が鳴る。

 だが、その音すら近づけない緊迫があった。


 森の南と西。

 それぞれの「主」が。

 ただ静かに、他者の介入を許さぬ空気をまとい。


 ――東の空を、睨みつけていた。





 ◇◇◇





 魔境の大森林を進む帝国軍の足取りは、相変わらず重く、そして力強かった。


 無数の根が地表を走る獣道を、鉄靴が踏みしめていく。草は踏み倒され、枝は折られ、湿った土には鉄と汗と血の匂いが刻まれていく。先頭に立つのは帝王ウィルトスと、剣聖ハガネ。

 彼らの背後には、百を軽く超える精鋭が列を成していた。

 前列には厚い盾を構えた剣兵。その後ろに長槍を持つ歩兵の列。左右には素早く動ける軽装兵が付き従い、少し後方には弓兵と銃兵が、弦と引き金に指をかけながら歩を進めている。

 さらに中程には、杖を手にした魔術兵たち。彼らの周りには、白い腕章を付けた衛生兵と、背嚢に鍋やパンを括り付けた料理番が続く。

 森の中に道を穿ち、拠点を築き、この魔境を「帝国が支配可能な空間」に変える――そのための、軍の進撃だった。


 そして――その日。

 濃密な木々の壁が、唐突に途切れた。

 視界が、ぱっと開ける。


「……渓谷だな」


 先頭に立つウィルトスが、足を止めて低く呟いた。

 森の切れ目から、深く抉れた地形が口を覗かせていた。

 崖は両側から切り立ち、その底を透明度の高い川が流れている。岩肌には苔が貼り付き、ところどころから細い滝が落ちていた。谷底には小さな平地があり、草が揺れ、鳥が羽根を休めている。

 風が変わる。

 森の瘴気とは違う、水の匂いと、岩の冷たさを含んだ風が、帝国軍の頬を撫でる。


「……良い場所だ」


 ウィルトスは、満足げに顎を撫でた。


「ここに砦でも建てれば、立派な拠点になるな。水もある、見晴らしも良い。森の中の中継地点にうってつけだ」


 崖の形。川の流れ。

 周囲の地形を一瞥するだけで、帝王はもう頭の中に砦の姿を思い描く。

 崖上に要塞、崖下に水を汲むための階段。川を渡る橋をかけ、対岸にも見張り塔を建てる。周囲の木々を伐採し、視界を開けさせる――そんな図が自然と浮かんでくる。

 周囲の将校たちも、同意するように頷く。


「崖を利用して防壁を……」

「橋を架ければ物資の運搬も……」


 口々に案を出し始める軍人たち。その未来図は、決して夢物語ではない。

 ――そう思った、その時。

 空気が、変わった。


 川から立ち上る霧が、妙な揺らぎ方をする。水の流れがわずかに鈍り、崖の影が不自然に濃く。

 ハガネの指先が、微かに動く。

 腰の刀に添えられたその手に、僅かな緊張が走る。


 次の瞬間――

 渓谷の対岸、崖の裂け目から、ぬるりと「それ」が姿を現した。


「……ほう」


 ウィルトスの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。

 崖に沿って姿を現したのは、一匹の蛇。


 ただし、常識で測れるサイズではない。

 頭一つ分だけ見えているにもかかわらず、その長さは平然と木々をなぎ倒し、崖を削っている。胴の太さだけで、帝国兵十人が横一列に並べるほど。体表を覆う鱗は、黒鉄にも似た光沢を放ち、筋肉が動くたびにうねり、岩を砕く音を響かせる。

 見えている部分だけでも、軽く百メートルはある。

 全身を伸ばせば、一体どれほどの長さになるのか、想像もつかない。


 その瞳は、黄色く濁った縦長の瞳孔。蛇特有の冷たさを湛えつつも、魔物特有の獰猛さが滲んでいる。

 上位ドラゴンに匹敵する、いや、それすら超えるかもしれない圧。

 兵たちが、一度に息を呑んだ。


「こいつはでかいな……!」


 しかし帝王は笑った。

 口角を上げ、戦斧を肩に担ぎ直す。

 ハガネの方は、黙ったまま蛇を観察していた。その視線には、僅かな警戒と興味が混じっている。


(ふむ……)


 剣聖は、一瞬だけ目を細めた。

 その気配、その魔力の流れ、その動き――確かにこの大蛇は「並み」ではない。いままで相手にしていたデストロイホーンやサイクロプスなど、比べるのも馬鹿らしいほどの格差がある。

 気を抜けば、ハガネさえ負けかねない。

 そう、判断する程度には。

 だが、それでも――


「先頭、盾を構えろ! 槍列、崖下を抑えろ! 弓と銃は一旦待機、魔術兵は合図があったときに一斉射だ!」


 ウィルトスは、すでに指揮を執り始めていた。

 自然と兵たちが動く。

 盾兵が最前列に並び、槍兵が左右に展開する。弓兵は矢をつがえたまま、一旦膝をついて待機。魔術兵は杖を地面に突き立て、魔力の感覚を研ぎ澄ませる。


 帝王は、前に出る。

 大蛇は、その動きに応じるように、頭をわずかにもたげた。

 身体を支える筋肉がうねり、その度に崖の石がぱらぱらと崩れ落ちる。

 蛇の瞳が、細く、冷たく、帝国軍を見下ろした。


「負けはせぬ」


 ウィルトスの声は、低く、しかしよく通った。


「踏み進み、押し通り、道を作るのが――余の進撃よ」


 今も昔も。

 ウィルトスの戦い方は変わっていない。

 敵がどれほど強大であろうと、その前で足を止めない。横にそれない。退かない。ただ前へ進み、その身と軍勢をもって、道を穿つ。


 蛇が、口を開ける。

 その口から吐き出される息は、生臭く湿っていて、どこか金属の匂いがした。


「さあ、いくぞハガネよ!」


 ウィルトスの声が、渓谷に響く。


「余と、余の軍と、そなたの剣の力――見せつけようぞ!」


 帝王の眼は、戦の熱に燃えている。

 だが――


「……」


 隣の老人は、動かなかった。


「……?」


 ウィルトスが、目の端でそれを捉える。

 何か異変を感じて、ちらりと老人の横顔を見やる。

 ハガネは――呆然と、空を見上げていた。

 目の前の巨大な蛇から、視線を外して。

 敵がこちらを睨んでいるというのに、その視線を逸らす。戦場においては、あってはならない行為だ。


 一体何を――。

 ウィルトスは、眉をひそめた。

 言葉を投げかけようとした。


 だが、その前に――

 老人の顔に浮かんだ「表情」を見て、言葉が喉で止まった。


 剣聖ハガネ。

 誰より多くの死地をくぐり抜け、誰より多くの怪物を斬ってきた男。

 その老いた顔に、はっきりと浮かんでいるのは――


 理解と。

 驚愕と。

 そして、確かな「恐怖」だった。


 思わず、ウィルトスも顔を上げる。

 ずっと前を向いていた兵たちも、釣られるように空を仰いだ。

 そして――見てしまった。




 ()()を見た。

 視界の、上。

 本来なら柔らかな光を落とすはずの青空があるはずだった。

 しかし今、そこに広がっていたのは、空でも雲でもなかった。




 巨大な「瞳」。




 言葉が、出ない。

 喉が、凍りつく。

 見上げた空には――果てすら見えぬ「絶望」があった。


 それは、世界の上に()()()()()()()()が載せられたかのような光景だった。

 空が、裂けているわけではない。

 ただ、「何か」が、そこに「居る」。

 あまりにも大きすぎて、脳が理解を拒む。

 視界に入っているのは、ほんの一部のはずなのに、それだけで視界のほとんどが埋め尽くされていた。


 存在の格が違う。座する次元が違う。

 人がその身に宿す魔法や剣技。国が作り出す数多の技術。弱者が強者を倒す為に開発された兵器。

 誇りだった。人が人として生きていく間に、積み重ねられた力。

 しかし、それらはすべて「些細なもの」だったのだと、思い知らされる。


 あの「何か」は――

 形を持ったひとつの世界。

 あるいは、天からこぼれ落ちた天体の欠片。

 その存在感は、そうとしか形容しようがない。


 いずれにせよ、それは。

 この世の万物すべてを塗りつぶす存在(法則)


 世界が、歪む。

 空間が、きしむ。


 帝国軍の魔術兵たちが、思わず膝をついた。

 脚が震えたのではない。

 身体の内側――魔力の流れそのものが、何かに掴まれ、無理やり捻じ曲げられたような感覚に襲われたのだ。


「っ……う……?」


 杖に縋りつきながら、魔術兵のひとりがうめき声を漏らす。

 彼が準備していた術式――大気中に浮かんでいた魔力の構造式が、まるで紙切れのようにぐしゃりと潰れ、崩れ落ちる。


 何をしたわけでもない。

 誰かが邪魔をしたわけでもない。

 ただ、「それ」が「そこに居る」というだけで、構築した魔法が紙くず同然に無効化されていく。

 別の魔術兵も、震える声で言った。


「……魔力の流れが……っ……世界の、線が、変わって……」


 語彙が追いつかない。

 魂ごと握り潰されるような圧。

 鳥肌などといった生易しいものではない。皮膚の表面だけでなく、血管、骨、内臓、一つ一つが震え始める。

 命の根源――魂そのものから、怖気が走った。



 それは「蛇」だった。

 一匹の「蛇」。



 大蛇――さきほど渓谷から姿を現した百メートル級の大蛇は。

 谷の端に身を寄せ、身体を縮めて震えている。

 今や、完全に「小さなもの」にしか見えなかった。

 あの「蛇」の出現に怯えたのだ。




 あの――全長一万メートルを越える、天より見下ろす巨大な「蛇」に。




 雲のはるか上、成層圏にまで達しているであろう高さ。真上に、禍々しくも荘厳な「瞳」が浮かんでいる。その瞳孔は細く長く、虹彩は青白く、金属光沢を帯びていた。

 瞳の周囲には、星々のような紋様が散らばっている。


 蛇の胴は、空を横切る巨大な帯のように、遠くの地平線へと伸びている。その一部しか見えないのに、その長さが途方もないことははっきりと分かった。

 世界の縁をなぞるかのように、その身をくねらせている。

 彼方の雲の下で、地平線がわずかに歪んで見えた。

 それは、「世界」の方が、この蛇の存在に合わせて形を変えているかのようで。


 鱗は澄んだ濃紺。わずかに輝きを帯びている。

 ひとつひとつの鱗が、都市の広場ほどの大きさがあるのではないかと思わせる。

 鱗の隙間には、星々のような光点が散りばめられていた。夜空に浮かぶ星とそっくりの輝きが、その身体のあちこちに瞬いている。

 まるで、その「蛇」の体こそが、「星空」そのものなのではないかと思えるほどに。


 何故こんな巨躯に、今まで気づけなかったのか。

 解らない。何一つ解らない。

 人が理解できるようなモノではない。


 眼が、あった。

 谷底から見上げてもなお、その一瞳が視界の半分以上を占める。

 楕円形の瞳孔が、ゆっくりとすぼまり、帝国軍の存在を()()()()ことが、嫌でも分かる。

 昆虫を眺めるような、新たな石ころを見つけたような。

 ――そんな、感情の薄い視線。絶望的なまでの「温度差」。

 あの蛇に比べれば、精鋭揃いの帝国軍ですら、ゴミか石くれにしか見えない。

 鎧も、剣も、魔法も、戦術も――すべて、滑稽なほどに小さい。


「……っ!」


 ウィルトスは、無意識に歯を食いしばっていた。

 戦斧を握る手に力が入る。

 足元が覚束ないわけではない。膝が震えているわけでもない。

 それでも、「叫ぼう」と思った声が、喉から出てこない。

 覇王と呼ばれた男の喉が、初めて()()()()()


 彼の隣で、ハガネがゆっくりと息を吐く。

 老いた剣聖の額に、うっすらと汗が浮かんでいる。

 この男にとって、「汗」は肉体の疲労の証ではない。

 何度も死地を潜った剣士の本能が、ようやく認めた「格の差」の前でのみ、にじむものだ。


(……これは)


 思考が、音にならない。

 あの鱗一枚すら、斬れる気がしない。

 刀を振るえば、届く前に「こちら」の存在が、世界から削ぎ落とされる――そんな未来が、ありありと脳裡に浮かぶ。

 伝説の剣聖が――戦いの土俵にすら立てない。

 理解を拒否しようとしても、身体の方が先に悟ってしまう。


 膝を折りそうになる兵士もいた。

 唇を噛み、必死にそれを堪える。

 弓兵の指が、震えて弓弦から矢を滑らせた。

 その矢が、力なく地面に突き刺さる。

 誰も、それを笑わない。

 笑えない。





 それこそが、魔境の大森林「東の主」。

 南の森奥隠者フォレスト・ハーミット

 西の樹神女帝ドライアド・エンプレス

 その二者と並び立つ同格存在。

 世界の境界を喰らう蛇。





 森の東の番人――世界天蛇イオルムンガンドル





 世界天蛇の視線が、ほんのわずかに動いた気がした。

 帝国軍の上を、ゆっくりと舐めるように、移動する。


 誰も、息をしない。

 したくても、できない。

 胸が苦しい。肺が焼ける。頭が痛む。


 魂が、呼吸を忘れてしまう。

 一歩でも動けばその瞬間、存在ごと滅ぼされる――

 そんな確信めいた恐怖が、全員の背骨の奥に突き刺る。


 世界天蛇イオルムンガンドル

 世界の境界を喰らう蛇は――


 ただ、静かに。


 何もせず。


 帝国軍を見下ろし続けていた。













第三章はこれで終了です。

ようやく、東の蛇が出せました。

次回からは第四章……なのですが、年始は少し立て込んでいまして。

第四章開始は「2026年1月7日の12:00」となります。ご容赦を。

それでは皆さん、良いお年を。


それと、もし面白いなと思っていただけたら、ブクマや評価で応援していただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
質量が大きい(大きいってレベルか!?)だけで、脅威だよね。
藪蛇すぎる、、、
やっぱりマップ破壊兵器じゃないですかやだ〜 すぐに興味なくしてくれますように
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