第113話・視えたモノ
魔境の森南部――世渡有羽の居住空間。
つい先ほどまで美味しそうな匂いが満ちていたログハウスは、今や妙な緊張感に支配されていた。
焼きたてだったハンバーグは湯気を失い、皿の上のソースは乾いている。
スープも冷めきって、切り分けられたパンも、誰の手にも取られぬまま置き去りだ。
そして、その食卓の横で――。
探求神スキエンティアは、何故か正座で項垂れていた。
眼鏡の奥の瞳はしおしおに萎れ、肩は落ち、膝の上に置かれた両手は、行儀よく揃っている。
その正面には、柔らかな緑光を放ちながら立体映像を投射する宝玉。
映像の向こうでは、樹神女帝の人型器――枝葉を髪にした木の人形が、無表情のままこちらを見つめていた。
だが、そのマネキンめいた顔には、明らかに「苛立ち」が浮かんでいるように見える。
『……なるほど。つまりお主は、我の領域へ突撃かました昔のように、隠者のところにも突撃したのだな』
淡々とした声。
だが、その一言一言が妙に重い。
「は、はいぃ……で、でもでも! 有羽君の許可を取ってここに居ますんで、はい……!」
スキエンティアは必死に弁明する。
口調がとても情けない。
仮にも世界の上位神である……はずなのだが、今の彼女は完全に、教師に説教を食らっている悪ガキの図だった。
『……あの隠者が許可を与えるとは信じられぬ』
硝子玉のような女帝の目が、すうっと細くなる。
『貴様、虚言ならばただではおかんぞ?』
「違いますぅぅぅ! 本当なんですぅぅぅ!!」
正座したまま、前のめりになって手をばたつかせるスキエンティア。
「ちゃんと許しを貰って共同生活してるんですぅぅぅ! 今はちゃんと! 正式に! 認められてる感じでぇ!!」
『……隠者の事だ。渋々了承しただけじゃろ?』
「うっ」
痛いところを突かれ、スキエンティアが言葉に詰まる。
実際、有羽の許可は取っている。取っているのだが、果たしてそれが「歓迎」だったかと問われると大いに怪しい。なし崩しに定着した感が強い。
「で、でも! 双方共に納得の上で居るんですぅ! わたしは有羽君に知識を――わたしの権能で世界記録を見せてあげて……その代わりに、わたしは地球の知識とか、地球の料理とか、コンテナハウスとか、お風呂とかベッドとか生活用品とか、色々堪能させてもらってるだけでぇ!」
必死さのあまり、自分に有利な点だけを高速で並べ立てるスキエンティア。
並べ立てれば立てるほど、どちらが得をしているのか怪しくなっていった。
案の定、女帝は呆れた声を返す。
『……どう聞いても、隠者の負担の方が多いのじゃが』
「そんなことないです! 上位神の権能の恩恵なんだから、負担はむしろわたしの方が多い!」
『ほう』
「…………」
スキエンティアが視線を逸らす。
非常にわかりやすかった。
『……もうそれで構わん。まあお主のことだ。危害を加えるような真似はせんじゃろ』
女帝はそこで一度言葉を切り、ログハウスの映像を見渡す。
食卓。椅子。散らかっていない居間。壁際にまとめられた書物や道具。
少なくとも、滅茶苦茶にされた様子はない。
『見たところ、隠者の巣が荒らされた様子はないからな』
「酷い! わたしは泥棒でも野盗でもないよっ!!」
『……我の領域で、何をしたのかもう忘れたのか……? ええ?』
「……す、すいません……反省してますぅ……」
しおしおに萎びる探求神。
女帝の領域で珍しい植物を見つけ、興奮のあまり無断でぶちぶちと毟り取り、結果として樹神女帝の逆鱗に触れた――という前科は、探求神の中でもかなり黒歴史らしい。
しかも、女帝はたぶん一生忘れない。
『……ともあれ、探求神よ』
女帝が話を戻す。
話題が変わって助かった……とスキエンティアが顔を上げかけて、次の言葉で再び固まる。
『お主も、隠者が「どこへ跳んだのか」解らんのだな?』
「うん」
今度の返答には、言い訳の色がなかった。
素直に、神としての困惑が滲む。
「突然だったし、有羽君の術式は淀みも何もなくて……とてもじゃないけど辿れなかった」
あれはあまりに速かった。
予備動作がない。詠唱がない。構成が滑らかすぎる。
空間転移というより、「そこにいたはずの有羽が、瞬きの合間にいなくなった」としか表現できないほど自然な跳躍。
『無理もない。隠者の空間跳躍は、転移と言うよりもむしろ「座標の書き換え」だ。目標地点と現在地を、一瞬だけ「同じ場所扱い」にしよる』
「世界法則の方を弄ってたもんねー……従属神の子達でもできないよ、あれ。上位神の領域だもの。……まあ、その分「波」大きかったけど」
スキエンティアは感心半分、呆れ半分で呟く。
有羽の跳躍の際に発生した「波」。
それは空間に走る振動ではない。
もっと厄介な――「世界の帳尻合わせ」の波だ。
どこか感心するようにスキエンティアが紡ぐ。
「あの「波」は、世界接続を書き換えたことで発生する「整合性の再計算」の跡……うーん。まさか有羽君が、あそこまで高度な術式を組めるなんて……お姉さんびっくりだよ」
『まったく。安易に使うなと言っておったんじゃがな……』
互いの思考は少し違う。
スキエンティアは術式の完成度と構成の妙に感心し、女帝は不用意な使用に呆れている。
けれど心の動きは、不思議なほど似通っていた。
((一体どこへ跳んだのやら))
有羽ほどの者が、事情の説明もなく、突然跳んだ。
何かあったのは間違いない。
それも、ただ事ではない「何か」。
身の危険そのものは、そこまで心配していない。
有羽の実力は、女帝も探求神も理解している。
だが、有羽ほどの存在が「焦って」動いた事実は、別の不安を生む。
そんな沈黙の最中――。
スキエンティアが、もじもじと足を動かし始めた。
正座が限界だった。
何故だか知らないが、神様なのに痺れているらしい。
「と、ところでなんですが……」
おずおずと口を開く。
「足、崩してもいいでしょうか……?」
『……いや、勝手に崩せばよかろ? お主が自主的に正座したんじゃろて』
「あ……そういえばそうだった……」
誰に命じられた訳でもなく、勝手に正座していた探求神。
説教される空気に勝手に合わせていただけだった。
スキエンティアは苦笑しながら、そろそろと足を崩す。
威厳も何もあったものではない。
――その次の瞬間。
空間が揺らぎ、有羽が帰還した。
それは、本当に一瞬のことだった。
その揺らぎを感じ取ったスキエンティアが、はっと顔を上げる。
女帝もまた、宝玉越しの立体映像の中で、樹の器の首をわずかに動かした。
そこには、既に有羽がいた。
いつも通りの黒髪。
いつも通りの気怠げな立ち姿。
だが――決して「いつも通り」ではない。
その異変に二柱が気づくより早く――スキエンティアの口が先に動く。
「ちょっと有羽君! 突然出てったりしないでよぅ!! 女帝さんから連絡来ちゃって、わたし大変だったんだから!!」
じとっとした恨み言を飛ばしながら、スキエンティアは立ち上がる。
さっきまで正座で萎びていたのが嘘のような勢い。
女帝はそんな探求神を、映像越しに心底冷めた目で見つめた。
『大変だったのは、お主の過去のやらかしの所為じゃろが。我はセリアナやガルドレーン相手には、普通に談笑するぞ?』
しれっと、従属神たちの名が挙がる。
田園母神セリアナ。
土相神ガルドレーン。
農と土を司る神々。樹木そのものが本質である女帝と相性が良いらしい。
仲が悪いのは探求神。
しかも、その責任の大半はスキエンティア側にある。
「うう……ほらぁ! この女帝さん、わたしを虐めるんだよ! 有羽君、何か言ってやって!!」
『お主、隠者が来た途端強気になりおったな』
映像越しのマネキン顔が、明らかにジト目。
だがスキエンティアはどこ吹く風で、有羽へ駆け寄っていく。
すっかり調子を取り戻している。
「へへーん! 二対一なら負けないもーん!」
『隠者がお主の味方になると決まった訳ではなかろうに』
「味方だよ! 有羽君はわたしの味方! ねぇ有羽く――」
そこまで言って、スキエンティアは有羽の顔を覗き込む。
そして――止まった。
「有羽君……?」
顔色が、土気色だった。
いや、土気色という言葉すら生ぬるい。
血の気が失せているのではない。血そのものが、この身体から消えてしまったかのような色。
スキエンティアの笑顔が、そこで初めて止まる。
「ねぇ、大丈夫……?」
問いかける。
返事はない。
有羽は、そのまま――覗き込んだスキエンティアへ、前のめりに倒れた。
図らずも、押し倒されるような形になるスキエンティア。
「ちょ――ちょっとちょっと有羽君!? お日様も高いうちから、そういうことは駄目だと思うんだけどー!?」
悲鳴じみた声。
半ば反射的な照れ隠し。
だが、映像越しの女帝は、妙に得心したような声を漏らす。
『ほう? なるほど。双方納得の上で共同生活しているというのは、そういう意味であったか』
興味津々、といった響きの声。
妙に楽しそうだ。
「ちがーう!! わたしと有羽君はそういう関係じゃないのー!! こら有羽君!! ふざけてると、わたしだって怒る――」
押し倒されるような体勢のまま、スキエンティアはじたばたともがく。
だがその最中に――気づいた。
有羽の身体が、あまりに冷たすぎる。
「……有羽君?」
声色が変わる。
じゃれ合いでも、冗談でもない音。
更に、気づく。
――息を、していない。
胸が上下していない。
耳を近づけても、吐息がない。
瞳は閉ざされ、指先ひとつ動いていない。
その様子は、まるで。
「――――っ!?」
スキエンティアの反応は速かった。
勢いよく身体を捻り、有羽の下から抜け出す。
その拍子に眼鏡が外れ、床に落ちる。だが一切構わず、即座に有羽の身体を仰向けにした。
そして胸元と喉元に手を当てる。
即座に展開される回復術式。
宝石細工のように幾重にも組み上がる魔法陣。
光の文字列、概念の符号、生命の分岐図――凡百の魔導師では一生理解できない密度の治癒構成が、瞬く間にログハウスの床に広がる。
『お、おい探求神? お主、いきなり何を――』
「うるさいっ!! 気が散るから黙って!!」
有無を言わせぬ、スキエンティアの一喝。
一切の余裕も、軽口も、茶化しもない。
探求神の、本気の激昂。
それに、思わず女帝が押し黙る。
スキエンティアはただ――全力で有羽の身体を癒していた。
(なにこれ……)
心の中で、声が震える。
(なにこれなにこれ、どうなってるの!? なんで有羽君が死にかけてるの!?)
探求神は、半ば恐慌状態だった。
空間を跳躍し、どこかへ行った有羽。
そして帰ってきた有羽。
時間はほとんど経っていない。一時間も経っていない。
その僅かな間で――命が消えかけている。
(原因は何!? 怪我!? 毒!? 呪い!? ……ええい、絶対見つけ出してやるっ!!)
回復術式を施しながら、同時に探査を行う。
二系統の上位神術を、完全並列で走らせる。
治癒と解析。その両方を、最大出力で。
人間の癒し手ならば不可能な作業だ。
だが、探求神スキエンティアにとっては、それこそが本領である。
人体の構造。
生命の流れ。
神経と血流、臓器の拍動、細胞の活動。
この世界に生まれ落ちるあらゆる生物について、彼女は「探求」してきた。
知らぬことはあっても、知らぬままにはしておかない。
それが探求神。
神力が、有羽の全身を舐めるように走査していく。
皮膚の下。
骨の髄。
脳の深部。
治癒の光が肉体へ染み込み、生命の火を繋ぎ止める。
同時に解析の糸が、原因を求めて隅々まで入り込む。
(……傷は無い……)
骨折も、内出血も、臓器損傷も無い。
(病気の類も視えない……)
感染も、壊死も、腫瘍も、異常増殖もない。
(呪いの気配も無し……)
外部からの干渉痕跡もない。
呪詛の残滓も、侵蝕も、毒も、何もない。
(それなのに……生命力が枯渇寸前……!?)
そこだけが、異常だった。
原因が無い。
なのに結果だけが最悪。
有り得ない。
そんなこと、絶対に有り得ない。
因果において、原因なくして結果はない。
有羽が死にかけている以上、必ずそうなるだけの原因が存在する。
(見つける。見つける。見つける。見つける――絶対に見つけるっ!!)
神力の出力が上がる。
回復が加速する。
同時に探査の密度が深まる。
治癒しながら、掘る。
繋ぎ止めながら、暴く。
生かしながら、剥く。
探求神は、世界でも最悪クラスに「しつこい」神だ。
一度気になったものを、途中で放り出せない。
そして今、探求しているのは。
世渡有羽の、生存に関わる致命の理由。
どこまでも探る。
どこまでも深く。
肉体の表層ではない。
臓器でもない。
生命力の流れの、その更に「根」。
存在の基礎構造へと、意識が潜っていく。
そこへ手を伸ばし――
「………………嘘………………」
見つけた。
見つけてしまった。
その――救いのない答えを。
「……酷い……こんなの、酷過ぎるよ……」
一筋、涙が零れた。
探求神スキエンティア。
遥かな太古より生きてきた上位神。
多くの人の生死に触れ、様々な悲劇を見てきた存在。
救えなかった命も、止められなかった災厄も、幾つも知っている。
そんな彼女ですら、有羽の境遇は――惨すぎた。
胸を抉られる、という表現さえ足りないほどに。
喉の奥が痛む。
泣くつもりなどなかったのに、涙が零れる。
女帝が映像越しに、その涙を見た。
木の器の顔が揺らぐ。
『探求神――何を視た?』
低い声。
だがスキエンティアは答えない。
答えられない。
言葉にさえできない。
「……っ!」
ぐい、と袖で涙を拭い。
震える息を一度呑み込み。
そして、すぐに次の術式へ移行する。
有羽の「空洞」を埋めるために。
スキエンティアは視た。
そして知った。
世渡有羽の――否。
森奥隠者の真実、その一端を。
彼の強さの謎。
彼のレベルの謎。
異世界転移の謎。
その全てではない。
だが、今有羽が死にかけている最大の原因だけは――掴んだ。
ならば、やるべきことは一つ。
適応した回復術式を編み直す。
先程までの「通常の生命維持」では間に合わない。
彼の構造に合わせる必要がある。
光が変わる。
回復術式の色が、柔らかな治癒の金から、やや透明に近い白銀へ移り変わる。
探求神の権能が、今この瞬間だけは「探求」ではなく「救命」に全振りされる。
「……行かせない……」
震える声。
けれど、その震えの中に意志がある。
「絶対に行かせないから……」
両手を有羽の胸元へ当てる。
流し込む神力は、容赦がない。
優しさではない。
もはや執念だ。
「戻って……戻って来て有羽君……っ!!」
打算はない。
見返りもない。
ただ、この哀れな被害者を助けたい。
有羽を、ここで失いたくない。ただそれだけを胸に。
探求神は癒す。
繋ぎ止める。
必死に手を伸ばす。
探求神スキエンティアは、その両手で必死に――。




