第136話・安堵の涙
有羽の居住空間。そこに――世界がもうひとつ、重なっていた。
畑があり、井戸があり、客間があり、ログハウスがある。人の暮らしの匂いがする、整えられた静かな空間。
その穏やかな現実を上書きするように、今、あり得ざるもうひとつの景色が展開している。
無数の書架。
果てしなく続く書物。
見上げても見上げても終わらない、知の森。
最深奥の万魔図書館。
探求神スキエンティアの権能によって顕現した、世界の記録そのものが並ぶ場所。
人間の魔術では絶対に到達できない領域。構造も理も何もかもが、この世界の常識から大きく外れている。
その理外を目の当たりにして――アウローラたちは、一人残らず膝をついていた。
「尊き天上の神に出会えたこと、光栄の至りです――探求神様」
アウローラを先頭に、侍女隊も護衛隊も、深く頭を垂れている。
誰ひとり顔を上げようとしない。神を視ることさえ畏れ多い。声を聴くこと、言葉を交わすこと、そのすべてに許しが要る。それがこの世界の、ごく真っ当な感覚。
だからこそ、そんな者達を前にして、スキエンティアはというと。
「むふー」
ものすごく満足そうな顔で、胸を張っていた。
腰に手まで当てている。完全に鼻高々である。
それを見た有羽が、呆れたように目を細めた。
「何を威張ってんだか……」
「だってだって、嬉しいんだよ!」
スキエンティアは、ぱっと有羽に振り返る。
その顔には隠しようもない喜色が満ちていた。
「わたしの信者って、居そうでいないからさぁ」
「あー……」
有羽はそこで、何となく事情を察した。
探求神スキエンティア。
世界中に名を知られ、学問と創造を司る神として、人々から親しまれている上位神。
学者も、教師も、鍛冶師も、魔導師も、研究者も、皆がその名を知っている。
だが逆に言えば、あまりに裾野が広すぎるのだ。
漁師なら蒼宙海神を。鍛冶師なら鍛炎神を。そうやって、人は自分の生活に密接した神に祈る。
しかし探求神は、一途に信仰するような「専門職の神」とは違う。
スキエンティアは何かを作る者、考える者、学ぶ者、試す者の全部に関わるからこそ、逆に「この神だけを深く信じる」という形が成立しづらい。
「幅広すぎて逆に、熱心な信徒が少ないのか」
「そうなんだよぉ」
スキエンティアは心底残念そうに頷いた。
「もちろん、皆知ってはくれてるよ? 沢山崇められてるし、嫌われてもいないし、御神像だってちゃんとあるんだよ? でもさぁ、なんかこう……試験前のお祈りとか、着工前にちょっと拝むとか、そのくらいの距離感で終わっちゃうというか……」
「年一回、思い出したように感謝される感じ?」
「そう、それー!」
有羽は内心で、なるほどなと頷く。
そして実際、その通りだった。
嫌われているわけではない。むしろ好感度は高い。
だが一心不乱に信じてくれる者も少ない。
スキエンティアはあまりに役目が広く、あまりに便利で、あまりに身近なせいで、「特別な唯一神」になりきれないのだ。
その事情を悟った有羽は、心から納得する。
(この女神さん、一人で背負ってる役割が多すぎるんだな)
多くの人が少しずつ祈る。
けれど誰も、全てを捧げてはくれない。
そういう、何とも世知辛い立場である。
とはいえ。
目の前に本物の神が顕現しているとなれば、話は別だ。
アウローラたちが顔を伏せたまま一歩も動けずにいるのも当然だし、その中で平然とスキエンティアの隣に立っている有羽の姿が、恐ろしく見えてしまう。
「ゆ、有羽!!」
だからアウローラが顔を僅かに上げ――恐る恐ると、有羽の方だけを見て――悲鳴のような声を出す。
「え? 何?」
「何じゃない!! 探求神様だぞ!? スキエンティア様なんだぞ!? そ、その態度はあまりにも……!!」
アウローラの声には、素の焦りが滲んでいた。
それも当然だろう。目の前にいるのは天上の上位神。普通の人間なら、話しかけられるだけで人生の一大事である。
そんな存在の隣に、有羽はまるで近所の知り合いみたいな顔で立っているのだ。
だが、当のスキエンティアは、そんなアウローラの慌てぶりを見て、ころころと笑うばかり。
「あー、いいのいいの。有羽君はいいの」
ぱたぱたと手を振りながら、あっさりと言ってのける。
彼女にとって、有羽の態度は無礼ですらないらしい。
「わたしが押しかけてきたようなものだしね。それに、わたしと有羽君はほら、だいたい同格存在だし。偉ぶる気なんて全然ないよ」
さらっと、とんでもないことを言う。
それを聞いて、アウローラたちの表情が余計に固まった。
だがスキエンティアは本気でそう思っているらしい。
だからこそ、なのだろうか。スキエンティアは、アウローラたちへ対しても柔らかな笑顔を向ける。
晴れ渡る空が、そのまま形を持って微笑んでいるような顔。
「それにあなたたちも。敬ってくれるのはすごく嬉しいけど……ほら、そろそろ顔を上げて? そして立って立って」
「し、しかし……」
「いいの。人のことはね、わたしにとってはずーっと昔から見守ってきた「子ども」みたいなものなんだから」
その声色は、どこまでも柔らかい。
「そんなに畏まらなくていいんだよ」
それがスキエンティアの本質だった。
何かを作る者を愛している。
何かを知ろうとする者が好きだ。
少しでも前へ、少しでも上へ、昨日より今日、今日より明日へと進もうとする命の営みそのものを、眩しいものとして見ている。
「気持ちは本当に嬉しいんだけどね……でも、それよりも顔を見せてほしいかな」
祈りも、敬意も、ありがたい。
けれどそれ以上に、ちゃんとこの目で、ひとりひとりの姿を見たい。
そう言って微笑んだ女神を前に、アウローラたちは胸の奥が熱くなるのを感じた。
理屈ではない。
説明でもない。
ただ、分かってしまった。
ああ、この御方は本当に神なのだと。
人の営みを、ただ見下ろすのではなく、愛しいものとして見守る神なのだと。
だからこそ、護衛隊の男たちの中には、惚けたような顔になる者もいた。
「……女神だ」
「……俺、本格的に信徒になろうかな」
かなり本気の声だった。
侍女隊も、今この時ばかりはその発言に冷たい視線を向けるのを躊躇う。気持ちが分かってしまったからだ。この温かさと優しさを真正面から向けられて、心が揺れない者などそうはいない。
そんな空気の中で、有羽だけはふと、もっと現実的な一点が気になった。
「ところで……どしたのアウローラ? 国境線に居なくていいの?」
あまりにも呑気だった。
悪気はない。
本当にない。
つい最近まで死にかけて寝込んでいた本人からすれば、ごく自然な疑問だ。
だが、それでも。
この状況で、その問いはあまりにも空気を読めていなかった。
「お、お前は……お前はぁ!?」
アウローラの顔が一気に真っ赤になる。
そして、その瞳には見る見るうちに涙が溜まっていく。
次の瞬間、彼女は一気に立ち上がり、有羽へ詰め寄っていった。
「この馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿ぁ!!」
ぽかぽかぽか、と。
何度も、有羽の胸を叩く。
殴りたいとは言っていた。
一発くらいはお見舞いしたいとも言っていた。
けれど、実際にこうして対面してみれば、拳など握れない。
あるのは怒りというより、安堵の果てにあふれ出た感情。
「人を心配させておいて!! 呑気にご飯なんて食べてぇ!!」
涙声で、有羽の胸を叩き続ける。
痛くはない。
物理的にはまるで痛くない。
だがその必死さが、その震えが、その涙が、ずしりと心に来た。
有羽はまだ、ここへ至るまでの詳しい経緯を知らない。
アウローラがどれほど取り乱したのかも、どれほど怖い思いを抱えてここまで来たのかも、全部は分かっていない。
それでも、これだけは理解できた。
アウローラは、本気で自分を案じていたのだ。
その様子を見ていたニクスが、小さく声を投げる。
「部外者ながら一言だけ言わせてもらう――今のはお前が悪いぞ、賢者」
少しだけ責めるような、だが本気で責め立てるほどではない声。
侍女隊も護衛隊も、同じ顔をしていた。
誰も有羽を憎んでいるわけではない。
全力で糾弾したいわけでもない。
それでも。
少しくらいは言わせろ。これだけは言わせろ。
そんな言葉が形となって見えてくる顔を、全員が向けてくる。
有羽は、胸元で震える手と、そこから零れ続ける涙を見下ろして――ようやく、自分が思っていた以上にアウローラを心配させたのだと、遅すぎる実感を抱くのだった。
◇◇◇
そして――有羽は、アウローラの話を最後まで黙って聞いていた。
国境線での戦いのあと。
有羽が倒れ、説明もないまま姿を消してから。
アウローラがどれほど取り乱し、どれほど恐れ、どれほど無茶な行動に走ったのか。
辺境伯領から王都へ。
王都からこの森へ。
その全てを、アウローラは隠さずに語った。
そうして、話を聞き終えた有羽が取った行動は――。
「――ごめんなさい」
ひどく綺麗な土下座だった。
迷いも、言い訳も、一切なかった。
ただただ、自分の思い至らなさを詫びるためだけに、深く、真っ直ぐ、額を地につけている。
あまりにも真剣で、あまりにも潔い謝罪だったからこそ、逆にアウローラの方が面食らってしまった。
「い、いや有羽。何もそこまでしなくても……」
「するだろ、普通に」
床に頭を下げたまま、有羽はくぐもった声で言う。
「俺が連絡を送れてたら、アウローラがそんな無茶な行動を取ることなかったじゃないか」
その声色に、侍女隊も護衛隊も、何も言えずに押し黙る。
有羽がそこまで気に病む必要は、本来ない。
国境線から持ち場を離れたのはアウローラ自身の判断であり、その責は第一に本人が負うべきものだ。理屈だけで言えば、そうだろう。
けれど有羽の頭の中には、もう別のものが浮かんでしまっていた。
王女が、私情で前線を離れた。
碌な手続きも踏まずに、国境という最悪に近い場からいなくなった。
それがどれほどまずい行為なのか、有羽にも分かる。
帝国軍はすでに退いていた。最悪の事態には繋がらなかった。けれど、それで済む話ではない。絶対に後に響く。立場にも、名にも、信頼にも。
もし、自分が倒れていなければ。
もし、もっと早く一言でも届けられていれば。
そんな「たられば」が、どうしても頭に浮かんでしまう。
そこまで背負う必要はない。
そう言われれば、たぶんその通りだ。
だが。
アウローラのこととなると、有羽の中ではどうしても、物事の重みづけが狂う。
「わ、私こそすまない」
アウローラもまた、強張った声で言った。
「私は、お前が今まで危ない状態だったなんて……」
言葉の続きを飲み込む。
彼女は、ただクロエの映像で見た光景に感情を揺さぶられ、この森まで来た。
その有羽が、つい先日まで命の危機にあったなどと、夢にも思っていなかった。
冷たくなった有羽の体温を知っていたのに。あの平和そうな映像に上書きされて、危険だったという可能性をあまりに軽視していた。
侍女隊も護衛隊も、今はもう何も挟めない。
神の気配と、賢者の土下座と、王女の涙で、場は妙なほど静まり返っていた。
「……無茶しすぎだ、有羽」
アウローラの声は、怒りではなかった。
痛みを押し殺した、静かな責めだった。
「そんな消耗の大きな魔法を使っただなんて」
――有羽は、自分の真実を全部話したわけではない。
二人目であること。
本物は一度死んで、今の自分は作り替えられた存在であること。
森から切り離されれば成立できない構造であること。
その根幹だけは、どうしても話せなかった。
――話せるわけがなかった。
だから、有羽が伝えたのは、半分の真実。
大きすぎる魔法を使いすぎて危篤状態になったこと。
そして、それを助けたのがスキエンティアであること。
全てが嘘ではない。
だが、一番深い部分だけを伏せている。
「探求神様。本当に……本当にありがとうございます」
アウローラは、今度はスキエンティアへ向き直り、深く頭を下げた。
「おかげで、有羽にこうして再び会うことができました」
その感謝は、心の底からのもの。
打算も、王族としての礼儀もない。
ただ大切な人が助かった、その一点に対する、真っ直ぐな礼。
その言葉を受けて、スキエンティアの表情は少しだけ揺れた。
探求神は知っている。
有羽の真実を。
死んで、作り替えられて、森に繋ぎ止められたあまりに惨い構造を。
だが、有羽が沈黙を選ぶなら、それを壊す気はスキエンティアにはなかった。
だから彼女もまた、何も知らないふりをして、優しく微笑む。
「……いいんだよ。わたしは、当然のことをしただけなんだから」
その笑みの奥に痛みがあることには、誰も気づかない。
胸の内にある苦さを、あくまで自分の中だけに押し込めて、彼女は穏やかな神の顔を保った。
「有羽も、頭を上げてくれ」
アウローラが、まだ床に額をつけたままの有羽へしゃがみ込み、落ち着いた声で言う。
「有羽は何も悪くないんだ」
その声には、もう怒りはなかった。
苛立ちも、嫉妬も、憤りも、どこにもない。
「あの時、有羽が駆けつけてくれなければ、私の命はなかった。有羽に落ち度は何もない。私が勝手に気が動転して、馬鹿な選択をしただけなんだ」
アウローラは思い出す。
国境線。
アギトの爪牙。
死が、あまりにも近かった瞬間。
そして、その寸前に、有羽が来てくれたことを。
アウローラは知らない。
有羽が本来、森の外へ出られる身体ではないことを。
それでも、分かることがある。
今まで一度も森の外に出ようとしなかった男が。
あれほど外の世界に距離を置いていた男が。
自分を助けるためだけに、国境線まで飛んできてくれたのだということ。
だから。
「――有羽が無事で、本当に良かった」
その想いだけで、アウローラは笑えた。
生きていてくれた。
今ここにいてくれる。
それだけで十分だった。
その言葉に、有羽はようやく顔を上げた。
目の前には、少し泣き腫らした顔のアウローラがいた。
それでも笑おうとしている。自分が生きている、それだけでいいと言うように。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
今まで自分の正体を知って、生きる意味ごと抜け落ちかけていた何かが、少しずつ戻ってくるようだった。
気恥ずかしい沈黙が、ふとその場を包む。
顔を上げた有羽と、間近で見つめるアウローラ。
視線が合う。
どちらからともなく、少しだけ目を逸らす。
その空気に耐えきれなくなったのか、アウローラが慌てたように口を開いた。
「そ、それでだな! 有羽に、姉上から持たされた土産があるんだ!!」
勢いよく立ち上がり、両手をぶんぶん振る。
護衛隊と侍女隊へ、慌ただしく指示を飛ばし始めた。
運ばれてきたのは、いくつかの袋に分けられた穀物。
その形を見た瞬間、有羽の目が見開かれる。
「――米」
「そうだ!」
アウローラが満面の笑みで答える。
「有羽が欲しがってた米だ! とりあえずはこれだけだけど、また今度、もっと持ってくるからな!」
その笑顔は、誇らしげで、嬉しそうで、そしてどこまでも真っ直ぐだった。
その顔を見た瞬間、有羽は少しだけ――本当に少しだけ、泣きそうになる。
出自を知り、自分が何者かを知り、生きる希望が一度、足元から消えかけていた。
けれど、こうして自分のために動いてくれる者がいる。
スキエンティアがいて。
アウローラがいて。
自分のために、温もりを差し出してくれる者がいる。
それだけで、人はまだ前を向けるのかもしれなかった。
だから有羽も、笑えた。
「……そう、だな。じゃあまずは……この米を使って、最高の料理、御馳走するよ」
そう言って立ち上がり、腕を捲る。
米があるなら、もうできることは山ほどある。頭の中には候補が次々浮かぶ。
その中でも、今この場に一番似合うものはもう決まっていた。
「前に言ってただろ。カレーと合わせると絶品だって。昨日ちょうど作ったし」
「おおっ!」
アウローラの目が一気に輝く。
「じゃあ、有羽が言ってた「カレーライス」が食べられるんだな!?」
「食べられる」
「やったぁ!!」
年相応というにはやや幼くて、とても無防備な喜びようだった。
侍女隊も護衛隊も、さっきまでの重苦しい空気が嘘のように、分かりやすくそわそわし始める。期待が顔に出すぎている。
そんな中で、ただ一人だけ、少し離れた場所に立ったまま様子を見ている者がいた。
白い髪。
白い肌。
白い服。
ニクスだ。
彼だけはわざと一歩引いた場所に立っていた。
有羽が視線を向けると、ニクスもまた静かに視線を返し、苦笑しながら片手を上げる。
「――まずは、飯食わせてやりなって。俺の用事はその後でいい」
そう言って、軽く顎をしゃくる先にはアウローラがいた。
期待一杯夢一杯といった顔で、いまにも台所までついて来そうな勢いである。
「そこの女神様が見張ってる状態で、俺は何もできないからさ」
次いでニクスがそう付け加える。
その言葉を受けて、有羽が横目でスキエンティアを見やる。
探求神はというと、先程までの柔らかな微笑みとは違い、今はとても静かな目でニクスを見ていた。
見定めるように。
測るように。
神の視線で、白い青年の内側を覗き込んでいる。
――だが。
(……本当に分からない)
スキエンティアは、心の中でそっと呟く。
ニクスの素性が分からない、という意味ではない。
もちろんそれもある。だが、それ以上に強烈な違和感があった。
(何でこんなに――有羽君に似てるの?)
見た目だけではない。
顔立ち。
骨格。
目つき。
声色。
――そんな外側の話ではない。
有羽とニクスは、「中身」が驚くほど酷似していた。
神の目から見ても、一瞬、同一人物と見紛うほどに。
スキエンティアの中に小さな警戒と大きな困惑が同時に膨らんでいく。
だが今は、その疑問をぶつける空気ではなかった。
有羽が米を抱え、アウローラがきらきらした目でそれを追っている。
侍女隊と護衛隊も、期待する顔でそわそわしており。
そしてニクスは、そんな様子をどこか遠くから見守るような目を向けて。
今の空気は、有羽の作る料理「カレーライス」への期待に満ちていた。
ただ一人、スキエンティアだけが、白い青年から視線を切れぬまま――。




