第104話・睨み合い
エルム大河の水を挟んで、静かな睨み合いは続いていた。
主役は、河を挟んで立つ二人だけ。
王国側の先頭に立つ第二王女アウローラ。
帝国側の先頭に立つ帝王ウィルトス。
両軍の兵は、誰も口を開かない。
開いてはならないと、知っているからだ。
敵軍が相対したとき、最初に言葉を持つ権利は総大将にしかない。
兵が先に怒鳴れば、それは無礼では済まない。前哨戦の手順を踏み外した、国そのものの未熟さになる。
だから誰も喋らない。怒りに顔を赤くしている者も、手の中で槍を握り潰しそうな者も、皆ひたすら黙っている。
今この場で、最初に口を開くべき者は二人だけ。
ゆえに――まずはアウローラが、口を開いた。
笑っていた。
戦場用の、よくできた笑顔だった。
明るく見せかけて、少しでも気を抜けば噛みつく牙が見える類の笑み。
「帝王自ら国境線に足を運ぶとはな。どうした? 気になるものでも見つけたのか? それとも――王国が怖くて怖くて、様子を見ないと落ち着かないのか?」
声はよく通った。
河の流れも、風の音も、兵の鎧の擦れる音も、その一言の前では下がるしかない。
挑発だ。
露骨で、わかりやすく、だが雑ではない。
先手を取る。
相手の感情を揺らす。
その揺れ方で、何を気にし、何を隠しているのかを測る。
戦場における最初の一撃は、剣ではなく言葉である。
アウローラはそれを知っている。
知っているからこそ、まるで退屈しのぎの雑談でも始めるような声音で放った。
対岸のウィルトスは、鼻で笑った。
怒らない。
眉ひとつ動かさない。
むしろ、軽く肩をほぐしただけだった。
「なぁに。何やら、余の国をこそこそ覗き見る臆病者が居たようなのでな。その顔を見に来たのだ……結果的に、想像以上に有名な臆病者が見つかったようだがな?」
帝国側の兵の一部が、わずかに口元を歪める。
王国側では、逆に数名が喉を鳴らした。
王国が帝国を覗いた。
帝国はそれを感知した。
その事実を、あくまで「断定ではなく揺さぶり」として言葉の上に置く。
直接の言質は取らない。
だが共通認識として地面に落とす。
この男もまた、戦の口を知っている。
アウローラの笑みが少しだけ深くなった。
「ほう? 見られた程度でこんな場所まで来たのか。なるほど、まるで着替えを覗かれた乙女の如き反応だな。いや、認識を改めねばならぬか。帝国というのは、柔肌を見られた娘のように悲鳴を上げるのだと」
風がひゅうと鳴った。
王国側の兵の中には、危うく吹き出しかけて唇を噛む者がいた。
帝国側には、目の色が変わる者がいる。
だがウィルトスは崩れない。
崩れないどころか、その手の下卑た比喩を笑って流せるだけの度量があった。
「思慮深さのない王国よりはよかろうよ。まあ、それほど余の帝国が怖いのであれば、覗き見もやぶさかではないが……こちらも認識を改めよう。王国は恐怖のあまり帝国を覗き見る鼠の集団とな」
「鼠で結構。賢い鼠は猫に食われん」
「ほう? 余の知る鼠は、たいてい最後に罠にかかるが?」
「そうか。帝国は罠でしか獲物を捕れぬと自白してくれるのか。実に助かる」
軽い。
あまりに平気で発せられる鋭い軽口。
けれど、互いに刃の角度を調整している。
この程度のやり合いで感情を露出するほど、二人とも幼くはない。
むしろこの程度で済んでいること自体が異常だった。三年前に血を流し、互いに深い傷を残した当人同士である。罵声の一つで剣に手がかかってもおかしくない。
それでもまだ口先で済んでいるのは、理性があるからだ。あるいは、理性を失えば本当に終わると知っているからか。
両軍の兵にとっては、今のやり取りだけでも十分に胃が痛い。
帝国を「乙女」呼ばわりされて顔を赤くする帝国兵。
王国を「鼠」呼ばわりされて歯ぎしりする王国兵。
だが、どちらも動かない。動けない。
主君たちが笑っている以上、兵は怒りを飲み込むしかない。
ただ視線だけで、唯一許されている瞳だけで、その全てを相手に向けている。
ウィルトスは不敵な笑みを崩さぬまま、そんな王国兵たちの視線を受け止めていた。
(おうおう。えらく恨まれておるな)
面白がるような顔をしているが、頭の中は実に冷えている。
(今すぐにでも河を越えて斬りかかってきそうな目ばかりだ。くく……この分だと、余は南王国で相当悪辣に罵られているようだ)
向けられる視線には温度があった。
敵意。
憎悪。
殺意。
けれど、それらは制御されている。
視線の熱が、そのまま身体の動きになっていない。
怒りで顔を強張らせている者は居る。奥歯を噛みしめている者も居る。槍を握る手に力が入り、白くなっている者もいる。
それでも一歩も出ない。
誰一人として、自分の憎悪を理由に規律を壊さない。
(……当然よな)
ウィルトスは、笑いながらそう思う。
(三年前に侵略してきた国の王だ。むしろ敵意を向けぬ兵の方が問題有りだ。それでも一切動きに見せぬ自制心……優秀な兵だ)
己が何者かなど、今さらだ。
群雄割拠の東部で帝国が統一に至るまで、どれだけの国を踏み潰し、どれだけの王の首を見てきたことか。
親も祖父も、皆そうだった。帝国の王とは、血に塗れた座を守る者の別名である。
周囲の国の恨みを浴びて、それを踏み越え、それでも笑って前に出る者だけが王として生き残る。
自身が暴君であることなど、とうの昔に理解している。
その上で、なお進むのがウィルトスの生き様だ。
だから変わらない。
どれだけ負の感情を向けられようと、帝王の背筋は折れない。
そして、その「変わらなさ」は――アウローラも同じ。
王国第二王女は、口元に薄い笑みを浮かべたまま、帝国兵の顔をひとりずつ見ていた。
(流石は帝王の供回りを任される兵だな)
その視線は細く、けれど冷静だった。
(全員、凄まじい眼光をしている。理性のタガが外れれば、今すぐにでも河を越えて私を殺しにくるな……ははっ。お前達から攻め込んできたくせに、実に身勝手な連中だ)
理屈で言えば、王国が恨まれる筋合いはない。
三年前に攻め込んできたのは帝国だ。
銃を携え、優位を得て、王国を押し潰そうとしたのは向こうだ。
王国はそれを返り討ちにし、停戦に至っただけ。
しかし。
(理屈だけで治まるなら、規律も法も必要ない)
敵兵を千以上焼き尽くしたのはアウローラだ。
帝国兵からすれば、彼女は友や兄弟や父を焼いた女である。
ならば憎まれる。
殺意を向けられる。
それは当然の心の動き。
(当たり前だな。千を超える同胞を焼き尽くした敵を目の前にして、怒りのひとつも抱かぬような兵士など、兵士にあらず)
アウローラの目が、ほんの少しだけ細くなる。
(その上で一切口を開かず、武器も抜かない……見事な兵だ)
王国兵も帝国兵も、等しく「感情を持ったまま抑えている」。
友が死ねば怒りを抱く。
家族を失えば恨みが残る。
国のために戦った者が灰になれば、その灰の色は記憶になる。
理屈で整頓しても、感情は消えない。
だから人は「落としどころ」を欲しがる。
何かしらの決着を。
何かしらの落とし前を。
けれど三年前の戦は、停戦と不可侵で無理やり止められた。
戦が終わったのではない。
これ以上続ければ両方死ぬ――だから止めただけ。
王国も帝国も、兵も将も王も、胸の奥では、あの日の続きに決着を欲している。
ただ、それを今ここでやるわけにはいかない。
理性があるから、止まっている。
規律があるから、剣を抜かずに済んでいる。
その事実を、両国の総大将は正確に感じ取っていた。
そしてそのまま、アウローラは視線を移す。
笑みを浮かべたまま視線だけを鋭く研いで、今度は帝国側の主要人物を見ていた。
まず帝王ウィルトス。
大柄。豪放。
だが雑ではない。肩の力の抜き方に、戦場で何度も死線を越えてきた者の匂いがある。
言葉の応酬の間も、視線は絶えずこちらの布陣をなぞっていた。兵数、槍列、騎馬の位置、背後の予備隊。笑っている癖に、きっと脳の半分はずっと数えている。
(……相変わらず、面倒な男だ)
感情はある。途方もない憎しみだ。
だが、軽んじていい相手ではない。
長い群雄割拠の東部を、ついに統一した帝王の力は軽視できない。
次に、ウィルトスの少し後ろに立つ老剣士へ目を向けた。
漆黒の鞘。
痩せた体。
遠目には、やや気難しそうな老人にしか見えない。
だが、アウローラの直感は正直だった。
あの老人に視線を置いた瞬間、背筋に薄い氷が這う感覚を抱く。
動いていないのに、すでに斬られているような錯覚。
戦場で死線を越えた者だけがわかる不気味さ。
(……只者ではない)
呼吸の深さ。
重心の低さ。
立っているだけなのに、そこだけ空気が静かだ。
(下手をすれば、私より上……)
アウローラは伝説の剣聖ハガネの顔を知らない。
だが、顔を知らずとも力量は嗅ぎ取れる。
もし戦になれば、あの老人だけは片手間で処理できない。自分自身か、それに準じる切り札を当てなければ話にならない剣士。
しかし、本当に恐ろしいのは、その隣だった。
絶世の美少女――アギト。
一見すると、華奢で美しいだけの少女。
あまりにも整いすぎた容姿がかえって現実感を奪っているが、それでも外見だけを見れば「少女」の範疇に収まる。
人知を絶した怪物には、とても見えない。
けれど、アウローラにはわかる。
人が人を見ているのではない感覚がある。
巨大な嵐の一部を、無理やり少女の形に押し込めたような不自然さ。
(……あれが、蛇の分身。星髪のアギト)
可視化できるものだけでも十分に異常。
その奥にあるものまでは、測ろうとするだけで肌が拒否する領域。
(戦いが成立しないな)
冷静に、そう結論する。
勝てる、勝てない以前の問題だ。
自分の雷が当たればどうにかなる類かどうか、その前段階が霧に包まれている。
人の戦場の理屈で測れる相手ではない。
(……最低でもクロエの力がいる。あの子抜きでは、勝ち目が見えん)
背後で、小さな気配が揺れた。
セシリアの腕の中に抱かれたクロエが、不安そうにこちらを見つめているのを、視界の端で感じる。
だがアウローラは振り返らなかった。
王女が敵前で背を見せるわけにはいかない。まして、相手は帝王と怪物なのだ。
同じころ、ウィルトスもまた笑顔の裏で計算していた。
(……南王国第二王女アウローラ。三年前より、確実に強くなっている)
顔つきが違う。
立ち方が違う。
怒りだけで燃えていない。怒りを炉にして力に変えた王族の瞳。
三年前の稲妻は狂乱だった。
だが今のアウローラに宿っているのは理性の刃。激情に溺れていない。
だからこそ余計に厄介だと感じた。狂っただけの女なら読みやすい。だが一度狂って、そこから理性へ戻った女は、手強いなどという言葉で片付けられない。
(余だけでは勝ち目はあるまい)
それは素直に認める。
認めないのなら死ぬ。三年前にそれを学んだ。
(ハガネなら負けぬとは思うが……再びあの稲妻が降るなら、果たしてどうだ)
禁呪級。
大規模殲滅術式。
そう簡単に再現できるものではないと頭ではわかっている。
わかっているのに、記憶が否定する。
ウィルトスは実際に見たのだ。あの雷を。
人が軍を焼く瞬間を。
だから安易には切り捨てられない。
そして、その思考の流れの中で、ウィルトスの視線が止まる。
王女の少し後ろ。
セシリアの腕の中に抱かれた、小さな何か。
(……なんだ、あれは)
ぬいぐるみのようだった。
子猫サイズ。丸い。柔らかそう。あまりにも場違い。
戦場で見かける造形ではない。幼子の寝床に転がっている方が似合う。
だが、動いている。
瞬きをし、耳らしき部分がぴくりと震え、こちらを見た気がする。
(生き物……いや、違う。あれは生き物の目ではない。だが死んでもいない)
ウィルトスの眉が、わずかにだけ動いた。
(ゴーレムか? しかし、なぜあんな姿にする。可愛らしさで敵を油断させる趣味でもあるまい。いや、趣味の可能性も捨てきれんが……)
正直、意味がわからない。
わからないが、無意味とは思えない。
帝国軍の小隊長クラスなら、あれを見た瞬間に「可愛い」で思考が濁る者もいるかもしれない。だがウィルトスは帝王だ。意味不明なものほど警戒する。
理解できないという事実が、そのまま危険度になる。
(王女がわざわざ国境線に連れてくるものだ。道具か、証か、あるいは牙か)
可愛い外見が逆に不気味だ。人は意味のある武器を凶悪な形にしがちだが、本当に面倒なものは時に意味不明な顔をしている。帝国の宝物庫にも意味不明な危険物は多くあるのだ。
河を挟んで、睨み合いは続く。
誰も明言はしない。
王国が帝国を覗いたことも。
帝国が王国の探査を察知したことも。
今はまだ停戦中なのだから、言質は取らないし取らせない。
ただ、言外の地面には落ちている。
その事実を、両軍とも踏んでいる。
アウローラが肩をすくめた。
「どうした、帝王。三年前の稲妻を思い出して、足がすくんだか? あの時はよく燃えていたぞ。帝国の砦も、帝国の兵も、帝国の誇りもな」
王国側の兵の顔つきが一段険しくなる。
帝国兵の頬がわずかに引きつる。
ウィルトスは、笑った。
「ほう? 余の記憶では、あの夜の後に戦を止めるしかなかったのは王国も同じだがな。よほど余の帝国が怖かったと見える。不可侵に縋りつく様は、実に健気であったぞ?」
「縋ったのは貴様らだろう? 泣きついて停戦を言い出したのがどちらか、忘れたか?」
「泣きついた? ははっ、違うな。余は情けをかけてやったのだ。あのまま続ければ、南王国が先に焼け落ちていたかもしれんからな」
「笑えることを言う。……ならどうだ? 今からでも続きをやるか? 私は構わぬぞ」
言葉がきつくなるたび、兵たちの眼光も鋭くなる。
けれど総大将の二人は、どちらも眉ひとつ動かさない。
王国兵が怒るのも、帝国兵が怒るのも、当然だ。
当然だからこそ、上に立つ者はそれをそのまま表に出してはならない。
挑発は挑発。
舌戦は前哨戦。
ここで本気で怒っては、負けである。
ウィルトスが、肩をすくめるように笑った。
「それよりどうだ? 余の国の下に入るというなら、銃でも砲でも帝国の技術を下賜してやってもよいぞ? 第二王女。王国ごと余に臣従してみるか?」
帝国兵の中に、ほんの数人口元を歪めた者がいた。
王国側では、露骨に殺気が増した。
だがアウローラは笑い飛ばす。
「ほう、下賜か。面白い冗談だな。貴様らの玩具など要らん。必要になれば、自分たちで造るさ」
「その割には、こそこそ覗いていたではないか。造る前に見学か?」
「恐れているのだろう? 視られることを。だからわざわざ帝王自ら国境まで来た」
「恐れているのはそちらだろう? 帝国の都を覗かねば夜も眠れぬほどには、な」
言葉は刺々しい。
けれど内容は、もうほとんど互いの確認作業だった。
ウィルトスは、王国が帝都まで届く「何らかの手段」を持っていると把握した。
しかもそれを第二王女アウローラが認識している。あるいは、彼女が主導している。
それでも帝国には、それを「察知できる」側面がある。
ならば王国の動きは制限できる。
覗くと知られているのなら、それを前提に逆手に取ることもできる。
一方アウローラは、帝国側にアギトが居ることを、直接この目で確認できた。
伝聞ではなく、現物として見た。
見たからこそ、よくわかった。
あれは人の戦場の尺度では測れない。
戦闘が成立しない。
国家単位の備えが必要で、下手をすれば有羽と相談しなければならない領域だと。
そして。
(……あの王女に攻める気は無いな)
ウィルトスは笑顔のまま考える。
(監視できる手段を得たから、余の国を覗き見た……それだけか? ふむ……)
王国は帝国の内情を見たい。
だが、今すぐに攻める気はない。
停戦を破る意思もない。
感情はあっても、理性が勝っている。
そしてアウローラもまた、対岸を見ながら似た結論に至る。
(……帝王に攻めっ気は無いな。クロエの探査を察知したから様子見に来ただけ……か)
帝国もまた同じ。
今すぐに踏み込みたいわけではない。
睨み、釘を刺し、相手の温度を測りにきただけ。
理屈の上では停戦。
感情の上では敵意。
そして最終的な理性では、踏み込まずに立ち止まる。
交わされる言葉は攻撃的だが、その本質は「挨拶」に近い。
互いに短刀を持ったままの挨拶。
次に会う時のための、最低限の確認。
今回の再会は、睨み合いと挑発だけで終わる。
ウィルトスもアウローラも、そう認識していた。
それは何も間違っていない。
どちらの読みも正しい。
戦の経験を積んだ者としての判断に、齟齬は無かった。
ただ――その読みは、人間の理性が前提だった。
この場には、人の理性にまだ馴染み切っていないものが二つある。
ひとつは、王国側。
セシリアの腕の中で丸まっている、子猫サイズのゴーレム。
クロエ。
もうひとつは、帝国側。
星髪を風に揺らし、退屈そうに河を見ている少女。
アギト。
どちらも超常。
どちらも人の軍勢の理屈では測れない。
そしてどちらも――情緒がまだ幼い。
ウィルトスもアウローラも、そこまでは理解していない。
危険度は認識している。
強さもわかる。
だが、「幼い」という一点がどれほど厄介かまでは、まだ飲み込めていなかった。
人は、感情を抑える術を覚える。
怒りを飲み込み、恨みを笑いに変え、殺意を礼節の下に押し込む。
それができるから、こうして河を挟んで言葉だけで済ませられる。
だが、幼いものは違う。
感情が芽生えたとき、それを抑える方法を知らない。
嫌だと思えば、そのまま嫌だ。
守りたいと思えば、そのまま守りたい。
怒りが湧けば、それをどう飲み込めばいいのか分からない。
その二つが、それぞれ敵側に強く感情を向けていた。
強い強い――国の思惑から外れてしまう程の、強い想いを。




