第102話・国境線②
帝国領、南方国境。
草原は広く、風は乾いていて、空は高い。
大河はゆったりと流れているのに、その水面は時折刃物のように光る。朝日を受けてきらめくそれは、豊かさの象徴ではなく――境界の線引き。
河を挟めば王国。
河のこちら側は帝国。
自然は何も知らずに同じ顔をしているのに、人間だけがそこに線を引いて命を賭ける。
その線の帝国側に、砦がある。
石と土で組まれた堅牢な壁。堀。見張り塔。砲座。
戦争をするためではなく、戦争を起こさせないために積み上げられた、帝国の南端の牙。
砦の主――グレゴール・ヴァルツァー帝国辺境将は、その牙の中心にいた。
合理的で、現場主義。
生きる鉄壁と呼ばれる男は、単に守りが固いだけではない。
攻めを知り、退きを知り、勝つために「負けない理由」を積み上げる。
そして何より――余計な夢を見ない。
その男の砦に、この日、あり得ない来訪があった。
帝王ウィルトス。
進撃帝。帝国の象徴。
本来なら帝城にいて、北の神聖国への対策を練り、書類に目を通し、将軍たちを動かすはずの男が――南の最前線にいる。
「陛下。遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました」
「うむ。息災のようだな、グレゴールよ。この地の守りが相変わらず盤石なようで何よりだ」
砦の中。執務室で、グレゴールとウィルトスは挨拶を交わし合う。
国境を任せるに値する将など、早々いる者ではない。
ウィルトスのグレゴールに対する信頼は厚い。二人だけで言葉を交わすのは、余計な堅苦しさを嫌う帝王の趣向でもあり――話を直線で済ますための方法でもある。
「して、陛下。突然のご訪問。何か理由がありましょうか」
だからこそグレゴールは、僅かな間を置いてから問う。
問うというより、確認だ。帝王がここへ来た理由は、必ずある。
進撃帝は、意味のない歩みをしない。
今、帝国は北の神聖国への対応で忙しいはずだ。
帝都から離れた国境地帯でさえ、情報は流れてくる。
それでも帝王は来た。つまり、国境が「今」の最優先だということ。
ウィルトスは深く頷き、口を開いた。
「うむ。実はな――帝都を覗き見る『目』があったのだ」
「――」
その一言で、グレゴールの中の歯車が回る。
目。
諜報員の潜入。草。内通。
あるいは――魔法や魔道具による遠隔の探り。
帝国にも草はいる。王国にも草はいる。
商人、傭兵、旅芸人、巡礼、冒険者。人が動けば情報が動く。
だが、帝都――帝城の内側にまで探りの目が届いたとなれば話が別だ。
グレゴールは即座に、無駄な言い訳を捨てた。
責任を取るべき立場の者が最初にすべきは、姿勢の提示。
まるで首を差し出すように、深く頭を下げる。
「申し訳ありません。我が不徳。そこまでの侵入を許すとは……」
「いやいや違うわ。頭を上げよ、グレゴール」
ウィルトスは手をひらりと振った。
否定は早く、怒りはない。だが、笑みは少し鋭い。
「お主の検問の手抜かりを疑ってはおらん。無論、草が紛れ込んでおる可能性はある。だが、帝城までは無理だ。余の城の中まで潜り込まれたわけではない」
グレゴールは頭を上げ、すぐに問いを切り替える。
「となりますと……魔道具か、魔法ですか?」
「おお。しかも――この国境線から覗いているようだ」
にやりと、ウィルトスが笑う。
その瞬間、グレゴールの顔から血の気が引いた。
合理の男が、はっきりと有り得ないと思った。
この砦から帝都まで、どれだけの距離があると思っているのか。
それを覗き見る術があるなら、伝令も斥候も必要なくなる。
軍事のバランスが崩れる。国の仕組みがひっくり返る。
そんなものが王国にあるのか。
「その顔は――流石のお主も予想外か」
「……はい。王国は、いつの間にそのような技術を……」
言いながら、グレゴールはすぐに思い直す。
技術――と呼ぶのが間違いかもしれない。
魔法式。魔道具。あるいは、もっと別の何か。
人の理屈の外側にある目。
ウィルトスは、そこで話題をずらすのではなく――さらに深く刺した。
「そして、その目を察知した」
グレゴールの喉がわずかに鳴る。
「……陛下。我ら帝国に、対抗策があると?」
「おう。あるぞ――とんでもないものが、な」
帝王の笑みが変わった。
温度のある笑みではない。
獣が牙を見せる笑み。
「時にグレゴールよ。この砦に到着した時、余の傍に老人と少女がいただろう?」
「はい」
グレゴールは即答した。忘れようがない。
砦の門をくぐった瞬間、空気が二度変わったのだ。
一度目は帝王。二度目は――老人。
「老人の方は……あれが噂の剣聖なのでしょう? あの佇まい、只者ではありませぬ」
「ほう、気付くか」
ウィルトスは少し愉快そうに笑った。
「……そうだ。あやつこそ剣聖ハガネ。今は帝国の客将になっておる……凄まじかろう、あやつは」
グレゴールは感想を述べない。
感想は不要だ。必要なのは、対処の計算。
「仮に戦うのなら、砲撃隊を複数動員し徹底的に『面』で攻撃を続けるよりほかありませんな」
淡々と述べる。
ウィルトスの背がわずかに強張る。
剣聖が「敵」になった場合の想定を、将軍が平然と口にしたからだ。
「接近させず、面を上げさせず……爆薬も多数用意。魔法ではなく火薬なら、攻撃の『起こり』が見えにくい。気配を極力消し、戦いではなく『作業』にします。あの領域の剣士相手に戦いを仕掛けても、無駄に兵を失うだけでしょう」
ウィルトスは喉の奥で笑った。
頼もしさと、恐ろしさが同居した笑い。
「……流石よな」
帝王が信頼を置く理由が、そこにある。
英雄を英雄と崇めない。恐れるべきものは恐れ、叩くべきものは叩く。
そして叩き方は「合理」で選ぶ。
だが、ウィルトスは続けた。
「……しかしな。本当に恐ろしいのは、ハガネではない」
グレゴールの眉が僅かに動いた。
分かっている。老人が剣なら、少女は――。
「……あの少女。星空のような髪の、あの少女……怪物とは、まさにあの者のことを言うのでしょうな」
言葉が、自然に重くなる。
「何者ですか。『アレ』は?」
ウィルトスは、笑みを残したまま言った。
軽く。だが重い言葉。
「……『アレ』こそが、帝国の対抗策よ。末恐ろしい牙の持ち主。名をアギトと言う」
グレゴールは沈黙した。
問い返したいことは山ほどある。
だが、将軍は今必要な情報だけを聞く。
「陛下。アギト殿は……帝国の味方、なのですか」
ウィルトスは肩をすくめる。
答えは単純だが、残酷な答え。
「余が手綱を引いている訳ではない。余は、あやつが帝国に対して敵意を持たぬように『調整』しているに過ぎん」
グレゴールの目が一瞬だけ細くなる。
調整――それは制御ではない。
帝王ができるのは、機嫌を損ねない努力だけだという宣言。
「この砦の兵には、『帝王の客なので無礼は許されない』とだけ言っておけ」
「……はっ」
短い返答。
グレゴールは理解した。
触れない。刺激しない。藪を突かない。
辺境将が最も得意とする領域だ。
ウィルトスはそこで話を切り替えた。
正確には――本題へ繋ぐ。
「さて、グレゴールよ。お主が国境線を睨み続けているのだ。今現在、王国の国境に誰が居るのか……よもや探っていない訳はないよな?」
グレゴールは即答する。
それこそ国境将の仕事だ。帝王に言われるまでもない。
「勿論ですとも、陛下。数週間前より、あちらの要塞都市グラードラインに、南王国の第二王女アウローラが滞在しております」
その名が出た瞬間、空気が変わった。
帝王ウィルトスの笑みが、ゆっくりと「破壊」へ傾く。
温度が下がるのに、熱が上がる。
血と殺意の――冷たい熱。
「――ほう」
たった一音。
だがその一音には、三年分の怨嗟が詰まっていた。
稲妻と暴風。
灰になった兵。
砦が崩れる音。
止まらぬ雷鳴。
そして、自分の慢心。
全てが一瞬で蘇る。
「そうかそうか……あやつがいるのか。成程な」
帝王は笑い、笑いながら拳を握った。
握る指の力には、万感の想いが込められている。
自分と相手に対する――途方も無い憤り。
「丁度良い――三年ぶりに、その面を拝んでこようか」
国境の風が吹く。
草が波打つ。
大河が鈍く光る。
戦場は、まだ静かだ。
だが静かなほど、次の一手がよく響く。
帝王が動く――宿敵が待つ国境線に向かって。
◇◇◇
国境線は境目だ。
国と国を仕切る境界。
けれど、それだけで済まない時もある。
踏み込むか、引き返すか。
そんな単純な二択で、人生の岐路どころか――世界の岐路になる場合も。
これは、そんな岐路に立った場合の分岐点。
◇◇◇
帝国と王国を区切り、蛇行する大河――エルム大河。
その大河は、今日も雄大に流れていた。
河は濁りが少なく、光を受けて鈍い銀色に揺れる。
だがその穏やかな煌めきは、ここではなんの慰めにならない。
渡河点が点在し、その渡河点では密入国者や闇商人、そして盗賊の足が絶えない。
だからこそ、両国は要所を押さえた。
大河の七砦。
王国側に三つ、帝国側に三つ。
そして最後のひとつ――三年前の戦で砕け、今もなお瓦礫のまま放置された廃砦。
最も河幅が狭い地点。
狭いからこそ砦が建った。狭いからこそ争われた。
狭いからこそ、三年前に地形が壊れ、河が少しだけ形を変えた。
土がえぐれ、岸が削られ、流れが変わり――その結果、ここは「狭まった」。
そして今日、その廃砦跡地を横目に。
雄大な大河を挟むようにして、二つの影が立っていた。
南王国第二王女アウローラ。
帝国の帝王ウィルトス。
互いに引き連れる兵は数十。
戦と言うには少ない。
対話と言うには物騒すぎる。
双方、完全武装。
双方、誰一人として気を緩めていない。
双方、弓も槍も盾も揃っている。
王国側――河のこちら。
白銀の甲冑が、朝の光を受けて淡く輝く。
肩から流れるマントは、王族の飾りであり、将の標章でもある。
腰には剣。背には、まだ抜かれていない魔力の気配。
ただ立っているだけで、兵の背筋が揃う。
アウローラは一歩も揺れず、前へ出た。
その背後には、辺境伯領の部隊長クラスが控える。
セシリアもその中にいた。指揮官としての目で前線を見ている。
若いが、現場の匂いに慣れた目。
そして――そのセシリアの腕の中に、小さな芽姫がいた。
クロエ。
子猫サイズの、ぬいぐるみみたいなゴーレム。
硝子玉のような瞳が、今日だけは「可愛い」では済まない色を宿している。
心配そうに、アウローラの背を見つめ、短い腕をぎゅっと胸元に寄せる。
言葉はない。だが、不安がっている。
戦いそのものではなく――高まる緊張に。
帝国側――河の向こう。
分厚いマントが重く垂れ、胸当ては傷を誇るように無骨だ。
帝王ウィルトスは戦斧を携え、握る手に迷いがない。
肩幅は広く、歩幅も広い。近づくほどに、圧が増す男。
その背後――列の中に、二つの異物。
ひとつは、老人。
老練な剣士。背は高くない。
剣聖ハガネ。
彼はまるで、世界から余計な音を削ぎ落としたように静かだった。
もうひとつは、少女。
星空の髪を靡かせる、絶世の美少女。
服装も所作も軽い。笑みも軽い。
だが――目が軽くない。
アギト。
水面に映る光を見ているだけに見えるのに、彼女の注意は川の向こうの全てを見据えている。
誰かの呼吸、誰かの鼓動、誰かの恐れ――そういうものを面白がるような視線が、漂う。
双方の隊列が、ぎりぎりまで距離を詰めて止まる。
河を挟んで、両軍が向かい合う。
手を伸ばして触れられる距離ではない。
けれど矢なら届く。魔法なら届く。砲なら届く。
つまり――殺そうと思えば、いつでも殺せる距離。
廃砦跡地の瓦礫が、間に沈黙を積み上げている。
砕けた石壁、焦げた柱、潰れた鉄の留め具。
三年前の戦の「遺骨」だ。
その骨を見下ろすようにして、帝王ウィルトスが一歩前へ出た。
同じタイミングで、アウローラも一歩前へ。
双方の兵が息を止める。
弓の指がわずかに硬くなる。槍の穂先がほんの少しだけ揺れる。
しかし誰も勝手に動かない。
この場の主は兵ではない。
王女と帝王だ。
そして――二人は笑った。
凶暴な笑み。
敵に向ける礼儀の笑み。
殺せる相手に向ける、堂々たる笑み。
河の水音が、やけに小さく聞こえる。
「――久しいな、進撃の帝王」
アウローラの声が飛ぶ。
通る声。戦場の声。河の上を直線に走り、帝国側の空気を震わせた。
「――元気そうだな、稲妻の王女」
ウィルトスも返す。
大声ではない。だが響く。骨身に届く。
この男が前線に立つ理由が、その声だけでも分かる。
二人は互いを見た。
見て、測り、確かめ合う。
河を挟んで、緊張が固まる。
砦跡の瓦礫が、冷たい影を落とす。
水面を渡る風が、草を揺らす。
戦いはまだ始まっていない。
だが、始まったも同然だった。
第六章はこれで終了です。
次回からは第七章。ついにアウローラとウィルトスが再会しました。してしまいました。
更新は毎日ではなく隔日になるかも知れませんが、最後まで書いていきます。
それと、もし面白いなと思っていただけたら、ブクマや評価で応援していただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。




