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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第三章

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第52話・レジーナの思惑


 ログハウスの中に、妙に間の抜けた沈黙が落ちた。


 揚げ油と香辛料の匂いが、まだ部屋に残っている。

 小さな球体の揚げパンがいくつも皿に並び、齧りかけの楕円形がテーブルの端に置かれている。

 ついさっきまで、誰もが「うまい!」と顔をほころばせていたのに――今は、なぜか誰も咀嚼を続けられない。

 レジーナが出した「お願い」は、剣よりもよほど鋭く、けれど柔らかかった。


 妹を、名前で呼んでくださいませんか。

 それだけのこと。

 それだけのはずなのに。


 世渡有羽とアウローラは、なぜか見つめ合ったまま動かなくなっていた。

 有羽の視線は、落ち着かない。

 アウローラは、見る見るうちに顔が赤くなっていく。赤というより、熟れた林檎だ。

 肩の位置が定まらず、口元がわずかに開いたり閉じたりして、言葉にならない。


 周囲のほうがむず痒い。

 侍女隊は全員、背筋を正したまま固まっている。

 誰も動かないのに、目だけが忙しい。主に、アウローラの顔色を確認したり、有羽の挙動を追ったり。

 まるで儀式の成否を見守る神官のようだ。


 窓の外では護衛隊が――本来ならば不敬の極みのはずの行為をしている。

 覗いている。完全に覗いている。

 しかも男達の顔が、揃いも揃って「いいぞもっとやれ」みたいな生温かい笑み。


(あなた達、護衛という名の観客席ですか)


 レジーナは微笑みを崩さないまま、内心だけで小さく溜息をついた。

 隣のラディウスは、苦笑いを噛み殺している。噛み殺しきれていない。口元がやや緩い。

 見てられない。

 どこの少年少女だ。

 二人とも二十を過ぎているはずなのに。

 けれど――レジーナはすぐに、その違和感の正体を掴む。


(……違うのね。初々しいのではなく、停まっていた時間が動き出しただけ)


 アウローラは、夫を亡くした時から。

 それ以降、彼女の中の時計はある場所で止まっていた。笑っていても、目の奥が笑っていない。明るく振る舞っても、熱がない。

 その止まった時計が、ここに来てようやく動き始めた。


 有羽も同じだ。

 彼がどれほど長く森にいたのか、レジーナの観察眼でも正確には測れない。

 だが、不本意な理由でここにいる。

 自ら望んだ隠遁ではなく、何かから逃げたか、何かに追いやられたか――そういう「重さ」を、彼は薄い冗談の裏に隠している。


 身体は成長し、知識も知恵も身につけている。

 けれど情緒だけが、ひどく未成熟な場所で停まったまま。

 だからこそ、たった一言が()()


(最低でも二年前……しかし、それ以前からこの森にいた可能性が高い。五年、十年……もっと? もし少年の頃からなら、十二、十三、十四……そのあたりで止まってしまったのかもしれない)


 そして、あの凄まじい知識量。

 あの冷静な判断。

 あの常識と非常識の混ざった言葉の選び方。


(祖国では神童扱い。だが、その頭脳ゆえに貴族に振り回され……結果、森へ)


 もちろん真実は違う。

 彼は異世界から来た。

 だがレジーナがそれを知るはずもない。

 彼女の世界には、平民にも学びが義務として与えられ、身分の壁が薄い国など存在しない。

 だから、レジーナの推測は自然とそういう輪郭を結ぶ。

 少なくとも「本人の意思と無関係に、理不尽な結果でここにいる」という点だけは――恐ろしく正確に当たっているのだが。


「……あー……その……」


 有羽が、情けない声を出した。

 声の調子だけ聞けば、強大な魔法使いというより、告白の前に転びそうな男だ。

 アウローラは、言葉を返せない。

 ただ目を見開き、口を小さく動かし、頷きかけては止まる。

 レジーナは微笑みのまま、圧を少しだけ足した。

 ほんの少しだ。

 しかし王族の「少し」は、一般人にとっては大地が沈む程度の重さがある。

 侍女長マルガリータが、咳払いをしそうになって寸でのところで飲み込んだ。

 護衛隊の誰かが窓の外で「今だ」と小さく呟いた気がする。

 ラディウスが、やめろという目を窓に投げた。やめない。

 そして――観念したように有羽は、肩を落として口を開いた。




「……アウローラ」




 その一言は、魔法よりも速く部屋の空気を変えた。


「っ……!」


 アウローラの肩が跳ねた。

 頬の赤みがさらに増して、目が潤む。泣きそうなわけではない。嬉しすぎて、水分が追いつかない顔だ。


「……う、うん……!」


 返事が、あまりにも女の子だった。

 王女としての整った声ではなく、一人の人間としての、温度のある声。

 護衛隊が窓の外で、誰かの背中を叩いた音がした。

 侍女隊の数名が、口元を押さえた。泣いてはいけないのに、嬉しさで泣きそうな顔。

 ラディウスは、とうとう口元を隠すふりをして、微笑を浮かべる。

 レジーナは微笑みを崩さない。ただし圧は維持する。

 有羽はこめかみを押さえた。


「えっと……何か恥ずいな……本当にこんなのでいいのか?」

「ええ」


 レジーナが即答した。

 間を挟まない。逃げ道を作らない。


「それがいいのです。それでいいのです。賢者様が妹を名前で呼んでくださった……それが、私達にとって何よりの見返りです」


 見返り。

 その言葉は、にこやかな微笑みで包まれていたが、レジーナの中では明確な意味を持つ。

 それでも、レジーナの笑みは嘘ではない。

 妹の幸せを、心から喜んでいる。

 その上で、王族としての計算も同時に走っているだけだ。

 アウローラが、椅子から半分立ち上がった。


「もう一回!」


 侍女隊が一斉に息を呑んだ。

 護衛隊が窓の外で「出た」と肩を揺らした。

 ラディウスは頭を抱えたい顔。レジーナは微笑んだまま、妹を止めない。


「もう一回言って! お願い! 今の、もう一回!」

「お、おい……お前な……」


 有羽が狼狽える。

 狼狽え方が戦場のそれではなく、完全に日常のそれだ。

 ここにいる全員が、同時に思った。

 この賢者、肝心なところが弱い、と。


「えっと……それ、そんなに重要?」

「重要だ!」


 アウローラが即答した。

 即答が早すぎる。

 そしてその勢いのまま、少し声が小さくなる。




「……だって、私……ずっと、呼ばれたかった」




 有羽が固まった。

 侍女隊が固まった。

 護衛隊が窓の外で固まった。

 ラディウスが固まった。

 レジーナだけが微笑みを保ったまま、静かに頷いた。


(そう。これが欲しかったの)


 有羽は、逃げ場を探すように視線をさまよわせ、結局アウローラの目に戻った。

 アウローラは、まっすぐ見返している。

 赤い顔で、挙動不審で、でも視線だけは逃げない。

 諦めたように、有羽は息を吐く。


「……アウローラ」

「っ……!」


 今度は、声にならない声が漏れた。

 嬉しい、という感情だけで肺がいっぱいになったみたいな音。


「……う、うぅ……」


 アウローラは両手で頬を押さえた。

 恥ずかしいのか、嬉しいのか、熱いのか、全部なのか。

 そして――調子に乗った。


「じゃ、じゃあ、あと一回……!」

「調子に乗るな」


 有羽が即座に突っ込む。

 それがまた自然で、いつもの距離感で――だからこそアウローラは、ふにゃっと笑ってしまう。

 侍女隊は完全にほっこり顔だ。

 護衛隊は窓の外で「いやー、良いもの見た」と頷き合っている。仕事をしていない。

 ラディウスが、そっとレジーナに目配せをした。

 この目配せは、夫婦の会話だ。声にしない会話。


(……これでいいのかい?)


 レジーナも、目だけで答える。微笑みは崩さない。


(これが最良よ)


 ラディウスは、わずかに眉を上げた。

 レジーナは、ほんの少しだけ目を細めた。

 姉として、たまらなく嬉しい。

 ただし、同じ瞬間。

 レジーナの頭の中では、別の歯車も回っている。



(これで私達は、()()()()()()()()()()()



 賢者は良心を持つ。

 理屈ではなく心で動く。

 だから、王国に対して申し訳なく思う。


 その()()()()()は、縛りではない。

 縛りにしてしまえば壊れる。

 しかし()()()()()がある限り、彼は無用な不義理を避ける。

 その性質を、レジーナは見抜いた。


(そして同時に、妹との距離が縮まった)


 名を呼ぶという行為は小さい。

 だが小さいからこそ強い。

 ここまでの道のりを知っている者ほど、その重さを理解する。

 ラディウスだけが、妻の微細な変化を見ていた。

 微笑みの柔らかさの奥に、氷のような計算があることを。

 レジーナは、妹を愛している。

 その愛を、政治に使うこともできる。

 それが王族だ。


(カレーのレシピなど、くれてやる)


 魔国が再現しようと、王国が遅れようと、今この場で得たものに比べれば安い。


(だが、縁は渡さない。賢者様との縁。妹との距離感。賢者様の罪悪感の方向。これさえ盤石なら、料理のひとつやふたつ――あげるわ。魔国に)


 国益として惜しくないわけではない。

 だが「縁」の価値は、料理一つの比ではない。


(賢者様の知識は、まだまだある)


 うどん、出汁、石鹸、寝袋――。

 生活の骨格を変える知恵が、彼の中に眠っている。

 そしてそれは、強制で引き出せる類のものではない。

 好意と信頼の上にしか、乗らない。


(だから奪わない。縛らない。追い詰めない。――代わりに、自然に、こちらへ寄せる)


 レジーナは、胸の内で魔国女王メトゥスの顔を思い浮かべる。

 外交の場で何度か会った、あの知的で冷静な女王。

 私的な付き合いならば、友人と呼べる相手だ。

 だが友人だからこそ、遠慮はしない。


(貴女とは仲良くしたい。けれど譲れないものは譲らない)


 レジーナの微笑みが、ほんの少しだけ鋭くなる。

 誰にも気付かれない程度に。

 ただ、ラディウスだけが気付く程度に。

 そんな中、アウローラがまだ勝手に盛り上がっている。


「ねえ、もう一回!」

「もういいだろ……! 何回言わせる気だよ……!」

「だって嬉しいんだ!」

「……わかったわかった……アウロー――」


 そこで、有羽が言い淀む。

 淀んでしまうのが、また初々しい。

 アウローラが身を乗り出す。

 侍女隊が、息を呑む。

 護衛隊が、外でまた咳払いをする。


 レジーナは、その光景を見つめながら、心の中で静かに線を引いた。


 これは遊びではない。

 けれど戦いでもない。

 妹の笑顔を守るための、そして国を守るための、正しい手段だ。


 そして、これでようやく――本題に戻れる。


 レジーナは、茶を一口含んだ。

 熱が喉を通る。

 落ち着け、と自分に言い聞かせるための仕草。

 そして心の中で、微笑んだ。


(さあ――ここからが本番ですわ、賢者様)


 ログハウスの中は、揚げパンの香りと甘い空気と、静かな駆け引きで満ちている。


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