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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第七章

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第112話・賠償


 攻撃の気配を消した有羽は、気怠い表情のまま帝王へ視線を戻した。

 掌を下げた右手は、光も熱も纏っていない。

 帝国側の者達が、目を見張り――。


「――とりあえずアンタら、そこのボロ雑巾連れて国に帰れ」


 ――そんな、唐突な声がかけられた。

 帝国側が一様に狼狽える。

 王国側もざわつく。

 誰もが「帝国側の殲滅」を想像していたからだ。


 唯一揺らがないのはアウローラだけ。

 彼女だけは、変わらず静かに有羽を見守っている。

 有羽の成すことを、全て受け入れる――そんな顔。


 帝王ウィルトスですら、その笑みは引き攣っている。

 恐る恐る、静かに口を開いた。


「……帰れ、とな。貴様は余たちを――」

「さっきも言ったけど、俺は国のいざこざに口挟む気は無いんだよ」


 肩を竦める。

 それが嘘ではないことを、帝王は直感で理解する。


「そりゃアンタら帝国に好印象持ってるかって聞かれれば、んなこと全然無いんだけど」


 さらっと放つ有羽の言葉は、明確な帝国への嫌悪。

 ウィルトスが思わず苦笑を漏らす。


「むぅ……えらく嫌われておるな、余の帝国は」

「当然だろ? 三年前に何したのか忘れたのか?」


 有羽は、冷めた目で帝王を見た。

 即答で迷いのない言葉。


「はっきり言ってアンタらに対する好感度は、地べたも地べた。好きか嫌いかで言えば、嫌う理由しかないぞ」


 帝王ウィルトスは、ぐぅの音も出ない。

 当然だ。

 かつての戦争だけではない。

 帝国という国そのものが、血と戦で積み上がっている。

 群雄割拠の東部を統一した帝王は、決して治世の賢王ではない。

 乱世の暴君として数えきれない恨みを背負っている。

 更に有羽は踏み込む。


「銃持ち出して、必要以上に殺しまくったらしいじゃん。んなもん嫌われて当然だっての」


 兵の何人かが、反射で口元を引き結ぶ。

 言い返せない苦味。


「俺だって好きになれねぇよ。悩むまでもなく王国の味方につくね」


 有羽は、きっぱりと言い切る。

 それはつまり。

 アギトを超える存在が、帝国の敵に回る――という宣言だ。


 帝国兵たちの顔が引き攣る。

 もう笑うしかない。

 アギトを見捨てない選択をした以上、ここで翻す道はない。

 これは今後、王国を睨む時の痛み。

 目の前の怪物に、睨み返される未来が確定した。


「……何度でも言う。俺が帝国の味方になることはない。警告無視して立ち塞がった以上は、な」


 遠くのハガネが、苦虫を噛み潰した顔のまま息を吐く。

 剣の道を究めたいと研鑽を積んだ彼とて、有羽に勝てる道筋は微塵も見えない。

 そして困ったことに、帝国の客将である剣聖もまた、有羽の認識では「帝国側」だ。

 同じ枠に――敵枠に入れられている。


 帝王も、剣聖も、兵士も。

 全員、未来を考えるほど頭が痛くなる。

 その帝国側の空気を、有羽は見つめて――ふっと、口の端を動かした。



「それでも――反吐が出るほど嫌いって訳じゃなくなったけどさ」



 ほんの小さな、誰にも届かないくらいの呟き。

 誰の耳にも届かない。

 誰も聞いていない。


 だが、その言葉は有羽の中に落ちた「変化」の証だった。


 馬鹿で無謀で、損得を放り投げた選択。

 友を見捨てないという答え。

 その答えが、帝国という国への印象を、ほんの僅か……指一本分だけ動かした。

 有羽は軽く首を鳴らして、話を戻す。


「まあ、今回の件に関しては……後は国同士の問題だろ?」


 冷静に、現実的に。


「ようするに()()()()()()()()()()()()()()だ。賠償金だの、責任問題だの、色々大変になると思うけど」


 帝王ウィルトスの笑みが消え、苦い沈黙を帯びる。

 そう。今回の件、発端はアギトだ。

 領域侵犯。

 規律違反。

 条約違反。

 ――それは重大な外交事件。

 有羽は眉を寄せ、念を押すように問う。


「見た感じ死者が出てないのが不幸中の幸いで……出てないよな? 俺が来た時に既に誰か死んでたとか……?」


 有羽の視線が帝王へ、そして遠くのアウローラへと順番に移る。

 帝王もアウローラも、同じように首を横に振った。

 兵も頷く。

 そこで有羽は、目に見えて息を吐いた。

 死者が出ていたら、もう「話」では済まない。

 それこそ戦争一直線だった。


「つまり、俺がそのじゃじゃ馬をボロ雑巾にして無力化させた時点で……俺の役目は終わり」


 有羽が顎で地面のアギトを示す。

 焼け焦げた星髪は、まだ動かない。


「後は国同士でよろしく」


 帝王が、訝しむように目を細める。


「……それでいいのか? 貴様の力があれば、余の国など叩き潰せるだろう?」


 帝王としての視点だ。

 力があるなら使う。

 敵を潰せるなら潰す。

 帝王としては、ここで「叩き潰す」のが一番自然だと理解している。

 有羽は肩を竦めた。


「俺は外様。国のいざこざに口は出さないし――出せる立場でもない」


 口調は軽い。

 だが、全て本心の言葉。


「こうやってアンタらの前に立つのだって、本当は不本意なんだ」


 その言葉に、王国側の将兵が一瞬だけ顔を強張らせる。

 ここに立つことが不本意――つまり、彼は今後、国境の守りを担う気はない。


 守る気はない。

 守らせる気もない。


 だが同時に、安心も走る。

 有羽は、国を支配する気がない。

 それだけは確かだ。

 有羽は淡々と釘を刺す。


「そこのボロ雑巾がもう一度暴れたりしない限り、俺は手を出さない」


 帝王が短く頷く。


「――解った。肝に銘じよう」

「そうしてくれ」


 有羽も短く返し――そして、声が冷える。


「……言っとくが、次は無いぞ?」


 周囲の空気が凍る。

 帝国兵の背筋が勝手に伸びる。


「次もまたソイツが暴れたら、今度こそ殺す。塵も残さない」


 冷たい殺気が、ほんの一瞬だけ漏れる。

 それは威圧でも脅しでもない。

 単なる事実の提示だ。


 ここにいる全員が理解した。

 次にアギトが暴走したら。

 有羽は情け容赦なくアギトを消す。

 ウィルトスは、笑みを捨てて頷いた。


「……承知した」


 声が低い。

 全てを呑み込んだ帝王の声。

 有羽は、最後にもう一度だけ帝国側を見回し――そして、言った。


「それじゃ、ちゃっちゃと運べ。それで、ちゃんと連れて帰れ」


 投げ捨てるような許可。


 帝国兵が動く。

 怯えながら。

 恐怖を飲み込みながら。

 それでも、「友」を抱えて帰るために。





 ◇◇◇





 ――そんな有羽と帝王のやりとりを、王国側の者達は遠目に見ていた。

 見ていた――というより、見守るしかなかった。


 帝国側では、傷だらけの星髪の少女が地に伏せている。

 その前に立つのは、突然この場へ現れた森の賢者。

 そして、その向こうで帝王ウィルトスが、部下を従えながら立ち尽くしている。


 誰がどう見ても異常な構図だった。

 国境線上の問題のはずなのに、会話の主導権を握っているのは王でも将でもなく、森に住まう賢者なのだから。


「……殿下」


 セシリアが低く呼びかけた。

 その声には、押し殺した焦燥が滲んでいた。


 彼女だけではない。

 周囲の将兵たちも、明らかに落ち着かない様子を見せている。

 何か一言でも発したそうに口元を歪める者もいる。


 それも当然だった。

 最初に攻撃を仕掛けてきたのは帝国側の、あの星髪の化け物だ。

 実際に被害を受けたのは王国側であり、命を狙われたのは第二王女アウローラ本人である。

 その当事者たる王国が、ただ眺めているだけ。

 しかも、交渉めいたやりとりの主導を握っているのが有羽。

 納得できるはずがなかった。


「……気持ちは解るが、お前達は前に出るな」


 だが、その全員を制していたのは、他でもないアウローラ。

 あの星髪に襲われ、重傷を負わされていたはずの王女。

 その本人が、飛び出しそうになっている将兵たちを諫めている。


「有羽に任せておけ」

「ですが……!」


 声を上げたのは、国境軍の部隊長だった。

 怒りを隠しきれず、眉間に深く皺を刻んでいる。


「今回の問題は、国境線上で発生した武力衝突です。しかも、帝国側からの一方的な攻撃が発端。むしろあの男の方こそ、口出しする権利は――」

「――いやまあ、確かに」


 アウローラは困ったように苦笑した。


「勝手に話つけるなー、と言いたいのは私も同じだけどな」


 言いながら、腕の中のクロエを少し抱き直す。

 小さな芽姫は、じたばたと手足を動かしている。

 自分も前に出たいのか、ただ落ち着かないのか。

 だがアウローラは、そんなクロエの様子すら見ていない。

 第二王女の瞳は笑っていなかった。


「……でも、戦いを止めたのは、あの星髪を押さえたのは、有羽だ。私達王国の誰でもない」


 その言葉に、一同が息を呑む。

 誰も否定できない事実だった。


 星髪のアギトを一方的に打ちのめし、国境線の空気を正したのは――世渡有羽。

 もし有羽が来なければ、あのままアギトは感情のままに暴れ続けたかもしれない。

 その先に何があったかは、想像するだけで寒気がする。

 アウローラが死ぬだけで済んだかどうかも怪しい。ここにいる将兵も、帝国側の兵も、全て巻き込み……最終的に、何人生き残れたか分からない。


「そして、確かに私は怪我を負ったが……これが困ったものでな」


 アウローラは軽く肩をすくめた。


「もう証拠が残っていない」

「……え?」


 セシリアが目を瞬いた。


「ほら、見ろ。私の姿を。……どこに重傷を負った証拠が残っている?」


 アウローラはそう言って、その場でくるりと身を翻す。

 体の前面、側面、背後。頭からつま先まで、全て見えるように。

 血も付いていない。火傷も、裂傷も、痣すら見えない。

 傷一つない。

 あの超常の一撃を受けて吹き飛ばされていた人物と、同一人物とは思えないほどに。


「……」


 セシリアたちは、言葉を失った。

 有羽が治したと、そう聞いてはいた。

 実際、その光景も目にした。

 だが改めて現実として突きつけられると、その異常さに背筋が冷える。


 ここまで完璧な治癒は、王国内に存在しない。

 帝国にも無いだろう。

 魔国ですら無理。

 少なくとも、人間国家の医術や魔法の範疇ではない。


「とは言え、実際に私は襲われた。そして負傷した。目撃者は両国に多数いて、全てを無かったことには出来ない」


 アウローラの声は冷静だった。

 戦場での将ではなく、王族としての声。


「だが、賠償金を青天井にもできない」


 その言葉に、セシリアはようやくアウローラが何を見ているのか理解し始めた。

 たとえば分かりやすい負傷者がいれば、話は別になる。

 治療費、見舞金、慰撫金――名目はいくらでも作れる。

 だが、目の前にいるアウローラはどう見ても健康体だ。

 死者ゼロ、負傷者ゼロの状況では、取り立てるにも限度がある。

 重傷を負ったと主張しても、信じない者は必ず出る。

 特に、戦後処理や外交交渉の場では。


「よって現実的な線で動くなら……」


 アウローラは指を一本ずつ折るようにしながら、言葉を並べた。


「帝国からの公式の謝罪……外交的賠償金……条約維持及び再発防止のための政治的支出」


 簡潔だが、要点を外さない。

 どれも感情論ではなく、実務の言葉。

 あまりに正しい現実の線。


「……これらを帝国に負わせる方向で話をつけるべきだろうな」


 唖然としている将兵たちの前で、アウローラは平然と「落としどころ」を口にする。

 その様子に、何人かは言葉を失ったまま、まじまじと王女の横顔を見つめてしまった。

 明るく、活発で、少し無鉄砲な第二王女。

 その印象が強い者ほど、今の冷静さは意外だった。

 だが、アウローラはそれだけでは終わらない。


「そしてもうひとつ、大事な理由がある」


 少しだけ目を細めて、帝国側を見た。

 傷だらけのアギトを囲むようにして立っている、帝国の兵と王の方角を。


「あいつらには『蓋』になってもらわねばならない」

「蓋……?」

「北だ」


 短く答える。



「神聖国を止めるための、大事な『蓋』になってもらう」



 その一言で、王国側の将兵の表情が変わった。

 今、北の神聖国で動いている不穏。

 帝国と神聖国の衝突。

 神の信仰を理由にした、神聖国の侵攻。

 そして、それがもし南へ広がった時の被害。

 諸々考えた場合……できることなら、帝国に押さえていてほしい。

 帝国と神聖国がぶつかるなら、その間は少なくとも王国へ、余計な火の粉が飛ぶ可能性は減るのだから。

 アウローラは続ける。


「今ここで帝国と血で血を洗う戦争を始めるのは愚かだ。あいつらには、まず北で踏ん張ってもらう。落とし前をつけるのならその後――神聖国との戦いで消耗した帝国とやればいい」


 その言葉は、明るい第二王女の口から出てくるには少々「黒い」思考だった。

 だが、非常に現実的である。

 セシリアは思わず息を止めた。


(……殿下は、そこまで見ていたのか)


 頼もしい。

 そして少しだけ、ぞっとする。

 王族とは、こういうものなのだと思い知らされた。

 笑顔の裏で国益を計算し、情と利を切り分けて考えている。


 しかし……その頼もしさは長く続かなかった。


「あと、その、なんだ……」


 アウローラが急に目を逸らし始める。

 挙動不審の子犬みたいな動き。


「謝罪だの賠償だの、そういう小難しい案件は……姉上の方が得意だ」


 沈黙。

 セシリアたちの顔が、揃って無言のまま変わる。


「私は王都に戻って、姉上の助力を得ようと思う。うん。それが一番だ。姉上の手腕で、しっかりふんだくってもらうことにする!」


 言い切った。

 言い切ったが、最後の方はどう考えても勢いで言っている。

 セシリアを始めとした周囲の目が、一斉にジト目になってしまう。


 そう。この第二王女、戦や軍の動きに関しては天性の冴えを見せる。

 部隊運用、現場判断、兵の士気、敵の癖、退き際――そういった「戦場の理」に関しては、異様なまでに強く上手い。


 だが、政治案件になると露骨に速度が落ちる。

 流れは分かる。

 利益も損失も見える。

 でも、それを誰にどう振って、どう文書にして、どの順で詰めるか――そういう内々の面倒臭い作業が嫌いなのだ。


 要するに……分かってはいるが、やりたくない。


 アウローラは、全力で顔を逸らした。

 下手くそな口笛まで吹きながら。

 ひゅー、と。

 全然鳴っていない。


「ま、まあそんな訳で……ここで一度帝王たちが国に帰るのは、こっちとしてもありがたい」


 あからさまな話題転換だった。

 けれど――確かな意思もある。


「ひとまず落ち着く必要がある。……私達王国も、奴ら帝国もな」


 その言葉に、セシリアたちは視線を帝国側へ向ける。

 ちょうどその時、ウィルトスが傷だらけのアギトを背負って立ち去るところだった。

 帝国兵も、ハガネも、それに従って動いていく。

 さっきまで一触即発だったのが嘘みたいに、ただただ疲れた撤収の光景に見えた。


 その姿を見て――王国の将兵たちは、ようやく自分たちの内側を自覚した。

 随分と、頭に血が上っていたのだと。


 ここでの戦争を拒んでいたはずなのに。

 有羽が圧倒し、優勢に転じた瞬間、意識が一気に攻撃的になっていた。

 今こそやれる、今こそ押し込める、今なら帝国に思い知らせられる――そんな発想が、確かに胸をよぎっていた。


 それでは三年前の帝国と同じだ。

 戦いを目的に変えた、かつての帝国と。


 今回の有羽の助勢は、あくまで例外だ。

 王国民でもなければ、軍属でもない。

 あの力を頼るべきではないし、計算に入れるのも間違っている。

 あれは「偶然起きた奇跡」であって、前提にしてはいけない。


 だから今は――帝国も王国も、一度引き離すべきなのだ。

 再度、落ち着いた場を整える。

 謝罪と賠償の席を作る。

 神聖国への対応も含め、順番に詰める。

 それが、国としての正しい判断。


 アウローラは感覚だけではなく、ちゃんと終着まで見ていたのだ。

 だからこそ飛び出そうとする兵を止めていた。

 有羽の行動に口を挟まなかった。

 有羽への信頼だけではなく、王族としての冷静な判断の上で。


 セシリアは、腕の中のクロエを撫でるアウローラの横顔を見る。

 その横顔は、先ほどまで死にかけていた人間とは思えないほど落ち着いていた。


 そんなアウローラの視線の先には――有羽がいた。





 ◇◇◇





 そして有羽は――去っていく帝国の者達を、黙って見送っていた。


 大河の向こう側。

 傷だらけのアギトを背負った帝王ウィルトスが、振り返りもせずに歩いていく。

 その後ろを、帝国の兵達が続く。誰もが重い足取りだった。勝った軍の背ではない。敗残兵のそれとも少し違う。辛うじて壊れずに済んだ者達の、疲れ切った背中だった。


 ハガネもまた、その列の後ろにいた。

 一度だけ、有羽の方へ視線を向ける。静かな眼差し。敵意も、感謝も、憎悪も、軽蔑もない。ただ、あまりにも隔絶した強さを前にした者特有の、苦い納得だけがそこにあった。

 やがて、老剣士もまた帝国兵の列に紛れ、遠ざかっていく。


 去っていく帝国。

 かつて戦争で多くの命を奪った帝国。

 一方的に攻め込み、南を焼き、王国に痛みを与えた帝国。

 アウローラを悲しませた帝国。


 嫌っていた。

 いや、今でも嫌っている。

 それは間違いない。全く好きになれない。

 争いの中で生き、争いの中で歴史を積み上げ、力で物を言ってきた国。

 どう取り繕おうと綺麗なものではない。

 それに対して抱く感情が、好ましいものである筈がない。


 けれど。


(……結局、順番なんだよな)


 有羽は思う。

 感情の好悪など、案外くだらないもので出来ている。

 先に何に触れたか。先に誰に会ったか。先にどんな顔を見たか。

 心の傾きなんて、そういう「順番」にひどく左右される。


 実際、もしもアウローラと出会っていなかったのなら。

 自分が転移した場所が森の南ではなく、仮に帝国側に近い土地だったのなら。

 ウィルトスや帝国兵と先に顔を合わせ、飯でも食って、酒でも飲んで、笑いながら馬鹿話をする機会があったのなら――きっと、有羽は今みたいな悪感情を抱いていなかった。


 帝国が嫌いなのは……帝国が王国に被害をもたらしたからだ。

 もっと突き詰めれば――アウローラを泣かせたからだ。


 順番。

 先にアウローラに出会った。

 先に、あの眩しい金髪と、馬鹿みたいに真っ直ぐな瞳と、どうしようもなく面倒で明るい性格に触れた。

 だからこそ、感情の傾きは王国へは好印象に。帝国へは悪印象に傾いた。


 それだけのこと。

 ただ、それだけのことで人の心は動く。

 ただ、それだけのことで動いてしまうから――たった一言で揺れることもある。


(……友、ね)


 帝国の者達が選んだ答え。

 馬鹿で、無謀で、損得を考えない選択。

 「友」を見捨てないという一点だけで、勝ち目のない相手に立ち塞がる愚行。

 それが、有羽の琴線に触れてしまっていた。


 友人。

 かつて地球にいた頃の友人。

 まだ中学生だった頃。放課後に馬鹿騒ぎして、くだらないゲームの話で盛り上がって、コンビニで菓子を買い食いしていた頃の友人。


 もう会えない。

 二度と戻れない、日本での生活。

 この異世界に来て八年。八年も経って、果たして自分に「友人」と呼べる相手が出来ただろうかと。


 考える。

 考えて――思い浮かばない。

 誰もいない。

 少なくとも、地球にいた頃の意味での「友人」は、どこにもいない。

 あえて近い存在を挙げるとするならば。


(女帝さん?)


 脳裏に、無表情な樹の人形が浮かぶ。すぐに張り合って怒鳴ってくる西の主。

 あれを友人と呼ぶのは、どうにも違う気がする。ご近所さんではあるのだが。


(探求の女神さん?)


 次いで、食い意地張っている眼鏡美女の顔が浮かび、有羽は無意識に眉を顰めた。

 あれは……どうだろう。あれも友人というより、引っ越してきた面倒くさい隣人。


(なら――)


 そこで、最後に浮かぶのは一人だけ。


 アウローラ。

 有羽は、自分の中で答えが出ていることを知っている。

 もう、とっくに自覚している。

 アウローラに対する感情が、「友愛」なんてものを越えていることに。


 越えているからこそ、だ。

 あれだけの警告を無視して。

 空間を渡ってまで、ここへ来た。


 森の外へ出る「選択肢」が欠落していた有羽が、無理矢理道を差し込んでまで。

 あらゆる理屈を踏み越え、空間跳躍を使ってまで、ここへ飛んできた。


 そこまでして来た意味を。

 その結果を。

 その代償を。

 今まさに考えようとした、その時。


「おーい! 有羽ー!」


 元気の良い声が飛んできた。

 思考が途切れる。

 視線を向ける。

 アウローラが、こちらに駆け寄ってきていた。


 腕の中にはクロエを抱いている。

 小さなゴーレムがじたばたと暴れているのに、そんなもの全く意に介さない勢いで、真っ直ぐにこちらへ走ってくる。


 黄金の髪が揺れる。

 きれいなポニーテールが跳ねる。

 まるで犬の尻尾のように元気よく揺れている。


 その姿に、思わず有羽は苦笑した。

 本当に、愛くるしいわんこみたいだった。

 あの姿を守りたくて、ここまで跳んできた。

 色々と説明が面倒くさそうだ。

 後始末は間違いなく厄介だ。

 女帝に何を言われるかも分からないし、置いてきた探求神が泣き喚いている姿も簡単に想像できる。

 それでも。


(……まあ、仕方ないか)


 そう思って、有羽は一歩、アウローラに向かって足を踏み出した。











 その、直後だった。


 有羽が崩れ落ちるのは。




 何の前触れもなく。


 糸を切られた人形のように、支えを失って。











「……有羽?」


 アウローラの声が、遅れて響く。


 有羽は自分が崩れたことを理解した。

 理解したが、身体が言うことを聞かない。

 足に力が入らない。膝から下が、自分のものではないみたいに冷たい。

 いや、下半身だけではない。胸も、腹も、腕も、指先も――自分の身体が、内側から空洞になったような感覚。


 どさり、と膝をつき、次いで上体が傾ぐ。

 視界が揺れる。





「…………ああ……なるほど……()()()()()()()……」





 有羽は、呆れたように呟く。


 気づいてしまった。

 自分の中の「何か」に。

 森の外へ出るという選択肢が欠落していた意味に。


 ここへ来る時、確かに警告があった。

 動くなと。

 森の外はお前の居場所ではないと。

 それを踏み越えた。

 結果が、これだ。


「有羽――有羽!? おい、どうした!? 大丈夫か!?」


 アウローラが慌てて駆け込み、倒れかけた有羽の身体を抱き留める。

 有羽の身体に触れた、その瞬間。

 アウローラの顔から血の気が引いた。


「え……?」


 冷たい。

 とてつもなく冷たい。


 人肌ではない。

 汗で冷えた、などという生易しい温度ではない。

 まるで凍てついた氷を直に抱いたような冷たさ。

 生きた人間の温度ではない。


「なに……これ……?」


 その温度に覚えがあった。

 知るはずのない温度なのに、指先が知っていた。

 忘れようがない冷たさなのに、何故か思い出せない。


 記憶の奥に焼き付いたままの感触。

 もう二度と触れたくなかった温度。

 思い出した瞬間に心臓が凍りつくような絶望。


 名前にならない。

 脳が拒んでいる。


 そんなアウローラをよそに、有羽は必死な形相でクロエへ顔を向けた。


「……おい、クロエ」


 クロエがぴたりと動きを止める。

 小さな硝子玉のような瞳が、有羽へ向く。


 鬼気迫る顔だった。

 さっきまでアギトを圧倒していた時とも違う。

 だが、意識だけはしっかりしている。

 伝えなければならないことだけは、絶対に落とさないと決めている顔。

 あらゆる意味を込めて――。


「――王国を護れ。いいな」


 ただ、それだけを告げる。

 それしか告げられないと言うように。

 必死に――まるで、託すように。


 クロエが目を見開く。

 小さな身体をびくりと震わせる。

 意味を完全に理解しているかは怪しい。それでも、その言葉の重さだけは伝わったのか――いつもの愛らしい顔が、珍しく真剣なものに変わった。


 有羽は一度だけ、クロエの頭を撫でた。

 氷のように冷たい手で――酷く優しく。


 次いで、視線をアウローラに向ける。

 アウローラの顔は蒼白だった。

 怯えた目をしている。

 何かを思い出しかけていて、思い出したくないのに――それでも絶望を止められない顔。

 そんな彼女に向かって、有羽は掠れた声で言う。




「……悪い。森に、戻るわ」




 それだけ。

 理由も説明も無い。

 言い訳も無い。

 ただ、それだけを残して――。





 ――有羽の姿が、消えた。





 来た時と同じ空間転移。

 瞬きほどの刹那。

 視界が歪んだと思った時には、もうそこにいない。


 風も、光も、派手な現象はない。

 ただ、そこにあったはずの人影が、ぽっかり抜け落ちる。


 王国兵たちが一斉にざわめく。

 驚きの声が上がる。

 だがそのざわめきは、アウローラの耳に届いていなかった。


 思い出してしまったのだ。

 あの冷たい体温を。

 あの凍てついた感触を。

 あの、血も涙も乾いた後の、絶望の温度を。




 あれはかつて――夫の死骸に触れた時の温度。

 永遠に目を覚まさない、黒髪の伴侶の身体に触れた時の温度。

 安らかな顔のまま冷え切っていた、あの時の温度。




 全く同じだった。

 全く同じ――死者の冷たさ。


 頭の中で、何かが切れる。

 恐怖が、過去と現在を繋げてしまう。





「有羽……?」



 掠れた声。

 次の瞬間、それは悲鳴になった。



「有羽――有羽ーーーーっ!?」





 叫ぶ。

 喉が裂けそうなほどの絶叫。


 大切な人の名を。

 今まさに失いかけているかもしれない人の名を。

 過去と同じ絶望へ落ちるのを拒むように、必死に。




 けれど、その呼びかけに応えてくれる有羽は――もうどこにもいなかった。




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