第135話・初邂逅
スキエンティアとアウローラ。
初めて顔を合わせた二人は、しばし無言のまま視線を交わしていた。
どちらも初対面。
あるのは断片的な情報だけ。
スキエンティアは、有羽から話だけは聞いていた。
南王国の第二王女が、二年前から何度もこの居住空間まで通ってきたこと。
そして何より――有羽が死にかけることになったのは、国境線までこの第二王女を助けに行ったためだということ。
それを知っているから、その姿を真正面から見た瞬間、女神の胸の内に落ちるものがあった。
(この子が、王国の第二王女……アウローラ・ウィル・ミラ・アウストラリス)
金色の髪。
きらめく陽光をそのまま束ねたような、明るい髪。それを高い位置でひとつに結い、凛とした輪郭をより際立たせている。
瞳は青空みたいに澄んでいて、真っ直ぐで、そこに宿る意志の強さを隠していない。
軽鎧に身を包んでいるというのに、その立ち姿には華がある。王都の舞踏会にいても違和感のない美しさを、剣と魔法の気配の中にそのまま立たせているような、不思議な完成度だった。
(……可愛い子だね。うん)
スキエンティアは、思わずそんな感想を抱いた。
だが、それは顔立ちへの感想だけではない。
神の目には、もう少し奥が見える。
この少女の内側には、活力が満ちていた。
明るさ。熱。人を引き寄せる温度。
遠くの恒星のように圧倒的で焼き尽くす光ではない。もっと地上に近い、人の手が届くところにある光。朝の窓辺や、昼下がりの木漏れ日や、寒い日に差し込む陽だまりみたいな、身近な光――地上に輝く星だ。
(……有羽君が大切に想うのも、当然かな……)
自然と、そんな納得が胸に落ちる。
スキエンティア自身、一目見た瞬間にこの王女を気に入っていた。
多くの者が惹かれる気質。理由がなくても目で追ってしまうだろう。
天性のカリスマ。お日様みたいな暖かさ。
光輝神ソルのようにただ眩しく焼き尽くすだけの光ではない。アウローラは、人の傍に在って、人を温める種類の光だ。
嫌う理由はどこにもない。
不快感も、敵意も、欠片も湧かない。
それなのに――ほんの少しだけ、胸の奥がちくりと痛んだ。
なぜだろう、とスキエンティアは思う。
答えはまだ言葉にならなかった。
一方で、アウローラもまた、目前の女性から目を離せずにいた。
(……凄い美人だ)
率直すぎる感想が胸に浮かぶ。
神だとは思っていない。夢にも思っていない。
だからこそ、ただ「ものすごい美女」として認識してしまう。
だが、その美女の範疇があまりにも逸脱していた。
整っている、という言葉では足りない。
綺麗、という言葉では軽すぎる。
淑やかだとか、たおやかだとか、端麗だとか、どれも外してはいないのに、どれも足りない。
言い表そうとすればするほど、言葉の方が陳腐になる。
空色の髪。
眼鏡の奥にある、透き通るような瞳。
すっと通った鼻筋。薄く整った唇。
立っているだけで空気が変わるような、あまりに完成された美。
人間の価値観の中で収まる美しさではない。
(……有羽と一緒に、ご飯食べてた人……)
ずきり、と胸が痛んだ。
アウローラは有羽の閉鎖性を知っている。
この家の中に入れてもらうまで、自分がどれだけ通い詰めて、どれだけ拒絶されて、どれだけしつこく食らいついたか――誰よりもよく知っている。
その有羽の隣に、いつの間にか居た女性。
期間は短いはずだ。
アウローラが帝国との国境に赴いてから、まだ二ヶ月も経っていない。
その間に、この女性はここまで近づいた。
有羽の家に、自然にいて。
当然のように朝の光の中に立っていて。
こちらを見ている。
(……聞かないと、いけないんだよな……)
アウローラは、胸の痛みと一緒にその結論を呑み込んだ。
有羽と、この女性がどういう関係なのか。
どういう付き合いをしていて、どんな未来を思い描いているのか。
それを聞かなければならない。
もし、二人が本当に「そういう仲」なのだとしたら。
有羽にとって、自分より優先される誰かがもういるのだとしたら。
自分は、距離を変えなくてはならない。
当然のことだ。
独身の男と未亡人の王女。お互いに特定の相手がいないからこそ、ぎりぎり成立していた関係。
そこへ第三者がいて、未来を共有する相手がいるのなら――そのまま踏み込んでいいはずがない。
分かっている。
頭では、ちゃんと分かっている。
それでも胸は、容赦なく痛んだ。
スキエンティアとアウローラ。
両者とも、互いを見ながら、ごく短い時間で距離を測り合う。
どちらも何かを言おうとしている。
踏み込みすぎず、でも見過ごせず、まず何を口にするべきかを探っていた。
――その時。
「おーい。悪いが賢者、呼んできてくれねぇか?」
背後から、気の抜けたような男の声が飛んだ。
アウローラの背後、結界の外で、白髪の青年が頭を掻いている。ニクスだ。
その姿を見た瞬間、スキエンティアの瞳が見開かれた。
「――あなたは」
似ている。
あまりに、有羽に似すぎている。
スキエンティアが驚くのも当然だった。白髪で、目つきが少し荒くて、雰囲気が幾分ささくれているとはいえ、顔の骨格も、声色も、奇妙なほど有羽と重なる。
だが当のニクスは、そんな驚きの視線にも慣れているのか、肩を竦めて苦笑した。
「……色々聞きたいことあるだろうけど、後にしてくれ。俺はほら、この通り……許可がないと入れないみたいだからよ」
結界の縁で、彼の身体はきっちり止められている。
アウローラたちはもう慣れきって忘れていたが、この居住空間には明確な部外者拒絶の結界が張られているのだ。長く通って許可を貰った者たちは自然に出入りしているが、初見の人間がそのまま踏み込めるほど甘くはない。
「わ、分かった。とりあえず有羽君、呼んでくるね!」
スキエンティアははっと我に返り、慌てて踵を返した。
疑問は山ほどある。だが、まずは家主を呼ぶのが先だ。
そうして、空色の髪がふわりと揺れ、彼女はログハウスの中へ駆けていく。
その背中を見送りながら、アウローラの顔が少しずつ強張っていく。
今の一言が、耳に残って離れなかった。
「……ゆう、くん……」
当たり前のように。
何のためらいもなく。
親しい者が口にする呼び方で。
アウローラの胸が、また締めつけられる。
侍女隊も、今のやり取りを聞き逃してはいなかった。
小声で、しかし抑えきれない動揺混じりに囁き合う。
「……名前呼びですわね」
「ええ。自然すぎましたわ」
「かなり親しいのではなくて?」
「少なくとも、そうでなければ家の中に出入りなど……」
誰もが、有羽の拒絶を知っている。
あの男が、気を許していない相手を家に上げるとは思えない。
となれば、あの眼鏡美女は相当な位置にいることになる。
侍女たちの視線が鋭くなる。
主の胸中を思えば、そうもなる。
一方で、護衛隊の空気も妙にざわついていた。
だがこちらは――警戒心は勿論ある。
あるのだが、それ以上に別種の衝撃が大きい。
「……すっげぇ美人だ」
「……正直、一瞬で惚れた」
「馬鹿、黙れ……いや気持ちは分かるけど」
「声も顔も何もかも反則だろ。国中探しても、あのレベルはいねえぞ」
彼らは理性のある男たちだ。
ハニートラップ対策も叩き込まれているし、美貌ひとつで職務を忘れるような鍛え方はしていない。
それでもなお、あの女性の美しさは、その理性の上を素通りしていく類のものだった。
傾国、とでも言うしかない。
そんな王国一行の様子を、結界の外からニクスは眺めていた。
アウローラは固まり、侍女隊は目つきを鋭くし、護衛隊は別の意味でふわふわしている。
見事なまでの混乱ぶりだ。
(……俺の目的より先に、こっちの修羅場をどうにかする方が先みたいだなぁ)
ニクスは心の中で有羽に合掌する。
完全に他人事のような顔をしながらも、その内容はわりと本気だった。
古今東西、女絡みの揉め事に巻き込まれた男は、大抵ろくな目に遭わない。
しかも今回は、相手が王族で、その背後に侍女隊と護衛隊までついている。
合掌くらいはしておくべきだろう。
森の朝の光は変わらず穏やか。
けれど、その穏やかさの中で、賢者に受難の時が近づいているのを、ニクスだけははっきり理解していた。
◇◇◇
台所で麦茶を飲んでいた有羽は、不意に手を止めた。
口をつけたコップが、ぴたりと宙で止まる。
「……ん? アウローラ達か?」
違和感があった。
何かが、結界の内側にいる。
それは、森の奥からじわじわ近づいてきた気配ではなく、気づいた時には既に「そこにいる」感覚。もちろん、実際に瞬間移動でもしたわけではないのだろう。だが、有羽の知覚からすれば、それくらい不自然な入り方だった。
本来なら、結界に触れる前に分かる。
この居住空間を囲む結界は、有羽自身が組み上げたものだ。森の中を進む高位の魔物。上位存在たるスキエンティアや女帝の根。そういった例外ならばともかく、アウローラ一行ほど見慣れた気配を、結界の内に入るまで見落とすはずがない。
それなのに。
「……おかしいな、全然気づかなかったぞ」
有羽はコップを調理台に置き、首を傾げながら居間へ戻る。
女帝との宝玉通信はまだ繋がったままだった。映像の向こうで、樹神女帝が枝先を揺らしながらこちらを見る。
『どうした、隠者?』
「いや今、結界内にアウローラ達が入って来たんだよ……あれぇ?」
言いながら改めて気配を探る。
いる。確かにいる。アウローラの気配。侍女隊。護衛隊。慣れ親しんだ顔ぶれが庭先にいる。
だが、やはり妙だった。
結界のすぐ近くまで寄らなければ気づけないならまだ分かる。けれど、既に内側へ入っているのに、つい今しがたまでまるで気配を拾えなかった。
『病み上がりで勘でも鈍ったか?』
「病み上がりて……まあ、確かにそんな感じだけどさぁ……うーん」
納得したくないような、しかし否定もできないような、微妙な顔になる有羽。
しかし、いくら病み上がりとは言え、そこまで勘が鈍るものなのかと疑問が沸く。
そこへ、外に出ていたスキエンティアがぱたぱたと戻ってきた。少しだけ慌てた顔。同時に、不思議がっている瞳。
「有羽くーん! お客さん来てるよー!」
「分かってる。今行くよ」
軽く答えながら玄関へ向かう。
だが扉の前まで来たところで、スキエンティアが何とも言えない顔でこちらを見た。
「ねぇ有羽君」
「ん? 何?」
「変な事訊くけど……白い有羽君って知ってる?」
「は?」
あまりにも意味不明な問いだった。
「いや、そのね……表にいるの。白い有羽君が」
「何言ってんだアンタ」
脈絡もなく訳の分からない事を言い始めるスキエンティア。
思わず有羽の目が、ジト目に変わっていく。
最中、宝玉の向こうから話を聞いていた女帝が、変な事を言い始めた。
『……隠者ホワイト?』
「なんだそのパチモンくさい名称は」
『色違いの隠者なのじゃろう? まさしくパチモンじゃろうが』
「配管工のコンパチじゃあるまいし……」
『配管工?』
「いや、こっちの話」
かつての地球で有名だった赤と緑の髭親父たちを、無理やり脳内から追い出す有羽。今はどうでもいい。
有羽は額を押さえ、一度息を吐いてから扉に手をかける。
「……まあ、とにかく見てみるか」
そう言って、玄関の扉を開けた。
朝の光が差し込む。
見慣れた庭。小さな畑。石組みの井戸。整えた地面。
そして、その向こうにいる、見慣れた王女様とその御一行。
アウローラ。侍女隊。護衛隊。今となってはもう完全に身内寄りの顔触れだ。
その背後――有羽の結界の際。
内と外の境目、そのぎりぎり外側に、確かに「そいつ」はいた。
白髪。
白い服。
白い肌。
そして何より。
見覚えがありすぎる、自分に酷似した顔。
「――よう」
軽く手を挙げて、相手は声をかけてきた。
その顔も、声も、気配も、全体の輪郭が嫌になるほど自分に似ている。
有羽の思考が、数秒ほど完全に止まった。
(何だコイツは? 俺の色違いって何? 俺とは別のゴーレム? それとも――)
頭の中で、ろくでもない想像が一気に駆け巡る。
自分とそっくりな何者か。あまりに似すぎている。
自然と眉間に皺が寄った。
「あ……有羽」
恐る恐る、といった声音でアウローラが呼ぶ。
その声で、有羽はようやく我に返った。すぐに視線を白い自分からアウローラへ移す。
「あ、ああ。どうしたアウローラ? お前さんが連れてきたってことは……この白い俺、身元は確かだったりするのか?」
視線で示されたニクスは、結界の外側で肩を竦めるだけだ。
アウローラは少しだけ考えてから、正直に答えた。
「いや、よく分からない。だけど姉上が信用したくらいだ。危険な訳じゃない」
「あのレジーナさんがか?」
有羽の目が見開かれる。
レジーナとは一度しかまともに会っていないが、それでも彼女の観察眼と判断力はよく分かっている。あの第一王女が信用したというのなら、それだけでかなりの担保になる。
「うん。それに私も一日同行したけど……敵意とか害意は全然無い。むしろこの人に悪意があるんなら、宮廷の貴族達の方は一体何なんだと……」
そこまで言って、アウローラは露骨に苦い顔をした。
王城育ちの王女にとって、宮廷の方がよほど魔境じみているらしい。嫌な記憶でも思い出したのか、わずかに肩が落ちる。
話が脱線しそうになったところで、ニクスが軽い口調で割って入った。
「ひとまず中に入れてくれないか? 監視していいし、何なら拘束も受け入れる」
両手を挙げて、完全に無抵抗を示している。
敵対の意思はない、と態度で表すやり方だった。実に潔い。
有羽はどうしたものかと眉を寄せたが……その時ニクスが、少しだけ茶目っ気の混じる声音で付け足した。
「ま、今は俺のことを不審がるより先に……そっちのお姫様関連を片づけておけよ。森の賢者さん?」
「はい?」
最初は意味が分からなかった。
だが次の瞬間、有羽は別の気配の変化に気づく。
主にアウローラの気配が、妙に熱を帯びている。噴火寸前というか、沸騰寸前というか、ともかく何かが限界まで達している感じだった。
見れば、アウローラの顔が真っ赤だ。しかも微妙に涙目である。
何かが爆発しそうな空気。
「ゆ、有羽!!」
「お、おう? な、何?」
有羽が一歩だけ後ずさる。
そこへ、アウローラが意を決したように声を張り上げた。
「そ、そこの女性は……何なんだっ!? 有羽の何なんだっ!? 何者なんだっ!?」
びしぃっと指差す先には、眼鏡の美人女神がいた。
スキエンティアは突然の指名に、反応に困った顔をする。
一方、有羽は数秒ほど「?」という顔で首を傾げた。
そして、すぐに気づく。
ああ、そういえば、アウローラは初対面か、と。
だから本当に何でもないことのように、軽く答えた。
「……何者って。その人、神様だけど」
「――へ?」
固まった。
アウローラだけではない。
侍女隊も護衛隊も、揃って脳が処理を放棄した顔になる。
誰一人として、今の一言を飲み込めていない。
そんな中で、当のスキエンティアだけが無駄に胸張って、自信満々だった。
「ふふん。わたしこそ、知性の上位神! 探求神スキエンティアちゃんです!」
「…………」
「スキエンティアちゃんです!!」
「…………」
「……スキエンティアちゃん、なんだけど」
誰も反応してくれない。
語尾がみるみる弱くなる。
さっきまでの自信はどこへやら。女神は徐々に肩を落とし、しゅんとしていく。
探求神と第二王女の初邂逅は――そんな、間の抜けたやり取りから始まるのだった。




