第35話・レベル
その部屋は、王城の一角にひっそりと設けられている。
厚い石壁に囲まれ、外界の喧噪から切り離された、静かな空間。中央に据えられた台座の上に小さな石板のような土台と、その上に載せる透明な水晶。アウローラ達が、もはや見慣れた魔導測定器。
その周囲を、「いつもの面子」がぐるりと囲んでいた。
「はい、それでは――第二王女アウローラ殿下付き侍女隊、一番から順番に」
計測係の文官が、引きつった笑顔で声を張る。手には測定結果を書き込むための羊皮紙と羽ペン。
まずは侍女のひとりが、きゅっと制服のスカートを整え、台座の前に進み出た。アウローラ付き侍女隊の中でも、槍を振るわせればそこらの衛兵より強い、元傭兵上がりの女性。
彼女が両手を装置の上にかざすと、光の輪が一瞬だけ色を変えた。
淡い青から、ぱっと眩しい金色へと跳ね上がる。
次の瞬間、装置中央の水晶に、数字が浮かび上がった。
「――レベル、三十九。前回より一つ上昇、ですな」
文官が読み上げる。
「おおっ!」
周囲から小さな歓声が上がった。
当の本人は、ぽんと自分の腕を軽く叩いてから、得意げに胸を張る。
「ふふん、マルガリータ様に並びましたわ。かつての傭兵の腕も、まだ鈍ってないようです」
「いやいや、その数値で「鈍ってる」とか言われたら、軍人全員が役立たずさ」
後ろの護衛が、からかうように笑う。その護衛も傭兵上がりの、腕を見込まれて護衛隊に入った強者。
次々と侍女達が装置の前に立ち、光を受ける。
数字が、その度に刻まれていく。
「レベル三十八」
「三十七」
「おや、あなたも三十八まで上がりましたか」
レベルが変わらなかった者も数人いたが、全体としては、底上げされた感がはっきりと見て取れた。
「……ということは」
最後のひとりの結果が記録されると同時に、近くで見ていた護衛のひとりが、ぽんと掌を打った。
「侍女隊のレベル帯は、三十七から三十九。……おお、猛者集団だな」
「誰が猛者ですか誰が」
侍女の一人が、顔を赤くしながらも、まんざらでもなさそうに口を尖らせる。
「だってよ、普通の侍女って、レベル十とか十五くらいだぞ?」
「なんですかその低い基準は!? 私達の目標は四十です!!」
わいわいと賑やかな声が飛び交う。
台座の横で結果を書き込んでいる文官は――冷や汗をだらだら流していた。
(さ、三十七から三十九……!? これ、ほんとに侍女隊の測定だよな……?)
王城の各部署から上がってくるレベル測定の記録には、将軍や騎士団長たちの名もある。彼らの多くが、レベル四十前後で頭打ちになっているのは、よく知っていた。
その「将軍クラス」に迫るレベル帯を、侍女隊という肩書きの者達が並んで口にしているのだ。
(相変わらず、まともな価値観が……崩壊しておる……)
文官は、内心で頭を抱えながらも、顔には決して出さない。王城の文官としての矜持である。
「では次、護衛隊の皆様。順にどうぞ」
侍女たちの騒ぎが一段落したところで、今度は護衛達が前へ出る。
屈強な体格、顔に刻まれた古傷、肩に乗る鎧の重み。誰もが、王国でも屈指の武人だ。
ひとり、またひとりと、装置に手をかざしていく。
光の輪が、安定した金色を保ったまま回転し――
「レベル四十三、変動なし」
「レベル四十五、変動なし」
「レベル四十二、変動なし」
読み上げる文官の声が、少しずつ乾いていく。
それに呼応するように、護衛たちの顔にも、どこか諦観の色が混じった。
「……やはり、ここが限界か」
ぽつり、と誰かが呟く。
「最前線で魔物と殴り合ってた新兵時代ならともかくなあ。今は殿下のお供とはいえ、森のルートも大体掴んじまったし」
「最近は魔物にも慣れて連携もある程度確立されて、死地に足を突っ込む機会も減ってるからな」
「贅沢な悩みだな……」
護衛のひとりが苦笑する。
レベル。
それはこの世界における、力量の尺度だ。
魔導測定器を通して見える「数字」は、単なる筋力や魔力の総量ではない。どれだけ戦いの経験を積み、どれだけ「死線」をくぐり抜けてきたか、その歩みの積み重ねが、結果として表に出るもの。
勤勉に訓練を積めば、誰でもある程度までは上がる。
剣技の型を磨き、魔法の詠唱を繰り返し、日々の鍛錬を欠かさなければ、レベル二十、三十までは届く。
だが――
その先、三十の数字を越えた辺りから、成長の速度は急激に鈍る。
四十に至るには、戦場の血の匂いを知る必要がある。命を賭けた戦いを幾度も経験し、恐怖に足をすくませながら、それでも前へ踏み出した者だけが、歩を進められる境地だ。
ゆえに、「常人の限界」は、レベル四十とされている。
そこに至る者は、たいてい一国の将軍格。あるいは名の知れた冒険者。普通の兵士や騎士は、三十前後で頭打ちになる。
ただ漠然と戦い続け、訓練を積むだけで、レベルは上がり続けるわけではない。
目の前の脅威に立ち向かい、自分にとっての「壁」を越えたとき。
死んだと思った瞬間を、意地で踏み越えたとき。
自分より格上の敵に、血反吐を吐きながら勝利したとき。
そうした「困難」を乗り越えた瞬間にだけ、数字は一つ上へと跳ね上がる。
今、この場にいない賢者・世渡有羽ならば、この現象をもっと雑に言語化できただろう。
『あーあれね。ある程度強くなると、弱い敵からの経験値が0になるタイプのRPG』
そんな言葉で。
だが、この世界の誰も、その説明を聞くことはない。
代わりに、この「上がらなくなる」現象を人々はこう呼ぶ。
――成長限界、と
護衛のひとりが、測定器から離れながら肩を回した。
「せめて四十五くらいには行きたかったんだがな」
「お前、十分すぎるだろうが。そんなこと言ったら、三十台で止まってる連中に刺されるぞ」
「いやあ、ほら、切りよく四十五に行きたいだろ? 四十三は中途半端でなあ」
「中途半端って言うな中途半端って」
護衛たちの会話も、傍から聞けば十分に「おかしい」。
しかし、ここに集う面々にとっては、もはやそれが日常だった。
「殿下。最後はアウローラ殿下の測定となります」
文官が、緊張気味に声をかける。
アウローラは「ああ」と短く返事をし、前に出た。
軽装の鎧の上に羽織った簡素なマント。森の中とは違って髪はきちんと結い上げているが、その瞳に宿る光は、いつもの戦場と同じだった。
彼女が両手を装置の上にかざした瞬間――
光の輪が、他の誰の時とも違う輝きを放った。
白金のような眩しさ。輪郭が一瞬だけ滲んで見えるほど、強い光。
測定器の内部で、魔法陣が反応し、かすかな振動が床を伝って足元へと届く。
やがて、光はすっと収まり――水晶に数字が浮かび上がる。
「レベル……」
文官が、ごくりと喉を鳴らしてから、読み上げた。
「五十九。前回と変動なし、です」
ああ、と周囲が微か肩を落とした。
侍女たちも、護衛たちも、その数字の意味を良く知っている。
レベル五十を越えた者は、英雄級。
そして、五十五を越えてなお上昇し続けた者は、「人の領域を超えた者」として、伝説に名を残す存在だ。
五十九。
それは既に、伝説級の一歩手前。
英雄譚で語られる勇者達と、同じ領域にいる可能性すらある数字。
けれど――その数値は既に到達済み。前回の森林探査の時に届いた値だ。
「……そうか」
アウローラは、表示された数字をじっと見つめていたが、やがて小さく息を吐いた
悔しがる顔ではない。拳を握り締めて歯噛みする様子もない。
むしろ、納得したように頷いている。
「やはり、な」
誰にともなく呟く。
「この先に行くには――更なる苦難を超える必要がある、ということか」
騒いでいた侍女と護衛が、ぴたりと動きを止めた。
文官も、羽ペンを持ったまま固まっている。
アウローラは、続けた。
「ここまで上がったのは、魔境の森で何度も死にかけたからだ。帝国との戦いを経て、味わった憎悪と憤怒。森の竜を相手に、有羽の熱線を見上げた時の自分の無力さ。それらを越えて、ようやく辿り着いたのが、この数字だ」
五十九。
その重みを、彼女自身が誰よりもよく知っている。
「けれど――この森の南部を、行ったり来たりしているだけでは、ここで止まる。五十九のまま。……そんな気がしていた」
この数字の先、六十。
その一段を上るには、もはや今までと同じ戦い方では届かない。五十九の自分が「本気で危うい」と感じる敵。あるいは、五十九の自分をして「死ぬかもしれない」と思わせる状況。
そうした「新たな壁」を乗り越えねばならないのだろう――と、アウローラは直感していた。
そこまで考え込んだところで、背後から苦笑混じりの声が飛んできた。
「いやいや、殿下」
護衛隊のひとりが、頭をかきながら言う。
「もう充分でしょうに。これ以上強くなって、何と戦うおつもりで?」
「そうですわよ殿下。これ以上強くなったら、人類側から怒られますわ」
「自重してください、ってやつです」
侍女たちまで茶々を入れてくる。
アウローラは、きょとんとした顔で振り返った。
「そうか? 折角五十九まで上がったのだ。もう一段、六十に届いてみたくはならないか?」
「あー……」
護衛たちは、揃って頭を抱えた。
「殿下、それを『たわけたこと』と言うのですよ」
「『四十が目標』って言ってた侍女たちとは、次元が違いますからね……」
侍女たちが、むっと唇を尖らせる。
「四十にはなりたいと思うのはいけませんか!? 侍女隊は全員、護衛隊に負けているのですよ! このまま護衛隊の背中だけ見ているのは御免ですわ!!」
「四十って、普通は国の将軍が目指す数字ですよ!? 侍女が口にしていい目標じゃないですよ!」
計測係の文官が、ついに悲鳴じみた声を上げた。
しかし、当の侍女たちはどこ吹く風である。
「だって、殿下付きですもの。殿下の足を引っ張らない程度には強くなりませんと」
「それに、有羽様のご自宅までの道のり、油断すれば本当に死ぬじゃありませんか」
「そうですわ。四十くらいになってないと、カレーを食べる資格もない気がいたしますわ」
「それはちょっと分かる。安定してカレー食いに行くには、四十はないと」
護衛まで頷く。アウローラ一味にしか分からない共感。
文官は内心で泣いていた。
(四十は普通、騎士団長が一生を賭けて到達できるかどうかの数字なんですが……!)
だが、ここはもはや常識の外側にある空間だった。
アウローラ付きの面々に囲まれると、世間一般の「まともな価値観」は、綺麗さっぱり吹き飛んでしまう。
「まあまあ」
アウローラは、そんな騒ぎを笑って見やりながら、再び測定器の数字を見た。
五十九。
この数字を六十に変える手段を、頭の片隅で考え始める。
(森の北側は、有羽に止められているしな……東にも西にも、有羽と同格の存在が居るから無理。となると……ふむ)
北、東、西。
魔境の森の四方には、有羽と同格の「何か」がいる。
有羽が「決して近づくな」と念を押す「何か」が。
どれを取っても、五十九の自分が挑むには「荷が勝ちすぎ」な相手。
けれど、南側の魔物達は大体経験済みだ。護衛や侍女達との連携もあり、もはや苦戦する事が稀。しんどい遠足程度では、レベルが上がりそうにない。
つまり結論は。
(……やはり、六十を目指すのは、当分先でいいか)
そんな結論に、ようやく至りつつある時――
護衛達が「ある話題」を口に出す。
レベル、という話になれば必ず出てくる、とある「最強」について。
「いったい、かの『剣聖』はどうやってレベルを上げたんだか……殿下ですら59だろ? どうすればあの数値に辿り着けるんだか」
「そうですわね――レベル七十。人類最高到達点」
答えたのは、侍女のひとりだった。
淡々とした口調だが、その目はわずかに輝いている。
「『剣聖ハガネ』が刻んだ、たった一度きりの数字。人類で唯一確認されている七十」
室内の空気が、また少し違う色を帯びた。
剣聖ハガネ。
その名は大陸中の戦士たちの間で、憧れと畏怖の象徴として語り継がれている。
国から国へ渡り歩く、風来の剣士。
特級素材の金属である「神鉄」で鍛えられた刀を振るい、竜をも両断したと噂される世界最強の剣豪。
どの国にも仕えず、誰の下にも組しない。老境に差し掛かった今なお、その腕前は衰えたどころか、研ぎ澄まされる一方だという。
「一度会ってみたいなぁ……」
アウローラが、ぽつりとこぼした。
その声音には、純粋な憧れが混じっていた。
王国に仕えて欲しい、とか、王家の剣として働いて欲しい――そういった思惑が、全く無いとは言わない。王族としての本能が、そうした打算を耳元で囁く。
けれど、それ以上に。
ただ一人の剣士として、人類で唯一刻んだレベル七十の剣戟を、この目で見てみたい――という、少年のような好奇心が勝っていた。
「どれほどの斬撃なのだろうな」
アウローラは、空中に指で軌跡を描く。
「空を斬り、雷を両断し、竜の首を一太刀で落とす……なんてのは、さすがに誇張だろうけれど」
「いや、ハガネの伝説なら、そのくらい本当にやっていてもおかしくない気も」
護衛がぼそりと呟く。
他の護衛たちも、少年のような目をして頷いた。
「ハガネ様の話は、男にとっては一度は憧れるものですからな」
「己の力のみで剣の頂きに立つ、ってのは浪漫がある」
「どこの国にも媚びず、誰の命令も受けず、ただ自分が守りたいと思ったものだけ守る……とか、格好良すぎません?」
「わかる。戦場で武功を上げるのもいいが……ハガネの生き様には憧れを感じる」
護衛たちの目の輝きが消えない。全員、童心にかえってキラッキラだ。
ハガネの物語は、少年たちが剣を握るきっかけとなる「おとぎ話」でもあるのだ。年齢を重ねて髭が生えようと、その幼い憧れはどこか心の奥に残り続ける。
「でも、もし本当に会えたら……」
アウローラは、わくわくした様子で言う。
「一度、手合わせしてみたいな」
「ぶっ……!」
護衛たちが、盛大にむせた。
「で、殿下!?」
「お言葉が軽々し過ぎます!」
「い、いや、勝てるとは言っていないぞ。ただ、どのような景色が見えるのか、一太刀交えてみたいと――」
「殿下、それを世間では『血気盛んな若造の無謀』と申します」
侍女がさらりと言い放つ。
護衛たちが、慌ててアウローラの肩を掴んだ。
「殿下がハガネ様に会って手合わせなんてしたら、王国中の武人が嫉妬で暴れますよ!」
「というか、ハガネ様が本気を出したら、殿下のレベルがいくつだろうと、一太刀で終わる気しかしません」
「ううむ……」
アウローラは不満げに頬を膨らませたが、やがて肩を竦めて笑った。
「まあ、もし会える機会があったとしても、まずはお話を伺うだけにしておこうか。修行の秘訣とか、神鉄の刀の扱いとか」
「そうしてくださると、護衛一同の胃袋に優しいです」
護衛たちが、ほっと胸を撫で下ろす。
そのやり取りを、侍女たちは呆れた目で見ていた。
「男って人は……」
「いくつになっても『子供』の一面を消せませんわね」
「そうですわねぇ。伝説の剣聖の話になると、みんな目が少年に戻るんですもの」
「そこに殿下が混ざっているのが、なんとも頭が痛いところですわ」
最後の一言に、他の侍女たちがしみじみと頷いた。
アウローラは「聞こえているぞ?」と言いたげにちらりと振り返ったが、すぐに笑って肩をすくめた。
「いいではないか。剣を握る者が、強者に憧れるのは自然なことだろう?」
「まあ、そうですけれども」
「もっとも、そのハガネ様がどこに居るのかすら、定かではありませんけど――」
アウローラは、ふと視線を測定器から外し、窓の外へと向けた。
王都の外。見る方角は、西の魔国か、北の神聖国か。
東の帝国は、あえて考えない。帝国のことを思うと、かつての黒い憎しみが蘇りそうで。
(だがもしも……もしも剣聖ハガネが、帝国に組する事になったとしたら……)
有り得るとも、有り得ないとも、どちらとも言えない未来。
吟遊詩人の詩で語られるハガネは、国に仕えぬ男として謳われているが……未来がどうなるかなど分かったものではない。
アウローラが、魔境の森で有羽と出会ったのと同じだ。
世界はいつだって、思いもよらぬ事態に満ちているのだから――。
◇◇◇
大陸東部――ウァリエタース帝国。
かつてそこは、十指でも数えきれぬほどの小国が互いに刃を向け合う、群雄割拠の地だった。山脈に守られた城塞国家。河川を押さえた交易都市国家。騎馬を誇る草原の部族王国。砂鉄と鍛冶で財を成す工房都市――それぞれが、それぞれの「正義」と「利益」を掲げ、血を流し続けていた。
その東部を、たった十年で一つにまとめ上げた国がある。
雄大な大地を束ねる新たな覇者、ウァリエタース帝国。
北方には、天を刺すような険しい山脈が連なり、天然の要害を成している。西側には、南の王国と同じく、魔境の大森林。東方は荒れた海岸線で、良港と言える港は限られていた。
それでも、帝国は海をも軍事のために使う。
漁港の数は、南の王国には遠く及ばない。穏やかな漁村よりも、砲門を並べた軍港。網を引くよりも、砲弾を積み上げる――それがこの国の気質だった。
野菜などの農作物は作っている。広大な平原を耕し、小麦や芋を育て、人を養うだけの食糧は確保している。だが、余った余裕をどこに回すかとなれば、決まって「軍備」だった。
戦うことで、戦い続けることで版図を広げてきた国。
それが、東の帝国である。
その帝国の南東に位置する軍港都市――灰色の砲塔が並ぶ港。今、その湾内で、ひときわ大きな水柱があがった。
轟、と地の底から鳴るような咆哮。
海面が盛り上がり、渦を巻く。泡立った水の中を、巨大な影が走り抜けた。
「水龍だ! また潜ったぞ!」
「見失うな! 次に頭を出した時が勝負だ!」
砦の城壁の上で、兵たちが怒号を飛ばす。
港を守る砲台が、湾の入口付近に半円状に並んでいた。各砲門にはすでに砲弾が込められ、火薬の匂いが突き刺すように鼻を刺す。砲兵たちは汗を浮かべ、照準器代わりの木枠を必死に覗き込んでいた。
だが――標的は、安定してくれない。
水龍は、海中を自由自在に泳ぎ回っていた。波の下に影を見せたかと思えば、瞬く間に視界から消え、次には百メートル離れた場所で海面が隆起する。
その巨体は、砦の城壁ほどもある。青緑に光る鱗は、厚い鉄板にも匹敵する硬さを持っていた。海水を滴らせるたびに、鱗の隙間で魔力が青白く閃き、まるで雷雲の中の稲光のようだった。
「ちっ……あの速度じゃ、大砲の照準が間に合わん!」
「魔導砲は!? 魔導砲はまだか!」
「魔力の再充填に時間がかかっております! 次弾装填まで、あと三十数えを!」
「三十数えじゃ済まんわ馬鹿者!!」
軍港全体に、焦燥と苛立ちが渦巻く。
水龍は、港の船を狙っていた。
港に停泊している補給船や輸送船、兵員を運ぶ大型の船。漁船を含む民間船も数隻混じっている。水龍から見れば、岸壁に繋がれたそれらは、逃げ場のない「美味い餌」にしか映らないのだろう。
善悪で測れる問題ではない。
人間だって、食べやすくて美味しいものを選ぶ。たまたまそれが魚ではなく「人」であるだけの話だ。
だからこそ――
港の上空を、ひときわ澄んだ音が裂いた時。
誰も、その音に「怒り」を感じ取ることは出来なかった。
風を割くような、高く細い音。
金属が擦れ合った響きも、怒号も、罵声も、そこにはない。ただ、静謐な鋭さだけが漂っていた。
それは港の突端に立つ、一人の老人。
雪のように白い長髪を背に流し、痩せた体躯に粗末な旅装。腰に差している刀だけが、場違いなほど静かな鋭気を放っている。
老人は、海を見ていた。
水龍が次に浮上する気配を、眼ではなく「何か別の感覚」で探るように。呼吸すらも、波のリズムに合わせるように、深く、静かに。
(あれは……食事をしているだけの獣だ)
心中で、老人――は思う。
善悪の概念は、そこにはない。人であろうと、魚であろうと、空腹を満たすために食べる。それだけの話。
ゆえに、自らの剣に、怒りの色を含めることはしない。
穏やかな湖面のように、心を平らに保つ。
ただ、必要な一太刀を振るうためだけに。
海が、一瞬静まり返った。
波の揺らぎが止まる。
次の瞬間――湾の中央付近で、海面が盛り上がった。
水龍が、深い海から一気に海面近くまで浮上したのだ。港に最も近い位置。鎖につながれた大型の補給船へ、まさに喰らいつかんとする、その瞬間。
白い泡を巻き上げる水面に向けて、老人の身体が、すっと前へ半歩滑った。
足運びは、羽毛が舞うように軽い。
腰から抜き払われた刀身が、夕陽を受けて鈍く光った。
刃が振り下ろされる――より先に、「世界の方が」切り裂かれた。
空気そのものが、裂けたのだ。
耳ではなく、肌で感じるひりつき。港にいた兵たちが思わず肩をすくめるほどの鋭さで、風が真っ二つに割れた。
「――破空」
老人の静かな声が、風に乗って届く。
それは刀の銘であり、同時に技の名。
空さえ断つ――空位の剣。
刀身そのものは、一歩も海に届いていない。
だが、老人が描いた一太刀は、「見えない刃」となって海上へと駆け抜けた。空を裂き、その余波が、海面すらも断ち割る。
湾の中央――白い泡が弾けるその場所に、鋭利な線が走った。
ざん、と。
薄い膜を切り裂くような音と共に、海面が縦に開く。
切り裂かれた水の壁の向こうで、水龍の巨大な顔が一瞬だけ露わになった。青い鱗に覆われた頭部。光を宿した金色の双眸。そのうち片方を、見えない刃が正確になぞっていく。
次の瞬間。
水龍の右目から、血のような深い青の液体が噴き出した。
激しい叫び声が、海中から吹き上がる。
水龍の咆哮は、近くの船の帆を震わせ、港の石畳にひびを走らせかねないほどの圧力を持っていた。
怒り。驚愕。痛み。
矮小と見下していた陸の上の人間に、己の目を奪われたという屈辱。
水龍は、怒りに任せて、海面を突き破るように浮上した。
体長数十メートルの巨体が、海から持ち上がる。飛沫が雨のように降り注ぎ、船の甲板を叩く。鱗の隙間から迸る魔力が、空中で青白い稲光となる。
だが――老人は、何もしなかった。
刀を下段に引き、すでに鞘へ戻そうと構えている。
水龍が怒りに任せて浮上した、その瞬間に。
勝敗は決していたからだ。
岸壁の上、指揮台の上から、その機を逃さなかった男がいた。
「――今だ!」
低く唸るような声が、一気に爆ぜる。
帝都の大広間にも負けない広さの軍港に、その声が響き渡った。
「全砲門、狙いを上方に固定! 目標――浮上した龍の胴体! 撃てぇえぇぇぇいっ!!」
覇気のある号令。
どこまでも大きく、どこまでも通る。
覇王の声。
次の瞬間、湾に面した沿岸砲台のすべてが、一斉に火を噴いた。
轟音。
炎と煙が砲門から噴き出し、空気が押し潰されるような衝撃波が港を駆け抜ける。砲弾が、火花の雨となって水龍の胴体に殺到する。
水龍は片目を失ったことで、十分な回避行動を取れない。怒りに視界を曇らせたまま、空へと頭をもたげたその姿は、まさに格好の標的だった。
鉄と火薬で作られた人間の牙が、龍の鱗を次々と砕いていく。
厚い鱗が割れ、肉が裂け、骨が砕ける。
ほんの一瞬。
本当に、文字通りの一瞬で――
水龍は、その命を奪われた。
うねるように身体を捩り、そのまま海へと崩れ落ちる。巨体が海面に叩きつけられた衝撃で、湾内に再び大きな水柱が上がった。
しばし、誰も言葉を発せなかった。
やがて、海が静かになっていくにつれ――港全体に、怒涛のような歓声が広がっていった。
「やったぞ!」
「龍が倒れた!」
「水龍を仕留めたぞ!!」
兵も町人も、一斉に叫び声を上げる。
港の近くに住む子供たちが、涙と笑顔を混ぜて跳び跳ねた。商人たちは胸を撫でおろし、「これで船を出せる」と安堵のため息をついた。
誰もが、彼らの港を脅かしていた存在が消えたという事実に、心からの喜びを感じていた。
砲門から漂う煙と、波間に漂う血の香り。それでも、空気はどこか晴れやかだった。
老人――剣聖ハガネは、刀を静かに鞘へ収めた。
海風が、彼の着物の裾をわずかに揺らす。
(……よく通る声だ)
浮かび上がる水龍に合わせて、一切の緩みもなく砲撃命令を下した男。
僅かな逡巡も、躊躇いもなかった。兵たちも、命じられる前から息を合わせていたかのように、一瞬で反応していた。
見事な一斉射。
「教本通り」の射撃を、あの瞬間に実行できる者が、この世界にどれほどいるだろうか。
ハガネが視線を巡らせると、その男はすぐに見つかった。
沿岸砲台の上。高く掲げられた帝国旗の傍らに、堂々と立つ巨躯。
濃いめの金茶色の髪を後ろでひとつに束ね、無精髭をうっすらと残した、「粗削りな男前」だった。鎧の上から羽織った紺の軍装は、肩の筋肉で盛り上がり巨躯をさらに大きく見せる。
広い肩幅。分厚い胸板。歩くたびに、大地がほんの少し震えたように錯覚するほどの存在感。
帝国の王。
ウィルトス・ゼノ・ウァリエタース。
御年三十八歳にして、東部統一を成し遂げた帝王。「進撃帝」の異名を持つ男。
彼は、歓声を上げる民たちに向かって豪快な笑みを浮かべ、片手を高々と掲げた。
「よく戦ったぞ、帝国の兵ども! そして――この港の民よ!」
その声は、先ほどの号令と同じように、どこまでも遠くまで届いた。
「今日よりこの港は『龍を退けた港』だ! 胸を張れ! この勝利は、余一人ではなく、お前たちの手で掴んだ勝利だ!!」
再び、歓声。
ウィルトスは満足げに頷くと、その視線をぐるりと巡らせ――港の突端の老人の姿を見つけた。
「――ほう」
にやり、と唇の端を上げる。
彼は一瞬で距離を測り、部下に何事か伝えると、自ら前線へと降りてきた。周囲の護衛たちが慌ててついてくる。
巨躯が歩くたびに、石畳がきしむ気がした。
ほどなくして、彼はハガネの前に立った。
開口一番、楽しげな声をあげる。
「むほほー! 流石は音に聞く剣聖よなぁ!」
全く遠慮のない視線で、ハガネを上から下まで眺め回す。
「まさか海の中に居る相手まで斬っちまうとは……いやはや恐ろしい! 敵には回したくないものよ!!」
その言葉には本心からの感嘆と、少しの愉悦が混じっていた。
ハガネは静かに刀を収めた鞘に手を置き、ウィルトスに目を向けた。
「恐ろしいのは、そちらの号令だろう」
しわがれた声だが、その眼光は鋭い。
「僅かな緩みも隙もなかった。見本通りの一斉射……実戦で実行できる者が、果たしてどれだけいるか」
「うわっはっはっは!! それが余の仕事であるからなぁ!」
ウィルトスは、天を仰ぐ勢いで笑い出した。
大仰に胸を叩く。
「だが今回ばかりは、お主の一太刀がなければ、龍退治はもっと手古摺っていたのも事実よ。水中に潜られたままでは、砲を当てるのは骨が折れる。いや、骨が折れるどころか、腕がちぎれておったかもしれん!」
「……」
ハガネは、海に視線を戻した。
波間には、まだ水龍の巨体が沈みきらずに浮かんでいる。やがて引き上げられ、その肉は港町の宴席へと運ばれるだろう。
実際、港の外れでは、すでに龍の死骸を引き揚げる準備が始まっている。龍の肉は貴重な食材であり、鱗や骨は武具や魔導素材として高値で取引される。
港町は、早くもお祭り騒ぎだった。子どもたちは目を輝かせ、大人たちは安堵と興奮の入り混じった顔で笑っている。
そんな町民たちを前に、ウィルトスは「にかっ」と実にいい笑顔を向けた。
粗野で粗暴で――けれど憎めない、愛嬌のある豪快な破顔。
「助かったぞ、ハガネ」
ウィルトスは、今度は少し真面目な顔をした。
「余がどれほど兵を積み上げようと、ああした『理不尽』を前にすると、いささか手が足りん。お主が居なければ、龍退治はもっと多くの犠牲を払っていたはずだ」
「……構わん。ここの魚料理は美味かったからな。その恩義だ」
ハガネは、わずかに口元を緩めた。
昨日、この港に着いた際、頂いた酒場の魚料理。
軍備に偏っていながらも、港町の中は笑顔で満ち、活気のある人の営みがあった。
その中で作られた魚料理――豪快な味付けながらも、人の温もりを忘れていない、真に「人の腹を満たしてくれる」料理だった。
だから、龍と戦った。だから、刀を振るった。
この港町は軍備に傾きながらも、決して人の情を捨てていない。
温もりと暖かさを胸に宿したまま武器を掴む町。
そんな――自身が守るに値する町だと思ったから。
ウィルトスは、そんなハガネの言葉に再び笑顔を広げる。
「よいよい。恩義と呼ぶには軽すぎるわ! むしろ余としては、お主に恩を売られた気分だ!」
そう言って、豪快に海を見渡す。
周囲では、すでに「お祭り」が始まりつつあった。兵たちは互いの肩を叩き合い、港の女たちは笑いながら食器や酒樽を運び出している。子供たちは、龍の尾びれを遠巻きに見てはしゃぎ、老人たちは「昔もな……」と知った風な顔で語っている。
龍退治――それは、帝国にとって、ただの防衛戦闘ではなく、「英雄譚の一ページ」として刻まれる出来事だった。
「とりあえずハガネよ」
ウィルトスは満足げに頷くと、くるりとハガネの方へ向き直った。
「祝杯といこう! このとおり龍の肉もでた事だ! 大いに飲み、大いに騒ごう! 全てはそれからだ!!」
「やれやれ」
ハガネは、小さく息を吐く。
「面倒な男に、懐かれてしまったものだ」
「がははははは!」
ウィルトスは豪快に笑った。
「余に気に入られたのが運の尽きよ!! 剣聖の力、もう少し貸してもらうぞ!!」
そう言うや否や、彼は遠慮なくハガネの肩に腕を回した。
巨漢の腕が、老人の細い肩をがっしりと抱き込む。普通なら、それだけで押し潰されかねない力だったが、ハガネは特に嫌がる素振りも見せず、淡々としている。
そのままウィルトスは、港町で一番大きな酒場へ向けて、ずしん、ずしんと歩き出した。周囲の兵や民たちが、道を開けながら歓声を送る。
「進撃帝だ!」
「陛下だ!」
「剣聖も一緒だぞ!」
そんな声が飛び交う中――
歩きながら、ウィルトスは、ふと声のトーンを少し落とした。
「ハガネ」
「なんだ」
「この東部は、おおよそ我が帝国のものとなった。だが、まだ余は満足しておらん」
ウィルトスの視線は、海ではなく、遠く北方と南方へと向いていた。
「北の神聖国に攻め入るには、あの険しい山脈が邪魔をする。連中は山と信仰に守られて、ぬくぬくとぬるま湯に浸かっておる」
山脈の向こうにある北の神聖国。古くから信仰と結界で守られてきた国。帝国が幾度か進軍を試みたものの、険しい地形と補給の難しさから決定的な一撃を与えられずにいる。
「南の王国とは、停戦協定と不可侵条約を結んでしまった。あれはあれで、当時の余には必要な一手だったがな……そのおかげで、少なくとも表向きは手を出せん」
ウィルトスは、鼻を鳴らした。
南の王国との戦争。未完成兵器「銃」が初めて実戦投入され、王国の大規模魔法が発動され、多くの血が流れたあの戦の末に結ばれた和平。それは帝国にとっても傷の深い戦だった。
「となれば――だ」
進撃帝の瞳に、獲物を狙う猛獣のような光が宿る。
「残るは、西だ」
西。
帝国の西縁に広がるのは、南の王国と同じく、「魔境の大森林」。
「『魔境の大森林』を踏破するよりほかにあるまいて!」
ウィルトスは、足を止めることなく言い切った。
「山を越えられぬなら、森を抜ければよい。誰も通れぬと諦めた道を、余が通してやろう。そこを抜けて、その先に何があるのか――見てみたくはないか?」
「……」
ハガネは、しばし考えるように目を閉じた。
魔境の大森林。
南の王国からも恐れられる、あの大樹海。
そこは人の領域と、魔の領域とが、曖昧に混じり合う場所。常識が通じず、一歩踏み違えれば帰ってこられない土地。
「魔境で腕試し……」
老人は、やがてわずかに口角を上げた。
「それも、一興か」
ウィルトスは、満面の笑みを浮かべる。
「そうこなくてはな! 余とお主がいれば、森の一つや二つ――」
「森は一つで十分だ」
ハガネが淡々と突っ込みを入れる。
ウィルトスは、また豪快に笑い声を上げた。
覇王と剣聖が見据える先。
山を越えられず、海を渡れず、それでもなお前へと進もうとした時――必然のように、その目は、魔境の大森林へと向かう。
遠き東の帝国でも、物語は動き始めていた。




