第114話・動き出す世界
帝国軍が国境線から離れ、大河の水音がようやく遠のき始めた頃。
ウィルトスの背中で、アギトはゆっくりと目を覚ました。
最初に感じたのは痛みだった。
全身が焼けるように痛い。肌の表面だけではない。身体の奥、骨の奥、もっと深いところまで、あの熱線の名残が居座っている。
力が入らない。手を握ろうとしても指先が言うことを聞かず、呼吸をしようとすれば胸の内側が軋んだ。
視界は酷く揺れていた。
上下左右に小刻みに揺れている。最初は自分がまだ墜落を続けているのかと思ったが、違う。揺れているのは、背負う誰かの歩みの所為。
その誰かは、自分より遥かに小さな力の持ち主。
遥かに小さく、遥かに脆く見える人間の背中。
だがその背は、妙に大きかった。
「……あ」
喉から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
すぐに、その声に反応した笑い声が落ちてくる。
「お? 目を覚ましたかアギト。うわっはっはっは! 余たちは見事に負けてしまったなぁ!」
豪快で、遠慮のない笑い。
帝王ウィルトスの声。
アギトはうっすらと目を開ける。
見えるのは、ウィルトスの首筋。汗に濡れた後ろ髪。負けた男からは遠くかけ離れた声。
周囲を歩く帝国兵たちも、緊張しきった顔ではなかった。
「いやぁ、ありゃ反則だろ!」
「反則っていうか、あの黒髪はもう人の形した災害だろ?」
「同意だ。あんなのが王国に味方してるとか、ちょっと反則すぎる!」
「笑い事じゃねぇが、笑うしかねぇな!!」
「生きて帰れてる時点で儲けもんだろうよ!!」
口々にそんなことを言い合っている。
強がりもあるだろう。空元気もあるだろう。
だが、それだけではない。
まるで――「誰か」の失敗を、敢えて軽口で吹き飛ばしているようだった。
先走った誰かを、暴走した誰かを、責めるより先に笑い飛ばしてやろうというように。
アギトは、その空気に居心地の悪さを覚えた。
「…………何も言わないの?」
ぽつりと問う。
ウィルトスは歩みを止めないまま、少しだけ首を傾けた。
「何をだ? 何か言ってもらいたいのか?」
「…………」
問い返されて、アギトは押し黙る。
自覚は、ある。
あるどころか、嫌というほど自分で分かっていた。
感情を抑えられなかった。
三年前、帝国兵を焼き払ったという王国の第二王女。その本人を目の前にして、胸の内側がぐちゃぐちゃになった。
酒宴で聞いた話。死んだ兵の話。悼む声。悔しそうに笑う老兵たちの顔。
それら全部が、目の前のあの王女と結びついて――幼い情緒の我慢が効かなかった。
そして、爪を振るった。
帝王の制止も振り切って、境界を越えた。
その結果が、これだ。
南の隠者に惨敗し、焼かれ、叩き落とされ、ボロ雑巾にされて、それでもなお見逃された。
アギトだって馬鹿ではない。
勝って引き上げたならまだしも、こうして拾われ、背負われ、命だけ繋いで返された以上、帝国の立場が悪いことくらい分かる。
「……アタシ、おじさんの言葉無視したじゃん」
「おうよ。余の制止を無視して突っ走りおって。困った奴だ」
妙にあっさりした返答だった。
「……立場、悪くなっちゃったじゃん」
「そりゃあなあ。領域侵犯、条約無視、武力衝突……うーむ、賠償のことを考えると頭痛が止まらんわ」
ウィルトスは本当に困ったように笑った。
笑っているが、額にはちゃんと皺が寄っている。冗談ではなく、本気で頭が痛いのだろう。
それなのに――アギトを責める色は一切ない。
その反応が、逆にアギトには分からなかった。
「……なんで、見捨てなかったの?」
ぽつりと落ちた問いに、周囲の笑い声が僅かに静まる。
それが、アギトには本当に分からなかった。
あの場で自分を見捨てるのが、国としての最良の答えだったはずだ。
責任をアギトに押しつける。
実際、それがもっとも自然な流れでもある。
レベル八十五の怪物。
帝国の命令など聞かず、制御もできず、森で偶然拾っただけの天災まがいの存在。
そう前面に出せば、完全に責任を免れることは不可能でも、帝国の立場は確実に軽くなる。
それなのに――帝国の者たちは、誰一人、自分を切り捨てなかった。
ウィルトスは少しだけ肩を揺らし、当たり前のことでも言うみたいに答えた。
「そりゃお前。余とお主は友ではないか。ならば見捨てれぬよ」
「……それは、朧気だけど聴こえてた。でも、それが意味わかんない。アタシがなんで、友なの……?」
掠れた声で問うアギト。
その問いに、ウィルトスは笑うことをやめた。
笑みは残したまま、しかし声音だけは少し深くなる。
「なんでもクソもあるか」
ウィルトスは、今度は笑わずに言った。
その声だけ、少しだけ低かった。
「怒ったのだろう? 許せなかったのだろう? 理屈ではなく感情で、かつて余の国の兵を焼いたあの王女が――お主は許せなかったのだろう?」
「…………」
アギトは答えない。
答えないが、否定もしない。
「それが理由よ」
歩きながら、ウィルトスは淡々と続ける。
「酒を酌み交わし、同じ戦場に立ち、そして「友の死を悼む」。ここまで揃えば、そりゃ友だ」
そこでウィルトスは、少しだけ首を横に向けた。
背中のアギトに表情は見えない。
だが、その声音だけで、笑っているのが分かる。
「お主は余たちの朋友だ」
兵の何人かが、小さく笑った。
肯定の笑い。
「陛下の友認定、相変わらず早ぇな」
「だがまあ、間違っちゃいねぇ」
「同じ酒飲んで、同じ戦場に立ったんだ。友以外にねぇだろ」
「しかも嬢ちゃんは、酒も強ぇしな」
「大事なのはそこなのかよ」
くつくつと笑いが漏れる。
先程まで死地に立っていた男たちとは思えない、くだけた笑い。
誰も「アギトの所為」とは言わない。
ハガネですら、少し離れた位置を歩きながら、困ったように息を吐いた。
「……まったく。どいつもこいつも困ったものだ」
そう言いながらも、その口元はほんの僅かに緩んでいる。
アギトの胸の奥に、潰れるような痛みを覚える。
痛いのは、焼けた身体の方ではない。
もっと別の場所。
「助けた理由はそれだけだ」
ウィルトスは、あっけらかんと言い切った。
「それだけで十分だ。それに比べれば賠償問題なぞ些事よ、些事! 結果はどうあれ、こうして全員生きて還れたのだ――十二分に大儲けよ!!」
がはは、とまた帝王が笑う。
兵たちも「違いねぇ」と笑う。
誰一人、アギトを責めない。
誰一人、「お前の所為で」とは言わない。
それが、アギトにはきつかった。
胸の奥で何かが溢れそうになる。
何百年も生きてきて、こんな種類の苦しさを味わうとは思わなかった。
隠すために、アギトはウィルトスの背中に顔を押しつけた。
「……ごめん」
喉の奥で引っかかる。
「ごめんなさい……」
何かが零れそうだった。
いや、実際に零れていたのかもしれない。
だがウィルトスも、兵たちも、それを指摘したりはしなかった。
帝国の兵は、血と鉄と戦争で彩られた国の男たちだ。
乱暴で、野蛮で、口も悪い粗野な男共ばかりだ。
それでも――少女が背中で泣いている時に、見て見ぬふりをしてやるくらいの心意気はある。
しばらくして。
目元の熱が少し引いた頃、アギトはようやく顔を離した。
頬が濡れている気がしたが、誰も何も言わない。ただ、いつも通りの顔で歩いている。
その何も言わない漢気が、有り難かった。
アギトは小さく息を吸う。
そして、まだウィルトスに背負われたまま口を開いた。
「……これから、結構面倒くさい事になるかも。ううん、きっとなる」
「安心せい。国と国が絡むことは、基本的に全て面倒事よ。お主のやらかしがあろうとなかろうと――」
「いや、そうじゃなくて」
アギトは少しだけ顔を上げる。
その声音には、先ほどまでとは違う種類の重さがあった。
「……あの戦いの「余波」の話」
「む?」
ウィルトスの足が、ほんの僅かに緩む。
ハガネの目が細くなる。
兵たちの笑いも、少しずつ止んでいった。
「隠者の奴は、空間を跳躍してきた」
淡々と、アギトは言葉を紡ぐ。
「そして森の外で、あれだけ力を行使した」
熱線。
炎槍。
暴風。
海の召喚。
空間のずらし。
どれも一つで国が震える規模の術。
あの「森の主格」が、本来の縄張りの外で本気に近い力を振るった。
「なら――その気配は、神々にだって届いたはずなんだ」
ウィルトスの表情が変わる。
豪快な帝王の顔から、戦の匂いを嗅ぎ分ける獣の顔へ。
「……それはつまり」
「うん」
アギトは小さく頷く。
「北の神聖国……光輝神ソルも、絶対に感付いたはず」
風が冷たくなる。
周囲の兵たちが、無意識に山脈のある北の方角へ目を向けた。
神聖国。
唯一絶対の光を掲げる国。
閉ざされた箱庭のような国家。
加護持ちの兵を平然と他国へ送り込んだ、あの厄介極まりない北の国。
「何か動き出すかもしれない」
アギトの声は低かった。
国境線での衝突は、ひとまず収まった。
だが今、別のところで、もっと大きな何かが軋み始めている。
彼女は本気で言っている。
さっきまで自分がやらかした問題とは別種の、もっと大きい厄介事が、もしかしたら始まってしまうかもしれないと。
ウィルトスは少しだけ目を閉じ、深く息を吐いた。
「……まったく。せっかく生き延びたというのに、休む暇も無しか」
苦笑のような、呻きのような声。
だが、足は止めない。
帝王も、兵も、剣聖も、みな歩き続ける。
国境から離れ、帝国の砦へ。
ひとまず戦いは止まった。
王国との衝突も、今は遠ざかりつつある。
だが、別の厄介事は、確実に動き始めていた。
――いや、むしろ。
ここからが始まり。
◇◇◇
そして――アギトの言うように、世界を揺らした「波」は、確かに届いていた。
それは音ではない。
光でもない。
風ですらない。
世界の表面を流れる何か。
水面に落ちた石の波紋のようでいて、水とはまるで違う。
存在の格を持つ者だけが知覚できる、「世界の帳尻合わせ」そのものの揺らぎ。
森の外へ、有羽が出た。
そして力を振るった。
更にもう一度、空間を跳躍し、森へと帰還した。
その二度の跳躍と、一度の戦闘。
それら全てが、波として広がっていく。
森の中に留まっていたのなら、あるいは気付かれなかったかもしれない。
魔境の大森林という巨大な異常地帯は、もともと世界の観測からずれている。
その深奥で起こる揺らぎは、普通ならば森に呑まれ、外には漏れ出にくい。
だが、有羽は森の外で力を振るった。
しかも中途半端ではない。
世界天蛇の分身を圧倒し、空間を弄り、熱を歪め、距離と位相を無視した戦闘を行った。
神々の領域に片足どころか両足を突っ込んだ術理を、何の躊躇いもなく現実へ叩きつけた。
その余波は、森の外へと溢れた。
外側に。
そして、帰還の跳躍によって内側にも。
つまり――有羽が発した「波」は、外にも内にも届いたことになる。
大陸だけではない。
山脈を越え、海を越え、世界各地へ。
強い者だけが、それを知った。
神代の名残を宿す従属神たちが、ふと動きを止める。
何かがあった。
何か、あってはならない規模の揺れがあった。
だが彼らでは、そこまでだ。
発生源を「視よう」として、ただ息を呑む。
視線を向けることしかできない。
問題は――その程度では済まぬ者たちがいることだった。
この「波」は、上位神にも届く。
天界の、静かな夜の海のような領域。
月の輝きだけが満ちる場所で、月麗神ノクタヴィアが、長い睫毛をそっと上げた。
さらに別の場所。
幾何学的な光と影だけで構成されたような、無機質な神域。
盤面の神、覇皇神ヴェルミクルムは、ほとんど動かぬまま変数に気付いた。
そして、自由の神は笑う。
どこでもない場所。
風の吹く屋根の上か、酒場の片隅か、路地裏の影か。
そんな、定義しにくい場所に座っていた放浪神ノングラータは、腹を抱えるようにして笑い出した。
そして――北。
サンクトゥス神聖国。
純白の神殿。
磨き抜かれた大理石の回廊。
金の燭台。
神を讃えるためだけに造られた、無駄に美しい広間。
その最奥で、光輝神ソル・サンクトゥスが、不快げに舌打ちした。
「……苛つくなぁ」
永遠の少年神。
美しい顔立ちをした、神々しさと幼さが歪な比率で同居する存在。
その顔が、露骨に歪んでいる。
「どこのどいつだ? 僕と同等? まさか森の番人が外に出たのか?」
純白の床に寝転がるように座っていたソルは、爪を噛みながら、苛立たしげに顔をしかめる。
感じ取った力の大きさは上位神級。
それだけでも気に入らない。
何故なら、今の神聖国は「準備」の最中。
長い長い時間をかけて整えた箱庭。
手を入れ、選別し、加護を与え、壊しやすい形に整えてきた盤面。
その外で、自分の計算にない上位存在が暴れるなど、不愉快極まりない。
「場所的に……帝国? 王国?」
ソルは面倒くさそうに天井を見上げる。
その瞳は笑っていない。
「僕の計算外の力が、僕の領域の外で暴れるんじゃないよ」
神聖国は今、侵攻の準備の最中だ。
しかも小規模ではない。
大陸そのものを揺るがす程の、大規模な「侵攻」だ。
それを成すために、ソルは長年、信仰という名の種を北にばら撒いてきた。
少しずつ。
気付かれぬように。
だが確実に。
「もっと力がいるのかな……微加護だけじゃ足りない。もっと大規模に、もっともっと派手に掻き乱すような手を……」
そこまで呟いて、少年神の表情が変わる。
何かを思いついた顔。
今の「波」は、神聖国にまで届いた。
ならば当然――森の北部にも届いているはず。
ソルの口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「……あの「竜」にも届いてる筈だよね……」
目が細まる。
愉快そうに、悪戯を思いついた子供のように。
「そうだ。そうだそうだ。なら目を覚ましたか……!」
嬉しそうに、心底楽しそうに顔を歪ませる。
あまりに無邪気で、あまりに幼い笑みだった。
「……四年前の続きといこうか。前は失敗しちゃったけど……次はそうはいかない」
純白の神殿に、笑い声が滲み出す。
にたり、と。
少年神の顔が、玩具を前にした子供のように歪む。
その笑いは続く。
静謐であるはずの神殿内部に、稚気に溢れた声が何度も反響する。
そして――森の北部。
光の届きにくい、深く昏い森の果て。
大地そのものが病んだような場所。
木々は捻じれ、根は地表に這い出し、瘴気とも違う、もっと不快な気配が染み付いている領域。
そこに、黒い竜がいた。
全身が腐食したような悍ましい造形。
漆黒という言葉では足りない、悪意を煮詰めたような色。
肉体というより呪いの塊。
存在しているだけで、周囲の大気が澱み、地面が嫌がるように軋む。
黒竜大魔。
森の北の番人。
かつて、隠者と女帝と天蛇の三者によって暴走を止められ、眠りへ落とされた黒竜。
その巨体が、脈動していた。
心臓か。
あるいは竜そのものが、呼吸と共に瘴気を吐いているのか。
大地がゆっくり上下し、周囲の木々がびりびりと震える。
そこに、「波」が届く。
森の外で起きた異常。
上位存在級の力が、世界の整合を無理矢理捻じ曲げた痕跡。
それが、深く深く、北部まで到達する。
黒竜のまぶたが、僅かに動いた。
ぴくり、と。
本当にほんの少し。
まだ動かない。
まだ動く段階ではない。
寝返りを打つほどの反応ですらない。
ただ、眠りが一段浅くなっただけ。
それだけだ。
だが確かに――目覚めまでの時間は短縮された。
脈動が、少しだけ強くなる。
大地の震えが深くなる。
周囲の木々が、一斉に葉を散らした。
近い。
黒竜が本格的に目を開く日。
黒竜が咆哮をあげる日。
森の北が、再び――四年前の続きを始める日。
それは、もう決して遠い未来ではなかった。
第七章はこれで終了です。
次からは第八章。終わりが少しずつ見えてきました。
更新頻度がかなり不定期になってしまって申し訳ないです。
それと、もし面白いなと思っていただけたら、ブクマや評価で応援していただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。




