第52話・レジーナの思惑
ログハウスの中に、妙に間の抜けた沈黙が落ちた。
揚げ油と香辛料の匂いが、まだ部屋に残っている。
小さな球体の揚げパンがいくつも皿に並び、齧りかけの楕円形がテーブルの端に置かれている。
ついさっきまで、誰もが「うまい!」と顔をほころばせていたのに――今は、なぜか誰も咀嚼を続けられない。
レジーナが出した「お願い」は、剣よりもよほど鋭く、けれど柔らかかった。
妹を、名前で呼んでくださいませんか。
それだけのこと。
それだけのはずなのに。
世渡有羽とアウローラは、なぜか見つめ合ったまま動かなくなっていた。
有羽の視線は、落ち着かない。
アウローラは、見る見るうちに顔が赤くなっていく。赤というより、熟れた林檎だ。
肩の位置が定まらず、口元がわずかに開いたり閉じたりして、言葉にならない。
周囲のほうがむず痒い。
侍女隊は全員、背筋を正したまま固まっている。
誰も動かないのに、目だけが忙しい。主に、アウローラの顔色を確認したり、有羽の挙動を追ったり。
まるで儀式の成否を見守る神官のようだ。
窓の外では護衛隊が――本来ならば不敬の極みのはずの行為をしている。
覗いている。完全に覗いている。
しかも男達の顔が、揃いも揃って「いいぞもっとやれ」みたいな生温かい笑み。
(あなた達、護衛という名の観客席ですか)
レジーナは微笑みを崩さないまま、内心だけで小さく溜息をついた。
隣のラディウスは、苦笑いを噛み殺している。噛み殺しきれていない。口元がやや緩い。
見てられない。
どこの少年少女だ。
二人とも二十を過ぎているはずなのに。
けれど――レジーナはすぐに、その違和感の正体を掴む。
(……違うのね。初々しいのではなく、停まっていた時間が動き出しただけ)
アウローラは、夫を亡くした時から。
それ以降、彼女の中の時計はある場所で止まっていた。笑っていても、目の奥が笑っていない。明るく振る舞っても、熱がない。
その止まった時計が、ここに来てようやく動き始めた。
有羽も同じだ。
彼がどれほど長く森にいたのか、レジーナの観察眼でも正確には測れない。
だが、不本意な理由でここにいる。
自ら望んだ隠遁ではなく、何かから逃げたか、何かに追いやられたか――そういう「重さ」を、彼は薄い冗談の裏に隠している。
身体は成長し、知識も知恵も身につけている。
けれど情緒だけが、ひどく未成熟な場所で停まったまま。
だからこそ、たった一言が重い。
(最低でも二年前……しかし、それ以前からこの森にいた可能性が高い。五年、十年……もっと? もし少年の頃からなら、十二、十三、十四……そのあたりで止まってしまったのかもしれない)
そして、あの凄まじい知識量。
あの冷静な判断。
あの常識と非常識の混ざった言葉の選び方。
(祖国では神童扱い。だが、その頭脳ゆえに貴族に振り回され……結果、森へ)
もちろん真実は違う。
彼は異世界から来た。
だがレジーナがそれを知るはずもない。
彼女の世界には、平民にも学びが義務として与えられ、身分の壁が薄い国など存在しない。
だから、レジーナの推測は自然とそういう輪郭を結ぶ。
少なくとも「本人の意思と無関係に、理不尽な結果でここにいる」という点だけは――恐ろしく正確に当たっているのだが。
「……あー……その……」
有羽が、情けない声を出した。
声の調子だけ聞けば、強大な魔法使いというより、告白の前に転びそうな男だ。
アウローラは、言葉を返せない。
ただ目を見開き、口を小さく動かし、頷きかけては止まる。
レジーナは微笑みのまま、圧を少しだけ足した。
ほんの少しだ。
しかし王族の「少し」は、一般人にとっては大地が沈む程度の重さがある。
侍女長マルガリータが、咳払いをしそうになって寸でのところで飲み込んだ。
護衛隊の誰かが窓の外で「今だ」と小さく呟いた気がする。
ラディウスが、やめろという目を窓に投げた。やめない。
そして――観念したように有羽は、肩を落として口を開いた。
「……アウローラ」
その一言は、魔法よりも速く部屋の空気を変えた。
「っ……!」
アウローラの肩が跳ねた。
頬の赤みがさらに増して、目が潤む。泣きそうなわけではない。嬉しすぎて、水分が追いつかない顔だ。
「……う、うん……!」
返事が、あまりにも女の子だった。
王女としての整った声ではなく、一人の人間としての、温度のある声。
護衛隊が窓の外で、誰かの背中を叩いた音がした。
侍女隊の数名が、口元を押さえた。泣いてはいけないのに、嬉しさで泣きそうな顔。
ラディウスは、とうとう口元を隠すふりをして、微笑を浮かべる。
レジーナは微笑みを崩さない。ただし圧は維持する。
有羽はこめかみを押さえた。
「えっと……何か恥ずいな……本当にこんなのでいいのか?」
「ええ」
レジーナが即答した。
間を挟まない。逃げ道を作らない。
「それがいいのです。それでいいのです。賢者様が妹を名前で呼んでくださった……それが、私達にとって何よりの見返りです」
見返り。
その言葉は、にこやかな微笑みで包まれていたが、レジーナの中では明確な意味を持つ。
それでも、レジーナの笑みは嘘ではない。
妹の幸せを、心から喜んでいる。
その上で、王族としての計算も同時に走っているだけだ。
アウローラが、椅子から半分立ち上がった。
「もう一回!」
侍女隊が一斉に息を呑んだ。
護衛隊が窓の外で「出た」と肩を揺らした。
ラディウスは頭を抱えたい顔。レジーナは微笑んだまま、妹を止めない。
「もう一回言って! お願い! 今の、もう一回!」
「お、おい……お前な……」
有羽が狼狽える。
狼狽え方が戦場のそれではなく、完全に日常のそれだ。
ここにいる全員が、同時に思った。
この賢者、肝心なところが弱い、と。
「えっと……それ、そんなに重要?」
「重要だ!」
アウローラが即答した。
即答が早すぎる。
そしてその勢いのまま、少し声が小さくなる。
「……だって、私……ずっと、呼ばれたかった」
有羽が固まった。
侍女隊が固まった。
護衛隊が窓の外で固まった。
ラディウスが固まった。
レジーナだけが微笑みを保ったまま、静かに頷いた。
(そう。これが欲しかったの)
有羽は、逃げ場を探すように視線をさまよわせ、結局アウローラの目に戻った。
アウローラは、まっすぐ見返している。
赤い顔で、挙動不審で、でも視線だけは逃げない。
諦めたように、有羽は息を吐く。
「……アウローラ」
「っ……!」
今度は、声にならない声が漏れた。
嬉しい、という感情だけで肺がいっぱいになったみたいな音。
「……う、うぅ……」
アウローラは両手で頬を押さえた。
恥ずかしいのか、嬉しいのか、熱いのか、全部なのか。
そして――調子に乗った。
「じゃ、じゃあ、あと一回……!」
「調子に乗るな」
有羽が即座に突っ込む。
それがまた自然で、いつもの距離感で――だからこそアウローラは、ふにゃっと笑ってしまう。
侍女隊は完全にほっこり顔だ。
護衛隊は窓の外で「いやー、良いもの見た」と頷き合っている。仕事をしていない。
ラディウスが、そっとレジーナに目配せをした。
この目配せは、夫婦の会話だ。声にしない会話。
(……これでいいのかい?)
レジーナも、目だけで答える。微笑みは崩さない。
(これが最良よ)
ラディウスは、わずかに眉を上げた。
レジーナは、ほんの少しだけ目を細めた。
姉として、たまらなく嬉しい。
ただし、同じ瞬間。
レジーナの頭の中では、別の歯車も回っている。
(これで私達は、賢者様の罪悪感を買った)
賢者は良心を持つ。
理屈ではなく心で動く。
だから、王国に対して申し訳なく思う。
その申し訳なさは、縛りではない。
縛りにしてしまえば壊れる。
しかし申し訳なさがある限り、彼は無用な不義理を避ける。
その性質を、レジーナは見抜いた。
(そして同時に、妹との距離が縮まった)
名を呼ぶという行為は小さい。
だが小さいからこそ強い。
ここまでの道のりを知っている者ほど、その重さを理解する。
ラディウスだけが、妻の微細な変化を見ていた。
微笑みの柔らかさの奥に、氷のような計算があることを。
レジーナは、妹を愛している。
その愛を、政治に使うこともできる。
それが王族だ。
(カレーのレシピなど、くれてやる)
魔国が再現しようと、王国が遅れようと、今この場で得たものに比べれば安い。
(だが、縁は渡さない。賢者様との縁。妹との距離感。賢者様の罪悪感の方向。これさえ盤石なら、料理のひとつやふたつ――あげるわ。魔国に)
国益として惜しくないわけではない。
だが「縁」の価値は、料理一つの比ではない。
(賢者様の知識は、まだまだある)
うどん、出汁、石鹸、寝袋――。
生活の骨格を変える知恵が、彼の中に眠っている。
そしてそれは、強制で引き出せる類のものではない。
好意と信頼の上にしか、乗らない。
(だから奪わない。縛らない。追い詰めない。――代わりに、自然に、こちらへ寄せる)
レジーナは、胸の内で魔国女王メトゥスの顔を思い浮かべる。
外交の場で何度か会った、あの知的で冷静な女王。
私的な付き合いならば、友人と呼べる相手だ。
だが友人だからこそ、遠慮はしない。
(貴女とは仲良くしたい。けれど譲れないものは譲らない)
レジーナの微笑みが、ほんの少しだけ鋭くなる。
誰にも気付かれない程度に。
ただ、ラディウスだけが気付く程度に。
そんな中、アウローラがまだ勝手に盛り上がっている。
「ねえ、もう一回!」
「もういいだろ……! 何回言わせる気だよ……!」
「だって嬉しいんだ!」
「……わかったわかった……アウロー――」
そこで、有羽が言い淀む。
淀んでしまうのが、また初々しい。
アウローラが身を乗り出す。
侍女隊が、息を呑む。
護衛隊が、外でまた咳払いをする。
レジーナは、その光景を見つめながら、心の中で静かに線を引いた。
これは遊びではない。
けれど戦いでもない。
妹の笑顔を守るための、そして国を守るための、正しい手段だ。
そして、これでようやく――本題に戻れる。
レジーナは、茶を一口含んだ。
熱が喉を通る。
落ち着け、と自分に言い聞かせるための仕草。
そして心の中で、微笑んだ。
(さあ――ここからが本番ですわ、賢者様)
ログハウスの中は、揚げパンの香りと甘い空気と、静かな駆け引きで満ちている。




