第141話・この先の未来①
有羽の自室の中の、音という音が消えていた。
皆が黙っている。全員が言葉を失っている。
脳裏に反響しているのは、今しがたニクスが発した一言のみ。
――この世界をハッピーエンドにするためだけに。
もう、言葉など出るわけがない。感想なんて言えるわけがない。
だから言葉や感想の代わりに――膨大な力が、一気に研ぎ澄まされた。
有羽の隣に座るスキエンティアから、溢れるように神の力が漏れ出している。
空間そのものが軋み上げる領域の、隔絶された神威。
抑えている。抑え込んでいる。いまにも決壊しそうな力の奔流を、探求神は懸命に堪えている。
――その抑えが利かぬ程、彼女の怒りが限界を超えているのだ。
「……ふざけないで……ふざけないでよっ!!」
彼女の瞳が、顔が、全身が。その全てが怒りを体現している。
誰にぶつけるでもない。その怒りをぶつけられる相手は、今この場にいない。
ニクスでも、女帝でも、有羽でもスキエンティアでもない。世界中の誰でもない。
あまりに無慈悲な森に向かって、女神の怒気は放たれ続ける。
有羽が息を呑み、ニクスも一瞬身じろいでしまうほどの圧力。
そのため……ある意味、この場で一番距離が離れている女帝だけが、冷静に声を届けることができた。
『探求神よ、落ち着け』
「落ち着け……? 落ち着けって何? 今の話聞いて、どうやって落ち着けっていうのさ?」
止まらない。
女帝の制止を聞いてなお、スキエンティアの激情は止まらない。
胸を掻きむしりたくなるほどの感情の波。
神であっても――いや、おそらく逆だ。彼女が神であるからこそ。
遥かな昔から、人々の営みを見守ってきた女神だからこそ――どうしても許せない。
「世界のハッピーエンド? ……何それ? ねぇ、何それ? 世界が幸せなら、有羽君はどうなってもいい? 世界の安定のためなんていう名目で、他の世界から引きずり出して、作り替えて、部品扱いして……一体、何の権利があってそんなこと――!」
眼鏡の奥の瞳から、涙が零れる。
悔しくてたまらない。許しがたくて暴れそうになる。
女神の身体から、神力の光が、うっすらと湧き立っていく。
女神の全身が、光に満ちていく。
このまま気が昂れば、有羽が張った結界さえも超えてしまい――。
「――大丈夫だ女神さん」
その手前で、有羽が止めた。
隣で荒ぶる女神の頭に、優しく掌を乗せる。
ぽんぽんと、子どもをあやすように、ゆっくりと、穏やかに。
「もう、大丈夫だから」
有羽の声は穏やかだった。
誰よりも怒り狂っておかしくない有羽こそが、あるいは一番落ち着いた顔を浮かべている。
その顔に宿っていたのは、怒りではない。
諦めでも、自棄でもない。
その顔に宿る感情は「感謝」。
隣で怒る、暖かな女神に向けた、ひとりの青年の真っ直ぐな感謝。
人が大好きな、優しい女神への感謝だ。
だから――素直に、何の打算も無しに、その言葉を伝えられた。
「ありがとな」
――俺の代わりに怒ってくれて。
続く言葉は、音としては生まれない。けれどその行動と表情で、女神は有羽の想いを受け取る。
自分のために泣いてくれて、ありがとうと。
スキエンティアの瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「……ごめん、有羽君。ごめんね……ごめんね……っ」
――神様なのに、何も助けてあげられなくて。
何も変えられなくて。何も間に合わなくて。神様なのに、人ひとり救う事が出来なくて。
そんな想いを涙と共に溢しながら、言葉にならない謝罪を示すスキエンティア。
有羽に頭を撫でられながら、自身の無力さに涙を流す。
有羽は、静かに泣き続ける女神を慰めながら、ゆっくりと視線を前に戻す。
自分と同じ容姿の者へ。こちらを心から憐憫している、同じ境遇の「兄弟」へと。
「ニクス。聞かせてくれ……このままだと、世界はどうなる?」
有羽は、静かに問うた。
自分の事を脇に置き、現在の「状態」を。
世界の状態。黒竜の状態。このまま時が流れたら変化するだろう、有羽の状態。
その全てを聞く必要がある。聞かねばならない。今のままでは抗うことすら出来ないのだから。
そんな決意にも似た有羽の視線を受けて、ニクスもまた背を正した。
「順番に言うぞ」
椅子に座り直す。
ニクスの表情もまた、私情を差し込む顔ではなかった。
「まず、俺の本体は限界が近い。というより、本当なら四年前に引き継ぎが行われる筈だったんだ」
ニクスは語る。
四年前の戦い、あそこで本当は有羽が「後継機」になっていた筈なのだと。
四年前に、黒竜はその機能を終えていた筈なのだと。
「けれど、運良くというか何というか……お前や女帝、それに天蛇が間に合った。あそこで終わる筈だった暴走をどうにか静めた。だから、本体が崩壊するのは先送りになった」
竜が終わり、代わりに有羽が「調和」の天秤になる。
それが、本来歩んでいた筈の道筋。だが、番人たちの奮闘により、終わりの時は引き延ばされた。溢れかえる筈の悪性が落ち着き、現在竜は眠っている。
「賢者。お前の名称「森奥隠者」はその時に刻まれたもの。ようするに想定外の働きによって、お前個人の名が世界に刻まれたんだよ」
世界に刻まれた有羽の名。森奥隠者。それは、有り得ぬ奮闘によって刻まれた証のようなものだった。単なる後継、単なる代替品で留まらなかった有羽に与えられた称号のようなもの。
何も嬉しくはないだろうが……事実として、銘は刻まれている。
有羽はかつての戦いを思い出しながら、困ったように苦笑した。
「ただ夢中で戦ってただけなんだがな」
「ああ、知ってる。俺も一応本体の中で見てた……その時は、とても手出しできる状態じゃなかったけどな」
ニクスの言った言葉は、女帝の気を惹いた。
今ニクスは、四年前の戦いを見ていたと言ったのだ。
『お主、あの時に居たのか?』
「居たっていうか何ていうか……本体が必死に掻き集めていた理性の残滓、っていうか……説明が難しいな」
あやふやな概念を説明するのは困難なようで、ニクスは腕を組みながら適切な言葉を探す。
しばらく天井を向いて悩む彼だったが……途中で諦めたように肩を竦める。
「本体の中に残ってたマトモな部分が、一応見ていたんだよ。お前に「名」が刻まれる瞬間も見て……まあ、森奥隠者の称号については、今は置いておく」
「あん? どういうことだ?」
「お前の「名」については後で詳しく話す。まずは俺の本体のことだ」
首を傾げる有羽に、小さな苦笑だけを返してニクスは話の続きを紡ぐ。
「それでだな。暴走が鎮められた時、本体は最後の理性で「俺」を切り離した。善性だけを核にしてな。だから俺には、こういう力がある」
そう言って、ニクスは自分の掌を軽く開く。
そこに宿る気配は、確かに清浄だった。
それは聖気。神の加護保有者に負けぬ、清涼で、穏やかな力の波動。
「そのおかげで神聖国に潜伏できた。北の連中の光に混じってても、そこまで違和感を持たれなかったからな」
話の内容から、ある程度を推測した有羽が、合点がいったように頷く。
「成程な。それで見て来たのか」
「ああ。北の大地の狂信者たちを、この眼でしっかりとな」
そう。そこでニクスは見た。
全ての元凶とも言える、北の鮮烈すぎる光の熱狂を。
光に酔い、自らの正しさを疑わず、善意の顔をしたまま他者を焼き払う者たちを。
「まあ、俺が見てきた内容なんて……はっきり言うと、口にするまでもない。お前達の想像通りだと思うぜ?」
語る事すら億劫なのか、椅子の背もたれに体を預けるニクス。
そんなニクスの姿を見ながら、有羽は単純に予想する。
今まで聞いた神聖国の情報。そこから導き出される、神聖国の姿。
「一方的な正義。光の神の信仰以外を許さない、偏り過ぎた宗教国家」
「その通り。本当にその通りすぎて……あえて補足することもねぇよ」
潜伏中の四年間。
その間で、食傷気味になるくらいに連中の「信仰」を見続けてきたのだろう。
ニクスの顔には呆れと嫌悪の二種が張り付いている。
思い出すのも苦痛。語る事すら拷問なのだと。
しかし、それで終わらせるわけにいかないから、ニクスはここに来た。
背もたれから身を起こし、しっかりと向き直る。
「ただ、あいつらは近い内に動き出す。というよりも、既に動き始めている……その顔を見るに、ある程度は察していたみたいだけどな」
ニクスが向ける視線の先――有羽、スキエンティア、そして宝玉越しの女帝。
三者三様の顔。ただ共通しているのは、全員が神聖国に対して良い感情を抱いていないということだ。明確な嫌悪と警戒。
それを示すように、まずは女帝から口火を切る。
『うむ。山脈を越えて、加護者で固められた武装集団が魔国に侵入しておる』
「帝国も似た感じらしい。既に侵攻済みだ……女神さんの図書館に記載されてた」
すぐに有羽も繋げる。
少し前に、有羽はスキエンティアの図書館――最深奥の万魔図書館で、世界の記録を拝見した。
その際に、神聖国の動向は眼を通してある。
その確認はスキエンティアも済んでおり、彼女自身が首肯と共に、有羽の発言に同意した。
――まだ目元に、僅かな涙が残っていたけれど。
「――うん。わたしの権能でも確認したよ。神聖国は今、本格的な侵攻に乗り出してる。このまま放置したら、間違いなく大陸全土を巻き込む戦争になるよ」
一度眼鏡を外し、目元を指先で拭いながら、スキエンティアは静かな顔で断言する。
神聖国の動きは危険域に達しており、このままでは世界に戦火が広がるのだと。
そして――。
「問題は――その戦争でヴェルミクルムの奴が動くことはないってことだね」
神だからこそ解る。世界の上位神だからこそ断言できてしまう。
神々の王は、今回の騒動で動くことはないのだと。
有羽が、女帝が、顔を顰める中、スキエンティアは言葉を続ける。
「それだけじゃない。従属神の子も、ノクタヴィアだって動かないと思うし……結局は、人間が仕掛ける戦争だから。ソルの奴が直接乗り出さない限り、神々は動かない」
それが人と神の距離感。
神々は人を見ている。
時に加護も与える。
だが、人が人の理屈で起こす争いに、いちいち神が介入することはない。
今ここにいるスキエンティアこそが、むしろ例外枠なのだ。人の文化、人の営み、その全てを愛している。だからこそ時折、従属神に怒られる――距離が近すぎる、加護の付与はおやめくださいと。
そのため、神々は動かない……それはいいのだ。そこまでは全員が納得できる。
けれど、現状はそれで済ませる訳にはいかない。
分かっているからこそ――ニクスは深刻な顔で呟く。
「だが――そこまで大きく動けば、今度こそ黒竜が壊れる。大陸全土を巻き込んだ、膨大な「善性」の爆発……次は絶対に耐えられない」
分身体である彼には分かるのだ。
四年前の奇跡は、もう二度と起こらない。
次が最後だ。次に黒竜が暴走を始めたら、引き延ばされている「今」が消えてなくなる。
「考えられる未来は幾つかある。順に言っていくぞ」
有羽、スキエンティア、女帝に視線を巡らせながら、ニクスは指を一本立てた。
「まずひとつ。このまま全てを静観する未来。外の戦争も、本体の崩壊も全て無視する選択だ」
それもまた、ひとつの未来。
森の中で身を伏せて、流れに身を任せる選択。
だがそれは、この場にいる全てが頷けない道筋。
一応の補足として、ニクスは「選んだ場合の未来」を語る。
「その場合、本体の中の悪性の膿が、森を越えて世界中にばら撒かれる。実際にそれでどうなるかは知らんが……まあ、碌なことにはならないだろうな。全人類が分かりやすく「悪鬼外道」になるだけかもしれん」
「なるだけって……既に一大事なんだが?」
「まだマシな方だよ。大分マシな方だ」
有羽の呆れ顔に、ニクスも同じ呆れ顔で返す。
悪性の膿によって、全人類が「悪人」に変貌する未来。
そんな最悪な予想図ですら……きっとマシな部類。少なくとも命が失われる訳ではないから、一応マシと称するだけのもの。
ただ、この場合……最終的に起こるであろう事象は最悪。
ニクスは、吐き捨てるように続きを語る。
「もっともこの場合、確実に天界の覇皇神が動き出す。世界中の文明がリセットされると思うぜ」
「うん。ヴェルミクルムは絶対にやる。情けも容赦もない。躊躇いも慈悲もない。淡々と盤面を調整する……流石にそうなると、ソルの奴も巻き添えで消されそうだけどね」
スキエンティアが、ひどく冷めた声で補足する。
おそらく世界の均衡を正す為、天上の覇皇神が動き出す。
傾く変数を、無慈悲に、ただただ合理性だけを追求して、盤面を正す。
その際、原因となったソルも一緒に「粛清」されるだろうとスキエンティアは考えるが……そんな状態になった後でソルが排除されたとしても、全てが手遅れだ。
その前段階で手を打たねばならない。
ニクスが二本目の指を立てる。
「次、ふたつめ。四年前のように黒竜を止めに行く選択。ただ次は、四年前のようにはいかない。次戦ったら、どちらが勝つにせよ必ず黒竜は死ぬ。そして――」
「死んだタイミングで、俺に交代か?」
億劫そうな目と顔で、ニクスを見据える有羽。
「今の俺が作られたみたいに、問答無用で?」
「多分な」
ニクスも有羽と同じような、億劫な視線を返す。
本当に似ている二人だった。容姿だけではなく、反応や、互いの感情の着地地点も。
そんな似ている姿を、自身の目で直視したからなのか……有羽が頭を掻きながらぼやき始める。
「後継になるとかならないとか以前に……本当に俺が、お前の代わりになるのかねぇ? まずそこが疑問なんだが」
「問題ねぇだろ。強さに関して……存在格は充分。そしてその本質も」
「本質?」
「ああ。お前さん、森の中に引きこもって、無駄に知識ばら撒いてねぇだろ? かといって知識を秘匿してる訳でもない。必要な分は渡すし、渡しすぎもしない。程よいバランスを自然と作ってる」
そう。有羽はこの世界に来てから今日に至るまで、積極的に世界と関わったことがない。
基本、森の奥に引きこもっている。例外がアウローラ関連だけだ。もしも、あのお日様のような王女様が訪れなかったら――本当にずっと、誰にも関わらずこの地に座していたに違いない。
その行動原理は、有羽の根幹をわかりやすく表していた。
「ようするに――見た目だけの話じゃない。本当に、本質の部分で、俺とお前は似てるんだよ、兄弟」
同じように、森の北部で座していた竜の分身体が、親しみを込めた笑みを浮かべる。
兄弟。たしかにそうだ。有羽とニクスの容姿だけでなく、その境遇があまりに似ている。
ただその類似性を考えた時――有羽の腹の底から出てきた感情は、ひとつしかなかった。
「……ニクス。あんたを悪く言うつもりはねぇ。だけど言っていいか?」
「ああ、なんだ?」
全てを理解したような顔で、一応聞き返すニクス。
有羽は、そんなニクスの顔を真正面から見据えて――叫んだ。
「――全く嬉しくねぇんだが!?」
「安心しろ。俺も同感だ」
くつくつと笑いながら、間髪入れず同意を返すニクス。
奇しくもその姿は本当に――慣れ親しんだ兄弟のように思えた。




