第112話・賠償
攻撃の気配を消した有羽は、気怠い表情のまま帝王へ視線を戻した。
掌を下げた右手は、光も熱も纏っていない。
帝国側の者達が、目を見張り――。
「――とりあえずアンタら、そこのボロ雑巾連れて国に帰れ」
――そんな、唐突な声がかけられた。
帝国側が一様に狼狽える。
王国側もざわつく。
誰もが「帝国側の殲滅」を想像していたからだ。
唯一揺らがないのはアウローラだけ。
彼女だけは、変わらず静かに有羽を見守っている。
有羽の成すことを、全て受け入れる――そんな顔。
帝王ウィルトスですら、その笑みは引き攣っている。
恐る恐る、静かに口を開いた。
「……帰れ、とな。貴様は余たちを――」
「さっきも言ったけど、俺は国のいざこざに口挟む気は無いんだよ」
肩を竦める。
それが嘘ではないことを、帝王は直感で理解する。
「そりゃアンタら帝国に好印象持ってるかって聞かれれば、んなこと全然無いんだけど」
さらっと放つ有羽の言葉は、明確な帝国への嫌悪。
ウィルトスが思わず苦笑を漏らす。
「むぅ……えらく嫌われておるな、余の帝国は」
「当然だろ? 三年前に何したのか忘れたのか?」
有羽は、冷めた目で帝王を見た。
即答で迷いのない言葉。
「はっきり言ってアンタらに対する好感度は、地べたも地べた。好きか嫌いかで言えば、嫌う理由しかないぞ」
帝王ウィルトスは、ぐぅの音も出ない。
当然だ。
かつての戦争だけではない。
帝国という国そのものが、血と戦で積み上がっている。
群雄割拠の東部を統一した帝王は、決して治世の賢王ではない。
乱世の暴君として数えきれない恨みを背負っている。
更に有羽は踏み込む。
「銃持ち出して、必要以上に殺しまくったらしいじゃん。んなもん嫌われて当然だっての」
兵の何人かが、反射で口元を引き結ぶ。
言い返せない苦味。
「俺だって好きになれねぇよ。悩むまでもなく王国の味方につくね」
有羽は、きっぱりと言い切る。
それはつまり。
アギトを超える存在が、帝国の敵に回る――という宣言だ。
帝国兵たちの顔が引き攣る。
もう笑うしかない。
アギトを見捨てない選択をした以上、ここで翻す道はない。
これは今後、王国を睨む時の痛み。
目の前の怪物に、睨み返される未来が確定した。
「……何度でも言う。俺が帝国の味方になることはない。警告無視して立ち塞がった以上は、な」
遠くのハガネが、苦虫を噛み潰した顔のまま息を吐く。
剣の道を究めたいと研鑽を積んだ彼とて、有羽に勝てる道筋は微塵も見えない。
そして困ったことに、帝国の客将である剣聖もまた、有羽の認識では「帝国側」だ。
同じ枠に――敵枠に入れられている。
帝王も、剣聖も、兵士も。
全員、未来を考えるほど頭が痛くなる。
その帝国側の空気を、有羽は見つめて――ふっと、口の端を動かした。
「それでも――反吐が出るほど嫌いって訳じゃなくなったけどさ」
ほんの小さな、誰にも届かないくらいの呟き。
誰の耳にも届かない。
誰も聞いていない。
だが、その言葉は有羽の中に落ちた「変化」の証だった。
馬鹿で無謀で、損得を放り投げた選択。
友を見捨てないという答え。
その答えが、帝国という国への印象を、ほんの僅か……指一本分だけ動かした。
有羽は軽く首を鳴らして、話を戻す。
「まあ、今回の件に関しては……後は国同士の問題だろ?」
冷静に、現実的に。
「ようするに深刻な規律違反による武力衝突だ。賠償金だの、責任問題だの、色々大変になると思うけど」
帝王ウィルトスの笑みが消え、苦い沈黙を帯びる。
そう。今回の件、発端はアギトだ。
領域侵犯。
規律違反。
条約違反。
――それは重大な外交事件。
有羽は眉を寄せ、念を押すように問う。
「見た感じ死者が出てないのが不幸中の幸いで……出てないよな? 俺が来た時に既に誰か死んでたとか……?」
有羽の視線が帝王へ、そして遠くのアウローラへと順番に移る。
帝王もアウローラも、同じように首を横に振った。
兵も頷く。
そこで有羽は、目に見えて息を吐いた。
死者が出ていたら、もう「話」では済まない。
それこそ戦争一直線だった。
「つまり、俺がそのじゃじゃ馬をボロ雑巾にして無力化させた時点で……俺の役目は終わり」
有羽が顎で地面のアギトを示す。
焼け焦げた星髪は、まだ動かない。
「後は国同士でよろしく」
帝王が、訝しむように目を細める。
「……それでいいのか? 貴様の力があれば、余の国など叩き潰せるだろう?」
帝王としての視点だ。
力があるなら使う。
敵を潰せるなら潰す。
帝王としては、ここで「叩き潰す」のが一番自然だと理解している。
有羽は肩を竦めた。
「俺は外様。国のいざこざに口は出さないし――出せる立場でもない」
口調は軽い。
だが、全て本心の言葉。
「こうやってアンタらの前に立つのだって、本当は不本意なんだ」
その言葉に、王国側の将兵が一瞬だけ顔を強張らせる。
ここに立つことが不本意――つまり、彼は今後、国境の守りを担う気はない。
守る気はない。
守らせる気もない。
だが同時に、安心も走る。
有羽は、国を支配する気がない。
それだけは確かだ。
有羽は淡々と釘を刺す。
「そこのボロ雑巾がもう一度暴れたりしない限り、俺は手を出さない」
帝王が短く頷く。
「――解った。肝に銘じよう」
「そうしてくれ」
有羽も短く返し――そして、声が冷える。
「……言っとくが、次は無いぞ?」
周囲の空気が凍る。
帝国兵の背筋が勝手に伸びる。
「次もまたソイツが暴れたら、今度こそ殺す。塵も残さない」
冷たい殺気が、ほんの一瞬だけ漏れる。
それは威圧でも脅しでもない。
単なる事実の提示だ。
ここにいる全員が理解した。
次にアギトが暴走したら。
有羽は情け容赦なくアギトを消す。
ウィルトスは、笑みを捨てて頷いた。
「……承知した」
声が低い。
全てを呑み込んだ帝王の声。
有羽は、最後にもう一度だけ帝国側を見回し――そして、言った。
「それじゃ、ちゃっちゃと運べ。それで、ちゃんと連れて帰れ」
投げ捨てるような許可。
帝国兵が動く。
怯えながら。
恐怖を飲み込みながら。
それでも、「友」を抱えて帰るために。
◇◇◇
――そんな有羽と帝王のやりとりを、王国側の者達は遠目に見ていた。
見ていた――というより、見守るしかなかった。
帝国側では、傷だらけの星髪の少女が地に伏せている。
その前に立つのは、突然この場へ現れた森の賢者。
そして、その向こうで帝王ウィルトスが、部下を従えながら立ち尽くしている。
誰がどう見ても異常な構図だった。
国境線上の問題のはずなのに、会話の主導権を握っているのは王でも将でもなく、森に住まう賢者なのだから。
「……殿下」
セシリアが低く呼びかけた。
その声には、押し殺した焦燥が滲んでいた。
彼女だけではない。
周囲の将兵たちも、明らかに落ち着かない様子を見せている。
何か一言でも発したそうに口元を歪める者もいる。
それも当然だった。
最初に攻撃を仕掛けてきたのは帝国側の、あの星髪の化け物だ。
実際に被害を受けたのは王国側であり、命を狙われたのは第二王女アウローラ本人である。
その当事者たる王国が、ただ眺めているだけ。
しかも、交渉めいたやりとりの主導を握っているのが有羽。
納得できるはずがなかった。
「……気持ちは解るが、お前達は前に出るな」
だが、その全員を制していたのは、他でもないアウローラ。
あの星髪に襲われ、重傷を負わされていたはずの王女。
その本人が、飛び出しそうになっている将兵たちを諫めている。
「有羽に任せておけ」
「ですが……!」
声を上げたのは、国境軍の部隊長だった。
怒りを隠しきれず、眉間に深く皺を刻んでいる。
「今回の問題は、国境線上で発生した武力衝突です。しかも、帝国側からの一方的な攻撃が発端。むしろあの男の方こそ、口出しする権利は――」
「――いやまあ、確かに」
アウローラは困ったように苦笑した。
「勝手に話つけるなー、と言いたいのは私も同じだけどな」
言いながら、腕の中のクロエを少し抱き直す。
小さな芽姫は、じたばたと手足を動かしている。
自分も前に出たいのか、ただ落ち着かないのか。
だがアウローラは、そんなクロエの様子すら見ていない。
第二王女の瞳は笑っていなかった。
「……でも、戦いを止めたのは、あの星髪を押さえたのは、有羽だ。私達王国の誰でもない」
その言葉に、一同が息を呑む。
誰も否定できない事実だった。
星髪のアギトを一方的に打ちのめし、国境線の空気を正したのは――世渡有羽。
もし有羽が来なければ、あのままアギトは感情のままに暴れ続けたかもしれない。
その先に何があったかは、想像するだけで寒気がする。
アウローラが死ぬだけで済んだかどうかも怪しい。ここにいる将兵も、帝国側の兵も、全て巻き込み……最終的に、何人生き残れたか分からない。
「そして、確かに私は怪我を負ったが……これが困ったものでな」
アウローラは軽く肩をすくめた。
「もう証拠が残っていない」
「……え?」
セシリアが目を瞬いた。
「ほら、見ろ。私の姿を。……どこに重傷を負った証拠が残っている?」
アウローラはそう言って、その場でくるりと身を翻す。
体の前面、側面、背後。頭からつま先まで、全て見えるように。
血も付いていない。火傷も、裂傷も、痣すら見えない。
傷一つない。
あの超常の一撃を受けて吹き飛ばされていた人物と、同一人物とは思えないほどに。
「……」
セシリアたちは、言葉を失った。
有羽が治したと、そう聞いてはいた。
実際、その光景も目にした。
だが改めて現実として突きつけられると、その異常さに背筋が冷える。
ここまで完璧な治癒は、王国内に存在しない。
帝国にも無いだろう。
魔国ですら無理。
少なくとも、人間国家の医術や魔法の範疇ではない。
「とは言え、実際に私は襲われた。そして負傷した。目撃者は両国に多数いて、全てを無かったことには出来ない」
アウローラの声は冷静だった。
戦場での将ではなく、王族としての声。
「だが、賠償金を青天井にもできない」
その言葉に、セシリアはようやくアウローラが何を見ているのか理解し始めた。
たとえば分かりやすい負傷者がいれば、話は別になる。
治療費、見舞金、慰撫金――名目はいくらでも作れる。
だが、目の前にいるアウローラはどう見ても健康体だ。
死者ゼロ、負傷者ゼロの状況では、取り立てるにも限度がある。
重傷を負ったと主張しても、信じない者は必ず出る。
特に、戦後処理や外交交渉の場では。
「よって現実的な線で動くなら……」
アウローラは指を一本ずつ折るようにしながら、言葉を並べた。
「帝国からの公式の謝罪……外交的賠償金……条約維持及び再発防止のための政治的支出」
簡潔だが、要点を外さない。
どれも感情論ではなく、実務の言葉。
あまりに正しい現実の線。
「……これらを帝国に負わせる方向で話をつけるべきだろうな」
唖然としている将兵たちの前で、アウローラは平然と「落としどころ」を口にする。
その様子に、何人かは言葉を失ったまま、まじまじと王女の横顔を見つめてしまった。
明るく、活発で、少し無鉄砲な第二王女。
その印象が強い者ほど、今の冷静さは意外だった。
だが、アウローラはそれだけでは終わらない。
「そしてもうひとつ、大事な理由がある」
少しだけ目を細めて、帝国側を見た。
傷だらけのアギトを囲むようにして立っている、帝国の兵と王の方角を。
「あいつらには『蓋』になってもらわねばならない」
「蓋……?」
「北だ」
短く答える。
「神聖国を止めるための、大事な『蓋』になってもらう」
その一言で、王国側の将兵の表情が変わった。
今、北の神聖国で動いている不穏。
帝国と神聖国の衝突。
神の信仰を理由にした、神聖国の侵攻。
そして、それがもし南へ広がった時の被害。
諸々考えた場合……できることなら、帝国に押さえていてほしい。
帝国と神聖国がぶつかるなら、その間は少なくとも王国へ、余計な火の粉が飛ぶ可能性は減るのだから。
アウローラは続ける。
「今ここで帝国と血で血を洗う戦争を始めるのは愚かだ。あいつらには、まず北で踏ん張ってもらう。落とし前をつけるのならその後――神聖国との戦いで消耗した帝国とやればいい」
その言葉は、明るい第二王女の口から出てくるには少々「黒い」思考だった。
だが、非常に現実的である。
セシリアは思わず息を止めた。
(……殿下は、そこまで見ていたのか)
頼もしい。
そして少しだけ、ぞっとする。
王族とは、こういうものなのだと思い知らされた。
笑顔の裏で国益を計算し、情と利を切り分けて考えている。
しかし……その頼もしさは長く続かなかった。
「あと、その、なんだ……」
アウローラが急に目を逸らし始める。
挙動不審の子犬みたいな動き。
「謝罪だの賠償だの、そういう小難しい案件は……姉上の方が得意だ」
沈黙。
セシリアたちの顔が、揃って無言のまま変わる。
「私は王都に戻って、姉上の助力を得ようと思う。うん。それが一番だ。姉上の手腕で、しっかりふんだくってもらうことにする!」
言い切った。
言い切ったが、最後の方はどう考えても勢いで言っている。
セシリアを始めとした周囲の目が、一斉にジト目になってしまう。
そう。この第二王女、戦や軍の動きに関しては天性の冴えを見せる。
部隊運用、現場判断、兵の士気、敵の癖、退き際――そういった「戦場の理」に関しては、異様なまでに強く上手い。
だが、政治案件になると露骨に速度が落ちる。
流れは分かる。
利益も損失も見える。
でも、それを誰にどう振って、どう文書にして、どの順で詰めるか――そういう内々の面倒臭い作業が嫌いなのだ。
要するに……分かってはいるが、やりたくない。
アウローラは、全力で顔を逸らした。
下手くそな口笛まで吹きながら。
ひゅー、と。
全然鳴っていない。
「ま、まあそんな訳で……ここで一度帝王たちが国に帰るのは、こっちとしてもありがたい」
あからさまな話題転換だった。
けれど――確かな意思もある。
「ひとまず落ち着く必要がある。……私達王国も、奴ら帝国もな」
その言葉に、セシリアたちは視線を帝国側へ向ける。
ちょうどその時、ウィルトスが傷だらけのアギトを背負って立ち去るところだった。
帝国兵も、ハガネも、それに従って動いていく。
さっきまで一触即発だったのが嘘みたいに、ただただ疲れた撤収の光景に見えた。
その姿を見て――王国の将兵たちは、ようやく自分たちの内側を自覚した。
随分と、頭に血が上っていたのだと。
ここでの戦争を拒んでいたはずなのに。
有羽が圧倒し、優勢に転じた瞬間、意識が一気に攻撃的になっていた。
今こそやれる、今こそ押し込める、今なら帝国に思い知らせられる――そんな発想が、確かに胸をよぎっていた。
それでは三年前の帝国と同じだ。
戦いを目的に変えた、かつての帝国と。
今回の有羽の助勢は、あくまで例外だ。
王国民でもなければ、軍属でもない。
あの力を頼るべきではないし、計算に入れるのも間違っている。
あれは「偶然起きた奇跡」であって、前提にしてはいけない。
だから今は――帝国も王国も、一度引き離すべきなのだ。
再度、落ち着いた場を整える。
謝罪と賠償の席を作る。
神聖国への対応も含め、順番に詰める。
それが、国としての正しい判断。
アウローラは感覚だけではなく、ちゃんと終着まで見ていたのだ。
だからこそ飛び出そうとする兵を止めていた。
有羽の行動に口を挟まなかった。
有羽への信頼だけではなく、王族としての冷静な判断の上で。
セシリアは、腕の中のクロエを撫でるアウローラの横顔を見る。
その横顔は、先ほどまで死にかけていた人間とは思えないほど落ち着いていた。
そんなアウローラの視線の先には――有羽がいた。
◇◇◇
そして有羽は――去っていく帝国の者達を、黙って見送っていた。
大河の向こう側。
傷だらけのアギトを背負った帝王ウィルトスが、振り返りもせずに歩いていく。
その後ろを、帝国の兵達が続く。誰もが重い足取りだった。勝った軍の背ではない。敗残兵のそれとも少し違う。辛うじて壊れずに済んだ者達の、疲れ切った背中だった。
ハガネもまた、その列の後ろにいた。
一度だけ、有羽の方へ視線を向ける。静かな眼差し。敵意も、感謝も、憎悪も、軽蔑もない。ただ、あまりにも隔絶した強さを前にした者特有の、苦い納得だけがそこにあった。
やがて、老剣士もまた帝国兵の列に紛れ、遠ざかっていく。
去っていく帝国。
かつて戦争で多くの命を奪った帝国。
一方的に攻め込み、南を焼き、王国に痛みを与えた帝国。
アウローラを悲しませた帝国。
嫌っていた。
いや、今でも嫌っている。
それは間違いない。全く好きになれない。
争いの中で生き、争いの中で歴史を積み上げ、力で物を言ってきた国。
どう取り繕おうと綺麗なものではない。
それに対して抱く感情が、好ましいものである筈がない。
けれど。
(……結局、順番なんだよな)
有羽は思う。
感情の好悪など、案外くだらないもので出来ている。
先に何に触れたか。先に誰に会ったか。先にどんな顔を見たか。
心の傾きなんて、そういう「順番」にひどく左右される。
実際、もしもアウローラと出会っていなかったのなら。
自分が転移した場所が森の南ではなく、仮に帝国側に近い土地だったのなら。
ウィルトスや帝国兵と先に顔を合わせ、飯でも食って、酒でも飲んで、笑いながら馬鹿話をする機会があったのなら――きっと、有羽は今みたいな悪感情を抱いていなかった。
帝国が嫌いなのは……帝国が王国に被害をもたらしたからだ。
もっと突き詰めれば――アウローラを泣かせたからだ。
順番。
先にアウローラに出会った。
先に、あの眩しい金髪と、馬鹿みたいに真っ直ぐな瞳と、どうしようもなく面倒で明るい性格に触れた。
だからこそ、感情の傾きは王国へは好印象に。帝国へは悪印象に傾いた。
それだけのこと。
ただ、それだけのことで人の心は動く。
ただ、それだけのことで動いてしまうから――たった一言で揺れることもある。
(……友、ね)
帝国の者達が選んだ答え。
馬鹿で、無謀で、損得を考えない選択。
「友」を見捨てないという一点だけで、勝ち目のない相手に立ち塞がる愚行。
それが、有羽の琴線に触れてしまっていた。
友人。
かつて地球にいた頃の友人。
まだ中学生だった頃。放課後に馬鹿騒ぎして、くだらないゲームの話で盛り上がって、コンビニで菓子を買い食いしていた頃の友人。
もう会えない。
二度と戻れない、日本での生活。
この異世界に来て八年。八年も経って、果たして自分に「友人」と呼べる相手が出来ただろうかと。
考える。
考えて――思い浮かばない。
誰もいない。
少なくとも、地球にいた頃の意味での「友人」は、どこにもいない。
あえて近い存在を挙げるとするならば。
(女帝さん?)
脳裏に、無表情な樹の人形が浮かぶ。すぐに張り合って怒鳴ってくる西の主。
あれを友人と呼ぶのは、どうにも違う気がする。ご近所さんではあるのだが。
(探求の女神さん?)
次いで、食い意地張っている眼鏡美女の顔が浮かび、有羽は無意識に眉を顰めた。
あれは……どうだろう。あれも友人というより、引っ越してきた面倒くさい隣人。
(なら――)
そこで、最後に浮かぶのは一人だけ。
アウローラ。
有羽は、自分の中で答えが出ていることを知っている。
もう、とっくに自覚している。
アウローラに対する感情が、「友愛」なんてものを越えていることに。
越えているからこそ、だ。
あれだけの警告を無視して。
空間を渡ってまで、ここへ来た。
森の外へ出る「選択肢」が欠落していた有羽が、無理矢理道を差し込んでまで。
あらゆる理屈を踏み越え、空間跳躍を使ってまで、ここへ飛んできた。
そこまでして来た意味を。
その結果を。
その代償を。
今まさに考えようとした、その時。
「おーい! 有羽ー!」
元気の良い声が飛んできた。
思考が途切れる。
視線を向ける。
アウローラが、こちらに駆け寄ってきていた。
腕の中にはクロエを抱いている。
小さなゴーレムがじたばたと暴れているのに、そんなもの全く意に介さない勢いで、真っ直ぐにこちらへ走ってくる。
黄金の髪が揺れる。
きれいなポニーテールが跳ねる。
まるで犬の尻尾のように元気よく揺れている。
その姿に、思わず有羽は苦笑した。
本当に、愛くるしいわんこみたいだった。
あの姿を守りたくて、ここまで跳んできた。
色々と説明が面倒くさそうだ。
後始末は間違いなく厄介だ。
女帝に何を言われるかも分からないし、置いてきた探求神が泣き喚いている姿も簡単に想像できる。
それでも。
(……まあ、仕方ないか)
そう思って、有羽は一歩、アウローラに向かって足を踏み出した。
その、直後だった。
有羽が崩れ落ちるのは。
何の前触れもなく。
糸を切られた人形のように、支えを失って。
「……有羽?」
アウローラの声が、遅れて響く。
有羽は自分が崩れたことを理解した。
理解したが、身体が言うことを聞かない。
足に力が入らない。膝から下が、自分のものではないみたいに冷たい。
いや、下半身だけではない。胸も、腹も、腕も、指先も――自分の身体が、内側から空洞になったような感覚。
どさり、と膝をつき、次いで上体が傾ぐ。
視界が揺れる。
「…………ああ……なるほど……そういうことか……」
有羽は、呆れたように呟く。
気づいてしまった。
自分の中の「何か」に。
森の外へ出るという選択肢が欠落していた意味に。
ここへ来る時、確かに警告があった。
動くなと。
森の外はお前の居場所ではないと。
それを踏み越えた。
結果が、これだ。
「有羽――有羽!? おい、どうした!? 大丈夫か!?」
アウローラが慌てて駆け込み、倒れかけた有羽の身体を抱き留める。
有羽の身体に触れた、その瞬間。
アウローラの顔から血の気が引いた。
「え……?」
冷たい。
とてつもなく冷たい。
人肌ではない。
汗で冷えた、などという生易しい温度ではない。
まるで凍てついた氷を直に抱いたような冷たさ。
生きた人間の温度ではない。
「なに……これ……?」
その温度に覚えがあった。
知るはずのない温度なのに、指先が知っていた。
忘れようがない冷たさなのに、何故か思い出せない。
記憶の奥に焼き付いたままの感触。
もう二度と触れたくなかった温度。
思い出した瞬間に心臓が凍りつくような絶望。
名前にならない。
脳が拒んでいる。
そんなアウローラをよそに、有羽は必死な形相でクロエへ顔を向けた。
「……おい、クロエ」
クロエがぴたりと動きを止める。
小さな硝子玉のような瞳が、有羽へ向く。
鬼気迫る顔だった。
さっきまでアギトを圧倒していた時とも違う。
だが、意識だけはしっかりしている。
伝えなければならないことだけは、絶対に落とさないと決めている顔。
あらゆる意味を込めて――。
「――王国を護れ。いいな」
ただ、それだけを告げる。
それしか告げられないと言うように。
必死に――まるで、託すように。
クロエが目を見開く。
小さな身体をびくりと震わせる。
意味を完全に理解しているかは怪しい。それでも、その言葉の重さだけは伝わったのか――いつもの愛らしい顔が、珍しく真剣なものに変わった。
有羽は一度だけ、クロエの頭を撫でた。
氷のように冷たい手で――酷く優しく。
次いで、視線をアウローラに向ける。
アウローラの顔は蒼白だった。
怯えた目をしている。
何かを思い出しかけていて、思い出したくないのに――それでも絶望を止められない顔。
そんな彼女に向かって、有羽は掠れた声で言う。
「……悪い。森に、戻るわ」
それだけ。
理由も説明も無い。
言い訳も無い。
ただ、それだけを残して――。
――有羽の姿が、消えた。
来た時と同じ空間転移。
瞬きほどの刹那。
視界が歪んだと思った時には、もうそこにいない。
風も、光も、派手な現象はない。
ただ、そこにあったはずの人影が、ぽっかり抜け落ちる。
王国兵たちが一斉にざわめく。
驚きの声が上がる。
だがそのざわめきは、アウローラの耳に届いていなかった。
思い出してしまったのだ。
あの冷たい体温を。
あの凍てついた感触を。
あの、血も涙も乾いた後の、絶望の温度を。
あれはかつて――夫の死骸に触れた時の温度。
永遠に目を覚まさない、黒髪の伴侶の身体に触れた時の温度。
安らかな顔のまま冷え切っていた、あの時の温度。
全く同じだった。
全く同じ――死者の冷たさ。
頭の中で、何かが切れる。
恐怖が、過去と現在を繋げてしまう。
「有羽……?」
掠れた声。
次の瞬間、それは悲鳴になった。
「有羽――有羽ーーーーっ!?」
叫ぶ。
喉が裂けそうなほどの絶叫。
大切な人の名を。
今まさに失いかけているかもしれない人の名を。
過去と同じ絶望へ落ちるのを拒むように、必死に。
けれど、その呼びかけに応えてくれる有羽は――もうどこにもいなかった。




