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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第三章

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第51話・カレーのレシピ


 有羽の一言が落ちた瞬間、ログハウスの空気が冷えた。


 それまで室内を満たしていたのは、揚げ油の香ばしさと小麦の甘い匂い、それに――口の奥に残る、香辛料の熱。

 皆、手の中に球体の揚げパンを持ったまま、あるいは口に運んだまま、止まった。

 止まったのに、匂いだけが止まらない。

 鼻は勝手に「美味い」を拾い続ける。腹も勝手に「もっと食え」と訴えてくる。

 だが頭の中は、別の計算で塗りつぶされていった。


 たかが料理、されど料理。


 新しい味が生まれると、必ず「物語」が付く。

 その物語が、金になり、誇りになり、国の色になる。


『どこどこの国では、あの料理が食べられる』

『あれはあそこでしか味わえない』


 旅人の口から漏れる噂は、社交の場を巡り、外交の席にも忍び込む。

 食べ物は、戦争を起こす剣にはならない。

 けれど、戦争を避ける楯にも、国を太らせる畑にも、時には――相手の心を掴む毒にもなる。


 ましてやカレー。

 この世界の常識では説明できない「味の塊」だ。再現できれば名産になる。

 それが一国の独占でなくなる――その意味は、重い。


 レジーナの指が、球体の揚げパンを握ったまま微動だにしない。

 ラディウスは半分齧った楕円形を膝の上に置き、呼吸を一つ整えた。

 侍女隊は、手を止めた。止めたまま、目だけが動く。情報を拾おうとする目だ。

 そしてアウローラだけが、瞬きの回数を増やしていた。

 驚き――ではある。

 けれど驚きの中に、別の色が混じる。喉の奥に小骨が刺さったような、嫌な痛み。

 有羽が、皆の硬直を見回して、わざと軽く息を吐く。


「……まず、順序立てて話すよ。俺が森の西部に、カレー鍋担いでいったのは王女さんは知ってるよな?」


 王女さんと呼ばれて、アウローラの肩がぴくりと跳ねた。

 いつもなら尻尾を振って「うん!」と返すところだが、今は背筋を伸ばして、王族として答える。


「あ、ああ。西部の……主が、持って来いと言ったのだったな。……その時に?」

「そう。その時」


 有羽は椅子の背にもたれず、肘もつかず、珍しく姿勢を正している。

 それが、彼なりの「誠意」なのだとレジーナは察した。

 今この瞬間、有羽は軽口を封印している。だからこそ、言葉の重みが増す。


「俺が西部についたらさ。向こうの領域に……メトゥスさんが椅子に座ってた」


 アウローラの唇が、ほんの少し開く。

 知らない名前が出たからではない。

 女王がそこに座っていたという絵面が、あまりに異常だからだ。


「何か向こうも驚いてた。お互いに、呼ばれた理由を聞かされてなかったんだよ。――だから俺も『え、なんでいるの?』って顔になったし、向こうも『え、なんでいるの?』って顔してた」


 有羽はうんざりしたように言って、肩をすくめた。

 その仕草に、アウローラの胸がちくりと痛んだ。

 今の話は政治の話のはずなのに、なぜか「別の痛み」が混じる。

 王女としてではなく、一人の女として――小さく刺さる。

 ラディウスが、言葉を選びながら口を開く。

 責める調子ではない。確認だ。騎士として、選択肢を検討する声。


「……魔国の女王に食べさせない、という選択は取れなかったのかな? 賢者殿を責めたいわけではない。純粋に、可能性として」

「無理」


 有羽の返答は即答だった。

 迷いがない。迷って、すでに捨てた回答だ。


「このカレーのスパイスは、西部の「主」から貰ったもんだし。向こうから材料貰った手前、意味もなく断れない」


 ラディウスが小さく頷く。

 彼もまた高位貴族だからこそ、有羽が無理だと言った理由に同意できた。


「……なるほど。友好に対して返礼を拒むようなものだ。理由なく断れば、関係が壊れる」


 レジーナも同意する。王族の言葉で、同じ結論へ静かに辿り着く。


「しかも、その「主」が望んだのなら尚の事。……賢者様の立場からすれば、拒絶は損しか生まない」


 ラディウスは、森の西部の「主」を知らない。

 名も、姿も、性質も。

 けれど「居る」ことだけは、肌で感じていた。

 聖騎士の感覚が、戦場で培った直感が――剣を抜く以前に理解してしまう。

 あれは敵ですらない。戦いの形にできない。

 レベル四十七という数字が誇るはずの自負が、森の奥では意味を失う。

 有羽は続ける。


「結論として、メトゥスさんに食べさせる以外の選択は取れなかった」


 そして、少しだけ苦い顔をする。


「向こうの主とも、馬鹿話するくらい見知った仲だけどさ。――不仲になりたいとは欠片も思ってない。あの人、不興買うとマジで面倒だから」


 言い方は軽いのに、内容が笑えない。

 さらに有羽が、ぽろりと付け足した。


「俺と、どっこいの実力者だし」


 ラディウスの瞳孔がわずかに開いた。

 何気ない言い回し――どっこいという、妙に庶民的な響きが逆に怖い。


 同格。

 同等。

 つまり、森の主と同列に語られる有羽の存在。


 レジーナも、そこに引っかかった。

 だが彼女は顔に出さない。

 出せば場が崩れる。外交官としての習慣が、表情を微笑みのまま固める。

 有羽は、皆が飲み込みきれないものを抱えているのを察して、先に釘を刺すように言う。


「ま、そこまでは皆さん色々言いたいだろうけど、飲み込んでもらいたい。俺にだって、どうしようもない状況だったから」


 沈黙の中で、レジーナがゆっくり頷いた。


「ええ……残念ですけど、仕方ありません」


 まず認める。

 まず事実に同意する。

 その上で次の手を考える。

 レジーナはいつもそうしてきた。


「カレーは我が国だけで独占できる味ではなくなった。そういうことなのでしょう」


 侍女隊の何人かが、わずかに唇を噛んだ。

 悔しさだ。

 あの味に出会った者は、必ず「自分のものにしたい」という欲が生まれる。

 欲は卑しいだけではない。国を動かす燃料になる。

 レジーナはそこで、少し声の温度を変えた。

 相手を裁くためではなく、相手を逃がすための言葉。


「ですが――そもそもの話、賢者様が私達王国に気に病む必要はありません」


 有羽が目を上げる。


「賢者様は我が国の臣下ではなく、ただ独りで森に住まう御方。私達が賢者様の行動を束縛する権利など、初めから無いのですから」


 それは美辞麗句ではなく、純然たる事実だ。

 この森は王都の法の外。

 王族の権威が届かない場所。

 そして有羽は、その外に住む者。

 にもかかわらず、有羽は困ったように笑った。


「……そりゃそうなんだけどね。気持ちの問題だよ」


 その一言に、レジーナの思考が静かに加速した。

 今までのやり取り。

 丁寧な挨拶。

 酔いを治す魔法を()()()()()()から使ったこと。

 ランチョンマットを受け取り、絨毯の話題でうっかりして悶えたこと。

 そして今、責められる筋がないのに()()()()()を持ち込むこと。


(……なるほど)


 レジーナは、心の中で息を整える。


(この方は「理屈」より先に「良心」が動く。言い換えれば――自分が納得できない行動を嫌う)


 貴族社会に向かない。

 宮廷に置けば擦り切れる。

 縛れば折れる。折れないまでも、壊れる。


(貴族社会を嫌う理由が、よく分かるわ。礼儀を知っていても、礼儀の「裏側」を受け入れられない。いえ、受け入れられるけれど苦痛を伴う方)


 貴族の礼儀は、しばしば「建前」でできている。

 本音を隠し、利を取り、相手の弱みを拾う。

 それを悪と断じることはできない。国を動かすには必要だ。

 だが、有羽はそこを「好まない」。


(魔国に情報が渡った。それをわざわざ語った。――本来、言う必要すらないのに)


 つまり、有羽は()()()()()()()()()()のではなく、

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 レジーナの視線が、ほんの一瞬だけ妹へ向かう。

 アウローラは固い顔をしている。

 けれど、その硬さの内側には、怒りではなく――痛みがある。

 レジーナは理解する。


(あの子はきっと「政治の損得」より先に「賢者の心」を見てしまっている)


 そうして、レジーナは結論を一つ置いた。


(賢者様を王都に呼ぶのは愚策。川の魚を海に放つようなもの。生きられても、息ができない)


 最適解は無干渉。

 彼をそっとしておく。

 森で、彼のペースで、彼の気分で。


 ――ただし。

 今、有羽が言おうとしている「問題」は、その最適解を許さない気配がする。


 有羽が、球体の揚げパンを一つ手に取る。

 食べるわけではない。

 指先で、軽く転がす。

 小さな丸が、テーブルの上でころりと揺れた。


「……実は、問題はここからなんだよ」


 全員の視線が、有羽へ集まる。

 外では護衛たちがまだ咀嚼している音がする。

 だが室内は、静かだ。

 揚げパンの熱が冷えていくのが分かるほどに。


「メトゥスさんにカレー食わせた――で終わんない話があってさ」


 有羽は、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せた。

 いつもの気楽な顔ではない。

 森の中で独り生きる者が、「面倒」では済まないものに触れてしまった顔。

 アウローラが、喉を鳴らして言う。


「……有羽。それは、何だ?」


 レジーナは言葉を挟まない。

 ただ微笑みを保ったまま、刃のように耳を澄ませる。

 ラディウスは背筋を正す。

 聖騎士としてではなく、王国の未来を守る者として。

 侍女隊は一斉に姿勢を整えた。

 目は穏やかなまま、空気は戦場の前のように研ぎ澄まされる。

 有羽は一度だけ、深く息を吸い――吐いた。


「……メトゥスさんとな「取引」したんだよ」


 その一言が、また別の緊張を生んだ。


 取引。

 何を渡し、何を受け取り、何を約束したのか。


 有羽は続けようと口を開き――

 そこで、言葉を止めた。

 止めた理由は、ためらいではない。

 皆の反応を、ちゃんと見てから続けるためだ。


 そして彼は、淡々と告げる。

 有羽の口から、まるで「天気予報」みたいに淡々と告げられた言葉は――ログハウスの室内を、一瞬で凍らせた。


「まず結論として……魔国は俺が求める『ある物』と引き換えに、『カレーのレシピ』を要求してきた」


 揚げたパンの香ばしさが、やけに生々しく鼻を刺す。

 さっきまで「美味い」という幸福の匂いだったものが、今は妙に落ち着かない匂いに変わった気がした。


 アウローラは、口を開けたまま止まる。

 侍女隊も、護衛隊も――手に持った小さな球体を、まるで禁制品でも握っているかのように固まった。


 レジーナですら、指先が止まった。

 彼女の前にある皿。食べかけの小さな揚げパン。そこに詰まっていた味の奔流。

 その奔流の源が、今や「レシピ」という言葉に形を変えた。


 料理のレシピは、王侯貴族にとって――嗜好品ではない。

 武器だ。

 美食は社交の場で威力を発揮する。

 相手の舌を落とし、心をほぐし、油断を作り、情報を引き出す。

 あるいは単純に、富と力を誇示する。

 それが()()()()()()()()で価値が決まる。


 ましてカレー。

 この世界の基準では「異常」なほど複雑で、異様なほど中毒性がある。

 もし魔国がレシピを得れば、香辛料の産地としての下地もある。王国が追いつく前に、完成形に辿り着いてしまう。

 たかが料理ではない。

 社交の武器であり、交易の看板であり、国の色を変える火種だ。


 ラディウスは、半分齧った楕円形の揚げパンを、そっと皿に戻した。

 聖騎士としての顔が、一段深くなる。


「……」


 レジーナは言葉を飲み込んだ。

 真っ先に浮かんだのは、怒りではない。

 状況の確定だ。


(要求してきた、という事実。つまり魔国は、すでにカレーの価値を理解している)


 そしてもう一つ。


(賢者様は、それを隠さず話した)


 ここに彼の性質がある。

 有羽は皆の硬直を見て、両手を軽く上げる。宥める仕草。


「ただ落ち着いて。『まだ』レシピは渡してないから」


 その一言で、空気が一段やわらいだ。

 誰も彼を縛る権利はない。

 それでも、「まだ渡していない」という事実に、胸の奥が緩む。

 理屈ではなく、管理者としての本能――国の舵を握る者の反射だ。

 アウローラが、恐る恐る口を開く。

 言葉は小さく、けれど真剣だった。


「あの……有羽。有羽が求める物って……何なんだ?」


 有羽は、少しだけ目を伏せた。

 その仕草が、妙に少年くさい。


「んー……以前からさ。俺の元居た国の『主食』については話してたじゃん?」

「ああ。たしか……『コメ』とかいう、水を張った畑でとれる穀物だとか……」

「そうそれ」


 そこで、有羽は一拍置いた。

 間を取ったのは、言葉の重さを自分で理解しているからだ。

 そして、口を開く。


「……魔国の湿地帯に『米』がある。向こうはそれを取引材料に出してきた」


 レジーナの背筋に、冷たいものが走った。


(まずい)


 魔国がレシピを求める。

 それ自体は、政治として理解できる。競争として受け止められる。


 だが、まずい。

 まずいのは魔国が米を持っていることではない。

 まずいのは、それが有羽の欲しいものであり、さらに王国側がそれを用意できないことだ。


 もし有羽が王国の臣下なら、命令で止められる。

 もし有羽が王国の保護下なら、圧力で留められる。

 だが彼は違う。どの傘下にもいない。自分の足で立っている。


 そしてなにより「主食」は別だ。


 それが単なる嗜好品なら、まだよかった。

 酒、菓子、香辛料――贅沢品なら交渉材料にできる。

 だが主食は、生きる基盤だ。

 日々の中心だ。

 文化の骨格だ。


 レジーナは思う。

 食べられる間は当たり前だったもの。

 食べられなくなった瞬間、それは「祈り」になる。


 レジーナは、有羽がなぜ森にいるのか知らない。

 どういう経緯で、ここに()()()()()ように生きてきたのか。

 ただ――望んでこうなったわけではない、という気配だけは、今までの会話の端々から読み取れる。


(逃れてきたのか、追われたのか。あるいは……壊れたのか)


 どれでもいい。

 帰れないという事実だけが、彼の言葉と態度の底に沈んでいる。


 そんな者に「祖国の主食」を餌として差し出す。

 それは――残酷だ。

 そして外交としては、極めて強い。

 止める権利がない。

 引き留める権力がない。

 賢者は王国の臣下ではない。王都の法の内にもいない。


 レジーナの脳裏に、遠征時の自分の経験がよぎる。

 故郷の味が数週間断たれるだけで、人の心は思った以上に摩耗する。

 笑って耐えることはできる。王女としてはそれが仕事だ。

 だが()()()()()という事実は消えない。


(この方は……一体、何年だ?)


 その問いを口に出せないのが、レジーナの職業病だった。

 踏み込めば、傷をえぐる。

 えぐってまで得たいものではない――少なくとも、今は。

 有羽が、少し眉を寄せて続けた。


「それで、ちょっと聞きたいんだけど……王国側で『米』が発見された話ってある?」


 レジーナは首を横に振る。

 ラディウスも、侍女隊も、視線を落とす。

 護衛隊も、外で咀嚼を止める気配がした。

 もしあったなら。

 もしあったなら――取引ではなく、贈与の形にできたかもしれない。

 王国が、賢者に対する最低限の返礼として差し出せたかもしれない。

 しかし、無い。


「そっか……じゃあ、やっぱり無いか」


 有羽の口調は軽い。

 だがその顔は、軽くない。

 表情の奥に、長い渇きが見えた。


 レジーナは確信する。

 今の落胆は、単なる()()()()()の類ではない。

 ずっと堪えてきた人間の、心底の落胆だ。


 主食は、ある時は当たり前すぎて意識されない。

 失われて初めて、その重さが分かる。


(たかが主食、と嗤う者は――恵まれた者だけだ)


 その時、アウローラが、椅子の上で身を乗り出した。

 申し訳なさそうに――ではない。むしろ、珍しく()()()()()


「……『コメ』は、有羽が食べたいもの、なんだよな? だったら、いいんじゃないか?」


 有羽が目を丸くする。


「い、いや、そういう訳にはいかないだろ……?」


 けれどアウローラは引かない。

 さっきまでわんこだったのに、今は戦場で部隊を叱咤する将の顔だ。


「だって――有羽、本当に辛そうだぞ? ずっと、ずっと食べたかったんだろ? だったらカレーと交換してもいいじゃないか!」


 語気が強すぎて、侍女隊が一瞬だけ身構えた。

 王女が賢者に噛みつくのは、外で見張っている護衛の胃にも悪い。

 だがアウローラは止まらない。


「私達は、いっぱい有羽に助けられた! カレーだけじゃない! うどんも、石鹸も、寝袋も……他にも沢山、教えてもらった!」


 有羽は「え? なんで俺が責められてんの?」という顔で、口を半開きにしている。

 レジーナはその横顔に、ほんの少しだけ笑いそうになった。

 場は緊張しているのに、本人だけ置いてけぼりだ。

 アウローラはさらに勢いを増す。


「カレーひとつくらいなんだ! 丁重に箱詰めしてくれてやれ!!」

「王族が言う台詞じゃないだろそれ……!」


 有羽のツッコミが飛ぶ。

 アウローラは頬を膨らませ、でも目だけは真剣に言う。


「いいんだ! 魔国が再現したって、王国が滅びるわけじゃない! それより、有羽が『コメ』を食べられることのほうが大事だ!」


 それは、政治の言葉ではない。

 損得の言葉でもない。

 ただ、誰かの苦しさを見てしまった者が吐く、真っ直ぐな言葉だ。


「だから、だから――」


 声が少し震えた。


「……そんな辛そうな顔で諦めなくていいんだ。私が断言する。有羽がカレーのレシピを魔国にあげたって、それは『裏切り』なんかじゃない」


 有羽が、息を止めたように固まる。

 その瞳が揺れた。

 心の奥の、触られたくないところを、いきなり撫でられた顔だ。

 アウローラは続ける。

 どこか必死で、でも優しい。


「むしろ、私達のほうこそ『裏切り』だ。私達王国は、有羽を縛るつもりなんてないんだ」


 ()()だった。

 王族が与える赦しではない。

 友が、ただの人が、与える赦し。


 レジーナは、その瞬間、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 この妹は、危うい。危ういほど優しい。

 けれど同時に――その優しさは、誰より強い。


 そしてレジーナは、同時に「機会」を見た。

 今、ここで手に入るかもしれないものがある。

 カレーのレシピよりも重要なもの。

 国益より先に、()()()()()()()を決めるもの。

 レジーナは笑みを戻した。

 柔らかく、けれど刃のように澄んだ微笑。


「賢者様。アウローラの言う通りです」


 有羽が目を向ける。

 レジーナは、その視線を受け止める。逃さない。


「王国に義理立てしてくださるのは嬉しいですが、それで賢者様の行動を縛るのは、むしろこちらの恩義に反します」


 その言葉は、正しい。

 そして同時に、巧みでもある。

 有羽が「良心」で動く人間なら、彼の良心を否定しないまま、別の道を用意する必要がある。

 レジーナは間髪入れず、続けた。


「ただ、今のままでは賢者様の気が紛れないでしょう。代わりに、ひとつ『お願い』を聞いてくださいませ」

「……お願い?」


 有羽が眉を上げる。

 ラディウスが視線を細める。

 侍女隊の空気が張る。

 アウローラはなぜか不穏な予感で、背筋を伸ばした。

 レジーナは、にこやかに告げる。


「ええ――妹を『名前』で呼んでくださいませんか?」


 室内が静まる。

 油の匂いすら遠ざかったように感じるほどに。



「『王女さん』ではなく――『アウローラ』と」



 アウローラの頬が、みるみる赤くなる。

 その赤さは、怒りでも羞恥でもない。

 胸の奥をくすぐられたような、温度の赤。


 有羽は、言葉を失ったように口を開けて――すぐ閉じた。

 目線が泳ぐ。逃げ場を探すように。

 けれど逃げ場はない。

 ここにいる誰も、彼を責めていない。

 ただ、優しく追い詰めている。


 レジーナは微笑みのまま、最後の一押しをするでもなく、静かに待つ。

 答えは急がなくていいという顔で。

 それがまた、逃げづらい。


 アウローラは、息を止めている。

 侍女隊は、目を丸くして見守っている。

 ラディウスは、面白がってはいけない場面なのに、口元だけがわずかに緩みそうになって慌てて引き締めている。

 有羽は、こめかみを押さえた。

 そして――観念したように、ひどく小さな声で。


「……あー……」


 その先を言うのか、言わないのか。

 森の賢者の唇が動く、その瞬間。


 ログハウスの外で、風が枝葉を揺らした。

 まるで森そのものが、続きを聞きたがっているみたいに。



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― 新着の感想 ―
ログハウスの外で、風が枝葉を揺らした。 まるで森そのものが、続きを聞きたがっているみたいに。 通信器使わないで盗聴はズルいと思うw
おう西の、黙ってろやw
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