第36話・魔国女王メトゥス・ラウルスリム③
王城を出る時、メトゥスはふだんと同じ深い森を思わせるダークグリーンを主体としたローブを身につけていた。
深い森色の布地に、魔法による補強が施されたローブドレス。王冠は置いてゆく。代わりに髪を高く結い上げ、魔力の流れを妨げないようまとめた。護身用の魔道具をいくつか、袖と腰に仕込む。
「……本当に、おひとりで……?」
侍女の一人が、今にも泣き出しそうな顔で袖を掴んだ。
彼女は、以前メトゥスが兵士たちの慰労に出向いた際、王が自ら傷兵に声をかけて回る姿を目にして以来、すっかり忠誠心に火がついたらしい。メトゥスを空白の王冠として見ない、信頼できる侍女の一人。
「将軍のひとりでもお連れになれば――」
「だめよ」
メトゥスは首を振った。
穏やかな口調のまま、言葉は揺らがない。
「将軍たちは城を守るために残ってもらう必要があるし……何より、彼らでも『必ず』安全というわけではないの」
魔境の大森林――大樹海の、女帝のテリトリー。
そこは、将軍クラスでどうにか生き延びられる領域だ。
生き延びられる、であって、勝てるわけではない。
生きて帰って来られる保証もない。
「それに、女帝が『一人で来い』と仰ったわけではありませんが……許可していない相手を連れていくのは、賢くないでしょう?」
もし、女帝が連れ歩いた供回りを気にせず放置してくれれば、それで良い。
けれど――万が一。
蟻の触角ほどでも、反感を買う可能性があるのなら。
メトゥスは、その「万が一」を切り捨てることができなかった。
彼女自身の命ならともかく、侍女や護衛の命を賭け札に乗せるわけにはいかない。
「……留守は任せます。何かあれば、宰相たちと相談して判断を」
「かしこまりました、陛下……どうか、ご無事で」
侍女が深々と頭を垂れた。
メトゥスは、小さく微笑みを返すと、踵を返して城を後にした。
◇◇◇
魔境の大森林の入口は、荒野の縁から少し入ったところにある。
荒れた大地が、急に瑞々しい緑へと切り替わる境界線。
そこをひとたび跨げば、背後の世界が音を失う。
鳥のさえずり。
虫の羽音。
葉擦れ。
獣の気配。
全てが濃く、近い。
メトゥスは、軽く息を吸い込んだ。
肺の中に、湿った空気が満ちる。魔国内とはまるで違う感触。
(……相変わらず、息苦しいくらいの命の濃さね)
彼女は足元を慎重に選びながら進んだ。
王族にだけ伝えられてきた「道」がある。
大樹海の中でも、女帝の影響が濃く及ぶ、特別な路筋。
そこを外れれば、あっという間に命を落とす。
だから、足元を少しでも踏み外さないよう、魔力の感覚を研ぎ澄ませる。
樹々のざわめきから、「こちらだ」とほんの少しだけ背中を押す流れを、拾い上げていく。
それでも、弱い魔物が襲ってくることは避けられなかった。
茂みを揺らして、黒ずんだ塊が飛び出してきたのは、森に入ってどれくらい歩いただろうか。
時間の感覚がすでにあやふやになっていた頃だ。
筋骨隆々とした牛のような体躯。
額から前に伸びた巨大な角。
赤く濁った目が、メトゥスを捉えている。
「デストロイホーン……」
ひと目で分かる。
凶暴な牛の魔物。強固な騎士の鎧ごと人を弾き飛ばし、一撃で骨ごと粉砕する怪物だ。
熟練の騎士が複数で挑んで、ようやく安定して倒せる相手。
デストロイホーンは、鼻息を荒げ、地面を蹄で掻いた。
空気が震える。
次の瞬間、巨大な質量が一直線に突っ込んでくる。
――普通の兵士なら、悲鳴をあげる間もない。
メトゥスは、軽く片手を上げた。
「ごめんなさい。急ぐので、手短に」
短い詠唱。
指先に凝縮される風の気配。
空気が重みを持ち、圧縮され、形を持つ。
「風王弾」
ささやきと同時に、透明な弾丸が放たれた。
森を傷つけぬよう、最小限の経路で。
樹木には一切触れないよう、軌道を調整して。
デストロイホーンの角の付け根を、風の弾丸が正確に撃ち抜いた。
鈍い音。
圧縮された空気が、一点から内側へと爆ぜる。
頭部が、花でも散るように粉砕された。
巨体がその場でよろめき、どさりと倒れ込む。
血飛沫は、ほとんど上がらなかった。
生暖かい風と、土の匂いだけが、彼女の頬を撫でる。
メトゥスは、倒れた魔物を見下ろして、ため息混じりに苦笑した。
「……このクラスの魔物と正面から戦ったと言えば、侍女達は卒倒するでしょうね」
城下の騎士団にとっては、上位モンスター。
討伐依頼が出れば、それなりの報酬がつく相手だ。
それでも――女帝にとっては、雑魚。
小虫。
戸の隙間から入り込んだ小蝿を、手の届く範囲で払っただけのような存在に過ぎない。
(そんな相手が『雑魚』と分類される場所に、私はこれから足を踏み入れるわけね)
自分で自分に呆れつつ、メトゥスは足を進めた。
選択肢はない。
断ればどうなる未来が待っているか――考えたくないが、想像に難くない。
だったら、進むしかない。
◇◇◇
どれほど歩いたのか、正確な時間は分からない。
森の中は、太陽の位置すら見えづらい。
ただ、体感としては、半日ほどか。
足元の土の感触が、ふいに変わった。
湿った土。
柔らかい苔。
そして――さらさらと流れる水音。
視界が、ぱっと開けた。
そこは、大きなオアシスだった。
四方を樹々に囲まれた、広大な空間。
空が広く見える。梢が天蓋を作る森の中では、あり得ないほどの解放感。
中央には、雄大な湖が広がっていた。
水面は鏡のように澄み、空と木々を映し返している。
だが、その透明さは「何も無い」からではない。
湖の中には、大小さまざまな魚影が泳ぎ、底には水草と石が並び、微細な命の気配がひしめいている。
命が満ちているにもかかわらず、濁りがない。
人の技術では、決して再現できない水の在り方だった。
周囲には、様々な植物が生い茂っている。
砂漠地帯のオアシスにしか見られない細い樹々と、深い森の奥にしか生えない苔むした巨木が、違和感なく同じ空間に共存している。
色とりどりの花が咲き乱れ、だがそのどれもが、派手さよりも「調和」を優先した配置で息づいている。
(……人の手では、絶対に創れない)
メトゥスは、一歩、また一歩と進みながら、胸の奥にぞくりとした感覚を覚えていた。
清浄。
豊穣。
そして、圧。
ここ一帯の空気そのものが、ひとつの意識を持っているかのような、息苦しいほどの存在感。
湖のほとりに――彼女は、いた。
樹神女帝。
見た目だけなら、ひとつの「木の人形」に過ぎない。
人間の女性と同じくらいの背丈。
髪にあたる部分は枝葉でできており、肩から背へと緑の瀑布のように流れ落ちている。
身体は、しなやかに曲がった幹。
樹皮の滑らかな部分が肌となり、節の部分が関節となっている。
そして、瞳。
色のない硝子のように透明で、しかし、何層にも重なった年輪をその奥に隠しているかのような、深く静かな眼球。
メトゥスは、一瞬で理解した。
――これは「本体」ではない。
この木人形は、女帝が人型を取るための器でしかない。
女帝の実態は、この巨大なオアシスそのもの。
湖も、周囲の樹々も、土も、風も――すべてが、その一部。
途方もない力が、絶え間なく流れている。
もはや「魔物」という枠組みでは捉えきれない。
上位神にも並ぶ、と言われる所以だ。
『よく来た。魔国の女王よ』
木人形の唇が、柔らかく弧を描いた。
声は直接、脳の奥に響く。
けれど、風の音とも混ざり合い、耳にも聞こえてくるような不思議な響きだった。
メトゥスは、膝がわずかに震えそうになるのを、意志の力で押しとどめた。
何の目的で呼ばれたのか。
それはまだ分からない。
女帝が、人の都合に合わせて理由を説明するなど、期待すべきではない。
ただ、ひとつ分かっているのは――ここでの己の立場だ。
メトゥスは、一歩前に出た。
ゆっくりと片膝をつき、上体を深く折る。
本来なら、国の王が取るべきではない姿勢。
恭しい最敬礼。王族が他者に取る事は、本来ありえないカーテシー。
だが、この場に王は二人いらない。
森の主権は、目の前の存在にある。
「ラウルスリム王朝第七代、メトゥス・ラウルスリム。御呼び立てに応じ、参上仕りました、女帝陛下」
静かな声が、湖面に落ちる。
風がそっと吹き、枝葉がざわめく。
オアシス全体が、ひとつの生き物のように息をした。
木人形の女帝が、楽しげに目を細める。
『よい、よい。頭を上げるがいい。ここでは、冠は重かろう?』
その言葉に、メトゥスはわずかに目を見開いた。
だが、すぐに気配を整え、ゆっくりと顔を上げる。
空白の王冠。
借り物の平和。
その全てを見透かしている相手の前で――魔国の女王は、静かに立ち上がり、女帝のもとへと歩み寄っていく。
◇◇◇
オアシスの空気は、やはりどこか異様である。
清浄で、優しくて、肌に触れる感触も柔らかいはずなのに――その奥底で、何かが絶えず脈動している。森全体の鼓動が、空気に混じっているような、そんな圧。
メトゥスは、立っているだけで筋肉がこわばるのを自覚していた。
(……表には出さない。出せないけれど)
喉の奥がひりついている。
足の裏から、じわじわと冷たい汗がにじむ。
目の前にいるのは、魔国創立の遥か以前から、この地に座する真なる守護者。
樹神女帝。
生きた年月も、力量も、存在の格そのものも、全てが隔絶している相手。
本音を言えば――許されるなら、ここへなど来たくはなかった。
魔国の民の一部は、「樹の神様」を信仰している。
女帝の名を知る者は少ないが、「森に神がいる」という御伽噺は、子どもたちの間でも語られている。
だが、メトゥスは知っている。
この存在は、無慈悲ではないが――その慈悲は、人の尺度では測れない。
縋ってはならぬ。
頼ってはならぬ。
ただ、そこに在るもの。
超常。
その前に立っているのだという事実が、全身に重くのしかかる。
メトゥスの内心の緊張を見透かしたのか、女帝はふっと笑みを深くした。
木人形の細い指が、地面の一点を示す。
ただ、それだけ。
詠唱も、腕を振る仕草も、目立つ魔力の波もない。
その指先の下から――芽が、伸びた。
土を押しのける音すらなく、柔らかく。
茎が伸び、幹が太くなり、枝が曲がる。
瞬きの間に、木の椅子が形を成した。
背もたれ。
肘掛け。
座面のカーブ。
人が腰を下ろすことを前提とした「家具」が、何の段取りもなくそこに在ることになった。
(……っ)
メトゥスは、思わず息を呑む。
同じ「結果」そのものなら、メトゥスにも再現はできる。
石壁を創り出す魔法。
土に干渉し、魔力を練り、術式を組み、詠唱を発し、構成を固定し、形を整える。
それと同じ手順を、「樹」に応用すればよい。
時間さえかければ、自身の力でも、近いものは造れるだろう。
だが――
(瞬き一回分の時間で。無拍子で。無作為で。呼吸みたいに、当たり前の動作として――?)
不可能だ。
人は、何かを創り出すとき、「作業」が必要になる。
意志から結果へと至るまで、必ず工程が挟まる。
女帝は、その工程そのものを、世界から消してしまったかのようだった。
意志の発露と、結果の顕現の間に、何もない。
ただ、そうあるべきだったものが、そこに収まっただけ。
それはもはや、「魔導師」の領域ではない。
『まあ、座るが良い。疲れたであろう?』
木の唇が、自然に笑みを形作る。
声は柔らかい。
メトゥスは、自分のこめかみを伝う汗を、はっきりと感じた。
落ちる前に消えるそれは、魔力の熱と、冷や汗が混じり合った証拠だ。
「……お心遣い、痛み入ります」
かろうじて、声は震えなかった。
慎重な足取りで、女帝の作り出した椅子へと近づき、そろそろと腰を下ろす。
座面は意外なほど柔らかかった。
木なのに、肉ではないのに、妙に人肌に近い弾力がある。
落ち着こうと深呼吸した瞬間――肺の動かし方すらぎこちなくなっていることに気づき、メトゥスは内心で苦笑した。
(息の仕方を忘れた――と、こういう感覚なのね)
女王としての自尊心が、「情けない」と小さく毒づく。
だが、それすらも、今は笑い飛ばす余裕もない。
メトゥスの側から、問いかけることはなかった。
するなと言われたわけではない。
ただ――出来ないのだ。
己の心を、冷静に認める。
勝てると思っていたわけではない。
戦うことになると想定していたわけでもない。
それでも――ここまで、決定的に「話にならない」とは、昔の自分は知らなかった。
どこかで、同じ盤面に立っているつもりではいたのだろう。
(けれど、違う)
魔国随一と称される魔導師、メトゥス・ラウルスリムをして――これは「戦い」にならない。
対立する、という前提すら成立しない。
女帝は「敵」にも「味方」にもなり得るが、敵として相対できる存在ではない。
そもそもの視座が違いすぎる。
(だから、待つしかない)
何のために呼ばれたのか。
自分に何をするつもりなのか。
それを口にして尋ねることすら、今は憚られる。
オアシスの風が、少しだけ向きを変えた。
『……ふむ』
女帝が、小さく呟く。
透明な眼球が、メトゥスではない、どこか遠い一点を見つめた。
オアシスから見て――東南。
南よりの東へと、視線が向く。
メトゥスも釣られてそちらを見るが、樹々の向こう、空の向こうには、特別な変化は見えない。
ただあちらは……南王国の方角。
『来たか――まさに「ナイスタイミング」というやつであろう』
どこか愉快そうな響き。
女帝の口調は、先ほどまでの静謐さから一転して、ほんの少しだけ砕けていた。
木人形の肩が、くすりと揺れる。
ケラケラと、楽しげに笑う。
メトゥスは、その様子に一瞬、思考が止まった。
(……笑う?)
樹神女帝が「冗談めいた口調」をするなど、想像の外だった。
最古のドライアド。
世界の生き字引。
枝葉を切り捨て、幹を守る判断を淡々と下す存在。
それが今、人間くさい「楽しみ」を匂わせている。
『すこし待っておれ。今ここに「我の客人」が来る』
女帝はさらりと言った。
メトゥスの肺が、きゅっと縮まる。
客人――。
樹神女帝が「客人」と呼ぶ存在。
それがどれほどのものか、想像しようとして――思考が、余計に絡まった。
(この方おひとりだけでも、緊張と畏れで呼吸が苦しいというのに……この上、客人?)
女帝の客人にふさわしい者とは、どんな存在だろう。
森の古き友か。
天上の神か。
考えれば考えるほど、選択肢が増えていく。
そのどれもが落ち着かない。
メトゥスの混乱など、まるで気に留めた様子もなく――女帝の木人形は、ふっと輪郭を崩した。
幹がほどけ、枝葉が散り、構成していた木片が、さらさらと土に還っていく。
女帝の気配そのものは、オアシス全体に満ちているままだ。
ただ、「ここにいる」と示していた姿だけを、すっと消したのだ。
迎えに行ったのだろう。
「客人」を。
メトゥスは、ただ茫然と座っていた。
広大なオアシス。
ひとりきりの女王。
見えない場所で、女帝が誰かを連れてくる。
湖面を渡る風が、少し冷たくなった気がした。
(……落ち着きなさい、メトゥス・ラウルスリム。これはただの、待ち時間)
そう自分に言い聞かせる。
だが――心臓の鼓動は、先ほどまでよりも明らかに速くなっていた。
超常の守護者の前に座るだけでも限界ギリギリだというのに、その「客人」とやらが姿を現した時、自分は果たして平静でいられるのか。
女王メトゥスは、木の椅子の肘掛けを、ほんの少しだけ強く握った。




