表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第七章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

105/136

第103話・雷鳴


 遠い記憶を思い出す。


 黒髪を後ろで束ね、いつも優しく笑っていた人の姿。

 同い年。幼いころから同じ講義を受け、同じ剣で汗を流し、同じ道を歩いた。

 公爵家の長男で、王国の将来を背負うべき神童で、そして――アウローラの婚約者。


 名を呼ぶだけで、喉が熱くなる。

 けれど記憶の中の彼は、いつも同じ顔で立っている。礼節を崩さず、冗談を言っても品を失わず、身につけた正しさを誰より自然に扱う人だった。


 剣も魔法も学業も、何もかもが高水準。

 人に慕われることを当然のように受け止める器。

 公爵家の名に恥じぬ若君。


 けれど、アウローラだけは知っている。

 彼は、意外と照れ屋だった。

 民に「ありがとうございます」と頭を下げられたとき。

 部下に憧れの眼差しで見上げられたとき。

 冷静に言葉を返し、笑って受け流しながら――ほんの一瞬、視線を外す癖があった。


 ほんの僅かだけ、恥ずかしそうに。

 賞賛や憧憬が当たり前ではないと知っているからこその、ぎこちなさ。


 その癖を見つけるたび、アウローラは笑った。

 彼は困った顔で「笑わないでくれよアウローラ」と言う。

 その声が、やけに優しかった。

 未来はそこにあると、信じていた。

 心の底から、信じていた。




 だから――その知らせが届いたとき、心が砕けそうになる。




「……戦死、です」


 報告の声がやけに遠い。王都の執務室は明るいのに、目の前だけが暗い。

 言葉が頭に入ってこない。聞き返した自分の声が、他人のもののように響く。


 死因は、銃。

 帝国の新兵器。


 胸を撃ち抜いたと、淡々と告げられる。

 その淡々とした説明が、アウローラの中の何かを壊した。


(銃……? そんなもので?)


 そんなもので。そんな不条理で。

 アウローラの世界の形が歪んだ。


 王都の守りを任されていたアウローラは、帰還を待っていた。

 必ず帰ってくると、疑わなかった。

 帝国を打ち倒し、笑って報告に来ると――根拠もなく、確信していた。


 だから……棺の中で彼を見た時、理解が遅れた。


 安らかな寝顔。

 本当に、ただ眠っているだけに見えた。

 永遠に起きないという事実が、目に映る寝顔と噛み合わない。

 胸の甲冑だけが生々しくて。

 穿たれた穴が、どうしようもない現実を突きつけてきて。


 ……葬儀の日の夜、アウローラは礼拝堂に一人で入った。

 灯火が小さく揺れる。石の床は冷たく、祈りの声だけが高く響く。


 どうか、安らかに眠れますように。

 どうか、苦しみなく。

 どうか、せめて魂だけは穏やかでありますように。

 そう祈っていた、はずだった。


 けれど、祈りは途中で止まった。

 胸の奥の空白に、別のものが満ち始める。

 熱い。苦い。黒い。

 指先が震え、祈りの言葉が唇から剥がれ落ちた。


 気づけば立ち上がっていた。

 腰の剣を抜いていた。

 そして、激情のまま石床に突き立てる。


「……奪ったな」


 言葉が、唇からこぼれた。

 声が震えているのに、王女のものとは思えない。


「国の未来を、奪ったな」


 呼吸が荒くなる。

 胸の奥で何かが灼けていく。

 涙ではない。嗚咽でもない。もっと熱く、もっと鋭い何か。



「私の……私たちの未来を奪ったな」



 その瞬間、身体の内側で、魔力が軋む。


 火。

 魔力循環を限界まで励起する。

 血が熱に変わる感覚。心臓が叩く音が、魔力の鼓動に重なる。


 風。

 放電路を強制生成する。

 空間に道を作る。見えない線を、無理やり繋ぐ。


 これまでも、火と風を合わせて雷を作ったことはある。

 戦場で何度も使った。制御できる範囲で。自分の手の中で。


 けれど、その夜の雷は違った。

 その時に宿ったものは――雷鳴そのものが肉体を借りて生まれたような暴威。

 熱く。眩しく。痛い術式の渦。

 少しでも雑念が混ざれば、術者自身が灰になる領域。


 にもかかわらず、不思議と怖くなかった。

 怖いという感情が、怒りに焼かれて消えていた。




 そして――心が決まってしまった。

 決めた瞬間、雷も定まった。

 定まってしまったのだ。




 翌日。

 制止の声は、すべて振り切った。

 父の命も。

 側近の懇願も。

 侍女たちの涙も。

 何も届かなかった。


 死んだ彼の代わりに、自分が戦場へ赴く。

 それ以外の考えは皆無で。踏み止まる良心など欠片も見えなくて。


 戦場では帝国軍が押していた。

 銃による制圧。

 王国軍は前線を維持するだけで精一杯。

 剣で届く前に撃たれ、魔法を編む前に撃たれ、兵が倒れていく。


 見えた。

 帝国兵の列が。

 砦が。

 煙が。

 怒号が。

 そして、その向こうにある、彼を奪った国の息遣いが。


 一切合切、どうでもよかった。

 戦局も。

 損耗も。

 その先の政治も。


 ただ、許せなかった。

 あの人を奪った帝国が、目の前で息をしていることが耐えられなかった。


 だからアウローラは手を掲げる。


 迷いなく。

 躊躇なく。

 胸の底のすべてを燃料に変えて。




「――絶雷開放(マグナアストラペー)




 最初の稲妻が落ちたとき、空が裂けた。

 音が遅れて届くはずの雷鳴が、身体の内側から響いた。


 嵐が生まれた。

 雷の柱が一本ではなく、無数に落ちる。

 落雷のたびに地面が白く焼け、影が消える。


 帝国兵の列が、悲鳴ごと焼けた。

 甲冑が溶け、旗が燃え、地面そのものが黒く弾ける。

 砦の壁が砕け、木柵が爆ぜ、火の粉と灰が竜巻のように舞い上がる。


 幾千という命が、音もなく消えた。


 耳を塞ぎたくなるような絶叫。

 目を背けたくなるような焦土。

 それでもアウローラは、目を逸らさなかった。




 むしろ――嗤っていた。

 焦土と化した戦場を見て。黒い炭と化した帝国兵を見て。

 アウローラは、嗤っていた。




 次の瞬間、力が抜けた。

 支えていた風の道が解け、火の循環が途切れる。

 膝が折れ、視界がぐらりと傾く。

 意識が落ちる直前、遠くで誰かが王女の名を叫ぶ。


 少しだけ晴れた心を自覚しながら。

 死に絶える帝国兵を、笑顔で見つめながら。

 ――アウローラの意識は落ちた。






 次に目を開けたとき、天井が見えた。

 王国の天幕。薬草の匂い。湿った布の感触。


 喉が痛む。

 身体が重い。

 視界の隅に、心配そうな顔が並ぶ。医療兵。護衛。神官。

 皆の顔が、怖いものを見た後の顔。


「……殿下」


 誰かが言った。

 言葉を選んでいる声。


「帝国より……停戦の申し出がありました。不可侵条約の提案です」


 停戦。

 その言葉が耳に入った瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。


(ふざけるな)


 第一の感情は、それ以外にない。

 あの人を奪っておいて。

 戦場の形を歪めておいて。

 今さら「止めましょう」と言うのか。


 けれど、次の瞬間理屈が追いつく。

 王国側も被害が大きい。銃で多くが死んだ。

 ここで戦を続ければ共倒れになる。


 呑むしかない。

 受け入れるしかない。


 その事実が、じわじわと現実を戻してくる。

 現実が戻ると、アウローラはようやく――自分が何をしたかを思い出す。


 雷の規模。

 制御の綱渡り。

 僅かでも誤れば、自分が灰になる禁呪級の代物。

 いや、それどころか――王国軍も、味方の砦も、下手をすれば民の住む地にまで被害を広げたかもしれない。


(……私、何を)


 遅すぎる恐怖が、背筋を凍て付かせる。

 怒りに焼かれて消えていた「怖さ」が、今になって戻ってきた。


 そして、気づいてしまう。

 一度でも心に歯止めができたなら、二度と同じ場所には立てない。

 あの領域は、狂気で踏み越える壁。

 正気を取り戻した瞬間に、扉は閉まり鍵がかけられる。


 アウローラは本来、負の感情から遠い。

 明るく、活発で、笑う方が似合う人間だ。

 だからこそ、あの雷は「二度と辿り着けない例外」になった。



 しかし……それでも……消えるはずがない。



 あの日の無念。

 あの日の憎しみ。

 あの人の寝顔と、穿たれた甲冑の穴。

 奪われた未来の形。


 胸の奥に、まだ雷鳴が残っている。

 鳴り響く音だけが、戦争の終わりを拒んでいる。





 ◇◇◇





 遠い記憶を思い出す。


 帝国がまだ東部を統一しきっていなかった頃。

 攻め取った領土の書庫で、それは見つかった。


 古い棚の奥。

 湿気と埃にまみれた箱の中。

 羊皮紙でも従来の紙でもない、妙な質感の束。

 そこに書かれていた設計図は、帝国のどの技術書とも違っていた。


 文字がまず違う。

 文法が違う。

 発想が違う。

 まるで別世界から持ち込まれたような設計。


 金属の管。

 火薬めいた概念。

 引き金。

 弾丸。

 圧力の逃がし方。

 単純に見えて、あまりにも繊細。

 帝国の技術者たちは顔をしかめ、魔導師たちは「こんなもの、まともに動く訳がない」と吐き捨てた。


 だがウィルトスだけは、その紙束を見たとき直感で悟った。

 これは力無き者に力を授ける武器だ、と。


 訓練に年月を要する剣でもない。

 膨大な素質や魔力を必要とする魔法でもない。

 握り、狙い、撃つ。

 それだけで、農民が翌日に兵を殺せるかもしれぬ武器。

 その本質を、ウィルトスは一目で嗅ぎ取った。

 だから――作らせた。


「面白い」


 ウィルトスのその一言で、帝国は動いた。

 帝国は鉄工生産が盛んだ。

 鍛冶は強い。鋳造も進んでいる。武具の改良を戦の中で重ねてきた土壌がある。

 だが、魔法の才能が低い者も、筋肉の無い者も、帝国には山ほどいる。農民も職人も、徴募されれば兵になる。しかし彼らは剣を握っても一朝一夕では強くならない。


 ならば、強さの方を降ろしてやればいい。


 再現は困難だった。

 材料の精度が足りない。筒の内側の滑らかさが出ない。発火が安定しない。弾が真っ直ぐ飛ばない。暴発する。破片が飛ぶ。兵の指が消える。

 それでも工房は止まらず……不完全ながら、どうにか形になった。


 そして完成した試作品が、帝王の前に差し出された日。

 その試射を直接見たあの日。


 乾いた破裂音。

 短い閃き。

 そして、分厚い鉄板に空いた穴。


 大砲ほどの轟音ではない。

 魔法ほどの派手さもない。

 だが、その小ささが逆におぞましかった。


(これは、弱い者に牙を与える)


 剣の間合いに入れない者が、間合いの外から殺せる。

 勇気のない者が、勇気のある者を倒せる。

 才能のない者が、才能のある者を打ち抜ける。


 そしてその先――民が、翌日に兵を倒せる。


 こんなものが、兵の手に収まる。

 これが隊列を組んで一斉に撃たれたらどうなる。

 騎士の突撃は。

 魔導師の詠唱は。

 名のある英雄は。

 どこまで通じる。


 その時のウィルトスは、背筋に走る寒気すら快感として味わった。


(――撃ちたい)


 純粋にそう思った。

 危険。均衡の崩壊。軍事バランス――そんなことは後でいい。

 まずは撃ちたい。

 まずは試したい。

 まずは敵がどう死ぬか見てみたい。


 ――いま思えば、その時点でもう酔っていたのだ。

 戦いに。

 勝利に。

 新しい武器に。

 相手が自分の知らぬ死に方をする、その一方的な優位に。


 新兵器「銃」。

 新兵種「銃兵」。


 帝都の訓練場では、若い兵が目を輝かせて引き金を引いた。

 熟練の騎士が顔をしかめた。

 老練な将たちが便利さと危うさの両方を嗅ぎ取った。

 だがウィルトスは、その全部を押し切った。


 それ故に目標を定める。

 南へ。

 南王国へ。


 東部を統一し、さらなる敵を求めた帝王の進撃は、自然に南を向いた。

 国境線に近づくほど、胸が踊った。戦いの予感ではない。銃声の予感だ。


 当時の自分は、醜かったとウィルトスは思う。

 戦いを手段ではなく目的にした。勝つためではなく、撃つために進んだ。

 国境の砦で、辺境伯と舌戦をしている時ですら、頭の片隅ではこう思っていた。


(早く撃ちたい)


 大砲と違って携行できる。

 魔法と違って、魔力の起こりがない。

 察知が難しいのに、鉄を貫く。


 鎧に守られた歩兵が崩れる。

 盾を構えた兵が吹き飛ぶ。

 馬上の騎士が、槍を構える前に落ちる。


 面白いように敵が倒れた。

 銃声が鳴るたびに、酩酊した気分になって嗤った。


 戦場は、酒場だった。

 銃声は、乾杯の音だった。

 あまりに――浅ましかった。


 その途中、若き公爵令息が倒れた。

 王国の旗を背に、前へ出すぎた男。剣も魔法も巧いと聞いていた。部下の動きが整っていた。将としての才があった。

 撃ち抜かれた瞬間、彼は驚いた顔をした。驚いたというより、理解が追いついていない顔だった。


 ウィルトスは、その顔を見たはずだった。

 見たはずなのに――胸は動かなかった。


(敵が減った)


 戦果の一つ。

 敵将撃破の一報。

 その程度にしか捉えていなかった。


 いま思えば、それがどれほどの火種だったか。

 どれほど深く、相手の心臓を踏み抜いたのか。

 想像すらせずに。


 やがて、銃の使用が増えすぎた。

 製造も整備も追いつかぬまま、前線で撃たせ続けたせいか、暴発も増える。

 手が吹き飛ぶ兵。

 顔を焼かれる兵。

 湿気や汚れで不発となり、混乱する銃兵。

 その頃になってようやく、ウィルトスは少しだけ正気に返る。


(……やり過ぎたかもしれん)


 そう思った。

 踏み込み過ぎたかもしれぬ。

 兵の扱いも、新兵器の扱いも、調子に乗り過ぎたかもしれぬ。

 だが、その時でもなお根本では楽観していた。


 戦果は十分。

 南王国は削れている。

 このまま押せば、属国にするのも難しくない。


 呑気だった。

 浅かった。

 酔っていた。


 ――底冷えする、稲妻のような声が聴こえる、その時まで。






「――絶雷開放(マグナアストラペー)






 その言葉が戦場に落ちた瞬間、ウィルトスは理解できなかった。

 何が起きるのか。何を意味するのか。どんな術式なのか。


 理解する前に、空が裂けた。


 稲妻が落ちる。

 一度ではない。二度でもない。

 雨のように、ではない。

 雨よりも密に、釘のように、矢のように。

 空そのものが、牙を剥いた。


 轟音。

 爆音。

 絶叫。

 悲鳴。


 雷の雨。

 雷の嵐。

 雷という概念を、軍勢の上に丸ごと叩きつけたような暴威。

 視界が真っ白に潰れ、次に見えた時には誰かが燃えていた。


「陛下!」


 誰かの叫びが聞こえた。

 次の瞬間、多くの部下が、多くの「友」が帝王を守っていた。


 傍仕えの従者が、ウィルトスの前に立った。

 古くから仕える忠臣が、盾を重ねた。

 頼りになる魔導師が、歯を食いしばったまま障壁を積み上げて。


 壁だった。

 帝王の周りを、肉と鉄で塞ぐように。


 その瞬間、ウィルトスは初めて恐怖した。

 自分が死ぬ恐怖ではない。

 自分のせいで、彼らが死ぬ恐怖だ。


「下がれ!」


 そう叫んだはずの声は、雷鳴に潰れる。

 届かない。届くはずがない。この雷雨の中で、言葉など紙切れだ。


 焼け焦げる匂い。

 肉が焼ける匂い。油が燃える匂い。鉄が熱で歪む匂い。

 それらが混ざり、戦場そのものが炉になった。


 魔導師が歯を食いしばり、血を吐き、なお支える。

 騎士が焼ける匂いがする。

 耳元で誰かが何か叫んでいるが、もう聞き取れない。


 雷の雨の中で、人の形が壊れていく。





 ……やがて、嵐が引いた。


 音が遠のく。白さが消える。視界が戻る。

 戻った視界の中で、ウィルトスは立っていた。

 立ってしまっていた。


 周囲には黒い炭が散らばっている。

 倒れているのは兵だとわかる。けれど――誰が誰か、わからない。

 形がない。名札もない。顔もない。声もない。

 ただ、炭がある。


 砦の石壁は焼けてひび割れ、槍は曲がり、旗は燃え尽き、地面は焦土になっていた。

 生き残った者がいる。膝をつき、何も言えず、ただ口を開けている。

 叫ぶ力すら奪われた顔。




 ……そんな光景を目に焼き付けた後、ウィルトスの喉が詰まった。

 何かが胸からせり上がる。


 ――涙だった。


 ウィルトスはその場で崩れ落ちた。

 帝王が地面に膝をつき、泥と灰を掴み、震えた。


 泣いた。

 咽び泣いた。

 生涯初の慟哭だった。


 祖父が死んだ幼い時でさえ、ここまで泣かなかった。

 両親が死んだ若い時でさえ、拳を握って耐えた。

 帝王は泣かない。それが誇りで、それが形で、それが国の支柱だった。


 だが――この炭の前で、誇りは何の役にも立たない。


(……何をしてしまった)


 敵を追い詰めすぎてはならない。

 逃げ道は用意しなければならない。

 さもなくば敵は死兵になる。

 そんなこと、わかっていたはずなのに。


 わかっていたのに、忘れた。

 戦いを目的にした。

 相手を殺すことを快楽にした。

 銃の優位に酔い、踏み込み過ぎ、相手の逃げ道を焼き払った。


 その代償が、ここにある。


 炭になった者たちは、命令を聞いただけだ。

 帝王の言葉を信じただけだ。

 帝国のために戦っただけだ。


 なのに、帝王だけが生きている。


 その事実が、喉を裂いた。









 陣地から退いた後、宰相が天幕に入ってきた。

 冷静なはずの宰相の顔が、初めてみるほど青白い。


「停戦を提案します」


 ウィルトスは、返事をしなかった。

 しなかったというより、できなかった。


 宰相は言葉を続けた。

 被害が大きすぎること。兵の補充が追いつかないこと。補給線が崩れていること。

 そして何より――次にもう一度あれが落ちれば帝国は終わること。


 終わってしまう。

 国が死ぬ。

 帝国が焼ける。


 そこまでされたら、こちらも死兵になる。

 相打ち覚悟で南王国に攻めるしかない。

 だがそれは勝利ではない。瓦礫の上で立つだけだ。

 帝王が夢見た進撃ではない。


 あれだけの規模の魔法を再度使えるかどうかは、わからない。

 だが、分からぬからこそ試す訳にはいかない。

 国家の命運を賭けて「たぶん二度目はない」と楽観するほど、帝王も、宰相も、将たちも、もう酔ってはいなかった。


「不可侵条約を結ぶべきです」


 ウィルトスは笑った。

 枯れ果てた喉で、笑った。


「攻め込んでおいて危うくなったから停戦、か。恥の極みだな」


 宰相は一瞬だけ目を伏せ、しかしすぐに言った。


「恥をお呑みくだされ。帝国を生かすためです」


 その言葉が、矢のように刺さる。

 帝王の矜持を刺し、それでもなお国を残すための現実を突きつける、矢のような諫言。


 ウィルトスは、呑んだ。

 呑むしかなかった。


 これ以上、兵を失えない。

 どれだけの友が死んだ。

 どれだけの忠臣が焦げた。

 自分の醜悪な酔いのせいで、どれだけの命が消えた。


 恥でもいい。

 屈辱でもいい。

 帝国という国を活かすためなら、汚名も不徳も飲み込む。

 それが帝王の役目だと、その時ようやく思い出した。


 だが。

 それでも。

 ウィルトスの中から、何もかもが消えたわけではない。


 後悔がある。

 無念がある。

 涙の苦悶がある。

 そして――憤りがある。


 あの雷で多くの友を喪った。

 あの白い光に、名前のある命が焼き尽くされた。

 戦での失態は、確かにウィルトス自身のもの。

 慢心も、傲慢も、酔いも、全て自分の罪。



 だが、それはそれとして。

 多くの帝国兵を消し炭に変えたあの王女を、許せるはずがなかった。



 戦場の理屈では整えきれぬ感情がある。

 過ちを認めてもなお、許せぬものがある。

 散った英霊たちの墓前に立つたび、胸の底で煮え続けるものがある。


(借りは返す。必ず、返す)


 帝王とは、国家の顔だ。

 顔は笑っても、内側の傷は隠せない。

 傷が残ったままでも、前に進むしかない。

 それが帝王だと、ウィルトスは学んだ。





 ◇◇◇





 そして今――エルム大河には冷気が帯びている。

 気温が低い訳ではない。漂う空気が冷え切っているのだ。


 ウィルトスは目を細め、河向こうのアウローラを見る。

 アウローラは拳を握り、川向うのウィルトスを見る。


 稲妻の王女。幾千の帝国兵を炭に変えた女。

 進撃の帝王。数多の王国兵を穴だらけにした男。


 三年前のあの日から、双方の国が最も恐れ、最も憎み、そして最も忘れられない存在。


 憎悪がある。

 憤怒がある。

 止めようのない殺意がある。

 だが同時に――胸の奥のどこかで、別の声もする。


(追い詰めすぎるな)

(踏み止まれ)


 互いに過ちを犯さないよう、心を必死に律している。

 互いに胸に抱えるものはひとつではない。憎悪と憤怒に溺れぬ、為政者としての理性がある。


 お互いがお互いを、見返す。

 その目に、三年前の嵐の残響が見える気がした。

 きっと、同じだ。二人とも、終わったはずの戦が、胸の内で終わっていない。


 それでも、ここまで来た。

 河を挟んで、宿敵と向き合うところまで来た。


 全てを焼き尽くしたあの稲妻は、今も雷鳴を轟かせている。

 それは王女の心の中でも、帝王の胸の奥でも同じ。




 雷鳴は――ずっとずっと、鳴り続けている。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
自分から襲って返り討ちされて自分の兵たちが死んだら怒った? この帝王、好きじゃないね。ふざけんな!!って叫びたい気持ちも半端ない。 誰か、この帝王にわからせれる人がいるのかな… *隠者の方にちらちら…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ