第139話・黒竜大魔
それは、まだ人の国というものが、今ほど強い輪郭を持っていなかった頃の話である。
魔境の大森林には、昔から多くの命が生まれてきた。
濃密な魔力が地脈を満たし、草木に宿り、獣を変え、時に理を超えた生き物を産み落とす。
森に生まれた竜種も、そのひとつだった。
翼を持ち、鱗を持ち、牙と爪を持ち、そして何より、優れた知性を持つ存在。
ひとたび空を舞えば、地上の獣はその影に怯え、吐息ひとつで敵を焼く。弱き竜ですら生命の存在格は四十に届き、長い時を生きて力を蓄えた個体は竜王と呼ばれ、七十を越える。神話の時代には、その先にまで届いた種もいた。
だが、森の北に座すことになるその竜は、そうした「竜らしさ」の象徴から外れていた。
もちろん、強さはあった。
知恵も、力も、他の竜種を上回っていた。生き延びるだけなら何の不自由もないほどに。
けれどその竜は、争いを好まなかった。
脅威が襲えば退ける。
理不尽に踏みにじられれば、相応に爪を振るう。
だが、自ら進んで誰かを屈服させようとはしない。
強さで群れを従えるより、群れ全体が軋まずに済む道を探す。
どちらか片方に肩入れするより、全体の均衡が崩れぬよう立ち回る。
勝ち名乗りを上げる者ではなく、争いの後始末を引き受ける者。
派手さとは縁遠く、しかし誰かがいなければ必ず歪む場所を支える、そんな竜。
つまり――強さの中に「調和」があったのだ。
牙の奥に、均衡を量る目があった。
ゆえにその竜は、同族の中でも少しばかり異質だった。
あるいは、だからこそだったのだろう。
人の国が生まれ始めた頃。
村が街になり、街が国になり、血縁や習俗だけでは支えきれぬ巨大な共同体が地上に現れ始めた頃。
その竜は、森の番人に据えられた。
強いだけでは担えない役目があった。
人が増えれば、価値観が生まれる。
価値観が生まれれば、正しさと誤りが生まれる。
正しさと誤りが語られれば、やがてそれは善と悪へ姿を変える。
強い者が喰い、弱い者が死ぬだけの単純な理なら、調停者など要らない。
だが人は違う。
人は意味を求め、理由を求め、正義を掲げ、悪を定める。
何が善か。
何が悪か。
何を許し、何を罰するか。
その善悪の重みが地上に満ち始めた時、ただ力を持つだけの存在では、均衡は担えなかった。
必要だったのは、偏らぬもの。
どちらか一方の叫びに飲まれず、しかしどちらも無価値とは切り捨てぬもの。
善にも理があり、悪にもまた役割があると知るもの。
その竜は、生まれながらにして「調和」の性質を持っていた。
だから森は、それを選んだ。
ある日、竜は気づく。
森から出る気になれない、と。
何かに縛られた記憶はなく。
何かに命じられた覚えもない。
けれど森から出る、という選択そのものが、自らの中から薄れていた。
森を出ることは、善でも悪でもない。ただの選択だ。竜種の多くはより広い空を求め、山脈を越え、未知の地へ飛び去っていった。あるいは、南部や西部に住処を移した竜もいる。
だが、その竜だけは、どうしても北に残った。
残された、というべきかもしれない。
誰も責めなかった。
誰も恨まなかった。
それは正誤の問題ではなく、ただそこにそういう流れがあっただけ。
だから竜は、静かに森の北へ座した。
長い時間の中、ただそこに在り続けた。
――少しだけ、寂しかった。
その寂しさを自覚した頃には、もう周囲に同族の気配はなかった。
そして、ある時。
森の外、北の大地に、光が舞い降りた。
眩い光。
恒星の欠片がそのまま地へ落ちたかのような、鋭く、暖かく、抗いがたい輝き。
その光は極寒の大地を照らし、人を集め、寄り添わせ、抱きしめるように温めた。
本来ならば、あのような寒冷の果てに大きな国など育つはずがなかった。
土は痩せ、空気は厳しく、命は脆い。
だが、その光は理を曲げた。
人は集まり、街を築き、やがて国を為した。
光を戴く国。
光に護られた国。
光によって自らの正しさを疑わぬ国。
そこで、北の番人は気づく。
手遅れだと。
満ちている光の量が、多すぎる。
それはただの加護ではなかった。
独善。
熱狂。
偏りすぎた正義。
善だけが膨張し、善だけが自らを正当化し、善だけが世界を塗り潰していくような、危うい光だった。
悪が無い。
あまりにも、悪が無さすぎた。
悪は世界に不要なものではない。
妬みは、形を変えれば向上心になる。
恨みは、向きを変えれば理不尽へ抗う怒りになる。
憎しみは、時に大切なものを守るための勇気にさえなる。
悪意とは、ただ醜いだけの汚泥ではない。
それは「選べる」という意思そのものだ。
世界における、変数のひとつ。自由意志の一端。摩擦を生み、停滞を破り、均衡を揺らしながらも次へ進ませるための必要な歪み。
だからこそ、覇皇神ヴェルミクルムは魔界の悪魔を滅ぼさない。
悪人の全てを裁き切らない。
世界が世界として動き続けるためには、善だけでも、悪だけでも足りないからだ。
善悪は、釣り合わねばならない。
片方が強すぎれば、天秤は壊れる。
壊れた天秤の上では、正義すら災厄に変わる。
だから森は、北に番人を置いた。
調和の竜。
世界がどちらかに偏りすぎぬよう、目に見えぬ重りを載せ続けるための存在。
善悪の均衡を保ち、光が光だけで世界を塗り潰さぬようにするための、地上側の安定装置。
北の番人とは、そういうものであるはずだった。
だが、千年は長すぎた。
上位神による光の拡大は、あまりにも長く、あまりにも深く、あまりにも想定の外側へ伸びすぎた。
北の大地を満たし続けた光は、国家を形作り、宗教を育て、正義を磨き上げ、ついには自らを絶対視するに至った。
天秤は、軋んだ。
調停者は、支えきれなくなった。
均衡を保つために置かれた竜は、偏りすぎた善に晒され続ける中で、自らもまた別の極へ追い込まれていく。
そうして、いつしか。
調和の竜は、悪の塊のように見えるものへと変質していった。
北の番人は、最初から暴虐を好む怪物だったのではない。
均衡を担うために選ばれ、均衡のために留まり、そして均衡の崩壊に呑まれていった。
黒竜大魔とは――。
世界が善だけでは回らぬことを、最も痛ましい形で示してしまった、森の北の天秤なのである。
◇◇◇
「――まあ、それが俺の本体の、大まかな現状だ。正直今はもう……マトモな意識を保ってない」
そう言って、ニクスは深く背もたれに体を預けた。
張りつめていたものを、ほんの一瞬だけ解くような仕草。だがその顔に浮かぶのは、安堵ではなく、ひどく重たい疲労だけ。
黒竜大魔。
森の北を担う番人。その本質は、有羽たちが以前推論していた通り――善悪の調整機構。世界が善へ寄りすぎれば悪の側へ、悪へ寄りすぎれば善の側へと重しをかけ、どちらにも倒れきらぬよう均衡を保つ存在。
そこまでは正しかった。
正しかったが、その均衡装置そのものが、今、千年越しの負荷によって壊れかけている。
「光の神。光輝神ソル……あの野郎が千年も地上に居座るなんて、完全に想定外だった」
ニクスの声音には、抑え切れぬ苦味が滲んでいた。
「最初は、本当にただの気まぐれだと思ってたんだ。極寒の地に住む人間があまりに哀れで、一時の思いつきで光を落としただけだと。本体も、当時はそう判断してた。少し偏ることはあっても、許容範囲だってな」
そこまで語ってから、ニクスは片手を持ち上げる。
人差し指を一本立て、それを空中でゆらゆらと左右へ揺らす。
「本来、均衡ってのはこんなもんだ。少し白に寄ったら黒へ、少し黒に寄ったら白へ。ゆっくり、少しずつ、釣り合いを取ってやる」
風にそよぐ草のように、ゆらゆらと。
ほんの僅かな揺れ幅であれば、それは何の問題もない。天秤は静かに傾き、また静かに戻る。それだけで世界は保たれる。
だが次の瞬間、その指が振り下ろされた。
ドン、と。
椅子の肘掛けを叩く硬い音が、密室に響く。
もう一度。
ドン。
そしてまた。
ドン、ドン。
一定の強さで、執拗に、繰り返し。
あまりに単純な動きなのに、それだけで見ている者の胸に嫌な幻がよぎる。このまま何度も何度も叩きつけられれば、いずれ木は砕ける。どれだけ頑丈でも、同じ一点へ――それこそ千年打ち込み続ければ壊れる。
「……こうなると話は別だ」
ニクスが指を止める。肘掛けに触れたまま、静かに言った。
「一度二度じゃない。千年だ。千年ものあいだ、同じ方向から、同じ性質の「正しさ」を、上位神の出力で叩き込まれ続けた。本体は、そのたびに逆へ振れなきゃならなかった」
白に寄りすぎた盤面を戻すため、黒へ。
独善へ傾いた世界を戻すため、悪へ。
「人間の善悪なら、まだいい。王が暴走したとか、思想が偏ったとか、その程度ならいくらでも調整できる。千年前までは実際そうしてきた。けど今回は違った。相手が人間じゃない。上位神だ」
ニクスの瞳に、冷えた怒りが宿る。
「しかも、ただの善性じゃない。あの神の善は、独善だ。自分が正しいと信じたもの以外を許さない光。救済の顔をしているくせに、選択肢そのものを焼き尽くしていく。そんなもんが千年も居座れば、そりゃ本体だって壊れる」
スキエンティアが眉を寄せる。
「……でもさ。千年もあったんだよ? 止める手はあったんじゃないの? 本体がそんなに苦しんでるなら、どこかで誰かに知らせるとか、打てる手はあったと思うんだけど」
問いはもっともだった。
上位神が地上で暴れ続けているのなら、別の上位神が制するなり、何らかの介入があるはずだ。北の竜が壊れるほどの事態を、どうして誰も把握できなかったのか。
ニクスは、そこで少し肩を竦める。
「そこが森の番人の辛いところだ。そっちの二人は、嫌ってほど分かるだろ?」
視線が、有羽と宝玉の向こうの女帝へ向く。
向けられた二人は、すぐにその意味を理解した。
『……我らは外に出られぬ。そうか、止めようにも止める術を持たぬのか』
「いや、それにしたっておかしくないか? 天界で神が気付けば――あ」
有羽が、そこで言葉を止めた。
繋がってしまったのだ。今まで知っていた事実と、いま与えられた真実が。
スキエンティアも同じだった。思わず息を呑む。
「危険区域……この森は、神々のあいだでは不可侵の場所。そして――神の目ですら見通せない場所」
静かな声でスキエンティアが言う。
そう。魔境の大森林は、天界の神々の目ですら「見えない」場所だ。だからこそスキエンティアは、わざわざ地上まで降りてきた。森の中に何があるのかを知るには、上位神ですら自ら足を運ぶしかない。
「覇皇神ヴェルミクルムですら見通せない。だから北の竜がどれほど苦しんでいたのか、ソルの奴がどれだけ世界に負担を強いていたのか、その全貌が見えなかった」
「見えてたら、たぶんとっくに盤面調整に入ってただろうな」
ニクスが吐き捨てるように言う。
「なまじ本体が優秀だったから、余計に質が悪い。善に対抗するぶんの悪を、生み出せちまった。だから「問題なく運営されてる」ように見えたんだよ」
だが実際には、内側では千年分の歪みが蓄積していた。
釣り合いを取るために、自分自身を悪へと染め続けた結果、調和の器が、悪性の膿で満たされつつある。
宝玉の向こうで、女帝が片手で額を押さえる。
樹人形の無機質な顔でも分かるほど、頭痛を堪えるような仕草だった。
『……お主の本体。こちらに助けを求めることもできなんだのか?』
「無理だな」
ニクスはきっぱりと言い切る。
「本体は、自分の中に溢れかえる「悪性」を抑え込むので手一杯だった。それに――そもそも、助けを求めるって発想自体が薄い」
その言葉に、部屋の中の全員が静まる。
「本体は、精神が安定しすぎてるんだよ」
それは、森が北の番人に選んだ理由でもあった。
強いだけではなく、偏りすぎず、揺れすぎず、全体を見られる精神。
だがその美点が、最悪の形で裏目に出た。
自分の中で処理する。
自分の中で抱える。
他者に頼ることを、選択肢として持たないまま、壊れるところまで行ってしまったのだ。
女帝が、重く息を吐いた。
『……元より我らは不干渉じゃったしな。我が、蛇の奴と会話した回数も片手で数えるほど。互いに無視しすぎたか』
「番人同士が寄り集まって茶でも飲むような設計じゃない、ってことだな」
有羽がぼそりと呟く。
それは皮肉ではなく、ただの確認の言葉。
女帝は樹であり、ただ在ることが本質だ。
有羽もまた、長く引きこもり続ける側の存在。
天蛇に至っては、沈黙そのもののような相手である。
四方の番人は、そもそも触れ合う構造にない。だから、誰も北の異変に気づかなかった。
「何度も言うが、本来こんな事態は起こるはずがなかったんだ」
ニクスの声に、心底うんざりした響きが混じる。
「上位神が千年も地上に滞在しなければ。森の内部を神々が見通せれば。番人に「枷」がなければ。どれか一つでも違っていれば、ここまで拗れなかった」
間が悪すぎた――否、悪いどころではない。
奇跡的に最悪だけを繋ぎ合わせたような状況の果てに、今がある。
「このまま放っておけば、本体の中に溜まった悪性が外へ漏れる。千年分の膿が、森を越えて世界へ撒き散らされる」
それこそが、四年前の暴走の真相。
あの時、本当に危機一髪だったのだ。有羽と女帝が動き、天蛇が世界を支えたからこそ、ぎりぎり止まった。あれがなければ、世界中へ千年分の悪意が降り注いでいた。
そして、もしもそうなれば、天界の覇皇神ヴェルミクルムは必ず動く。
スキエンティアの背筋を冷たいものが走った。
盤面の神は、善悪では動かない。文明を守ろうなどとも思わない。ただ均衡の崩壊を正す。必要ならば、地上の文明を刈り払ってでも。
その無機質な「調整」を想像しただけで、ぞっとする。
そこまで考えたところで――。
「待って」
スキエンティアが、ふいに顔を上げた。
まだ残っている。大きな謎が、肝心な土台が。
「あなたが森の外から回り込んで、ここに来た理由は分かるよ。森を突っ切れないのも分かる。本体に近づき過ぎたら、もしも本体に触れたら、君まで「黒」に染まるんでしょ?」
「その通りだ」
ニクスはあっさり肯定した。
「俺の「白」は、本体に残ってた善性を絞り出して形にしたもんだ。俺まで「黒」に沈んだら、そこで終わる。だから危険な最短距離は捨てて、安全な遠回りを選んだ」
そこまではいい。
納得できる。
だが、そこから先が分からない。
何故、この情報を有羽の元に届けにきたのか?
何故、女帝でも天蛇でもなく、有羽を選んだのか?
危機を知らせる為なら、女帝でも天蛇でも問題無かった筈。
けれどニクスは有羽を選んだ。最初から選んでいた。僅かな危険性すらも遠ざけて、出来得る限り安全な道筋……南王国からの訪問を選んだ。
そこに何か理由がある。
そして何より――。
「何であなたは、そんなに有羽君に似ているの?」
探求神の静かな問いだった。
だが、そこに込められた圧は重い。
顔立ちや骨格といった、外見だけではない。
神の目から見ても、有羽とニクスは「中身」ごと似すぎている。別人ではあるが、根の部分が異様なほど重なっている。
その理由が、まだ語られていない。
スキエンティアだけではない。有羽も、女帝も、全員が答えを待つ。
三者の視線が、静かにニクスへ集まる。
白い青年は、その視線を一身に受けながら、ふっと笑った。
悲しげな笑み。
どこか諦めきったような微笑み。
そして、その唇がゆっくりと開きはじめた。




